中
「あー……狭いしあっついわー……」
手を動かして己を仰ぎながら、丞幻はげんなりと酒気のこもった息を吐いた。
ここは遊郭の中でも客の入れない最奥だ。裏庭に面した外廊下の横に、禿部屋が幾つか連なっている。丞幻達がいるのはその一番奥、壁際の物置部屋だった。
本来であれば床入りの時刻なのであるが、矢凪と示し合わせてこっそりと布団から抜け出してきたのである。
目的は当然、あのあかねという禿の語った、頭の異様に小さい女を見る為だ。白粉をはたいた猫よりも、瘴気をまとった怪異の方が好みな丞幻であった。
「……しっかしお前、よくこんな部屋あるって知ってたわねー」
丞幻はひそひそと呟く。物置に隠れよう、と提案したのは矢凪だった。
当初は、禿部屋が庭に面しているというので庭に潜む気だった。だが「この辺なら物置の一つくれぇあんだろ」という矢凪の一言で探した所、最奥の板戸の先が物置になっていたのでこれ幸いと潜んだのである。
しかし狭い。四畳ほどの物置には、つづらや木箱が所狭しと詰め込まれていて、余計そう感じる。手近な木箱の上に腰かけ長い手足を極限まで折り曲げても、反対側に座る矢凪の膝に膝がぶつかった。
明かりとして持ってきた人差し指程の玻璃竹をくるくる回しながら、矢凪はふん、と鼻を鳴らした。
「遊郭ってなぁ、客に華やかな夢ぇ魅せる為に苦心してんだ。花びらに土が付いてりゃぁ、興覚めだろうがよ」
「まぁ、確かにそうだわね」
「だぁら、こういう物置なんぞは客に見えねぇようにして、奥の奥に隠しておくんだよ。まあ、よく間夫が隠れてっから見回りは多いけどよぉ、今の時間は客の廻しで忙しいし、大丈夫だろうさ」
ふむふむと丞幻は納得して頷いた。そして、先ほどからの疑問を口にする。
「さっきもお座敷で率先して動いてたしー、お前もしかして、遊郭で働いてた事あったのん?」
「まぁ、ちっと昔にな」
「ちっと昔ってどんくらいよ」
「あー……三十年、くれぇ前か。雑用やらそこら辺だけどな」
天井に目線を向け、しばし唸った末に答える矢凪。
つい先日、煮売り屋で夕餉を食べながらの雑談で発覚したのだが。この矢凪という男、見た目こそ二十歳前後の外見をしているが、その実年齢はゆうに百と五十を越しているのだそうだ。生餌に寿命は無いに等しいと聞いた事はあるが、よもや若い姿のままで長く生きるとは思わなかった。
そしてそれを聞いた瞬間、丞幻に怪異『ネタ寄こせ』が降臨したのは言うまでもない。
ここ数百年の歴史を紐解くだけで、陽之戸を揺るがす大事件はざっと五、六ほどもあるのだ。百五十年の年月を生きているというなら、そんな大事件を目にした可能性が高いという事で。当時の文献を引っ張り出すより、生き証人に聞いた方がより詳細な事実が分かる。
と、いう訳で夕餉の席で根掘り葉掘り聞いた所。某城主と花魁の心中事件やら、陽之戸全土に衝撃の走った暗殺事件などにおける、当時の人間しか知らない話をたんと聞けて、大満足の丞幻なのであった。
まあ、それはおいておくとして。
「そういや、俺がいたとこでも似たような話ぁあったな」
狭い物置に男二人は流石に暑い。少し戸を開けようかと考えていた丞幻の耳に、矢凪のぽつりとした声が忍び入った。
「ん?」
記憶をさらうように、ゆっくりと言葉が紡がれる。
「頭の小せぇ女が、鳴きながら廊下を歩く。見つかると追いかけられるから、早く寝ちまえってな」
だから、禿のちび共が怖くて眠れねぇって騒ぎっぱなしでよぉ。子守歌の一つでも歌って、寝かしつけてやらねぇと寝やしねぇ。んっとに面倒だった。
丞幻同様、長い手足を折り畳んでいる矢凪は、立てた膝の上に器用に頬杖をついてぶつぶつと呟いた。後半はもはや愚痴である。
ふむん、と丞幻は口髭を撫でつけた。ほんっとーに、こいつ子どもに甘いな、と思いながら。
「まぁ、赤女郎は遊郭ならどこでもいるっていうからねー。お前のいた遊郭にも、そらいるでしょーよ」
「……はぁ?」
玻璃竹に下から照らされた矢凪の顔が、不審そうに歪んだ。
「なんだって?」
「赤女郎よ、赤女郎。ワシね、名前だけは知ってんのよ。さっきほら、あかねちゃんだっけ? あの子が話した怪談に出てくる怪異。実家にある書物で読んだ事あんの。不滅の怪異、なーんて書かれてんのよね」
「不滅の怪異ぃ?」
その時だった。
薄っぺらな板戸一枚隔てた先で、ふわりと気配が生じた。
まぁ……まぁ……。
瘴気と猫のような鳴き声が、物置の中に滑り込んでくる。二人は顔を見合わせた。出た。
物音を立てないように矢凪が立ち上がり、丞幻は四つん這いになり、板戸をゆっくりと引いた。朗々とした青い月明かりが、物置の中に滑り込んでくる。冷気を含んだ風が、火照った頬に心地良い。
頭が出るくらいの隙間を開けて、二人はそっと廊下に顔を出した。
まぁ……まぁ……。
ぞっぷりと月光に濡れそぼる、紅色の裾が見えた。
いつの間にか、こちらに背を向けた人影が、廊下に佇んでいた。
染め抜かれた白い桜が、紅色の着物に咲き誇っている。金糸銀糸で鞠と花が刺繍された帯が、柳腰を絞めつけていた。鴨居と同位置にある襟元は大きく抜かれ、ゆで卵のように生白いうなじが露わになっている。
後ろ姿だけでも分かる、匂い立つような美女である。……それがもし、完璧な人の形であったのなら、だが。
まぁ……まぁ……。
「成程ね。書物でなら読んだことはあるけど、見るのは初めてだわねー」
「……」
そっと視線を上げていき、丞幻は口の中で呟いた。その上から頭を出している矢凪は、鋭い目つきで廊下の人影を見ている。
まぁ……まぁ……。
あかねの話通り、細首の上に乗っていたのは形良い頭ではなかった。乱雑に丸められた紙のように、皺くちゃの小さな小さな頭だった。
肌の色は赤黒く、頭部には毛の一本も生えていない。赤子の頭であった。生まれたばかりの赤子の頭が、鶴のような首の上にちょんと乗っかっていた。
まぁ……まぁ……。
鳴き声――いや、泣き声はその頭から響いていた。
よくよく見れば、着物の袖から見える指先は丸々としていて小さい。まるで、がんぜない赤子の指のようだ。
まぁ、まぁと、今にも息が途絶えそうな程か細い泣き声を響かせながら、ゆっくりと赤女郎は廊下を歩いている。背を伸ばして滑るように歩くその怪異が、こちらに気づく様子は無い。
丞幻はそっと顔を戻した。木箱に腰かけ直して、ふぅと息を吐く。
「やっぱり、直接視るのと書物で読むのって印象が違うわねー。書物には『火の点いた赤子の如き泣き声』ってあったけど。あれじゃあもう鎮火寸前じゃないのよ」
「……なぁ。あらぁ、一体なんなんだ?」
「なに、って?」
振り向くと、矢凪はまだ直立して廊下に顔を出していた。声だけをこちらにかけてくる。
丞幻はことりと首をかしげた。なに、と言われても。
「赤女郎という名の怪異、っていうことじゃなくて?」
「違ぇわ、阿呆。正体だよ、正体。どうせ知ってんだろ、てめぇ」
「ああ、そゆこと。知ってるけど、あんま気分の良い話じゃないわよ」
膝の上に頬杖をついて、口を開く。
「売られた遊女の悲しみとか嘆きみたいな負の感情と、遊郭で生まれてすぐ殺された赤子の魂が結びついてできたのが、あの怪異よん。だから、遊郭以外には出てこないの、あれは。遊郭という場所に縛られてるからね」
口調だけはいつものように軽いものの、丞幻の顔に笑みは無い。
「遊女と、赤子」
「そ。だから赤女郎は不滅なのよん。一体を祓ったとしても、遊女と赤子がいる限りはまた生まれてくるもの。遊郭という遊郭全てを無くさないと、あれは祓えんわよ」
そして、それは絶対に不可能だ。
一体、何人の娘が売られた我が身の不運を悲しみ嘆き、涙を流したろう。
一体、何人の赤子が母の顔を見る前に濡れた和紙を押し付けられたろう。
「不滅の怪異とはよく言ったものだわね」
その嘆きが、悲しみが、無為に死ぬ赤子が無くならない限り、赤女郎は在り続ける。一体、二体を祓った所で、すぐに怪異は生まれる。故にこそ、赤女郎は不滅と称されるのである。
まぁ……まぁ……。
いもしない母を求めて泣く声が響く。
わけを知れば、これほどに悲しい声も無い。
「……そうかよ」
幾分か沈んだ声が響いた。睨むように見つめていた壁から視線を引き剥がして、矢凪を見る。
彼はまだ、廊下から顔を出して赤女郎の背を追っていた。板戸にかかった指に力がこもる。
表舞台で華やかに笑む遊女達しか知らない丞幻と違って、きっと裏で流される沢山の涙を見てきたのだろう。だからこそ、そんな彼女達が生み出したあの怪異に同情しているのだろうか。
矢凪の心情は想像する事しかできないが、多分間違っていない。
「やーなぎ、知ってる?」
内緒話でもするように口元に手を当て、ひそひそと丞幻は囁いた。ちら、と視線が一瞬だけ向けられる。
「あの赤女郎ってねえ、欲しいものを与えられれば満足するのよー」
「……あ?」
どういうことだ、と唸る声を無視して、丞幻は続けた。
「赤女郎はね、愛されたいの。あれの元になった遊女も赤子も、その根っこにあるのは『誰かに慈しんでほしい』っていう気持ちなのよん」
恨むのも、嘆くのも、泣くのも、親に捨てられたと思う為。抱きしめる手も、慈しみの言葉も奪われた娘が、赤子が、嘆いて嘆いて嘆き抜いた末に、赤女郎は生まれる。
そして子守歌は、我が子を慈しむ心から生まれたものだ。
「だからねえ、子守歌の一つでも歌ってやれば、あれは満足して消えてくの。……たった一回歌ってもらっただけで満足するってのも、かわいそうな話だけどね」
「子守歌」
言葉を反芻した矢凪が、戸をもう少し開けて廊下へと身を滑らせた。丞幻はまた四つん這いになって、顔だけを廊下に出す。赤女郎は、既に廊下の端へと到達していた。
廊下に胡坐をかいた矢凪が、すぅ……と小さく息を吸いこんだ。
「おい」
そのまま廊下の角を曲がろうとする細い背に、密やかな声は届いたようだった。
まぁ……まぁ……と泣く声が、止む。ゆっくりと、赤女郎が振り返る。月明かりに、怪異の顔が照らされた。
皺くちゃな赤い顔に、細い切れ込みのような閉じた目。ふにゃふにゃの口はぽっかりと開いて涎を流し、額の部分に和毛が生えている。
「寝れねぇなら、子守歌ぁ歌ってやっから。こっち来い」
まぁ……まぁ……。
言葉が通じているのかどうかは分からないが、赤女郎が滑るように矢凪の元へやって来た。ぽん、と己の腿を軽く叩くと、怪異は素直にそこに赤子の頭を預けた。丞幻の方を向いて胎児のように身体を丸め、横たわる。艶やかな赤い着物が、扇のように廊下へ広がった。
「……」
とん、とん、とあやすように背を叩きながら、矢凪が子守歌を紡ぎ出した。密やかな低い声が、夜気を震わせる。
くしゃくしゃに歪んでいた赤女郎の顔が、ふと緩んだ。とん、とん、と節に合わせて背を叩かれる度に、穏やかに眦を下げていくのが、丞幻の所からはよく見えた。
最後の一節を歌い終わった矢凪が、壊れ物でも扱うような手つきで赤子の頭を撫でる。
きゃぁ……っ。
嬉しそうな笑い声を一つあげて、赤女郎の身体が春の雪解けのようにみるみる溶けた。鮮やかな模様の着物の端が消えるのを見届けて、どちらともなく息を吐いた。
「……これでいいのか」
「いいのよん。少なくとも、あの子は満足して消えたでしょ」
「そうかよ」
怪異が頭を預けていた場所を一つ撫でてから、矢凪がこちらを振り向いた。唇を吊り上げて、皮肉気な笑みを形作る。
「てめぇ、案外良い奴だぁな」
「お前にだけは言われたくないわよ、ワシ」
「あぁ?」
訳が分からない、と言いたげに片眉を跳ね上げる助手に肩をすくめて、丞幻は物置からごそごそと這い出た。
甘い乳の香りが、涼しくなってきた長月の風に吹かれて消えた。
〇 ● 〇
ねんねこ、ねんねこ、ねんころり。
寝ん子、寝ん子に、なにあげよ。
お空の白雲を、引っ張って、お前の寝床に、しつらえよ。
それでも寝ん子に、なにあげよ。
お山のお花を、つんできて、お前の寝床に、しつらえよ。
それでも寝ん子に、なにあげよ。
母がお前の寝床になって、歌を歌って、あげようよ。
ねんねこ、ねんねこ、ねんころり。
〇 ● 〇
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