三
ひねもす亭の戸を閉め、丞幻はそこに符をぺたりと貼り付けた。
「おい、なんだそれ?」
「ああこれ? ひねもす亭が一日以上無人になる時は、貼るように言われてんのよ」
これを貼っておけば、万が一井戸から堅洲の亡者が這い出てきた時に、異怪奉行所に知らせが飛ぶらしい。実際そうなった事が無いので、本当なのかどうかは分からないが。
矢凪が不思議そうに首をかしげた。
「なんで」
「あれ、言ってなかったっけ? このお屋敷って実は中庭があるんだけど、そこに井戸があってね」
屋敷から出入りできない作りになっている中庭には井戸があり、かつて堅洲国に通じた事があった。それを封じる為に作られたのがひねもす亭であり、屋敷のおかげで現在は平穏が保たれている。
という事を簡単に説明すると、矢凪は眉間に皺を寄せて屋敷を振り仰いだ。
「……ぞっとしねぇな」
「ま、井戸に近づいたりしなきゃ問題無いわよ。住んでみりゃ快適だしねー、部屋も多いし広いし酒蔵あるし」
「確かに。酒蔵あんのはありがてえ」
首肯した矢凪の首が、ん? とかしげられた。
「最初に会った時、てめぇ前の住人が酒集めてたとか言ってなかったか? この屋敷、要するに封じの要石みてえなもんだろ。なのに住んでたのか? 誰か」
丞幻は感心した。
「よく覚えてるわねそんな事。いや、ワシもよく知らんのだけどね。何十年か前に、異怪の同心がしばらく住んでたらしいのよ。あの酒はそいつが集めたものなんだってさ」
「ふうん」
まあその同心は、ある日行方不明になったらしいが。それは言う必要は無いだろう。井戸とは関係無い理由だと言うし。
「そうそう。行きはちょっと特別な方法で行くわよん」
話題を変えて、ぴっ、と指を一本立てる。
「は?」
「シーロちゃん」
「やだ」
瓢箪柄の毬をぎゅっと抱え込んで、シロがぷいとそっぽを向いた。
丞幻はしゃがみこんで、シロの顔を覗き込む。露骨に顔をしかめ、「なにがあろうとも、どんな交換条件を出されようとも、絶対に嫌だ」と言わんばかりだ。
「お願い。ね? 真白ちゃんになってくれるかしらん。真白ちゃんならあっという間だから」
「やだ」
「ね、ね、お願いよー。後でシロちゃんの大好きな井村屋の豆大福三つ買ってあげるからー」
「やだ」
ぷいぷいと頬を膨らませ、首を横に振りたくるシロ。
「シロちゃーん。真白ちゃんの瓢箪ならあっという間だし、ね? 行きだけだから。帰りは歩いてのんびり帰りましょー。帰りがけに椛温泉に一泊して、温泉入りましょ。あそこの紅葉饅頭、美味しいって評判なの。温泉入った後に、一緒におまんじゅ食べよ、ね」
「や……」
だ、と言い切る前に、シロの夜明け色の瞳がぱちりと閉じられた。幼い姿形が蜃気楼のように、歪んで溶けて伸びる。
引きちぎった雑草でアオをじゃらしていた矢凪が、こちらを振り返って片目を見開いた。
「……誰だ?」
「ん? ああ、そうか。これで会うのは初めてか。可愛い俺がいつも世話になってるな、矢凪」
艶やかな色模様の振袖、乱雑に刺された櫛や簪。顔に落ちかかった白髪を鬱陶しそうに揺らして、真白が艶やかに微笑んだ。
胡散臭そうな目つきで、真白をじろじろ眺めまわす矢凪に、簡単に説明する。
「これ、真白ちゃん。シロちゃんの真の姿。こっちもこっちで可愛いでしょ?」
「オレもね、オレもあるの! そーいちろーってゆーの! おっきいの!」
「へえ」
興味無さそうに頷く矢凪に、真白は赤い唇を子どものように尖らせた。
「なんだ。反応が薄いなあ、つまらん」
「まー、矢凪だからねえ。とりあえず真白ちゃん、お願いできるかしら?」
真白の瓢箪は、吸い込んだ者を一瞬で別の地へ送ることができる。これを使ってもらえば、徒歩で一日の取材先へも数秒だ。
手の中の毬を転がしながら、真白は夜明け色の瞳をついと細めた。
「まあ別にやってもいいが、条件があるぞ」
「あら。なーに?」
中性的な美貌が、ずいと息がかかるほど近づく。それはそれは真剣な瞳で、真白は告げた。
「あそこの椛温泉に泊まるなら、桐壺の間に泊まれ」
「桐壺の間? 別にいいけど、なんか特別なの?」
「それは秘密だ。約束だぞ?」
「はいはい、いいわよー。じゃあゆーびきり、ゆーびきり、せっせっせ。うそつきゃおーまえの指くーさる」
小指を絡めて指切り一つ。するりと白魚のような指を抜いて、真白は毬をぽんと放った。
くるくると中空を飛んだ毬が手の中に戻った時、それは子ども一人が入れそうなほど巨大な赤い瓢箪に姿を変えていた。蓋をぐるぐると戒めている白紐をほどきながら、真白が苦笑に似た笑みを口元に浮かべる。
「しかし今更だが、祓家の長子ともあろう者が、簡単に怪異と約束していいのか? うっかり騙されたり呪われたりしたらどうするつもりなんだろうなあ、この粗忽者は」
「なーに、真白ちゃんてばワシのこと呪いたいの? ……はっ、もしやここ最近ネタ切れなのは真白ちゃんがワシを……!」
「てめぇの脳みそがカスなだけだろうが」
横槍を入れてきた阿呆を、丞幻はぎっと睨んだ。
「なーに、喧嘩なら買うわよ助手。お前も一回書いてみりゃいいんだわ」
「お、買ってくれんのか、喧嘩。よし来いやろうぜ」
長い尾を振って、アオが後ろ足でぴょこぴょこ立ち上がった。
「オレもけんかしゅるのー。オレね、けんかちゅよいのよ」
「じゃあてめぇは後でな」
獰猛な笑みを浮かべ、拳を胸の前で打ち付ける矢凪。丞幻は鼻に皺を寄せて、真白の傍にすすすと寄った。
「嫌だわもう、この四方八方喧嘩売り野郎。ほら真白ちゃん、ちゃちゃっとやっちゃってー」
「……分かった、分かった。送ってやるから、約束は忘れるなよ」
「もちろんよー……やめて矢凪こっち来ないで! べきべき指鳴らさないで! 怖い、怖いわ! あの世に取材旅行はまだ行きたくないっ!」
「そういや思い出したんだがよぉ。てめぇ、目々屋敷で結構動けてたよなぁー。なんか、武術やってる動きだったよなぁー。どこの流派だ? なぁー、なぁー、なぁー」
「いやあぁあ目が笑ってないいぃ!!」
じりじりっと距離を詰めてくる矢凪に両手を突き出し、叫ぶ。それと同時に真白が瓢箪の蓋を開けた。
胃の腑がぐぅっと持ち上がるような浮遊感がした。目の前の景色が縦に伸びる。それがぐるぐると渦を巻いて、喉の奥に吐き気がせりあがってきたのを最後に、視界が真っ暗になった。
「いくら共にいるとはいえ、怪異と約束なぞみだりにするものじゃないと思うがなあ」
祓い屋といえばこの家、みたいな家に生まれているのだから。そう言った事は強く教え込まれているだろうに。
こちらを心底信じているから、あんな簡単に約束ができるのだ。
その信頼が少しくすぐったくもあり、心配にもなり。
そんな事を思いつつ、真白は瓢箪の口を己に向けた。
「洗濯ぅ、洗濯ぅ~」
がらんとしたひねもす亭の戸の前を、軽やかな声が通り過ぎて行った。
〇 ● 〇
真白の瓢箪を通っての移動は便利だが、酔う。
「うぅ……気持ち悪ぅ……」
「……」
草むらの中で膝と手を付き、丞幻は萌黄の三つ編みを力無く垂らしてうめいた。隣では木の幹に取りすがるような恰好で膝を付いた矢凪が、身体をぷるぷる震わせている。
「ふんだ。年増にたよるからだ、ばか。ふんだ」
「ここどーこ!? ねえねえじょーげん、ここどーこ?」
脇腹にアオが突撃してきた。
「アオちゃ、今揺らさな……う、吐く」
せり上がってきた胃液を必死に飲み下して、丞幻はようよう青白い顔を上げた。
どうやら街道脇の草むらのようだった。目の前に踏み固められた黄土色の道が見える。幸い人影は無く、秋晴れの太陽が街道を照らしていた。
「丞幻、年増が言ってたぞ。『村のちょっと手前にしてやったぞ、ありがたく思え』って」
「あら……そなの……そうね、村の前で転移して、人に見られたら大変だものね……」
話している間に落ち着いてきたので、ゆっくりと立ち上がる。少し眩暈がしたが、なんとか大丈夫そうだ。
矢凪は、と見ればこちらも吐き気は収まったようで、幹に手を付いて姿勢を整えていた。腰の瓢箪を取り上げ、ぐいぐいと中身をあおっている。
「……なんで今お酒飲んでんの、矢凪」
「……迎え酒」
丞幻は、はて? と首をひねった。
「いや、二日酔いの眩暈ではないから意味無くない、それ……?」
「似たようなもんだろ。……ぜってぇ、二度と、あれで移動は、しねえ」
「でも便利なのよ、真白ちゃんの瓢箪。……とりあえず、行こっか。東丸村に茶屋の一つでもあったら、そこで休ませてもらいましょー」
「……おう」
「あ、アオちゃんはちゃんと人の姿になりなさいね」
「う!」
青い小狼は元気よく頷いた。
童姿になったアオの手を矢凪が、ご機嫌斜めなシロの手を丞幻が引いて、街道を歩く。
時々吹き渡る秋風が、まだどこか眩暈の残る身体を撫でて行くのが心地良い。
「あ、あそこかしらね」
それ程歩かないうちに、ぽつぽつと道の右側に茅葺の屋根が見えてきた。街道の脇には田んぼがあり、そやそやと稲が風にそよいでいる。
「う?」
ふと、アオが立ち止まった。丞幻は小さな青い頭を見下ろす。
「どしたの、アオちゃん」
「じょーげん。あんね、人のにおい、しにゃーの。あしょこ、だれもいにゃーの」
「ええ? 村から人の匂いがしないの?」
「う!」
アオは首を縦に振る。
人の匂いがしないとは、どういう事だろう。目の上に手でひさしを作り、村を眺める。
街道から続く道が村の真ん中を貫いて、その左右に家が建っている。左右に建つ家は十軒程だろうか。道の奥には村守りの小さなお堂が建てられていた。
首をかしげながらも街道を反れて、村に足を踏み入れる。
「あらー、ほんっとに誰もいないわ」
「ね、ね、オレの言ったとおりしょー!」
確かに、村に人影が見えない。開け放された戸から一声かけて家の中を覗くが、がらんとしている。人口が少ないとしても、人影の一つも見えず、声の一つも聞こえないのは流石におかしい。
村人全員で物見遊山にでも出かけたとでもいうのか。しかしその割には、戸が開け放された家が多い。ちょっと農作業に出かけました、とでもいうようだ。だが先ほど見かけた田んぼに、人はいなかった。
「奥にも人ぁいねえな。盗人にでも襲われて皆殺しにされたか?」
「でも、村はきれいだぞ? おそわれたなら、もっとぐちゃぐちゃになってるだろ?」
村守のお堂を見に行った矢凪とシロが戻ってきた。
シロと繋いでいない方の手に、何やら着物のようなものを持っている。
「矢凪、それなーに」
「堂ん中にあった。十手と羽織」
「へえ、ちょっと見せて」
受け取って羽織を広げる。色は黒。背中側の衿下に、白抜きの崩し字で異怪と書かれている。地面に落ちかけた十手を寸前で掴んで見てみれば、棒芯部分は僅かに赤みを帯びた銀色。柄の先に付いた房は黒と白の二色。
間違いない、異怪奉行所の同心連中が使う羽織と十手だ。
異怪奉行所は好きではないが、装備に罪は無い。十手は色々と便利だし、一応持っておこう、と丞幻は帯に十手を差し込んだ。
「異怪の同心がいたのね。ってことは、怪異でも出て、村人全員を避難させたのかしらん」
それなら村人がいないわけも納得できる。しかし、一番大事な装備をお堂に置いておくわけが分からない。
飽きたのか毬つきをしていたシロが、振り返って鼻に皺を寄せた。
「丞幻、その十手、嫌だ、嫌いだ。捨てろ」
「そう言わないでちょーだい、シロちゃん。重要な手がかりかもしれないんだから」
異怪奉行所で使う十手には、怪異を退ける文言が刻まれている。霊力が無くても、怪異を殴って退けるくらいはできるのだ。怪異であるシロが嫌うのも当然だ。隣にいるアオは、こちらに背を向けてがしがしと地面を引っかいてる。
無言の抗議に苦笑いを浮かべて、羽織を乱雑に畳む。かさりと乾いた音が指に響いた。
「ん?」
「おい、紙ぃ落ちたぞ」
丞幻の指からするりと抜けて落ちたのは、四つ折りにされた紙片だった。腰をかがめて拾った矢凪が、それを開いて中身を読み上げる。
「……カギュー様はいきどまりに導いてくださる。過去も未来も無いいきどまりに。私はここでいきどまり」
瞬間、村内の空気が凍り付いた。
うなじを冷たい手で撫で上げられたような感覚が走る。正面の矢凪も異変を感じたか、剣呑に細めた目を周囲に走らせた。
村に、なにかしら変化が起きたわけではない。しかし空気が妙に張り詰めている。
「――私はここで、いきどまり」
「っ!?」
陰鬱な男の声が、鼓膜に吹き込まれる。
その途端、丞幻の意識はぶつりと途絶えた。
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