四
生暖かいものが、頬をべろべろと舐める。
ううぅ、と丞幻は呻いた。あと少し、あと少しだけ寝かせてほしい。
「……せめてあと一刻……」
「なにが一刻だ、起きろ、あほう!」
「ふぐっ!?」
腹に衝撃が走って、丞幻の意識が急覚醒した。突き上げられるようにして、目を見開く。
「ようやく起きたか、あほう」
「シロちゃん……」
真っ白いおかっぱ髪を揺らしたシロが、両腰に手を当てて丞幻の横でふんぞり返っている。その脇には毬が転がっていた。どうやらいつものようにいつもの如く、毬をぶつけられたらしい。
手荒い起こし方に頭をかいて起き上がろうと腕に力を込め、
「――って、ちょっと待って!」
寸前の出来事を思い出して、丞幻は飛び起きた。慌てて周囲を見渡す。
風にそよぐ稲、茅葺の屋根連なる村、遠目に見えていた赤に染まった山。それらが全て、視界から消えていた。
右にも左にもあるのは、雲を突くような高い壁。漆喰を塗り付けたように白く、手を伸ばして触ってみるとざらりとした手触りが伝わった。
空は曇天のような灰色だが雲は無く、背後を振り返ればそこにも壁がある。
袋小路のどん詰まりに、丞幻達は倒れていたようだった。
隣を見れば、矢凪が仰向けで倒れている。硬く目を閉じたその顔を、胸に乗ったアオが遠慮なく舐め回していた。成程、自分もああやって舐められていたのか。
ぶんぶんと、アオの長い尻尾が嬉しそうに振られる。
「矢凪、おいしいにおいしゅる! おいしいおあじ! おいしい!」
「あー、生餌だからかしらねえ」
適当に答えながら立ち上がる。特に体調におかしい所は無いが、右耳の奥がなんとなく気持ち悪い。先ほど、知らない男に囁かれたからだろうか。吐息まで感じる程近くで聞こえた声がまだ鼓膜を震わせているようで、指を突っ込んでぐりぐりとかき回す。
肩に引っ掛けていた革袋は、近くに落ちていた。腰に手をやれば、帯にさした十手もある。
良かった。荷物があれば、色々と助かる。野宿をする事になった時の為にと、干飯やら水を持ってきていたのだ。
「……うるせえ! 重い! 鬱陶しい!」
「みゃー!」
そうこうしている内に、矢凪が目を覚ました。怒鳴りながらアオを引き剥がし、地面に下ろしている。
「あ? ……どこだ、ここ」
「異界よ、異界。ワシら、異界に取り込まれちゃったみたい。多分ここ、留まり小路でしょうねー」
くるりと周囲を見渡して、丞幻は肩をすくめてみせた。天を突く白壁、灰色の空に袋小路。かつて読んだ文献にあった通りだ。
「はぁ?」
怪訝そうに、矢凪が片眉を跳ね上げた。
「待て。留まり小路だぁ? そりゃおかしいだろ、俺達は別に袋小路にいたわけじゃねえ」
留まり小路に迷い込む方法は、袋小路に辿り着いた後に戻ろうとする事。それは丞幻自身が間違いなくネタ帳にしたため、彼らの前に提示したものだ。
しかし、と丞幻は首を横に振った。
「でもねえ、この景色は間違いなくそうなのよー。異界とか怪異が、別の何かの影響を受けて姿や性質を変えるって言う話はよく聞くし、留まり小路も性質が変わっちゃった可能性はあるのよねー」
そもそもネタ帳に書き記したあの話が乗っていたのは、五十年は前の文献だ。この五十年で異界が変容した可能性は高い。
くい、とシロが矢凪の袴をつまんで引っ張った。視線を落とす彼に、首をかたむける。
「矢凪、矢凪。あの紙はどこ行った? ほら、お前が拾った紙」
「ああ……そういや、ねぇな。確かに持ってたはずなんだが」
シロは夜明け色の目を細める。
「あれには留まり小路の主の名が書かれている。そして、そいつが犠牲者を連れて行く場所の名も。それを見た、ないしは読み上げた事が引き金になったんだろう」
そして、不機嫌そうにぼそりと言い添えた。
「……って、年増が言ってる」
「そーいちろーも! 『もしかしたら、あの紙を見るか読むかする事が、異界に連れ込まれる引き金になっちまうよう変異したのかもなあー』って! いってうー!」
長い尻尾をひゅんと振って、アオも元気よく補足した。なお、蒼一郎が伝えたと思しき台詞だけは流暢に喋るアオだった。
「成程ねえ、それはあるかもしんないわ」
舌打ちを一つして、矢凪は周囲を見渡した。
「ってことは、村の連中は軒並みここに連れ込まれたかもしれねえってことか。……笑えねえな」
袋小路の先の道は、いくつもの道に枝分かれしていた。分かれた先でも更に道がいくつにも分岐しているようであり、これではどこが正しい道なのか分かりはしない。いや、正しい道など無いのかもしれない。
村人達が本当にここに取り込まれたとして。いつ取り込まれたかは分からないが、水も食料も手に入りそうにない所で、何日生きながらえる事ができるだろうか。しかも「カギュー様」と呼ばれる、正体不明の怪異もうろついているのだ。
「ついでに、この十手の主もね」
ぽん、と帯の十手を一つ叩いて、丞幻は努めて軽やかな口調で呟いた。
いつまでも袋小路のどん詰まりで駄弁っているわけにもいかないので、ひとまず丞幻達は道を進む事にした。とはいえ、道は葉脈のように分かれているのだ。
どこを進めばいいのか、なんて分かるはずもない。普通であれば。
「おい、なんか引っ張られんだが。……右の道、か?」
「じゃあそっちに進みましょー」
矢凪が振り返った。黄金の瞳に不審の色がありありと浮かんでいる。
「ほんっとーに、大丈夫なんだろうな。これ」
これ、と上げた左手には、金色の紐が絡んでいた。紐の先には青水晶で作られた鳥が括りつけられている。青みを帯びた親指ほどの透明な鳥は、こっちだよ、とでも言うように矢凪の右側にある道へ向かって真っすぐ飛んでいた。
最後尾の丞幻は、大きく頷いてみせた。
「だいじょーぶ。その呪具はね、異界の出口を示してくれるのよん。実家から持ってきた便利呪具なのよー」
「なんでてめぇが使わねえんだよ」
「ワシに霊力が無いからよ。それ、便利なんだけど霊力を流さないと発動しないの」
そこで助手の出番である。矢凪が呪具に霊力を流す事によって、正常に使う事ができる。
ふうん、と納得したようなしてないような声を上げて、矢凪は鳥の導き通りに右への道を進んだ。じょろじょろと、アオ、シロ、丞幻の順でそれに続く。
留まり小路の道は大人が少し身体を動かせば、どちらかの壁に肩がぶつかるくらい狭かった。最初の袋小路こそ複数人が並んで歩けるような広い道だったが、段々と細くなって今ではこの様だ。なので仕方なく、一列縦隊で道を進む。
ちなみに矢凪を先頭にしているのは呪具を持たせている事もあるが、生餌対策である。後ろを歩かせて、うっかり怪異に惹かれて迷子になってはたまらない。
「あ、丞幻。またあるぞ、ほらほら」
「ええ、またあ? ……やーっぱ、留まり小路が何かの影響を受けて、変異した可能性は高いわねー。こんな貼り紙があるなんて、文献に乗ってないしー」
ほらー、とシロが指さした先には、張り紙があった。目が痛くなるような白壁に、半紙が張りつけられている。ちょうど彼の目線の高さだ。
カギュー様はいきどまりに導いてくださる。
過去も、未来も無いいきどまりに。
私はここでいきどまり。
そんな言葉が半紙に踊っている。
丞幻は背後を振り返った。通ってきた壁に、点々と同じような半紙が貼りつけられている。貼られている高さは様々だが、書かれた文言は全て一緒だ。
丞幻はげんなりとした。
どうせ書くなら、もっと夢と希望溢れる言葉を書けばいいのに。
「甘味食べ放題とか、全品無料とか、犬猫兎触り放題とか、草稿一発良しとかねー」
「最後で嬉しいのはお前だけだろ」
「あら、じゃあシロちゃんはどんな言葉が書かれてたら嬉しいのん?」
こちらを振り向いたシロが、満面の笑みを浮かべた。
「抱っこされ放題」
「それもそれで、シロちゃんだけが嬉しい奴ね」
小さなおかっぱ頭を撫でていると、横道に進もうとした矢凪が「そういや」と振り向いた。
「どしたの、矢凪」
「カギュー様って奴ぁ、本当にここに出てくんのか。怪異の気配なんざ、ちっともしねぇぞ」
「えーっと、ちょっと待ってね」
丞幻は懐からネタ帳を取り出した。カギュー様を記した箇所をぺらぺらとめくる。確か、カギュー様が出てくるには法則があったはずだ。
「あ、えーっと……あったあった、これだわこれ。カギュー様はね、留まり小路に迷い込んだ者が、『もう嫌だ、逃げたい』って思わない限り出てこないのよん」
「じゃあ、絶望しねぇと出て来ねえのか」
「どちたの、矢凪。じゃんねんそーね」
ちっ、と前方から物騒な舌打ちが聞こえた。
「……異界の主がそのカギュー様って奴だっつーならよぉ、そいつぶっ飛ばせば脱出できると思ったんだがなあ」
「その力こそこの世の全てな考えどうにかなんない?」
「俺はこれで百年近くやってきた」
「それでどうにかならない時だってあったでしょー」
「そん時は更なる力で破壊する」
丞幻は呆れた。この助手、本当に脳みそが筋肉でできているのではないだろうか。
「……ほんっと、よく生きてこれたわねー」
そう言いながら何気なく壁に触れた手に、かさりと乾いた感触があった。ここにも貼り紙があったのかと視線を向けて、丞幻はふと眉を寄せた。
「ん?」
「どうしたんだ、丞幻。本当に、そうこう一発良しって書かれてたのか?」
「違うわよシロちゃん、さっきと違う事が書かれてるなーと思って」
「どんな?」
「えーっと……『死んだ人間の目が嫌だ。無念と絶望と生への渇望が詰まった目で見られると、どうしようもなく気が沈む。いつかお前もこうなると、目はそう言っている』……だって」
シロの目線より上にある貼り紙の文字を読み上げてやれば、不思議そうに目がしばたいた。
「なにを言ってるんだ、こいつは?」
「さあ……」
顔をしかめて、丞幻は曖昧に唸った。
先ほどまでのものは、止め跳ね払いのきっちりした文字が連なり、まるで何かの標語のようだった。しかし今書かれていたものは、まるで誰かが心を吐露したかのように、嘆きと苦痛に満ちている。それを表すかのように、黒々とした文字の輪郭は歪んで震えていた。この変化はなんだろう。
留まり小路、あるいはカギュー様に何か別のものが混じり、性質が変わったと仮定して。では果たして、その「別のもの」とはなんだ。怪異か、人間か、神か。そういえば意識を失う前に聞こえた男の声、あれは一体なんだったのだろう。どこか聞き覚えがあったような気もするが、一瞬だったので分からない。
異界に流れる空気はひどく静かだ。瘴気が漂っているわけではないし、逆に神がまとうような清浄な気も感じない。
音も気配もなにも無く、ただ耳が痛い程の静寂が、丞幻達が通り過ぎた後の道を支配している。
生気が無い、と思った。
この異界で生きている者は、丞幻達のみ。それ以外は、寂寞とした白い壁と道だけが延々とあるだけの、寂しい世界。それでいて、妙な安心感があった。
ここには、現世の煩わしいものが何も無い。過去に思いを馳せる事も、現在を生きる事も、未来を憂う事も、何も無い。
ただ静かな壁と道に囲まれて、虚ろに揺蕩うだけ――。
「おい。おい、丞幻」
「えぁっ!?」
名を呼ばれて、我に返った。いつの間にか立ち止まっていたようで、矢凪達と少し距離が開いている。
ぱちりと瞬きを一つ。今、なにかおかしな事を考えていた気がする。なにを考えていたのか思い出そうとしたが、手繰り寄せる前に淡く弾けて消えてしまった。
「あー、ごめんごめん。ちょっと色々考えてたわー。なにかしらん、矢凪」
しまった、異界に当てられただろうか。思考を切り替えて、顔を上げる。
「留まり小路ってなぁ、こんなんもあるもんなのか?」
こんなん、と矢凪は前方へ顎をしゃくった。
道の先には、この白壁に覆われた世界に似つかわしくないものがあった。
「おうちー! おうちね、だれのおうちー!?」
きゃっきゃとアオが楽しそうに笑う。
白に慣れた目が、唐突に飛び込んできた色にちかりと痛む。赤銅色の屋根瓦と黒檜の壁の立派な屋敷が、彼らの眼前に堂々と立ち塞がっていた。
★★大事なお知らせ★★
このたび、長年連れ添ったパソコンがクラッシュ致しまして、ストックしていたカギュー様の続きも一緒にクラッシュ致しました⊂⌒~⊃。Д。)⊃<どうにでもなーれ
ワードでガタガタ書いて、投稿ギリギリまで推敲してから乗せるスタイルなので、こちらの方に乗せていなかったのが仇になりました……。
続きを楽しみにしている皆様には大変申し訳ありませんが、少々執筆期間を頂きたいと思います。本当に申し訳ありません、ジャンピング土下座でお詫びします。




