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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
禍家:ひねもす亭

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32/193

 細く細く開いた戸の隙間から、生白い手が突き出していた。


「――そう、怯えずに。入ってくればいいだろう、取って食いはしないから」


 くすくすくす。微かな笑声と共に手が揺らめく。

 おいで、おいで。おいで、おいで。楽しそうに、声は繰り返した。


〇 ● 〇


 厚い雲が月明かりを隠し、己の手すら見えない夜闇であった。

 ――ひねもす亭。

 玻璃竹提灯の光に照らされて、太い文字が看板に踊っている。


「……ひねもす亭」


 手に下げた提灯で看板を照らし、夜志郎(よしろう)は低く呟いた。目深に被った編み笠を少し上げ、蛇のように細い瞳で改めて眼前の屋敷を見上げる。

 平屋建てだが、旅籠か料亭のように大きな屋敷であった。『ひねもす亭』と書かれた看板が掲げられた下にある戸はぴっちりと閉ざされ、暖簾などはかかっていない。

 戸の両側には玻璃竹行燈が置かれていたが、どちらも覆いを被せられている。その為、明かりは己の持つ提灯しか存在しなかった。


「……旅籠(はたご)だろうか」


 だが旅籠にしては、場所がおかしい。

 夜志郎は背後を振り返る。そこには、崖にも見える急勾配の細い上り坂があった。坂の両側には竹林があり、重くしなった先端が屋根のように頭上に被さっている。

 屋敷は、細い下り坂のどん詰まりに存在していた。

 また屋敷に向き直り、夜志郎は静かに首をかたむける。

 こんな所に旅籠があるとは、誰も思うまい。夜志郎自身、道に迷って試しに坂を下りてみた所、この屋敷に辿り着いたのだ。

 それなら、料亭だろうか。知る人ぞ知る、隠れた名店なのだろうか。だとしたら、このような辺鄙な所にあっても頷けるが。

 だいぶ涼しさを含んだ夜風に吹かれながら、夜志郎がしげしげと看板を見上げていると。


「――誰か、そこにいるのか?」


 ぴっちりと閉ざされた戸の向こうから、声が聞こえてきた。まだ若い、男の声だ。

 夜志郎は一瞬、息を詰めた。人がいるとは思わなかった。腰に佩いた刀の柄に、思わず手がかかる。


「誰だ、物盗りか? うちに盗むものなんぞ、これっぽちも無いんだがなあ」


 くすくす、と声の主が笑う。

 刀の柄に手を置いたまま、夜志郎は声に答えた。


「旅の者だ。道に迷って、難儀をしている。できれば一晩泊めてはもらえないだろうか」

「ふぅん、旅人かあ。夜も更けた中、それは難儀な事だろうな」


 戸の向こうで、心張棒を外す音がする。少しして、手首が入るくらいの隙間が開いた。そこから見えた奥は、夜闇に勝るとも劣らない程に深々とした闇で塗りこめられていた。


「まぁ、入るといい」


 ぬぅ、と隙間から生白い手が突き出てきた。提灯の明かりに照らされて、細い爪先に塗られた紅がぬらりと光る。

 夜志郎は、ぎょっとして一歩後じさりした。暗い室内から、楽しそうな男の声が響いてくる。


「生憎今は掃除中だ、埃っぽいが、それでもいいなら一晩泊めてやろう」


 玻璃竹提灯の光の中で、ゆらゆらと手招くように手が動く。


「そう、怯えずに。入ってくればいいだろう、取って食いはしないから」


 おいで、おいで。おいで、おいで。楽しそうに、声は繰り返した。


「……っ」


 柄を握りしめた手のひらに、生ぬるい汗が滲んだ。

 この声の主は、もしや怪異か。自分はうっかり、怪異の住まう屋敷に辿り着いてしまったのか。


「なぁんだ。侍の形をしている癖に、随分と怖がりだな」


 くすくす、と声が楽しそうに笑って、戸がからりと開いた。夜志郎の持つ提灯の光の中に、男の姿が照らされる。思わず、夜志郎は目をみはった。

 中性的な美貌の青年だった。

 細身の身体にまとっているのは、女物の青い振袖。雲と蜻蛉(とんぼ)が刺繍され、偽の空の下で羽を大きく広げていた。

 雪のような長い白髪は結い上げられて簪や櫛がいくつも刺さっているが、ひどく乱雑だ。顔の右側に、だらりと前髪が落ちかかっている。その下に覗く瞳は、夜明けの空を閉じ込めたように橙と青が混在していた。人のものとは思えぬ白い肌の中、薄く笑みを刷いた赤い唇が艶めかしい。

 振袖をゆらりと揺らめかし、青年はもう一度こちらを手招いた。


「からかって悪かったな。そら、入るといい。酒は出せないが、茶と飯くらいは出してやろう」


 茶と飯。そう聞いた途端に、夜志郎の腹が鳴った。思わずそこを押さえる。思えば今日は一日歩きどおしで、ロクなものを口に入れていない。泊まった旅籠で握ってもらった握り飯と水を、昼に飲んだきりだった。

 緩く握った拳を口元に当てて、くく、と青年が面白そうに笑う。


「腹の虫は正直なようだな? 侍殿」


 笠を取って、夜志郎は頭を下げた。


「……面目ない。世話になる」



 中に入ってくたびれた草履を脱いでいる間に、青年が玄関内に置かれた玻璃竹行灯の覆いを取った。白い光で周囲が満たされる。

 夜志郎は提灯の中から玻璃竹を取り出し、肩から下ろした風呂敷に入れた。提灯を畳むと戸の脇に置くよう言われたので、そうする。


「こちらだ、着いてくるといい」


 見れば青年は裸足だった。ぺたりぺたりと足音を立てながら、廊下を歩きだす。

 夜志郎は一瞬だけ躊躇して、それから後に続いた。振り返ると、磨かれた廊下には薄茶色の足跡が残っている。土埃の舞う街道を長く歩いた為に、足袋はすっかり土で汚れてしまっていた。


「気にするな、どうせ今は掃除の最中だ」


 さらり、と白髪を揺らした青年が振り返り、ころころ笑う。そして廊下をまた歩き出す。

 廊下の左側には、ぴっちりと閉じた襖が等間隔に並んでいた。右側に襖は無く、玻璃竹が等間隔で壁にかけられていた。おかげで廊下が明るい。

 しかし、人の気配というものを全く感じない。


「時に主人、他に家人は? 人の気配が無いようだが……」


 刀の柄をそっと握りながら、夜志郎は先導する青年に声をかけた。


「俺はこの屋敷の主人ではないぞ。主人は今ごろ、助手と一緒に白粉の匂いでも嗅いでいるころだろうよ。……全く、俺という者がありながら、余所の女に現を抜かすとは。まあいいさ、古女房は黙って耐えるのみだ」


 こちらを振り返らぬまま、芝居がかった口調で青年が嘆く。

 ただ、その声音はひどく楽しそうだった。浮ついたような青年の様相と相まって、まるで芝居の一節をそらんじているような印象を受けた。


「では、奉公人などは」

「そんな上等なものを、あいつが雇えるわけがないだろう。つい最近、ようやく助手を一人迎え入れたくらいだ。だから今、屋敷にいるのは俺と犬一匹。ああ、寂しいなあ」


 夜志郎は鯉口を切った。


「そら、ここが……」


 襖の前で立ち止まった青年が、何事かを言いながら振り返る。

 抜き放った白刃が、玻璃竹の明かりにきらめいた。

 青年が夜明け色の目を見開くより早く、夜志郎は細首に刃を潜り込ませた。渾身の力で刀を振り抜き、青年の首を斬り飛ばす。

 くるくるっ、と独楽のように青年の頭が宙を舞った。

 長い白髪を尾のように引きながら、硬い音を立てて床に落ちる。首を失った身体はその場で少しの間立ち尽くしていたが、やがて断面から血を噴き上げながらどうと倒れた。


「ふふ……」


 含み笑いをして血()るいをし、夜志郎は刀を納めた。

 流れ続ける鮮血が青い振袖を汚してゆく。それを眺める蛇のような瞳が、段々と熱を帯びていった。下腹が、かぁッと熱くなる。射精にも似たぞくぞくとした快感が背骨を駆け抜け、夜志郎は我知らず喜悦の笑みを浮かべていた。

 男は、人斬りであった。

 通称を“断ち首”の夜志郎。元は貴墨の上に接する松伸国(まつののくに)にて真面目に剣術道場に通う青年であったが、居酒屋で酔漢と争いになった際にそれを斬り殺してしまい、人斬りに快楽を覚えてしまった。そこからは、もういけなくなった。

 追手を撒くようにふらふらと街道を旅しつつ、斬りたいと思った時に人を斬る。殺した者から路銀を奪い、貴墨に流れてきた。

 特に夜志郎が好んだのは、首を一太刀で斬り落とす事である。一瞬で命を刈り取るあの瞬間が、一等好きだった。

 己の死を理解せず、きょとりと目を見開いたままの生首。そしてそれを成したのが己だと思うと、どうにもこうにも催してきてたまらない。時には挨拶しようと笑顔を浮かべたまま死んだ娘の顔に、欲を吐き出したこともある。


「ああ……これだから、人斬りは止められぬ」


 腹に溜まってゆく悦楽に唇を歪めながら、夜志郎は青年の死骸を跨ぎ越した。

 さてこの男は、どれほど間抜けた死に顔を晒しているだろうか。少し離れた所に転がっている頭に手を伸ばそうとして、


「――は?」


 夜志郎の唇から、唖然とした呟きが漏れた。

 明るい廊下に、右耳を床に着けてこちらに後頭部を向けるような形で、生首が転がっている。

 ()()()()()()()()

 雪のような白髪の、おかっぱ頭の子どもの首だ。先に切り飛ばした青年の生首など、どこにも見えない。そこにあるのは、大人の首より一回りも二回りも小さい、子どもの首だった。

 腰をかがめ、片手を伸ばした不格好な姿勢で固まった夜志郎の指の先。小さな生首が、唐突にぐりんっ、とこちらを向いた。

 真っすぐにこちらを見つめる、大きな丸い瞳には夜明けが閉じ込められている。あの青年の瞳と同じ色だ。


「あーあ」


 かぱり、と赤い唇が開かれる。鈴を転がすような、高い子どもの声が響いた。


「あーあ」


 もう一度、子どもが声を上げる。

 夜志郎は咄嗟に、刀を抜き放ち大上段に振り上げた。


「ぬんっ!」


 内心の動揺と恐怖を押し隠すように、気合の声を上げて子どもの頭目掛けて振り下ろす。がつん、と切っ先が床にめり込んだ。

 床に転がっていたはずの、子どもの頭が無い。

 直後。


「あーあ」「あーあ」


 背後から、高い声と低い声とが続けて響いた。刀を手に振り返り、夜志郎は「ぃいっ!?」と喉から奇妙な声を上げた。

 腰の辺りの力がふぅっ……と抜けて、思わず廊下に尻餅をつく。


「あーあ」「あーあ」


 首の無い青年の死体がゆらりと立ち上がって、こちらを向いていた。首が無いのに、どこからか声だけが響く。


「あーあ」「あーあ」


 見上げる夜志郎の前で、血の一滴も付いていない青い振袖がふぅわりと揺れた。胸の前では、先ほど夜志郎が斬ろうとしたおかっぱの子どもの首が、大事そうに両手で抱きかかえられている。

 いつの間に、なぜ、どうして、なにが。混乱する夜志郎の耳に、くふくふ、くすくす、二つの笑い声が染み込む。


「あーあ」「あーあ」

「やしきに入らなければ助かったのに」「斬りさえしなければ見逃したのに」

「ばかな奴だなあ、おれを斬るなんて」「馬鹿な奴だなあ、ここに入るなんて」

「あーあ」「あーあ」


 子どもの声と、青年の声とが交互に響く。ひどく愉しそうに、二対の夜明けの瞳が半月状に細められた。


「ぶちょうほうものは、どうしようか」「狼藉者は、どうしようか」

「皮をはいで、しきものにしようか」「手足を()いで、塩漬けにしようか」

「それもいい」「それもいい」


 くふくふ、くすくす。くふくふ、くすくす。

 夜志郎は尻餅をついたまま、呆然と目の前の光景を見るしかできない。頭の中に二つの声が響き渡るだけで、物を考える事ができないのだ。

 凍り付いたように見開かれた夜志郎の瞳に映る子どもの首が、ふと何かに気づいたような顔をした。


「あーあ。だめだな、年増」「あーあ。駄目だな、可愛い俺」

「ぶちょうほうものは、狼の餌だ」「狼藉者は、狼の餌だ」

「あーあ」「あーあ」


 子どもの生首と、青年の首無し身体が同時にため息を吐く。

 ぐるるる……。

 背後から、腹に響くような重低音の唸り声が響いた。はあぁ……と、生暖かい吐息が首筋に吹き付ける。


「あ……あ……」


 がたがたと、いつの間にか身体が恐怖で震えていた。

 得体のしれないものに対する、訳の分からない恐怖ではない。それはもっと現実的な、生死に直結する生々しい恐怖だ。

 ――食われる。

 玻璃竹の光に照らされて、夜志郎に被さるように巨大な狼の影が、廊下に長く伸びていた。

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