十二
〇 ● 〇
五百年ほど前の事。まだ、貴墨による天下統一が行われておらず、戦に次ぐ戦が起こっていた頃だ。
この辺りには、それなりに大きな集落があった。戦から逃げてきた者達で作られた集落であった。安全な地を探して流れるうちに数は増し、血の臭いの少ないこの地に辿り着いた時には、その数二百人を超えていた。
集落の者達は、みな疲れていた。
いつまでも終わらぬ戦。それに怯える事すら疲れ果て、ただ倦んだように日々を過ごしていた。この地がいつ、戦に巻き込まれるか分からない。そう思えば、心から平穏に暮らす事などできなかった。
――蝸牛の殻の中には、楽園がある。
そんな噂が、集落に流れ始めた。子どもの戯言だったのかもしれない。誰かの与太話だったかもしれない。
最初は、相手にする者などほとんどいなかった。大多数の人がなにを馬鹿なと、笑って終わりだった。
――蝸牛の殻の中には、楽園がある。そこでは、何も考えなくていい。ただぼんやりと、母の胎内にいる時のように、揺蕩っていられる。
それでも噂は流れ続けた。流れるうちに、段々と具体性を帯びてきた噂に、人々は一人、また一人と耳を傾けるようになった。
集落の者達は、みな疲れていた。
過去を懐かしむ事も、現在を必死に生きる事も、未来を夢見る事も、全てに疲れていた。
ただ全てを放り捨てて、何も考えずにまどろんでいたかった。
いつの間にか、集落に社が建てられた。誰かが木から、ご神体を削りだした。目を閉じた人の頭の生えた、蝸牛の像だった。不気味だったが、安らかに閉じられた目がとても羨ましいと人々は思った。あんな穏やかな表情を浮かべた事など、久しく無かったからだ。
用意できる精一杯の上等な端切れを用意して座布団を作り、それを安置した。いつの間にかその像は、「カギュー様」と呼ばれるようになった。
集落の人達は、カギュー様を拝むようになった。
――カギュー様、カギュー様、どうか私達を楽園へ連れていってください。過去も、現在も、未来も、何も憂う事の無い場所へ連れていってください。
朝な夕なに、人々はカギュー様を拝んだ。いつの間にか、カギュー様の祝詞ができていた。カギュー様が連れて行ってくれる楽園の名がついていた。
――カギュー様招来子孫皆々永遠留まり小路に迎え入れられること唯是願う。
――カギュー様招来子孫皆々永遠留まり小路に迎え入れられること唯是願う。
――カギュー様招来子孫皆々永遠留まり小路に迎え入れられること唯是願う。
そうしてある日、集落の人々は忽然と消えた。
〇 ● 〇
「で、人の信仰から生まれた流行り神だったんだけどな。集落の奴をみーんな、自分の神域に神隠ししたから、自分の事を信仰する奴がいなくなったんだ」
矢凪に抱かれて移動しながら、シロは滔々と語った。夜明け色の瞳で遠くを見るようにしながら、続ける。
「一時の信仰で生まれた存在なんて、信仰がすたれれば消える程度のものなんだけどな。人間の魂を、二百も取り込めば、いやが……ええと、いやがおうでも、力は強くなる。信仰する奴がいなくなって、怪異に身を落としはしたが、こんな自分だけの異界を持ってるほど、強いんだ」
「へえ、よく知ってんな」
「年増が昔、この辺に来た時にそんな話を別の怪異から聞いたらしいぞ。ぺらぺら話してくれたらしい」
「喋り好きな怪異ってのもいるんだな」
ざりざりとした手触りの壁をなぞって、矢凪は相槌を打った。「ちなみにな」とシロが小さな唇をそっと耳に近づけてくる。
「矢凪は生餌だけど、大丈夫だぞ。カギュー様は、請われない限り出てこないんだ。そういうことわりの元に存在してるからな」
ち、と舌打ちを一つ。なら、己の身を囮にしておびき寄せる事はできないのか。
先導していた為成が、歩みを止めないままで顔だけを振り向かせた。
「それじゃあ、浅沼の奴はカギュー様を怪異ではなく、神として呼び出して、異界に連れていってもらったと、そういう事なのか?」
「……」
ぷい、とシロはそっぽを向いた。
「……まーりつき、はーねつき、もーちついて、ちょん」
為成の問いに答えず、童歌を歌い始める始末である。
「……矢凪ー」
「泣きそうな声出すんじゃねえよ、気色悪ぃ」
「いやだって、人に嫌われると悲しくなんないか?」
「……」
太い眉を八の字に下げた為成の一言に、矢凪は沈黙を返す。
え、こいつは俺の事を拷問して殺しておいて、俺に嫌われていないと思っているのか? なんだその超絶前向き思考。阿呆かこいつ、阿呆なんだな、という思考が一瞬で脳裏を駆け抜けていった。
「……シロ。話進まねえし、あいつ泣き言入ると鬱陶しいから、答えてやれ」
「むう……しょうがない」
むー、と不満そうに唇を尖らせながらも、シロはこっくりとうなずいた。
「そうだ。東丸村の奴等をみてぐらとして捧げて、怪異ではなく神としてしょうへいした。自分を『いきどまり』に連れていってほしい、助けてほしいと願ったんだ」
だから助けたんだ、カギュー様は。助けてほしいと請われて生まれた存在だから、助けを求められれば救うために出てくる。
「ふうん」
だから絶望しない限り出てこないのか、と矢凪は納得した。随分と優しい怪異だと思ったが、元が祈られた末に生まれた存在、しかも神だったならばそれも頷ける。
ああ、と陰鬱なため息を為成が漏らした。
「最悪だな。怪異ならともかく、神として呼び出された存在をどうやって対処……ああ、いや、そうか。成程なあ。俺がお頭に指名されたのはそういうことか」
「あ?」
細い道を曲がりながら、ぶつぶつと独り言を呟き、何やら納得したように頷く為成。
早足でそれで追いつき、矢凪はその背を蹴飛ばした。
「おわっ!?」
「おい、一人でなに頷いてんだてめぇ」
知ったかぶりしてんじゃねえぞ、と悪態をつく。蹴られた衝撃でよろめきながらも、振り返った為成は何をするんだと言いたげにこちらをねめつけた。
「なにするんだ、矢凪」
「うるせえ。……そもそも、こっちで本当に合ってんのか」
為成の眼前には、細い道がくねくねしながら先へと続いていた。肩越しに見透かしてみても、屋敷の影も形も無い。
矢凪は眉をひそめた。
こいつの案内通りに進んでいるが、本当にこちらは正しい道なのか。適当な場所に誘導して、また拷問してやろうという腹積もりだということも考えられる。
そもそもシロは、「隠されていてよく分からない」と言っていた。なのに、なぜこいつは分かるんだ。嘘じゃないのか。そう思えば、自然と足取りが鈍る。
「そう警戒するなって」
警戒しない方が無理な話だ。
半眼になる矢凪に、為成は苦笑した。
「合ってる、合ってる。あの阿呆は、随分と丞幻殿にご執心のようだったからな。俺達と分断された事を考えると多分、まだ丞幻殿は阿呆の元にいるんだろう」
「へえ」
「で、俺は阿呆を追跡する術をかけている。だから、丞幻殿は追えなくても、阿呆の霊力を追う事はできるんだ」
「あぁ?」
片眉を跳ね上げる。蒔絵の描かれた下駄を揺らしながら、シロがぺんぺんと腕を叩いた。
「矢凪、矢凪、本当だぞ。丞幻とアオは、あっちの方にいる」
「あー? ……さっきは隠されてて、分かりにくいっつってたろうが」
「分かりにくい、って言ったけどな、分からない、と言ってないぞ。頑張って集中すれば、分かる」
「ふーん」
目を細めて白以外の色が無い道の向こうを見てみるが、特に何かを感じるという事も無い。シロが言うなら本当なのだろうが、矢凪にはそれが分からない。
顔だけ振り返った為成が、唇を歪めて笑った。
「お前、それこそあの浅沼なんかより強い力持ってるんだぞ? ちゃんと修行すれば、腕の良い術者になれるのに」
「面倒くせえ」
ちまちまと、術を使うなんて面倒臭い。別に異怪奉行所に所属しているわけでもないし、殴って蹴れれば十分だ。
一言で切り捨てると、本気で言ったわけではないのか「まあ、お前ならそう言うよなあ」と頬をかいてまた前を向く。迷いない足取りで歩く為成の背に続いて歩みを進めていると、シロがひそひそと唇を寄せてきた。
「矢凪、矢凪」
「ん?」
「お前、あいつに殺されたのに、なんで普通にお話してるんだ。怒ってないのか?」
「別に怒ってねぇよ」
正直なところ、殺される事には慣れている。この世に生まれて百余年、死んだ回数は両手では足りない。生きながら怪異に食われたり、少しずつ身体を溶かされた時に比べれば、釘でずたずたに裂かれるくらいは大したことじゃない。
まあ、友人と思っていた相手に釘を向けられたことに関しては、まだちょっと許していないし、少し苦手だというのも本当だが。だっていつもと変わらぬ態度のままに五寸釘をぶっ刺してきたし。なんなら朗らかに笑ってたし。
シロは唇を尖らせた。
「……あんまりそうやって慣れるの、よくないとおれは思うぞ」
「そうか?」
首をかしげると、大きく頷かれた。
怪我はすぐ治るし、欠片の一つもあれば蘇る事ができるのだ。別に死ぬ事くらい、大した事ないのだが。
ますます不思議そうに首をかしげると、シロが大きくため息をつく。
「痛みとか、死ぬ事に対して鈍感になると、危機回避能力も鈍るんだ。どうせ生き返るから大丈夫だ、ってな。生餌のお前は怪異に惹かれるんだから、回避能力を鈍らせたら駄目だろう」
つらつらと述べた後、少しだけ不満そうに付け加えた。
「……って、年増が言ってた」
「あー……おう」
後頭部をかりかりとかいて、生返事を返す。
と、為成が「そういえば」と声を上げた。
「留まり小路がカギュー様の神域という事になるのなら、あの屋敷はなんなんだろうな。あと、あの阿呆によく似た子ども達も。阿呆の記憶の具現化かなんかか? 矢凪、お前、分かるか?」
「知るかよ。あの馬鹿作家なら分かるんじゃねえか」
「おれは分かるぞ」
えへん、と矢凪に抱かれたままでシロは胸を張った。本当か、と振り返った為成の銀色の目が輝く。
「それ、教えてくれないか?」
「……てーんてんてん。てーんてんてん。てーまりがてんてん転がってー。お山のくーりになーりまーしてー。こーろころ、こーろころ、くーりがころころ転がってー」
「……矢凪ぃー」
「泣きそうな声出すんじゃねえよ、鬱陶しい!」
露骨に無視をされて泣きそうに顔を歪める為成に、矢凪は牙を剥きだして怒鳴った。




