三
「うー?」
なあに、どうしたの? と言わんばかりにアオは眼を瞬かせた。
つぶらな丸い目、短い体毛に包まれた姿。まるで小型の犬のようで愛くるしいが、すっと伸びた鼻筋や骨太の手足は、間違いなく狼のそれである。夏の青空を染め付けたような鮮やかな青い毛並みと瞳が、玻璃竹の光でつやつやと輝いていた。
「ありがとごじゃますー、こんなすてきなものをいただいて」
舌足らずな幼い少年の声が、青い狼の口から放たれた。自分の身体より長い尾が、千切れんばかりに振りたくられている。
シロと共にいたもう一体の怪異というのが、このアオだ。見た目だけなら可愛らしい子狼なのだが、人に化けて獲物を山奥に誘い込み、群れで襲い掛かる狂暴な怪異である。
最も、幼い頃に群れから逸れたというアオの性質は至って穏和で人懐こいので、それに当てはまる事は無いのだが。
「アオちゃんアオちゃん、それはね、アオちゃんのご飯じゃないのよ? だからね、食べちゃ駄目なのよ、分かる? めーよ、めっ」
「でも、おみゃーげでしょ?」
「お土産じゃないのよー、それは。それ地下牢執筆頑張ったワシへのご褒美で、アオちゃんのじゃないの。アオちゃんにも豆大福買ってきたから、こっちにしなさいねー」
「やーや! こっちがいーの! こっち!」
……当てはまる事は無かった筈だが。
なぜ今日に限って初対面の相手に噛みついて、「こっちがいい!」と叫ぶのか。急に人を襲う怪異としての本性に目覚めたとでもいうのか。それとも腹ぺこが極まって、男が巨大生姜焼きにでも見えているのか。
食い込んだ牙が今にも皮膚を突き破りそうで、丞幻は眉を寄せた。
アオは小さいが力が強い。あと少し力を込めれば、豆腐のように男の首が噛み裂かれるだろう。かといって、無理に引き剥がそうとすれば抵抗してますます牙を突き立てかねない。
折角のネタ、もとい男の命が危険だ。それはまずい。非常にまずい。
「ほーら、生地はもちもちお豆はふっくら、餡子の甘さは控えめの憎い奴よー。アオの為に一番大きなのを包んでもらったのよー。ほらほら、そっちは離してこっちをお食べ。美味しいわよー」
しゃがみこんだまま、舌をちっちっちと鳴らす。懐から紙包みを出して見せると、青い瞳がちらと向けられた。興味はあるようだ。
それを聞いたシロが、「おれのは特別じゃないのか!?」と言いたげに紙包みと丞幻とに交互に視線を向けているが、背中を向けている彼は気づいていない。
「うー……」
「豆大福は嫌? そいじゃあねえ、練り切りも付けちゃうわよん。こっちは茂松屋の奴。桔梗の形してるから綺麗よー? 中の餡子は白餡だけど、夏柚子の皮が入ってるからさっぱりしてて美味しいわよっぶ!?」
急に後頭部に衝撃が走った。頭を押さえて振り向く。瓢箪柄の毬がてんてんと床を転がっていく所だった。
視線を走らせると、「なんでおれにはそれが無いんだ」と言いたげな視線を向けてきているシロが目に入った。
「……シロちゃん?」
「……」
目は口程に物を言う。
朝焼けを閉じ込めた瞳が半眼になり、恨みがましい視線がぶすぶすと丞幻に突き刺さった。
「ちゃんとシロちゃんにもあげようと思ってたからねー、大丈夫大丈夫。仲間はずれにはしてないからねー」
「そんな心配はしてない。おれはアオよりお兄さんだから、別に一つでもだいじょぶだ」
言葉とは裏腹にほっぺたを膨らませているシロである。丞幻は懐からもう一つ紙包みを取り出して、シロの持つ豆大福の包みの上に乗せた。ついでに足元の毬を転がしてやる。
「本当はねー、アオちゃんが起きてから渡そうと思ってたの。桔梗と向日葵だったからねえ、好きな方選んでもらおうと思ったのよん」
「そか。おれはひまわりの方が好きだから、こっちでいい」
ご機嫌は直ったようで、途端に赤い唇がにっこりと弧を描いた。
「ほらアオちゃん、シロちゃんはこっちがいいって。アオちゃんも一緒に大福と練り切り食べよーねー。今なら美味しい林檎のお茶も付いてるわよーん」
「やー! おいしいにおいがすぅの、こっちのがいいの! オレこっちのすき!」
鼻面に皺を寄せて、ぶんぶんと首を振るアオ。男の肩にかかった前足に力が入って、着物が爪の形に裂けていくのが見えた。
駄目だ、全然離してくれない。どころか、今にも首筋を噛み裂きそうだ。しょうがない、と丞幻は腰に手を伸ばした。
帯には革製の煙草入れが下がっている。アオは煙草の臭いが嫌いだ。これを投げつければ、流石に嫌がって口を離すだろう。その隙に男をこちらに引き寄せ確保。うむ、完璧な案だ。
丞幻が煙草入れを掴むのと、男の右手が勢いよく跳ね上がったのは同時だった。
「……うるっせぇ! 人の上でぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん騒ぎやがって!」
「ぎゃん!」
馬乗りになっていたアオの首を掴んで引き剥がし床に叩きつけ、腹に響くような声で男が吼えた。びりびりと床が振動する。
ぴゃっと飛び上がったシロが、廊下の奥へ駆け逃げて行く。急に叫んだので驚いたらしい。それを横目で見送って、丞幻は小さく呟いた。
「……あらまあ」
つい半時前まで、土に埋められていたとは思えないほど元気だ。牙を剥きだした男の口からは、狼も真っ青の凶悪な唸り声が漏れている。アオは短い手足をじたばたさせているが、男の力が強いのか逃れる事ができていない。
「こちとら蘇ったばっかで腹ァ減ってんだよ! てめぇ犬鍋にして食って……あ?」
そこでようやく周囲の様子に気が付いたのか、男は言葉を切って顔を上げた。右に、左に薄茶色の頭髪に包まれた頭が揺れる。
最後に近くにしゃがんでいる丞幻に、射抜くような視線が向けられた。
「……誰だ、てめぇ」
「お前の命の恩人よー。とりあえず、その子離してくれるかしらん?」
濡らした手拭で身体中を拭いて汗や汚れを落とし、新しい着流しに着替えると、ひどくさっぱりした。
とりあえず、と話の場を客間に移す。ちなみにシロとアオは自分達の部屋に戻っている。今ごろお土産を食べている事だろう。アオは「やーや! そっちがいい!」と散々ごねていたが、備蓄してあった秘蔵の醤油煎餅も付けてやったら渋々部屋に戻っていった。最後まで男に未練たらたらな視線を向けていたが。
本当に、一体なにを気に入ったのか。淹れた煎茶をずずーっ、と飲みながら考えていると、眉間に皺を深く刻んだ男が口を開いた。
「……で?」
「ん? あ、煎茶嫌いかしらん? あれだったら翠茶とか紅茶とかもあるわよん。あ、それとも花茶とかのが好き? だそっか?」
「ちげーよ」
面倒そうに、対面に胡坐をかく男が言い放った。
土汚れを落とした男は、丞幻と同年齢か、それより若いくらいの印象を受けた。襟足まで伸びた薄茶色の髪は癖が強く、毛先がぴょこぴょこと跳ねている。瞳は金色。肉食の獣のような目つきはひどく鋭いが、頬や顎の辺りはどことなく幼さを残した丸みを帯びていた。
顔の造作自体は整っているので、柔和な表情を浮かべればさぞや女達にもてるだろう。しかし眉間に皺を刻んだ仏頂面と、人を断固寄せ付けぬような威圧感が全てをぶち壊していた。
当たり前だが着物は土で汚れて着れたものではなかったので、丞幻のものを貸した。紺色に黒縦縞模様の着物が、よく似合っている。
「なんで俺を助けたか、って聞いてんだよ」
「あ、それ答える前にひとっついーい?」
「あ?」
こくっ、と可愛らしく小首をかしげてみせると、男の眉間の皺が一段と深くなった。気にせずに気になっていた事を聞く。
「お前さ、さっき蘇ったばかりって言ってたけど、どーゆーこと?」
「言葉の通りだが」
「言葉の通りってことはー、死んでたけど生き返って、土の中から這い出してきた、って事でいいのかしらん?」
「おう」
頷く男に、丞幻は目を輝かせた。
普通なら法螺話だろうと一蹴するところだが。男の態度があまりに普通で、それが逆に真実味を帯びていた。
そういえば男が脱いだ着物には、鋭いもので裂かれたような破れ目がいくつもあり、その周辺がどす黒く染まっていた。それが更に男の言葉に信憑性を持たせている。
「あらー、初めて見たわね死んで蘇った人間! ていうかなーに、どうやってそんな事ができるの? 何歳? どこ住み? 死んで蘇るって何回もできるの? だったら今まで何回死んだの?」
湯飲みを倒しながら、かさかさと四つん這いで近づき、矢継ぎ早に問いかける丞幻。それを鬱陶しそうに見やって、男は舌を鳴らした。
「るっせえ」
「ごめんねえ、つい興奮しちゃって。ワシって作家だから、面白そーな事に目が無いのよー。あー、あれよ。別にほんとかどうか確かめる為に死ねー、なんて言わないから安心してちょーだい。んで? どうやって蘇れ――」
と、言いかけた所で襟が締まった。息が詰まる。胸倉を掴まれ引き寄せられた、と気づいた時には、息がかかるほど近くに仏頂面が迫っていた。
「いやん、近いわ」
「いいからさっさと俺の質問に答えろや、ぶっ殺すぞ」
間近にある金の瞳が剣呑な光を帯びる。抜身の刃を喉元に突き付けられているような殺気が、丞幻に叩きつけられた。
常人なら即座に命乞いを始めそうな殺気に、丞幻はへらっと笑って片手を振った。「まだか、まだ書き終わらないのか〆切七日過ぎてんだぞこの屑紙作家」「あと半時で書き終わらないなら褌一丁で貴墨引き回しするからな」と背後で鉄扇片手に圧をかけてくる版元に比べれば、このくらい可愛いものである。
「生き埋めになった人間ってネタの塊みたいなもんじゃない」
「……はあ?」
「だからね、なーんであそこで生き埋めになってたか、ってのを聞きたくて連れて帰ってきたのよん。ワシってほら、作家でしょ? 新しい小説のネタを探してたのよねー。そしたらちょーどお前が落ちてたから、やだこれネタだわーと思って拾ってきたのよー」
「……はあ」
想像していた答えとは違ったのだろう。胸倉を掴む力と殺気が僅かに緩んだ。
「それだけよ、それだけー。本当に、それ以外の目的なんて、別に無いわよー」
男の手をやんわりと引き剥がし、丞幻は元の場所に戻って座り直す。乱れた襟元を軽く撫でつけて整え、金の瞳をぱちぱち瞬かせている男に快活に笑いかけた。
「まあ? 死んで蘇ったっていうなら、生き埋めっていうのは違うかもしれないけど? でもネタである事には変わらないしー。ってことで教えてちょーだいよー。なーんであんな所に埋まってたわけ?」
毒気が抜かれたのか、男は面倒そうにため息を一つ吐いて口を開いた。