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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
閑話:虫の末路と炎の女

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28/193

 〇 ● 〇


 毒茸の汁物を音も無く飲み終え、十六夜は切れ長の瞳をついと上げた。

 正面の襖前に、いつの間にか人影がある。

 黒い頭巾、目元以外を覆う口布、艶消しされた黒の手甲、長身痩躯の身体に添うような黒装束。明るい座敷の中、影法師が立ち上がったようにその人影は黒い。

 ふふ、と十六夜の艶のある唇が綻んだ。


「闇の中ならともかく、明るい中に見ると中々滑稽ですね、その恰好は」

「そう笑わんでくだせェよ、外ァすっかり宵闇だ。影がひとっつふたっつ増えた所で、誰も気にゃせんでしょうよ」

「それもそうですね。遅くまでご苦労様です、嵐さん」

「労いはありがてェんですがね、頭ァ。あんまり俺を便利屋扱いしねェで下せェな」


 男は疲れたように呟いた。口元を覆う布に指をかけて引き下ろし、頭に巻いた頭巾を取り去る。ゆるりと頭を振ると、後ろにくくった短い髪が揺れた。


「阿呆の回収に異怪奉行所への侵入に人物調査……俺が一昼夜でどんだけ走り回ったと思ってんです」


 黒髪黒目、取り立てて特徴の無い、年齢不詳の男だ。

 名を嵐。配下である忍の一人で、十六夜の懐刀とも称される男である。


「文句は昨夜、采配を考えていた私の元へ最高の間で来た己に言ってください」

「へェへェ。そうさせて貰いますよ」


 気安く頷いて、嵐は首元を擦る。椀が膳にぶつかる、微かな音が部屋に響いた。


「そういえば先ほど、廊下でなにかありましたか?」


 艶然とした微笑を浮かべる主に来るよう促され、嵐は足音無く近づいた。十六夜から見て左側に畳一つ程の距離を開け、片膝立ててうずくまる。


「なァに。阿呆がひとっつ、手下から肉に変わっただけでさァ」

「おや。……少ぅし、脅しをかけすぎましたか。あれはもう少し、長く使えると思っていたのですがね」


 ハ、と嵐は鼻で笑った。


「どうだか。ウチを乗っ取ろうという気概は結構だが、覚悟も腕も頭も足りねェ奴でしたからねェ。早いうちに同じ運命を辿っていたでしょうよ」

「それで、どうしましたか」

「肉は臭みがありそうだったんで、味噌漬けに。一月もすりゃァ、それなりに旨味が出るでしょうぜ。頭はチョンと切って、人頭酒に漬け込むように指示を。まァその前に、一緒に目々屋敷に行った連中に阿呆の首ィ見せて、『今回はコイツの首一つで許すが、次ァねェぞ』と忠告してやるつもりですがね。あの連中、今回で二度目の失敗ですからねェ」

「流石です」


 十六夜は満足気に頷いた。

 貴墨に巣食う大規模な盗人組織、無月一味。その頭である炎骨の十六夜。

 小娘にも妙齢の女性にも見える彼女は、一言で言うなら悪食である。

 それもただの悪食ではない。この世に食えぬものは無いと言わんばかりに、なんでも食べる。毒だろうと石だろうと布だろうと、人間だろうと、十六夜にとっては全てが美味しそうな食材である。

 そう、この世の全て。――無辜(むこ)の民を襲い惑わす怪異すら、彼女にとっては食材の一つでしかない。

 膳の上のものを汁一滴も残さず食べ終えて、十六夜は箸を置いた。ゆるりと首を動かして、嵐を見据える。


「で、どうでしたか」


 主語は無いが正しく意味を汲み取り、嵐は首を横に振った。女の口から落胆の吐息が漏れる。


「……でしょうね。奉行所の手にあの日記が渡った以上、既に浄化されているでしょうしね」

「あの場で二人、打ち倒して奪えれば良かったんですがねェ。……どうにも簡単に行きそうになかったんで」


 煙玉で五感を奪った相手を打ち倒す事自体は、簡単だ。だがそれをすれば、ひどく面倒な……それこそ己が連れてきた阿呆回収要員達に甚大な被害が出そうな気がした為、何もせずに撤収したのである。


「貴方の勘は信用していますが。……それにしたって、十年ですよ、十年。ゆっくり、じっくり、ことこと下拵(したごしら)えをして、今か今かと待ちわびていたというのに」

「それに合う昆布と煮干しまで、自分で選んでましたからねェ」

「当たり前でしょう。盗みはともかく食に関して、私は一切妥協する気はありませんからね。……だというのに」


 言いながら腹が立ってきたのか、十六夜の細い眉がどんどんと眉間に寄っていく。


「十年、十年……下拵えに十年かかって、あと一息だったというのに!」


 繊手が瀑布(ばくふ)のように振り下ろされた。


「武士の無念と影目を封じた日記は、さぞや良い出汁が出るだろうと楽しみにしていたんですよ!? だというのに! 浄化されただの墨と紙になった日記に、なんの価値がありますか!」


 螺鈿細工の膳が真っ二つに割れ、食器が音を立てて砕ける。歪んでもなお保たれている美貌を怒りで赤く染め、十六夜は割れた膳を鷲掴むと片膝を立てた。


「ええ、忌々しい! 怪異と無念の混ざった汁物は、どれほど味に深みがあるかと楽しみにしてたというのに!」


 怒号と共に、膳が飛ぶ。正面の襖が勢いを殺しきれず、諸共に廊下へ吹き飛んだ。派手な音を立てて襖が壁に激突する。

 怒り狂う頭を視界に収めつつ横目で廊下を確認すると、幸いにも通りかかった者はいないようだった。まァしょうがねェか、と嵐は腹の中で呟く。

 影目に憑かれた武士に間違った情報を教え、彼の書く日記を核にして怪異の力が増す術を仕掛け、武士を狂死させた。あとは怪異と武士の魂と思念を屋敷に閉じ込め、十年間熟成させる。

 そして良い頃合いで、日記に全てを封じ込める。そうする事で、怪異と武士の思念がうまい具合に混じった呪物ができるはずであった。それを食べるのを、十六夜はなにより楽しみにしていたのである。


「そも、あの盆暗(ぼんくら)共がッ!!」


 苛立たし気に爪を噛んで、十六夜が罵声を上げる。

 そもそもあの目々屋敷は十年前、無月一味が密かに買い取っていた持ち家であった。ところが一月ほど前に、複数人の手下が持ち家をいくつか売りに出したのだ。許可あっての事ではなく、無断に、である。

 元々そいつらは、盗んだ金品の幾ばくかを勝手に掠め取るような連中だった為に、わざと泳がせていた。家を売ったと嵐から報告があった時は、流石の十六夜もなんとまあ、大胆なと驚いたものだが。

 不届き者達は嵐率いる忍集団にひっ捕らえさせて昼餉になってもらい、後は売られた屋敷を買い戻せば全て解決……の筈だった。

 どの家も目々屋敷と負けず劣らずのお化け屋敷であり、早々買い手が付かないだろうと踏んでいたのだが、見通しが甘かった。よもや、目々屋敷だけを曾根崎屋が一足早く買い取っていたとは。

 予想外の事態に瞠目(どうもく)したものの、十六夜の目的はあくまで日記だ。曾根崎屋に気取られぬよう、手勢を使って日記を回収させればそれで良かった。

 それが全ておじゃんになったのだから、怒りも相当なものだろう。

 怒り狂う十六夜に、嵐はうずくまったまま声をかけた。そろそろ機嫌を直してもらわねば。料理で悪くなった機嫌を直すのは、やはり料理である。


「お頭、お頭。代わりといっちゃァなんですが、別の料理を用意させたんで。それでも食って落ち着いて下せェ」

「……別の料理、ですか」

「エ。まァ満足していただけると思いますよ」


 ナ、と嵐は正面に視線を向ける。同時に嵐から見て正面、十六夜から見て右手の襖がす、と開いた。

 一味の女が二人、畳に正座して十六夜に一礼した。二人掛かりで黒塗りの大きな膳を持って近づいて来る。ぐちゃぐちゃになった皿を手早くどけてから、持ってきた膳を十六夜の前に置いた。砕けた皿を回収し、また一礼して退室していく。

 肩で大きく息をして、十六夜は座布団に座り直した。怒りの色はまだ消えていないが、興味深そうに己の前に置かれた膳を一瞥する。


「……磯の香りがしますね。それから、大きさからして子どもの怪異ですか」


 御名答、と嵐は薄い唇を笑ませた。


藻之子(ものこ)、ってェ怪異で。三十年ほど前から墨渡(すみわたり)を中心に出回ってた奴でサァ。年季が入ってる上、人間もそこそこ食ってるんで、旨味は十分。手足は天婦羅、胴は酒蒸し、腸は肝吸いにしたそうで。頭の方は兜煮にするそうなんで、明日の昼餉にゃ間に合うそうですぜィ」

「……ふむ」


 黒塗りの椀を、生白い手が取り上げた。藻がどろりと浮いた肝吸いを一口含み、味わって飲み下し。


「成程。磯と潮……それから腐った血肉と泥ですか」


 これはまた絶品ですね、と先ほどまでの怒りを綺麗にかき消した十六夜は、満足そうに微笑んだ。


「嵐さんが仕留めたのですか?」

「エ。奉行所の帰りに見つけたんで、こりゃァ良い土産だと思って、チョイッ、と」


 チョイ、と嵐は手刀で虚空を突き刺してみせる。

 そうですかと頷いて、十六夜は箸を動かした。からっと揚がった、ふくふくした小さな手に塩を付けながら、「そういえば」と明日の天気でも話すような口調で続ける。


「調べは付きましたか」


 嵐は頷いた。


「冴木に住んでる作家とその助手、ってェ話です。作家の方が丞幻、助手の方が矢凪。今、ウチのが報告書ォまとめてまさァ」

「作家と助手……ですか。向かわせた十五人、怪我無く打ち倒すとは中々の腕の作家がいるようで」

「曾根崎屋に囲われてる作家らしいんで。まァー、癖は強ェでしょうね」


 片膝を付いたまま、嵐は器用に肩をすくめた。


「それから、そいつらの所にゃアオとシロってェ名の童が二人いるんですが。どうもそいつら、怪異のようでねェ」

「ほう」


 さくり、と指を齧り取り、十六夜は切れ長の瞳に僅かな警戒の色を灯した。


「怪異を屈服させ、式として従えている、と? どちらかが祓い屋ですか」

「作家の方は祓家(ふつけ)のモンらしいですがねェ、術者としての才能は無いらしい。なんで、ちーっとばかり違うようで。怪異を従えてるってェよりは、怪異が懐いて自分達の意思で傍にいるような感じでしたぜ。それと」


 あ、と赤い口を開けて手のひらに噛り付く十六夜を見て、嵐は一度言葉を切った。

 食事が終わってから続けた方がいいだろうか。この話題を出せば、また機嫌が悪くなる可能性がある。伺うように首をかたむけると、続けるように目で促された。口を開く。


友引娘(ともびきむすめ)、いたでしょう、お頭」

「ああ……」


 口の中のものを飲み込んだ十六夜が、苦々し気に眉を寄せた。


「あれも腹の立つ話です。折角、良いものを見つけたので育てようと思ったのが間違いでしたね」


 見つけたあの折に、すぐに収穫すれば良かった。だが、もう少し力を付ければもっと美味くなるだろうかと、力の増す呪歌を作り、子どもを中心に蔓延させた。

 すると、元々何人も襲っていた力の強い怪異だったが、呪歌のおかげで力を増した。最終的には異界を作り出し、そこに犠牲者を引き込める程に成長したのだ。


「あと少しで収穫という所で異怪に邪魔されてしまって……呪歌が少々強すぎましたね。随分と暴れたようですから」

「それがねェ、頭」

「なんです」

「その作家と助手、らしいですよ。異怪が出張る前に、友引娘ェぶっ飛ばしたの」

「ほぅ?」


 それまで、どこか事務的に報告を聞いていた十六夜の顔が、変わった。

 興味を抱いたように目を見開き、わざわざ食事を止めて嵐の方に上体を乗り出す。


「私達の事を、知って関わってきた。――と?」

「そこァ、まだうちのが鋭意調査中で。ただまァ、異怪の犬か、町奉行の犬ってェ可能性は十分あるかと。こちらに噛り付いてくる前に、寝てもらいますかィ?」

「そうですね……――――」


 白魚のような指先で顎をつまみ、しばし考え込んだ後。

 十六夜は一つの命令を口にした。彼女の懐刀は黙然と頭を下げてそれを受け取り、素早く姿を消す。

 静寂の戻った座敷内で、十六夜は何事も無かったかのように再び箸を取った。

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