十
〇 ● 〇
あれは確か、桜の散り始めた卯月の終わりころだったと思う。
丞幻は所用あって、墨渡にある異怪奉行所に訪れていた。
門から奉行所の玄関までは、白く磨かれた石畳が続いている。怪異に関して相談事のある貴墨の民達は、ここを通って玄関内に控える聞き役に訴え出るのだ。
しかし本日は、そちらに用は無い。
「さーてと、本売ってるのは……ああ、あそこねー」
石畳を通る人々の邪魔にならないよう、脇に避けて左右に視線を走らせる。門のすぐ左側に、目当てのものは見つかった。
こぢんまりとした店だ。水茶屋のように、筵を屋根代わりにした簡素なものである。売っているのは茶ではなく、奉行所で作られた守り石や守り紐、家に貼る簡単な結界符などだが。
どれもこれも値は張るが、奉行所が作っているとあって効果は確かだ。
丞幻の目当ては、貴墨内で出現した怪異の情報を奉行所がまとめた書物『みんなの怪異~貴墨編~』である。
曾根崎屋から『貴墨千忌憚』なる本を書けと言われたのはいいが、実話ではなく創作に限るときた。そこでうっかり実話を書かないよう、その本を買いに来たのだ。
「結構人いるしー……ここで待ってよっかしらね」
店先には、十人くらいが群がって品物を見ていた。別に急ぐわけでもないし、塀の近くで待っていようか。そう思い足を踏み出した丞幻の肩に、人がぶつかった。
「っとと……」
それなりの勢いだった為、一歩二歩とたたらを踏む。ぶつかった方は石畳を三歩ほど進んでからこちらを振り返り、聞こえよがしに舌打ちをした。
気に食わないならそのまま通り過ぎればいいものを、わざわざ踵を返して丞幻の元まで戻ってくる。
丞幻は片眉を上げた。戻ってきたのは浅黒い肌の男だった。六尺近くある丞幻より、頭一つほど背が低い。細面の顔立ちはいかにも女にもてそうだが、瞳の奥にこちらを見下すような嫌な光が宿っている。
男は丞幻をじろじろ舐め回すように見ると、軽く鼻を鳴らした。
「……わざわざ、鉦白家の放蕩息子が奉行所に来られるとは。我ら奉行所の与力同心に、祓い屋としての心構えでも説きに参られたか」
今、鉦白家、という辺りをわざわざ強調したような。
かーん、と丞幻の脳内で高らかに鐘が鳴り響いた。戦闘開始。
「必要な物を買いに来ただけよ。お宅の言う通り親の脛かじりまくる放蕩息子なもんで、ご立派な奉行所の方々に説く心構えは、これっぽっちも持ってないわー。悪いわねー」
おほほー、と片手を口元に当てて軽快に笑う。
褐色の男が唇を歪める。嘲りの色が瞳に浮かんだ。
「貴殿は確か、見鬼の力はあっても霊力は無いと噂で聞いたが」
「そーね。それがどうかした?」
「それでも、呪具で補えば怪異を退治する事はできように。陽之戸に名高き鉦白家の長子ともあろう方が、冴木の外れで屑紙作家とは……今からでも売れない本など書くのは止めて、奉行所に入ればいかがか?」
「そうねえ」
「貴殿のように、霊力の無い者でも、働いてもらわねばならない程に手が足りんのだ。ろくに怪異も祓えぬ放蕩息子とはいえ、鉦白家の長子が奉行所に入ったならば、それなりの助けにはなるだろうからな」
もはや侮蔑を隠そうとしない相手に、にこ、と丞幻は目を細めた。
「物を書くのが好きだから、物書きやってるの。売れるか売れないかは、ワシには関係無いわねー。一度きりの人生、好きな道に進んで何が悪いのかしらん」
「……っ」
その言葉に、なぜか男は鼻白んだ様子を見せた。
丞幻は続ける。
「それに、奉行所に入ってもねえ……人にぶつかった挙句に謝りもしないで、生まれつきどうしようも無い事をあげつらって嗤う輩が奉行所にいるって、最近ワシの中でもっぱら評判なのよー。そんなのが同僚になるのって、ちょっと嫌だわあ」
「……っ」
男が唇をぎりと噛みしめた。すっきりとした顔立ちが醜く歪む。
ちらと横目で店の様子を伺うと、買い物が終わったようで店頭に人はいなかった。石畳を通る者達もこちらに視線を向けている事だし、これくらいで切り上げるか。
「じゃ、ワシ買い物あるから。お喋りできて楽しかったわ、じゃーね」
ひらりと手を振り、心にも無い言葉を吐いて、背を向ける。店の方へ足を踏み出した丞幻の背に、男の言葉がぶつかった。
「……長子がこのような体たらくでは、前当主殿に後を継がせなかったのも分かるというもの。母御もさぞ不幸だろうよ。貴殿のような出来損ないを産ん――」
最後まで男が言い切る前に、丞幻はその足を払った。均衡を崩して、男が石畳に背から倒れる。驚愕に目を見開いた男の顔横に、振り上げた足を叩きつけた。
凄まじい轟音が響いて、その場にいた者――不動だった門番までもが一斉に、丞幻達に視線を向けた。
しぃん……とその場が静まり返る。
「ワシの事だけだったらね。別に良いの。霊力が無いのも事実よ。売れない作家をしてるのも事実。だから別に、なに言われようとも良いの。でもね」
起き上がろうとする男の腹に膝を押し当て体重をかけて動きを封じ、丞幻はずいと顔を近づけた。
萌黄色の瞳に、男の引きつった顔が映り込む。
「お前が、母上の何を知ってるの。お前に、母上を嘲る理由があるの。……教えてもらえる? お前、なぁんの理由があって、人の家族を嘲るの」
「……っ」
男がはくっ、はくっ、と唇を動かした。何かを言おうとしているのだが、丞幻の威圧に言葉を奪われて、音にならないらしい。
激しく動く眼球の奥に、恐怖の色が見えた。丞幻の闘争心が、たちまち萎えていく。敵は屈した。勝負は終わりだ。
「他人を馬鹿にするのも程々にね」
それだけ言って立ち上がって男から離れ、後は視線一つ向けずに店の方へ向かう。
男がどんな顔をして石畳から身を起こしたのか、丞幻は見る気も無かった。
〇 ● 〇
話を丞幻から聞き終えて、為成が天井を仰いだ。
「……やっぱり、あいつは阿呆だ。本当にすまん、丞幻殿」
「いいわよいいわよ、お前が言うまで忘れてたもの」
あっはっは、と丞幻は快活に笑う。
気を使ったわけではなく、本当に忘れていたのだ。どうでもいい相手を覚えていてやるほど、丞幻は優しくない。
よしよし、とアオの背を撫でていたシロが丞幻を振り仰いで手を伸ばした。
「そうかそうか、そんな事があったのか。かわいそうになあ。よしよし、おれがなぐさめてやろう。ほら丞幻、しゃがめ」
「あらなーにシロちゃん、ワシのこと撫でてくれるの?」
「ほら、抱っこしていいぞ」
振袖を揺らし、両手を広げるシロ。「自分を抱っこできるんだぞ、嬉しいだろう、慰められるだろう」とでも言いたげな顔をしている。
笑って、丞幻はシロを抱き上げる。畳に伏せていたアオが、自分も抱っこしてほしそうな目を向けた。
「もー、はいはいアオちゃんも抱っこねー。よーし家長の意地見せるわ、シロちゃんアオちゃん一気に抱っこしてやろーじゃないの」
よいしょー、とアオの小さな身体も抱き上げる丞幻。実に心温まる和やかな光景を見ながら、矢凪がふと首をかしげた。
「……あいつん家って、そんなでかいのか」
「お前なあ、矢凪。丞幻殿の助手をやってる癖に知らないのか?」
答えたのは為成だった。矢凪は眉間に皺を刻んで、加害者から距離をたっぷりと取る。
「おーい、逃げるなって。鉦白家と言えば、陽之戸五大名家の一つだぞ」
「へえ」
「……反応薄いなあ、お前」
淡泊に頷いた矢凪に、為成は苦笑いを返した。
陽之戸の長い歴史において多大なる功績を為し、天帝直々に家紋を賜った家を、陽之戸五大名家と称するのである。
鉦白家は、怪異を祓う術を編み出した初代当主・鉦白陽一郎の功績により、そこに列していた。その本家は千方国にあり、国生みの神・天大神の神孫たる天帝の近くに仕える傍ら、巷に蔓延る怪異を修祓している。全国に何百とある祓家の中心ともいえる家だ。
……という事を説明しても矢凪は右から左に聞き流すに決まっているので、ざっくりと為成は言った。
「まあ、陽之戸で三番目くらいに偉い家の人だな、丞幻殿は」
「……なあ、丞幻。てめぇ美味い酒、しこたま隠し持ってんじゃねえか?」
獲物を狙う目をした矢凪が、じりじりっと丞幻にすり寄る。
「え。なに、ちょっと待って矢凪、なんでそんな目をしてワシを見るの。やめて! なんで舌なめずりするの! 怖い怖い!」
「陽之戸で三番目に偉いっつーならよお……俺が知らねえ酒の一つや二つや三つ四つ、持ってそうだよなあ? ええ?」
「笹山殿ー!? 矢凪になに言ったの笹山殿ー!!」
シロ達を抱えて下がりながら怒鳴ると、為成は「あー」と声を漏らした。
「すまん、丞幻殿。……ほら矢凪、今そういう事を言ってる場合じゃないぞ。あの阿呆をさっさと見つけて、しでかしたことを後悔させてやらないとな」
「……」
にこりと笑う為成に、矢凪が苦虫を噛み潰したような顔を向けた。
いい加減に腕がきつくなってきたので、丞幻はアオとシロを畳に下ろす。ぷらぷらと腕を揺らし、そういえばと、ずたずたに裂かれた己の本を取り出した。
「ワシの本をこんなにしたのも、その浅沼って奴かしらん。いやーねー、陰湿だわ」
手元の本に視線を向けた為成が、顔をしかめた。
「うわ、ひどいもんだな。それどうしたんだ、丞幻殿」
「それがねえ」
かくかくしかじか、と丞幻は留まり小路に入ってから屋敷に辿り着き、子どもに話しかけられた所までを簡単に説明した。
説明を終えると、太い腕を組んで為成は何かに納得したように頷いた。
「ああ……成程なあ。気持ちはまあ、分かるような分からんようなだが。だからって、俺や丞幻殿に当たるのは筋違いなんだがなあ」
「ええ、なにがよ」
「いや、な。身内の恥を晒すようなんだが、実は――」
今度は為成が、かくかくしかじかと説明を始める。
ふうん、と丞幻は三つ編みを揺らした。
少し脅しただけで萎縮したので、本当は臆病者じゃないのかと思っていた。だからそこは驚かないが。
「いやでもしかし、ワシに当たらんでほしいわー。いい迷惑よ」
襖越しの怒声と、褐色肌の子どもを思い出す。あれは、浅沼忠の幼少期の記憶と姿か。
家族からの言葉に縛られ、それ以外の道が無かったから。だから祓い屋となり、同心となった。
――だというのに、あの鉦白家の長子は祓家に生まれていながら祓い屋の道をあっさりと捨て、別の道に進んでいる。羨ましい、妬ましい、憎い。
あの時やけに突っかかってきたのは、大方そんな理由だろう。本当、いい迷惑だ。
「でも、まあ、これで全部分かった。そういう事か」
「そうねー、もやもやが晴れた気分だわ」
今まで繋がらなかったものが、一直線に繋がった。
浅沼忠。怪我を、怪異を、死を恐れ、祓い屋になりたくなかったと嘆く男。
全てから逃れる為に、未来も、現在も、過去も無い「いきどまり」に連れて行ってくれる怪異に縋った哀れな男。
留まり小路への侵入条件が変わっていたり、小路の中に屋敷が建っていたり、あちこちに貼り紙が貼られていたのは、祓い屋を取り込んだ為だろう。祓い屋の血肉、魂は普通の人間と比べて格段に力が強い。
それを丸ごと取り込めば、怪異が力を増すのは当然だ。性質が変容するはずである。
「ったく、いくらやりたくなかったとはいえ、異怪の同心だったなら他人様巻き込んで怪異を呼び出すんじゃないわよ」
死ぬなら一人で死になさいよ、と吐き捨てる丞幻。萌黄の瞳が嫌悪に歪む。
「そこに関してはもう、返す言葉が無いな。……東丸村の村民達にも、村守様にも申し訳が無い」
「村守様にまで手ぇかけてたの? ……もうどうしようもないわね」
村守の神使を消滅させ、村人も巻き込んだそいつは今、どこにいるのか。願い通り、カギュー様に「いきどまり」に連れて行ってもらったのか。それともまだ、この辺を彷徨っているのか。
「ワシら、ただ取材に来ただけだったんだけどねえ……」
軽い気持ちで来たが、大事に巻き込まれてしまった。
「おい。さっきから何の話してやがんだ?」
「ああ、矢凪。あー、お前、話聞いてなかったもんねえ」
見れば、アオを抱っこしたシロを、矢凪が抱えあげている。あやしてくれたことに礼を言い、先ほどの話を繰り返す。
「は? 阿呆か」
矢凪の答えは簡潔だった。
「阿呆よ」
丞幻も頷く。為成もうんうんと腕を組んで頷いた。
「じゃあ、その阿呆見つけてぶっ飛ばしゃあ、こっから出れるってわけか?」
「それはどうかしらねえ。そも、留まり小路って明確に脱出方法が――」
と、言いかけた時だった。
部屋の四方の襖が、音を立てて一斉に開いた。




