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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
怪異:カギュー様

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38/193

 いきどまりの先にはなにも無い。

 闇も。光も。苦しみも。喜びも。過去も。現在も。未来も。なにも無い。

 私はここでいきどまり。


〇 ● 〇


 異怪奉行所同心、笹山為成(ささやまためしげ)が異怪奉行、染崎青音(そめざきあをね)に呼び出されたのは、まだ朝靄のかかる時刻であった。


「来たかね、為成」

「は」


 一声かけて部屋に入ると、小柄な老婆が正座したままこちらを向いた。「うちのお頭って、ご近所の煙草屋の婆ちゃんに似てるんだよな……」「近所の煎餅屋の婆ちゃんにも似てる」などと同心連中に言われる柔和な顔立ちが、険しさに彩られている。

 為成の胸に嫌な予感が伝った。

 これは何か絶対に、面倒な事があったな。そして自分が呼ばれたという事は、そういう事だろう。

 今からでも見なかった事にして、回れ右して帰ったら駄目だろうか。というか帰りたい。


「ま、座んなさい」

「はい」


 しかしそれをおくびにも出さず、彼は青音の前に正座をした。

 早くから悪いねと熱い茶を淹れてくれたので、ありがたく受け取り飲み干す。そして。


「で、俺は何をすればいいんですか、お頭」


 ずばりと切りだした。


「まあ、一つ困った事が持ち上がってねえ」


 本当に困ったように、青音は眉を下げていた。膝の上に置いた湯たんぽを撫でながら、ため息を吐く。

 香箱座りをした猫を象った湯たんぽは、お湯が入っていない時でも常に青音の傍にある。亡き愛猫を模して作ってもらったのだと、以前懐かしそうに語っていたのを為成はふと思い出した。

 異怪奉行所は、町奉行所と同じく奉行所の名を冠してはいるが、その性質は全く違う。町奉行所を統括するのは老中であるが、異怪奉行所の統括は神司方(かんづかさがた)だ。

 怪異を祓うという特異な任務上、与力同心になりたいと思ってもなれるものではない。だがそれは、裏を返せば怪異を見聞きできる見鬼、祓う事のできる霊力さえあれば武士でなくとも、身分性別問わずになる事ができるのである。

 時には異怪奉行所から、うちで働いてくれと市井の者に誘いをかける事もある。

 現在の奉行である青音も、そうして異怪奉行所に入った一人だ。

 元はとある商家の奥方で、店主である夫を影に日向に支えていた。しかし息子に店を譲ったのをきっかけに、何度も跳ねのけていた異怪奉行所からの申し出を受けて、働く事と相成ったのが五年前。

 奉行に任じられたのは先年だが、的確な指導力と穏やかな人柄は与力同心のみならず、貴墨市民からも評判が高い。……まあ、前任が実戦有能人柄横暴、指示力皆無だったので、その反動もあるかもしれないが。


「同心の浅沼忠(あさぬまただし)、いるだろう?」

「いますねえ」


 銀髪を揺らして頷く。あまり好かない同僚の顔を頭に浮かべた。

 浅沼忠。今年で三十だったか。遊女達にもてはやされそうな、色黒の男前だ。ただ、他者に対してやけに高圧的な態度が目立つので、為成は嫌いだった。


「十日前から行方が知れない。為成お前、ちょっと探してきておくれ」


 猫たんぽの頭部分を撫でながらの言葉に、為成は思わず天井を仰いだ。

 探してくれ、と軽く言われても。


「……探すって、どの辺りをですかね、お頭」

「ああ。悪かったね、ちょっと待っとくれ」


 小梅柄の袖を探って、青音は四つに畳まれた紙片を取り出した。差し出されたそれを受け取って、視線で尋ねる。

 頷かれたので、為成は苦虫を噛みしめたような顔のまま紙片を開いた。


『とうまるむらふきん』


 みみずに墨汁を付け、半紙の上で跳ねさせたような字が、折り目の付いた紙の上で踊っている。金釘流(かなくぎりゅう)がまだ可愛いと思える程の悪筆だ。

 目を(すが)め、紙を近づけたり遠ざけたりしながら、なんとか為成はそれを読み取った。


「とうまるむら……東丸村?」


 笑っているような細い目を、青音はぱちりと瞬かせた。


「ありゃま、そこなのかい。あそこは貴墨の外だろうに」

「浅沼の巡回範囲は貴墨の藤南(とうなん)馬走(うまばしり)付近だったはずですよね。東丸村は全く逆だ。ったく、なにしに行ったんだか……」

「まあ、ろくでもない事をしたのは確かさ。あたいの神さんが、そう言ったからねえ。そして、あんたがその解決に適任だともね」


 とにかく為成、東丸村に行って浅沼を探してきておくれ。

 青音の命に、為成は黙って頷いた。お頭のみならず、彼女に憑く神にまで言われれば受けるしかない。


「……じゃあ、行ってまいります。お頭、後で神様に字の練習するよう言ってもらえませんか。読みにくくってたまらない」


 染崎青音には神が憑いている。

 神は青音の為に、なにくれと「お告げ」をする。紙片の中に文字という形で現れるのだが、先のような落書きもかくやという文字の為、大変に読みにくいのだ。

 桐箱からいくばくかの旅費を出して為成に渡しながら、青音は歯の二、三本欠けた口で笑った。


「なあに。伝われば十分だと思ってるのさ、あたいの神さんは」


〇 ● 〇


 青音の部屋を辞して、為成は早足で長屋へ戻った。

 所帯持ちであれば本町や絹傘(きぬがさ)、川山にある組屋敷で暮らすのだが。独身の与力同心は基本的に、奉行所の隣にある長屋で暮らす事になっていた。

 為成も例に漏れず三十路にして独身である為、住まいは奉行所隣の長屋であった。朝顔の鉢が並ぶ土間を抜け、どかどかと畳を踏み鳴らす。


「東丸村までなら、徒歩で一日か……ったく、あの馬鹿面倒かけさせやがって」


 首に縄付けて、引きずってでも連れ帰ってやる。

 元々吊り上がり気味の眉を更に吊り上げ、静かに為成は決意した。まだ空が薄暗い中に叩き起こされ、人探しを命じられた恨みは恐ろしいと知れ。

 とはいえ、受けた命令は遂行せねば。気を取り直して旅支度をしながら、舌打ちを一つ。


「朝顔、どーすっかなあ。……しょーがない、羽佐間(はざま)にでも頼むか」


 狭い土間には、足の踏み場も無いほど朝顔の鉢が置かれている。盛りを過ぎたとは言え、今から花を付けそうなものもあるのだ。捜索にどれくらい時をかける事になるか分からないが、放置しておくわけにもいかない。

 仲の良い同心に面倒を見てもらう事を決めて、予備の足袋を畳む。世話の礼に、土産に何か美味いものでも買って帰ろう。


「しかし、あの対人技能虫以下の仕事一筋馬鹿が行方知れずとはね。怪異を深追いしすぎたか?」


 いやしかし、青音は「ろくでもない事をした」と言っていなかったか。己の神がそう言っていたとも。ということは、怪異を深追いしすぎて異界に入り込んだり、返り討ちにあって怪我をして動けなくなったというより。

 為成は顎をさすった。刃を溶かしたような銀色の瞳が剣呑に光る。


「東丸村に潜り込んで、何かを仕掛けている、いた……とも考えられるか?」


 例えば呪いの蔓延とか、その辺に封じられた怪異を復活させようとしているとか。

 貴墨の東側は海に面しているが、西側は山脈に面している。その山脈を超えれば千方国に到達する。東丸村はその山脈の麓付近にある、小さな村だったはずだ。

 貴墨内なら異怪奉行所の目が光っているが、その外にある小村などで起こった異変の知らせは届きにくい。気が付けば手遅れという事だってある。

 それは(あさぬま)も当然知っているだろう。


「ふーむ」


 為成は胸元に手を当てる。布越しに感じる硬い感触に、思わず口元が緩んだ。


「ま、もし本当にそんな馬鹿な事を考えて、実行していたとしたら」


 人探しは面倒で、しかもどちらかと言えば嫌いな同僚ときた。そしてそいつが、何らかの悪事に手を染めているのであれば。


「その時は、何をしてもいいよな」


 遠慮無くぶっ飛ばせる大義名分が、手に入る。それは楽しみだ。

 今までは同僚故に手出ししていなかったが、あのすかした面、一度原型が無くなるまでずたずたにしてやりたいと思っていたのである。

 仲間内に高圧的な態度を取るだけならいざ知らず、助けを求めに来た者にまで「このカス共がその程度で助けを求めにきたのか」的な態度は頂けないと思っていたし。なにより自分やその知り合いにだけ、やけに当たりが強いのがむかついていたのである。

 先ほどまでの不機嫌さを綺麗に消して、うきうきと振分荷物(ふりわけにもつ)を作り終えた為成は、ふと顔を上げた。


「ああ、そうだ。別に誰を連れて行くなとも言われてなかったし、あいつでも誘ってみるかな」


 町中に住むのは面倒だと、わざわざ荒れ寺をねぐらにしている友人を脳裏に描く。

 どうせあいつは、昼間から酒を飲んでいるか、賭場で遊んでいるか、遊郭を宿代わりにしているか、喧嘩をしているかのどれかに違いない。暇をしているようなら、一緒に行くかと声をかけてみるのも悪くない。

 見鬼持ちの霊力持ちで、喧嘩の腕も強い。万一阿呆があくどい事をしていても、足手まといにはならない筈だ。

 東丸村へ向かう街道沿いには、紅葉の山が見える場所がある。葉月の終わりごろから色を付け始める狂い紅葉の山なので、今時分なら真っ赤に染まった景色が楽しめる。

 それを横目に、毒にも薬にもならぬ話をしながら街道を行くのは退屈しないだろう。


「ああ……いや、駄目か」


 ふと自嘲の笑みが浮かんだ。ゆっくりと首を横に振り、ため息を一つ。


「あいつは俺が殺しちまったからな」


 しょうがない、じゃあ寂しいけど一人で行くか。

 言い聞かせるように呟いて、為成は振分荷物を手に取った。

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