八
「どうした」
振り返り、近寄ってくる矢凪。それに丞幻は、鬱々と暗い声音を返した。
「いや……ちょっとワシの本がね……」
「本?」
部屋の薄暗がりに転がる、無惨な姿になった己の本。真っ二つに裂かれた表紙に描かれた、墨色の花も共に真っ二つになっている。
数年前に発刊した奴で、作家を狙う怪異に襲われた時のことを面白おかしく脚色したものだ。中々面白く書けたし、珍しく夕吉からも草稿一発良しを貰ったお気に入りの一冊である。
だというのに、なぜそれがあんな無惨な姿に。
ずたずたの本を一瞥し、矢凪は眉をひそめた。
「なんだありゃ。ひでぇ有様だな」
「さっき、そこに子どもがいたのよ。それでねえ」
手短に、先ほど子どもに話しかけられた事を説明する。矢凪が眉間に皺を寄せたまま、首をかたむけた。
「ふうん。俺にゃぁ、んな声は聞こえなかったがな」
うえぇ、と丞幻は眉をひそめて舌を出した。
「なにそれー。じゃあ、かくっ……じつにワシ狙いじゃないの。嫌だわー」
「そいつの声ってなぁ、さっき怒鳴りつけられてた奴のモンか?」
「ああ、そう言われればそうかもしれんわね。祓い屋になりたくなかったー、って言ってたし。そりゃ、ああも毎日怒鳴られて修行させられれば、嫌気もさすわよねえ」
しかし本当、謎だらけだ。
消えた村人達。お堂に残されていた異怪の羽織と十手。袋小路に行かなくても来れた留まり小路。留まり小路の中にある祓家の屋敷。カギュー様と思しき木彫り像。聞こえた男と子どもの声。己を知っている子どもと、裂かれた小説。
色々な要素は出てきているのに、決定的な何かが足りない。だから全てが一直線で繋がらなくて、頭の中がもやもやする。
「あーあ……頑張って書いたのにねえ」
そのもやもやを舌打ちに変えつつ、丞幻は片膝をついて本に手を伸ばした。
自分が持ち込んだものではないが、自分の小説をここに置きっぱなしにしておくのは、何となく気が引ける。
指が表紙に触れる直前だった。背筋を冷たいものが駆け下りた。
「丞幻!」
「っ!」
熟睡していたアオが飛び起き、名を叫ぶ。視界の隅にきらめくものが映る。直感に従って、丞幻はアオを抱えたまま横へ身を投げ出した。
一、二、三、鈍い音が連続する。
身を捩り、アオが腕の中から飛び出した。丞幻は素早く畳から身を起こして視線を走らせる。自分が膝を付いていた畳に三つ、五寸釘が根本まで突き立っていた。
殺気。視線を向ける。自分達が入ってきた襖。そこに人影が一つ。頭から爪先まで黒い。顔面に黒い面布を垂らしている。身体つきが分からない、ゆったりとした黒装束。まるで黒子だ。
殺気を帯びた黒子が、こちらに向かって畳を蹴った。
「――――!」
三歩の距離を一歩で詰めた黒子が腕を振りかぶる。咆哮したアオが飛び掛かった。牙を剥き、振りかぶった腕に勢いよく噛みつく。
ぎゃんッ、と悲鳴。
「アオちゃん!」
銀色の火花が散って、アオが後方へ弾き飛ばされた。壁に激突する直前に滑り込み、小さな狼を受け止める。ぐったりした身体を片手で抱え、丞幻は懐の矢立を素早く投じた。
金属音。鉄製の矢立と襲撃者の投げた五寸釘とがぶつかり合い、畳の上に力無く転がる。懐に手を入れた黒子の横合いから、蹴りが飛んだ。咄嗟に両腕で防ぐも、その防御ごとぶち抜いて矢凪が黒子を蹴り飛ばす。
「置いとくぞ!」
短く叫び、矢凪がシロを丞幻の傍に放った。渦巻き状に並んだ箪笥を巻き込んで、後方に吹っ飛んだ黒子に追い縋り、固めた拳を突き込む。
「五寸たぁ、てめぇ嫌な事思い出させてくれんじゃねえか、えぇ!?」
素早く体勢を立て直した黒子が、それを迎撃。腹目掛けて飛んだ拳をいなし、懐に潜り込む。軸足が回転。矢凪に背を向け、腕を掴んで一本背負いで投げ飛ばす。今度は矢凪が箪笥を巻き込んで吹っ飛んだ。
目まぐるしく攻守が逆転し、その度に箪笥が轟音と埃を巻き起こして崩れ、倒れていく。
矢凪と黒子の戦いを背景に、シロが目の前に座り込んだ。丞幻の腕の中で力無く上下している青い背に、そろそろと指を這わせる。
温かい事を確認して、ほっと安堵の息を吐き。目に心配の色を一杯にたたえて、丞幻を見上げた。
「丞幻、丞幻、アオは大丈夫か? 怪我をしたのか? 死なないか?」
「大丈夫、大丈夫、死なんわよ。アオちゃん、ちょっとお口ごめんねー。痛いかもだけど我慢ねー」
シロの頭を撫でてから、丞幻はアオの顎に指をかけた。嫌がるのを宥めながら、口を開かせる。
先ほどアオが弾かれた際、散った火花。あれから感じたのは、怪異の気配ではなかった。
「……うー……」
力無く唸るアオの口から、しゅうしゅうと煙が上がっている。見れば口内や赤い舌の一部が、白く焼けていた。
「退魔の力だわねえ、あれ。ごめんねえ。ワシがすぐ気づかなかったから、アオちゃんが痛い思いしちゃったわ」
アオを撫でながら、戦いを続ける黒子に視線を向ける。黒子が放った五寸釘を、矢凪は片腕で受け止めた。
「ハッ! どうしたどうした、さっきからよぉ、ちゃちい玩具飛ばすだけか!? 蚊に刺された方がよっぽど痛ぇぜ、えぇ!?」
「……」
釘が肉に刺さるのを物ともせず、笑いながらその腕で攻撃を続ける。暴風のような突きや蹴りを、黒子が的確にしのいでいく。
荒い息を吐くアオと、その戦いを交互に見ていたシロが不意に、表情の抜け落ちた顔で丞幻を振り仰いだ。
夜明け間近の空のような瞳の中で、瞳孔がきゅるりと動いて爬虫類のように細くなる。
「丞幻。おれはあいつを殺すぞ」
その言葉はシロのものなのか、真白のものなのか。感情の無い淡々とした声音に、ぞくりと丞幻の背が寒くなった。
殺していいか、でもなく。殺しちゃだめか、でもなく。殺すぞ、と断言している辺り、本気で怒っている。それを示すかのように、凍てつくような瘴気が幼い身体にまとわり始めた。
「……だーめ」
「嫌だ。殺す」
「駄目。それよりワシの荷物の中に塗り薬が入ってるから、それアオちゃんに塗ってあげて。怪異の怪我に効く奴だから」
「……」
夜明けの瞳が、瞬き一つせずに丞幻を見つめる。丞幻は、へらりと笑ってみせた。
「今はアオちゃんを傷つけた不届き者を成敗するより、手当てが先でしょ?」
アオをシロに預け、背負っていた革袋をその傍らに下ろす。
「…………」
シロは、丞幻の萌黄色の瞳をじい……っと見つめた。丞幻の真意がどこにあるのか、見定めるように。
「…………分かった。でも、あいつは絶対、一発ぶってやるからな」
やがて、渋々と言った調子でシロは頷いた。
革袋を開けて腕を突っ込み、ごそごそと荷物を引っかき回し始める。気配はまだ刺々しいが、ひとまず丞幻の言う事を聞く気にはなったらしい。
良かった、と丞幻は息を吐く。ここでシロまで戦いに加われば、収拾がつかなくなる。シロ、というか真白が怒るとアオ以上に手に負えないのだ。
それに、あの黒子にシロが危害を加えるというのも、いささかよろしくない。
あの黒子。襲撃してきた時は分からなかったが、落ち着いて考えれば正体が知れた。あれは、異怪奉行所の者だ。
怪異に面や性別を知られないよう、自らに黒子に似た衣装をまとわす術。異怪奉行所の秘術である。丞幻は当然使えないが、知識として知っていた。
霊力でもって織られた衣装は、怪異の攻撃を弾きその身に打撃を与える。噛みついたアオが弾かれたのは、その為だ。
異怪奉行所の者に怪異が危害を加えれば、それは絶対に言い逃れできない討伐対象になる。それは良くない。それは駄目だ。……先のアオに関してはまあ、正当防衛ということにしよう。そうしよう。
これまでも異怪に睨まれる事は度々あったが、非力な怪異という事でぎりぎり目こぼしされてきた。それがおじゃんになるのは、何としても避けたい。自分やシロ達の平穏な日々の為に。
「さて……とりあえず、あいつらの戦い止めないとねえ」
丞幻は懐から螺鈿細工の煙管を取り出した。吸い口を噛み、息を吸う。
部屋を縦横無尽に動き回りながら戦う二人に煙管を向け、ふうっ、と煙を吐き出した。
「はっ? なん、はぁっ!?」
「…………!」
矢凪が素っ頓狂な声を上げた。黒子が驚いたように周囲を見渡し、丞幻に目を止める。細紐のように伸びた白煙が、縄のように二人の身体に絡みついて締め上げていた。
引き千切ろうとでもいうのか矢凪が身を捩っているが、相手はたなびく煙。実体の無いそれ相手にどうすることもできず、目を白黒させている。
「いい加減にしてちょーだい、二人共。ワシ、たんぽぽみたいにか弱くて慎ましいのよ。お前らの戦いに巻き込まれて、うっかりぽっくり逝ったらどーすんの。一生恨むわよ」
「……たんぽぽってなぁ、岩の隙間からでも生えてくっだろうが。か弱いかぁ?」
「うっさいわね。とにかく、いい加減に戦うの止めて。アオちゃんに毒だから」
「む」
ちら、と矢凪の目がアオに向けられた。そうして、ばつの悪そうな顔で押し黙る。
次いで丞幻は、黒子に視線を向けた。黒子は身じろぎせず、丞幻に顔を向けている。
「怪異引き連れてる時点で、なに言っても言い訳にしか聞こえんだろうけど。ワシら別に、この事態を引き起こした犯人でもないし、怪異の作った幻でもないからね」
言いながら、帯の内側に指を入れる。目当てのものを引っ張りだして、丞幻はそれを目の前にかざした。
蛙の根付に結ばれた、緑と青の組紐。異怪奉行所の守り紐である。
「はい、お前らのとこの守り紐。怪異がこれ持てるわけじゃないし、さすがに自分らの所で作ったものなんだから、偽物じゃないのは分かるわよね?」
「……」
面布を揺らし、黒子が頷いた。
「ああ。……もう襲い掛かったりしないから、これを解いてくれないか?」
男とも女ともつかない、中性的な声が黒子から流れる。これもまた、術の効果だ。怪異に「個」を特定されないよう、徹底して全てを隠し通す。
「いいけど、先にそっちの術を解いてちょーだい」
「……おい。俺のを先にときゃーがれ」
ぶす、と半眼で訴える矢凪。それに向かって丞幻は、もう一度吸い口をくわえて息をふっと吐いた。途端に、身体を戒めていた白煙が霧散する。
「アオは。大丈夫か」
大股で近寄ってきた矢凪に、丞幻は頷いてみせた。
「だいじょーぶよ。退魔の力食らって、ちょっとぐったりしてるだけ。お薬塗ったから、すぐ良くなるわ」
「ならいい」
ほっとしたように、矢凪の表情が僅かに緩む。はは、と唐突に快活な笑い声がした。
黒子が、肩を揺らして笑っている。振り向いた矢凪の視線が鋭く尖った。
「……なに笑ってやがる」
「お前、相変わらず小さいのに弱いなあ」
「あぁ!?」
ゆったりとした黒子の衣装が足元から、光の粒子になって虚空へ消えていく。蟹牡丹模様の着流しと、異怪奉行所の羽織をまとった、がっしりとした体躯が現れた。
「……あ?」
矢凪が胡乱な声を上げた。
頭を覆う黒頭巾が消え、眩しい銀髪が姿を見せる。さらりと細いそれは肩口まで伸び、耳から上の後ろ髪を一つに束ねている。
矢凪がきゅっ、と嫌そうに顔をしかめた。そろりそろりと、すり足で背後に下がる。
「いやぁ、こんな所にお前がいるなんて思わなくてな」
最後に、顔を隠す面布が下から消えていく。
「ついつい怪異の幻かと攻撃しちまった。悪かったな」
中性的な声が、途中から張りのある低い男の声に変わった。
面布が粒子となって、きらめきながら消滅する。
下から現れたのは、刃を溶かしこんだような銀の瞳と、吊り上がった太い眉。鋭い三白眼に、額の右側から鼻筋にかけての刃物痕といい、まるでヤクザのような強面の男だ。
白煙で拘束されたまま、男が眉を下げて笑った。
「悪かったよ、矢凪。つい、俺も本気になっちまった」
「あらなーに、知り合い? ……矢凪?」
顔を向けた先に矢凪がいない。どこへ行ったかと首を巡らせれば、砕けて壊れた箪笥の影に隠れていた。
「……なにしてんの」
「…………あいつだよ」
物凄く苦いものを噛んで味わったような顔をして、矢凪はぼそりと呟いた。
「なにが」
「……俺を拷問して、殺した知人ってなぁ、あいつだ」
「ああ、そういうこと。成程ねえ」
成程、成程。最初に出会った時に言っていた、死ぬまで拷問してきたという知り合いが彼なのか。黒子で分からなかったから平気でやり合っていたけれど、正体を知ったら思わず及び腰になってしまったと。
うんうんと頷き――丞幻は、ぐりんっ、と首を勢いよく銀髪の男に向けた。
「……はぁっ!?」
「ん?」
にこにこ笑う男。また勢いよく首を動かし、矢凪に視線を向ける。
「……」
こっくりと、矢凪が苦々し気に頷いた。
「……うわあ」
丞幻は、思わず呟いた。
「……いやぁ。世間って、狭いわあ」




