後
井戸の底で、己が殺した亡者達に絡みつかれた男が身体を少しずつ壊されていく。
それから視線を外して、シロはえっちらおっちら腕の中で首を動かした。身体が無く、生首のみなので、どうにもこうにも動きづらい。
それでもどうにか、井戸の中を見下ろしている首無しの身体を見上げる事ができた。赤い唇を尖らせて、呼びかける。
「年増、年増。おい、年増」
「んー? なんだ、可愛い俺」
すいと手が伸びて、おかっぱ頭をわしゃわしゃ撫でられた。やや手荒いそれを振り払って、シロはぷっと頬を膨らませた。
「いい加減、おれの身体を返せ。ばか。いつまで生首のままでいさせるつもりだ。ばか」
「馬鹿という方が馬鹿なんだぞ、可愛い俺。……それに」
「ふぎゅ!」
きゅ、と鼻をつままれて、シロは夜明け色の目を白黒させた。くすくす、と楽し気に笑う声が振ってくる。
「これはお前の身体じゃない。俺の身体だ」
「うるさい。いつもおれの中でぼーっとしてるくせに。だからおれの身体だ。ばか。年増。ばか」
「可愛い俺は生意気だなあ」
くつくつ笑う首無しは青い振袖を揺らして、シロの額をぴしりと弾いた。
「真白ー」
成人男性が背に跨れるほど大きな青い毛並みの狼が、お座り体勢で首の辺りをわしわしかき回しながら、首無し―真白の名を呼んだ。
真白が身体ごとそちらを振り返る。シロはぷうぷう頬を膨らませっぱなしだ。
「なんだ、蒼一郎」
「返してやりゃーいいじゃねえか。いつまでも首だけじゃ、シロだってかわいそうだろ」
「ふぅん。お前、俺じゃなくて可愛い俺の味方をするのか。あーあ、親友だというのに、随分とつれない奴だなあ」
手を伸ばして、真白は蒼一郎の鼻面を指先でかく。尻尾をゆらりと振り、目を細めてそれを甘受しながら、蒼一郎は「だってよぉ」とこぼした。
「オレん中で、可愛いオレが叫ぶんだもんよ。『シロに早くかりゃだ! からだかえちて! はーやーくー!』って」
「お前は本当にアオに甘いな。お前が主人格なんだから、もっと威張っていればいいものを」
「むぎゅー!」
俺みたいにな、と笑った真白がまた鼻をつまんだので、シロはむいむいと頭を振った。
真白、蒼一郎。
人のような名を持つ彼らは人の世に混じり、人を襲うことなく生きている怪異だ。その理由としては、真白は面白いものや美味しいものを生み出す人間を襲うのはもったいないから。蒼一郎は群れから逸れた直後に人に拾われ飼われた経験から、人間を好んでいる為である。
とはいえ、人に悪意は無くても害を為さないわけではない。怪異と見破られ、異怪奉行所とやり合った事は何度もある。襲ってくる相手には二体とも容赦無く対応しており、それが余計に悪評を呼ぶ結果になっていたのだが、人の世は好きでも世の仕組みをよく分かっていなかった二体にとって、どうしてそうなるのかは分からず悩みの種であった。
そんな折に「無暗に人と争いたくないなら、怪異だとバレないくらいに無害な仮の姿でも作んなさいよー。そんくらいの力はあるでしょー?」と、出会った当初の丞幻に言われて成程と思い、作った仮の姿がシロとアオだ。
庇護欲をそそる幼い姿に人格、怪異としての力をほとんど持たない無力な器。五感は共有しているので、姿を現さずとも面白いものを楽しめる。なので真白も蒼一郎も、表に出る事は滅多に無くなった。
ならば何故、今宵は出てきているのかといえば。
「年増、年増!」
ふと、生臭い瘴気が彼らを取り巻く。そちらの方向に目を向けたシロは、ぎょっと目を見開いた。
「ん? ……ああ、上ってきたか」
逼迫したシロの叫びに真白は面倒そうに返し、井戸に向き直った。隣の蒼一郎が、小さく唸って身を低くする。
丸い井戸の縁に、青黒い指が無数にかかっていた。虫のようにうぞうぞと蠢き、井戸の中に残る身体を引っ張り上げようと指先に力を込めている。
真白がぽっかりとした井戸の中を覗き込む。その胸に抱かれたシロにも、井戸の内部がよく見えた。
死人の肌をした裸の老若男女が井戸の石壁に取り付き、ぽっかりと空いた目玉と口をこちらに向けている。先ほどまで憎き仇を千切り殺していた亡者達だ。口をぐちゃぐちゃと動かし、恨み言を月に叫んでいる。
にくい。にくい。くるしい。くるしい。つらい。うらみをはらしたのに。やつをころしたのに。きがはれない。にくしみがきえない。にくい。つらい。くるしい。しにたくなかった。どうしてこんなめに。なんでみんないきている。いきているやつがにくい。ゆるせない。ねたましい。ねたましい。ねたましい。ねたましい――。
「恨みを晴らしたら、それで満足して諸共に堕ちればいいものを。これだから堅須に堕ちた魂は」
肩をひょいとすくめた真白が、シロの頭をぽいと蒼一郎の方へ放る。くるんと視界が回って、シロはうまいこと蒼一郎の背中に乗っかった。首の断面にちくちくと短い毛が刺さって、すこしくすぐったい。
「お? だいじょぶかー、シロ。あぶねえから、そこで大人しくしてろよ」
「蒼一郎は優しいな。年増のやつ、おれをまりみたいに放り投げるなんて、許さん。絶対に丞幻に言いつけて、おやつ無しにしてやる」
頬をぱんぱんに膨らませて、シロは井戸の前に立つ真白の背を睨んだ。真白のおやつが無しという事は、五感を共有しているシロも必然的におやつ無しになるのだが、そこは気づいていないらしい。
蒼一郎の長い尾が動いて、シロの頭を優しく撫でた。
「しょーがねえだろ。堅須の奴らは、オレ達怪異にとっても危ねえんだから。なにせ、現世にいる奴らは人間だろうが怪異だろうが妬ましい、同じところに引きずり堕としたいって奴らだからなあ。倒すのはオレでもできっけど、送り返すだけなら真白が適任だろー?」
「むう」
硬い毛並みに顎を埋め、シロは不満たらたらの顔で井戸の前に立つ真白を見た。
真白はいつの間にか、子ども一人が入りそうなほど大きな瓢箪を持っていた。傷一つ無い艶やかなそれは、鮮血を固めて作られたかのような、鮮烈な赤色。白い紐が、瓢箪の口をぐるぐると何重にも縛り上げている。
「お前達に出てこられると、色々とこっちも困るんでな。仕方がないから堅須国の奥の奥まで送ってやろう。お前達が千切り殺した奴も、そこで待っているだろうさ」
細い指が紐を解き、蓋を開けた。大きな瓢箪を小脇に抱え、つい、と口を井戸の中に向ける。
途端に、井戸の縁に取りついていた亡者達が浮いた。身体が細く伸びて、ぐるぐると渦を描きながら瓢箪の口に吸いこまれていく。井戸にかじりついて抵抗する亡者もいたが、吸い込む力の方が強いようで、石に突き立った歯や爪を置き土産に瓢箪に吸い込まれていった。
「よし。後は屋敷内の瘴気を一掃してしまえば終わりだな」
井戸内の亡者達をすっかり吸い込んでしまった瓢箪を持ち直して、真白は井戸の四方を囲む壁に目を向けた。
真白達がいるのは「口」の字型に建てられたひねもす亭の中央部、中庭に位置する所であった。屋敷の壁に戸や窓は無く、屋敷内部から中庭には出入りできないようになっている。
中庭といっても広さおよそ八畳。中央に井戸があるばかりで、周囲には草一つ無く白茶けた地面と小石が転がっている。丁寧に草刈りをしている――わけではない。
井戸から絶えず這い上る微量な瘴気にあてられて、生えた傍から枯れていくのだ。
貴墨が一町、冴木。そこにかつて、深い深い井戸があった。
それが水源に続いているだけなら良かったが、その井戸はよりにもよって、陽之戸国に伝わる数多の異界の中でも一等悍ましく語られる、堅須国に繋がってしまっていた。
堅須国は、死者の堕ちる異界だ。
死した後にまともに葬られなかった者、何らかへの恨みや憎しみが強すぎて天へ上がれなかった者、あるいは己の罪業が深すぎた者。そんな者達が混然一体として現世、ひいては生者への飽くなき恨み言を叫び続けているのが堅須国だ。
そんな者達が住まう場所と、井戸とが繋がった。堅須国の亡者達は我先へと井戸へ群がった。陽の光の元、生を謳歌する者を千々に引き裂かんと、地上を目指して這い上がった。
それを抑え込む為、時の異怪奉行所が作ったのがこのひねもす亭である。まじないを施した屋敷で井戸を囲み、堅須国へ繋がる道を閉じた。
「全く。閉じるなら完璧に閉じればいいものを、時の異怪も半端なことをする。おかげで俺が苦労してるんだ」
言いながら、真白は屋敷に瓢箪の口を向けた。
屋敷全体は、黒い霧のようなものでうっすらと覆われている。井戸から這い上がってきた瘴気だ。それを次から次へと瓢箪に吸い込ませていく。
普段は屋敷のまじないによって、この井戸から堅須国へ続く道は閉ざされている。しかし時たま、道が繋がってしまう事があるのだ。
「そういう時は必ず瘴気が湧くから掃除をしないといけないし、家に今宵のような外道が乗り込んでくるし……まあ、どいつもこいつも己の業が深すぎて、俺達がなにもしなくても亡者に呼ばれて井戸に落ちていくから手間は省けるが」
あるいは、そういった外道が近くにいるから、彼らに恨みを持つ堅須国の亡者達が呼び寄せられて、這い上がってくるのかもしれない。そこら辺は真白も蒼一郎もよく分からない。丞幻なら分かるかもしれないが。
蒼一郎が不服そうな唸り声を上げた。
「でも、今夜のアイツはオレがやりたかったけどなあ。だってアイツ、真白とシロのこと苛めたし」
「諦めろ。下手に亡者の獲物に手を出すと、こっちに恨みが向くからな。全く、丞幻も矢凪もいい気なものだ。俺達がこんなに苦労して亡者を送り返してやってるというのに、遊郭で御大尽気分か」
屋敷にはびこる瘴気を吸い込み終わった瓢箪に、元の通り紐を巻き付けながら愚痴る真白。その横で、唐突に蒼一郎が噴き出した。
「……なんだ、蒼一郎」
「んー? オマエ、ほんとーに丞幻達好きなーと思って」
楽しそうに小首をかしげた狼の一言に、首無しの身体が黙り込んだ。
「……」
「愚痴言う割には、しっかりきっちり掃除しとくし。それにオマエ、毎日井戸の様子気にしてるだろ。亡者がよじ登ってきたら、すぐどうにかできるようにさー」
「うるさい」
図星を突かれてそっぽを向く真白に、蒼一郎が長い尾を振る。
「オレも好きだぞ、丞幻と矢凪。おもしれーもんな、あいつら。……いてっ」
んふふー、と笑う狼の太い前足を、真白は踏みつけた。ぐりぐり、と踵を突き刺す。
蒼一郎の言う通り、別に丞幻に、井戸が堅須国と繋がったら対処してほしいと頼まれたわけではない。これは真白達の独断だ。
蒼一郎は純粋に戦闘能力が高く、真白の持つ瓢箪は口を向けたものをどんなものでも、彼の望む場所に飛ばす事ができる。故に、井戸を這い上ってくる瘴気も亡者も、全て堅須国に送り返す事ができる。
誰に言われないでもそれをするのは、ここに住んでいる丞幻達を危険に晒さない為に他ならない。
ちなみに、丞幻は真白達のやっている事に気づいているらしい。井戸が繋がる日は何かと理由を付けて家を一晩開け、いつもより数段豪華な土産を買って帰ってくる。
それで素知らぬ顔をしているのだから、あれも中々どうして食えない奴だ。
蒼一郎の足を踏みつけながら、真白は手の中から瓢箪を消して「おい」と声を上げた。
「可愛い俺。身体を代わってやるから、こっちに」
来い、と続けようとして、先ほどから小さな自分がちっとも話に加わっていなかった事に気づく。蒼一郎が喉奥で楽しそうに笑った。
「まあ、もう夜遅いもんなー。可愛いオレも、ずっと前から寝てっぞ」
小さな生首は青い毛並みに埋もれ、すうすうと心地よさげな寝息を立てていた。
怪異名:蒼狼
危険度:乙
概要:
主に山中で家族単位の群れで暮らし、人間に化けて獲物を誘う怪異。
青い毛並みの狼が本性だが、人の姿に化ける事ができる。力が強く、徒人にも見える。
獲物は主に人間。旅人などに化けて獲物を山の奥へ奥へと誘い、狩る。群れで行動する為、一匹倒しても次々出てくる。
煙草の煙や柑橘の匂いが苦手であり、怪しいと思ったら煙草や柑橘系を勧めると良いとされる。
中には人懐こい個体もいるとされるが、そういったものは排除されるか殺されるので、滅多に見る事は無い。
怪異名:紅瓢
危険度:乙
概要:
赤い瓢箪を携えた人型の怪異。人姿は白髪の青年であり、「真白」と名乗っている。「蒼一郎」と名乗る蒼狼を連れている。
瓢箪を向けられたものは、その中に吸い込まれる。飛ばされる先は紅瓢によって決められる為、国を超える場合もあれば異界に飛ばされる場合もある。
(追記)現在、「シロ」と名乗り、「アオ」と名乗る蒼狼と共に幼子の姿で鉦白家長子の元に身を寄せている。
怪異名:ひねもす亭の堅洲井戸
危険度:甲
概要:
およそ百年ほど前に冴木に作られた井戸が、異界『堅須国』に通じたもの。堅須国の亡者が這い出てくる事態となった。
当時の異怪奉行所及び、陽之戸五大名家が一、祓家の鉦白家当主の力を以て、封じのまじないをかけた屋敷にて井戸を封じた事により事態は収束。屋敷の所有権は異怪奉行所にある。
四年前に鉦白家長子、鉦白丞幻により「面白そうだから屋敷に住んでみたい」と連絡あり。協議の結果、一月に一度異怪奉行所の同心による屋敷の点検を行わせる事を条件に許可。
鉦白家の血族が屋敷内に留まっていれば、より屋敷のまじないが強固になり封印が強化されるのが許可の理由。←長子に見鬼の才はあれど霊力無し。霊力無しでもそれは可能か調査中。
(追記)長子が怪異二体を抱え込んでいると情報あり。怪異も屋敷に住む事でまじないに影響ある可能性あり。←調査中。
『貴墨怪異覚書』より抜粋




