中
足が重い。田んぼの泥に足を取られたように、動き辛い。
「てーんまり、てーまり」「なーぜはーねる」
「おーいけのおーこいになーりたーいか」「そーれともばーったになーりたいかー」
「てーんまり、てーまり」「てーんてーんてーん」
背後から、一つの手毬歌を二つの声が歌う声が響く。夢の中の時のように重い足を懸命に動かしながら、夜志郎は背後を顧みた。
「まだ逃げるのか」「まだ逃げるようだな」
「あきらめればいいのに」「ああ、本当になあ」
「あはははは」「あはははは」
まるで夜志郎を嬲るように、笑いながらゆっくりと歩いてくる首無しの身体。それに抱かれてころころと笑う、小さな子どもの顔。
そしてそれに付き従うように、歩いてくる狼。光に照らされた毛並みは青空を染め付けたように青く、長い長い尾はゆらゆらと揺れている。その雄々しい身体は廊下一杯に広がるほど大きく、口などは人を一口で食える程にでかい。
「くっ……、ひ……!」
一生懸命足を動かして、廊下を駆ける。眼前の廊下は地の果てまで続くかのように、長く長く続いていた。
おかしい、駆けても駆けても、廊下の端に辿り着かない。先ほどまでは、これほど長くは無かったはずだ。足がひどく重い。腿がつりそうだ。だらだらと汗が背を流れ、はあはあと荒い息が吐きだされる。
「よく走れるなあ、年増」「そうだな、可愛い俺。よく走れるものだな」
「斬るも斬ったり十七人」「抱えて走るには重かろうに」
「逃げていれば助かったのに」「ここに来なければ生き永らえたのに」
「無理だな、年増。だって今日来たんだから」「そうだな、可愛い俺。今日来たのだから仕方無いな」
「あーあ」「あーあ」
訳の分からない事を口ずさみ、くふくふ、くすくす笑う生首と首無し。
「なぁ、あいつ食っていいかなあー。なぁー」
その後ろから歩いてくる青い狼が、言葉を発した。血を塗りたくったように真っ赤な口内がぬらぬら光り、低い男の声がそこから聞こえてくる。
「なぁー。食っていいかなあ。なぁー」
狼の喉奥から雷鳴のような唸り声が流れ出て、夜志郎に絡みついた。
ひっ、ひっ、と荒い息を漏らし、目に汗が入り込んで痛むのも構わず、夜志郎は足をがむしゃらに動かした。心臓が裂けんばかりに痛い。喉の奥に血の味がする。
あれは駄目だ、あれは駄目だ。あの狼は駄目だ。
怪異、蒼狼。人の姿と狼の姿を持ち、群れで人を襲い食う。山によく出る怪異だ。峠道を旅していた時に、遠目からあの蒼い毛並みの群れを見かけたことがある。旅装姿の武士が、抜いた刀ごと胴体を真っ二つに噛み砕かれて食われていた。
己の手にある刀はただの刀。霊刀でもなんでもない。野生の狼ならばともかく、あれほど巨大な怪異、斬りつけた所で傷が付こうはずもない。
「そうだなあ」「そうだなあ」
「もういいか?」「もういいか?」
「いいかな年増」「いいだろうなあ可愛い俺」
「じゃあ」「じゃあ」
「襲っていいぞ、蒼一郎」「襲っていいぞ、蒼一郎」
蒼い瞳が、ぎらりと光る。
「やったあ」
感情のこもらない声が、狼の口腔から響いた。つんのめりそうになりながらも、背後を振り返る。
「真白の首を飛ばして、シロの頭を切ろうとして……その分二回。一噛みどころじゃ、すまさねぇからな」
狼の口が裂けんばかりに割れる。笑ったのだ、と夜志郎は直感した。
嬉しそうに尾が揺れて、狼が首無しの身体を飛び越えた。ちゃっちゃ、と爪音を廊下に響かせながら、一歩、二歩と夜志郎に近づいてくる。
べろり、と狼が舌なめずりをした。夜志郎は喉奥で呻き声を上げた。刀を持つ手が、ぶるぶる震えて取り落としそうになる。背骨が氷に変わったかのように、ぞっ、と総毛だつ。
ぐ、と太い前足に力が入り、狼の上体が僅かに沈む。その瞬間。
「こちらへ……!」
右横の戸が音も無く開いて、夜志郎はその中に引っ張り込まれた。
「大丈夫ですか、お侍の人」
「あ、ああ……」
肺の病にかかったように、荒い息が次から次へと口から飛び出る。激しく肩を上下させながら、己の肘の辺りを掴む人影を見た。
漆黒の闇の中、ぼう……と浮かび上がっていたのは女だった。首筋から色香が匂い立つ、艶やかな着物姿の若い女。どこかその姿に既視感はあるが、どこで見た事があるかは分からなかった。
「しぃ」
唇に人差し指を当てて、女が静かに言う。
「ここは結界の中。あの狼共には見つかりません。どうか落ち着いて、息を落ち着かせてくださいませ」
「なに、そうなのか……?」
背後を振り向くと、そこには閉じられた板戸があった。外からはちゃっちゃ、と足音が聞こえる。気になって板戸を細く細く開けると、明るい廊下の中をうろつく青い毛並みが見えた。
咄嗟に、息を詰めて身を固くする。
「あれぇ、どこ行ったあ?」
「ばか、見逃したのか」「阿呆、見逃したのか」
不思議そうな狼の声と、それを咎める二つの声。どうやら、本当にこちらには気づいていないようだ。安堵の息がほう、と漏れる。
そうして改めて、まだ肘を掴んだままの女を見下ろした。
「助かった。そなたは、私の命の恩人だ」
「いいえ。私もここに迷い込んで、あの狼に食われそうになりまして」
「そうであったか。それは難儀な事であったろう」
「いえ……お侍様が来てくれたので、心細さも無くなって……」
夜志郎の肘の辺りをやんわりと握って、女は伏し目がちのまま安堵したような息を零す。
人が一人いるというのは、それだけでも安心材料になる。少し落ち着いた夜志郎は息を整えつつ、周囲を見渡した。
無明の暗闇とはこういう事を言うのだろう。そう思うほどに真っ暗な部屋だった。奥行きがどれほどあるのか、室内に何があるのか、それすら分からない。刀を持つ己の手すら、目の前にかざしてみても見えない。それほどまでに暗かった。
「ああ……本当に、来てくださって助かりました……」
ぎゅう……。女が夜志郎の肘を強く握りしめた。白魚のような生白い指が、仄かに燐光を放っているかのように闇に浮き上がっている。
――馬鹿な。
夜志郎は愕然とした。明かり一つ無い暗闇の中、なぜこの女だけが見えるのだ。闇は深く、ちっとも目が慣れる気配が無いというのに、女の右の首元にある黒子までが、はっきりと見える。
「あ……っ」
突如、雷鳴が頭を駆け抜けて、夜志郎の目が見開かれた。
思い出した。思い出した。この女は、かつて街道で斬った女だ。旅をしながら身体を売る女だった。誘ってくるので買い、茂みの奥に入った所で口を塞いで首を斬った。切断面のすぐ上に黒子があり、それがひどく艶めいて興奮したのを覚えている。
記憶の中にある女と、眼前にいる女の顔はぴったりと一致していた。
「思い出していただけましたか、お侍様……」
にまあ、と女の唇が歪んだ笑みを形作った。夜志郎は半ば恐慌状態で肘を掴む腕を振り払おうとしたが、ますます爪を立てて強く握りしめられる。ならばと、刀を振り上げようとした腕が何者かに掴まれた。
咄嗟にそちらを見ると、そこには同じく燐光を発する老爺がいた。枯れ枝のような細い両腕で、夜志郎の太い腕をしっかと押さえ込んでいる。
「この日をどれほど待った事か……嬉しや……嬉しや……」
「はっ、はなっ、離せ!」
こけた頬を引きつらせるように笑う老爺を振りほどこうとするが、老いさらばえたとは思えぬ力でしがみ付かれ、どうにもこうにも動けない。
「ああ……嬉しい……嬉しい……」「ようやく見てくれた、ようやく聞いてくれた、ようやく触る事ができた」「この家のおかげ、この家のおかげ……」「ああ憎らしや……恨めしや……」「首が痛いよ……痛い……痛い痛い痛い……」
男の声が、女の声が、老人の、子どもの声が室内に次々と響く。その度に、ぼう……っ、ぼう……っと燐光を放つ人影が現れて、夜志郎の足に、胴に、首に手足を絡ませた。
じっとりとした冷たい皮膚が貼りつき、ぶわりと鳥肌が立った。
「ひい……、っ……!?」
口にすら手が這いあがり、悲鳴を封じる。
右の瞼に冷たい指がかかって、みぢり、と指先に力がこもった。まさか、と思う間もなく指が眼窩に潜り込んだ。
「……――――!!」
氷のような指に目玉をぐちゃりぐちゃり、かき回され激痛が走る。喉から絶叫が迸ったが、塞がれた口からはくぐもった声しか上がらなかった。
「嬉しや……嬉しや……」「憎や……憎や……」「口惜しや……口惜しや……」
嬉しそうな恨み言と共に、みぢみぢみぢ、と潜り込んだ手が頭皮ごと髪を引き千切る。ぎちぎち、と頬にかかった指が肉に食い込んで血を流させる。手に、足に、胴に絡む手が万力のように力を増して皮を裂き、肉に食い込む。
もはやどこが痛くて、どこが痛くないのか夜志郎には分からない。残った左目からは滂沱と涙があふれ、鼻水も涎も垂らしてひぃ、ひぃと激痛に喘ぐ。
「あーあ」「あーあ」
頭上から、声が降って来た。夜志郎に絡む人々が、一斉に顔を上向けた。つられて夜志郎も顔を上げる。
ぽっかりとした丸穴が、遥か頭上に空いていた。白い半月が、雲の無い夜空に浮いている。それを背景にして、あの首無しがこちらを覗き込むようにしていた。涙で曇った視界は明瞭ではないが、胸元には恐らく子どもの頭が抱かれているのだろう。
くふくふ、くすくす。鈴のような声と落ち着いた声が笑う。
「こんな所にいたぞ、年増」「こんな所にいたな、可愛い俺」
「まあ、あれだけ抱えていたんだ。連れてもいかれるな」「そうだな。井戸に落ちるのも当たり前の事だ」
井戸。そう言われてようやく、夜志郎は己が井戸の中にいる事に気が付いた。白々とした月光が、四方を囲む苔むした石を照らし出す。
「あーあ」「あーあ」
「可哀そうになあ、年増。あんな所に堕ちるなんて」「そうだな、可愛い俺。そうだ、一つ教えてやろうか」
「教えてやるのか。優しいな、年増」「当たり前だ、俺は優しい怪異だからな。聞こえているか、侍。その井戸の底に待つのは、堅須国。住み心地は悪いが、慣れれば快適かもしれないぞ」
「ぁ……げ……ぐ……」
激痛のあまり耳鳴りがしている。ゆやんゆやんと音が歪んで、青年の声も上手く聞こえない。
「おい。年増、年増」「なんだ、可愛い俺」
「もう聞こえてないぞ」「ふうん。人斬りの割に、弱い男だな」
くふくふ、くすくす。笑う首無しの隣に、大きな青い鼻面がひょっこりと顔を覗かせた。
「オマエら、まだやってたんか? あんまし嬲って遊ぶなよ。かわいそうだろー」
「蒼一郎は優しいな、年増」「ああ、優しいな。可愛い俺」
「おれ達がやってるんじゃないぞ、蒼一郎」「奴の業の深さが自分を追い込んでいるだけだ、蒼一郎」
「それに、もう終わる」「ああ、もう終わる」
「んー……ならいいんだけどよぉ……」
きちきち、きちきち、関節を鳴らしながら、残った左目の視界に何本もの指が映り込んだ。蜘蛛のように蠢く指が、ゆっくり、ゆっくり、焦れったくなるほどの速度で、目に近づいてくる。
何をされるのか悟って、夜志郎は喉の奥でくぐもった悲鳴を上げた。股の間を、血か尿か、よく分からない生温かなものが伝う。遮二無二暴れようとも、絡む手足は引き剥がせない。
「待ちも待ったり、この時を……」「この家のおかげ……この井戸のおかげ……有難や、有難や……」「恨みを、憎しみを、痛みを……」「ああ嬉しや……嬉しやなあ……」
耳朶に代わる代わる、嬉しそうな声が吹き込まれる。吹き付ける吐息は湿った墓土の臭いがした。
そうして。
ぐぢゅり、と熟れた果実を潰すような音がして。夜志郎の視界は真っ暗に塗り潰された。
「あーあ」「あーあ」
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