終
「じょーげん、なんか落ちてるぞ」
「あらほんと。本かしらねん」
振り返って、本を拾い上げる。
少しくたびれた様子の蘇芳色の表紙には、「日記」と書かれていた。へえ、と丞幻は目を輝かせる。
「狂い死んだ武士の日記だわね、これ。なに書いてたんかしらー」
好奇心の赴くまま、表紙をめくろうとした途端だった。
ぱっ、と矢凪とアオが天井に顔を向ける。
同時に天井から黒い影が十数人下りてきて、丞幻達を素早く取り囲んだ。咄嗟に日記を胸に抱え込み、警戒心に満ちた目を眼前の黒ずくめ達に向ける。
揃いの黒い頭巾、動きやすそうな上下の黒装束、おまけに脚絆と手甲。腰に刀を佩いている者もいる。曾根崎屋の影共かと思ったが、それにしては様子がおかしい。ひりつくような殺気を、ひしひしと感じる。
「なになに急に、物騒ね。目々屋敷って、影目を退散させたら今度は人型の影法師が出てくる呪いでもかかってたってわーけ?」
あえて陽気な調子で声をかけてみるが、黒ずくめ達からの反応は無い。
丞幻は笑顔を保ったまま、器用に舌打ちした。
自分達を囲む連中は怪異ではない、人間だ。
堅気でないことは間違いないが、曾根崎屋の影ではないなら、押し込みだろうか。だが盗む価値のあるものなど、この屋敷には何も無さそうだが――と丞幻が浮かべた笑顔の裏で考えていると、一人の黒ずくめが一歩、前に出てきた。他のと比べて、体躯が一回り大きい。
「それを渡せ」
丞幻に向かって手を差し出し、居丈高に告げる。
「はあ?」
それ、と指されたのは先ほど拾った蘇芳の日記帳だ。丞幻は片眉を跳ね上げる。
「一応聞いとくけどー、渡さないって言ったらどうなるのかしらん?」
黒ずくめの間に、嘲笑が波のように広がった。
「貴様達二人なんぞ、ここの床下を五尺も掘ってちょいと埋めりゃ見つかるまい」
「へぇ、二人ねぇ……」
ちら、と背後にいるシロとアオを見る。アオを抱っこしているシロが、くふくふと楽しそうに笑った。
「こいつら、おれ達のことが視えてないらしいな。お化け屋敷に盗みに入るなら、見鬼持ちを一人連れてくるくらいはすればいいのに。ばかだなあ」
「ほんとねえ。うっかり呪われちゃったりしたら、どーするつもりなのかしらねえ」
「奉行所に駆けこむんじゃないか?」
「っふふふ、黒ずくめのまんまで? お化け屋敷に押し込んだら呪われましたって? んっふふふふ」
「おい! いい加減に」
のんびりとした様子の丞幻に、黒ずくめが怒鳴り声を上げかける。しかし最後まで言葉を続ける前に、その顔面に拳が叩き込まれた。濁った悲鳴を上げ、もんどりうつ男。
「貴様!?」「なにをする!」「おのれ、逆らうか!」
慌てた、あるいは怒りに満ちた黒ずくめの声が飛び交う中、丞幻は隣に並んだ矢凪をじろりとねめつけた。
「何してんの、矢凪」
矢凪は平然とした顔で、殴りつけた手をひらひら振った。
「素直に渡したところで、どうせ土ん中だろうさ。ならよぉ、まとめて叩きのめす」
色めき立つ侵入者達を睥睨した矢凪は、一歩前に出てぺきぺきと指の骨を鳴らした。
「てめぇは適当な所に隠れてりゃぁいいだろ。面倒だがまあ、助手らしく守ってやるよ」
「はあー? 馬鹿にしないでくれますー? 自分の身くらい自分で守れますけどー? ていうかワシかてこいつらくらい倒せますけどー?」
ちら、とこちらを見て笑う矢凪にむっとして、矢凪の横に並んだ。弱いと思われるのは心外である。これでも腕には自信があるのだ。
「殺せ、殺せぇ! 二人まとめて斬っちまえ!」
他の者達に助け起こされた黒ずくめが、鼻を押さえて不明瞭な声で吼えた。応じて、黒い影が一斉に丞幻達に飛び掛かった。
襖が吹き飛び、壁が蹴り壊される轟音が響き渡る。悲鳴と共に黒ずくめが宙を舞い、欄間に叩きつけられ、天井に突き刺さり、壁にめり込む。
喧嘩囂躁の騒ぎの中、シロとアオは邪魔にならないように部屋の隅でしゃがみ込んでいた。シロの小さくて細い指が、丞幻から渡された日記帳をぺらぺらと繰る。
「いいか、アオ。おれ達は、この日記帳を見てみるぞ。あいつらきっと、盗人に違いない。これには次のおつとめの場所が、暗号になって書かれてるんだ」
「う! まえに、おちばいで見たやちゅね! オレ、ちゃんとおぼえてうよ!」
「よしよし。えらいぞ、アオ」
名の通りに青い毛並みを撫でてやると、長い尻尾がばふばふ揺れた。膝上に乗ったアオにも見えるように、本をかたむける。
丞幻と矢凪が黒ずくめ達を掴んでは投げ、蹴り飛ばしていく横で、どこかほのぼのとした空気が流れ出す。
日記の持ち主は几帳面だったのだろう。一日三行、きっちりと達筆が並んでいる。その日に起こった些細な事が書き記されたそれは、朴訥だが温かく、日記の主の人柄が伺えた。
が、ある時から日記の様子がおかしくなり、字面も乱れたものに変わっている。
見られている。なにもいないのに視線を感じる。見るな――。
そんな言葉が乱れた筆跡で、いくつもいくつも連なっている。最後は、「目が無ければ」という言葉で終わっていた。
むむ、とシロは赤い唇を尖らせる。
「……暗号が無いぞ」
この間見た芝居では、日記の中に歌が書かれていて、それが暗号になっていた。だが、この日記にはそれが無い。
膝の上でお座りをしたアオも、首をきょとんとかしげる。
「へんねー、シロ。おうた、どこにもにゃいね」
「な。……じゃあ、なんであいつらはこの日記を狙ってるんだ」
日記から顔を上げて、シロは細い眉を不思議そうにしかめた。
眼前では、丞幻と矢凪によって次々と黒ずくめ達が沈められていく。
「ハッ! てめぇ、物書きの癖に中々使えんじゃねぇか」
牙を剥きだし、矢凪が獰猛に笑った。
大上段から振り下ろされた刀に横から蹴りを入れて砕き、呆気に取られる曲者を裏拳一発で壁にめり込ませる。畳を蹴りつけ天井近くまで跳躍。軽業師のように回転、勢いを乗せた踵落としを別の黒ずくめの脳天に叩きつける。
殴る蹴るだけでなく、腕や首に噛みつきすらするので、笑う口元にはべったり血が付いていた。
「ちょっと! ワシにまで殺気向けんのやめて! 敵と味方の区別を付けて! お前の雇い主よ、ワシ!」
突き込まれた刀を半身でかわし、脇に挟んで押さえ込み鳩尾に膝頭を蹴り込む。呻いてくずおれる黒ずくめの後ろから襲ってくるもう一人の鼻面に、丞幻は手中に仕込んだ鉄礫を飛ばしながら叫んだ。
狭い室内で、てんでばらばらに襲い掛かってくる彼らの統率は取れていない。一人一人の地力も、そこいらの破落戸に毛が生えた程度だ。
友引娘と犠牲者連中を一気にぶっ飛ばせる膂力を持つ矢凪や、捕縛術の名家と知られた藤堂流体術を修めた丞幻が相手では、物の数にもならない。
問題は「こいつ強いな、戦ったらどんなかな、わくわく」と言わんばかりに、時折こちらに殺気を飛ばしてくる矢凪である。
「んっだよ。いいじゃぁねえか、ちっとくれぇ」
「気が散るのよ、気! が!」
気、が、と言葉を強く区切りながら、腰の引けた黒ずくめの腕に己の腕を絡めて投げ飛ばす。それで周囲が静かになった。
丞幻は首に手を当て、こきこきと鳴らしながら室内を見渡した。
部屋中に、黒ずくめ達が倒れている。唯一、矢凪に最初殴り飛ばされた男だけが、片手に持った刀を震わせながら壁に背を預けていた。
ゆらり、と長身を揺らめかせて矢凪がそちらに近づいた。まろい頬に凶悪な笑みが浮かんでいる。男がひきつった声で叫んだ。
「く、く、来るんじゃねぇ!」
「はは。手下がいなけりゃ威張り散らせねぇ木偶の坊が、一丁前に刀ぁ構えて粋がってんじゃぁねえよ」
「う、うっ、うるせえ! こちとら音に知られた“闇虫”の常蔵よ、木偶の坊たあてめえ、言ってくれるじゃねえか!」
矢凪の挑発に逆上したか、男が――“闇虫”の常蔵が胴間声で吼えた。
奇声と共に、刀を腰だめに構えて突っ込んでくる。半身になってそれを避けた矢凪は、手首目掛けて足を蹴り上げた。骨の砕ける鈍い音が響く。
絶叫。力の抜けた指から、ずるりと刀が落ちて畳に刺さった。
手首を抱え込むようにしてうずくまり、ひぃひぃ喘ぐ常蔵。その背中に容赦無く踵を落とそうとする矢凪の肩に、丞幻は手をかけた。
「矢凪、終わりよ終わり。殺気消えた相手に、とどめ刺そうとしないの」
「あぁ?」
邪魔するな、と言わんばかりに凄んできた矢凪に、丞幻は顎をしゃくってみせた。先ほどの威勢はどこへやら。畳にうずくまり、常蔵はひぃひぃ泣き喘いでいた。
射殺しそうな目でそれを見下ろした矢凪は、やがてちっと舌を一つ打った。
「…………泣き味噌が」
唾を吐くように吐き捨て、「おいちび共。なんか分かったか」とシロ達の方へ寄っていく。
「さーてと。ねえねえ、聞きたい事が二、三あるんだけどー……」
ひょい、と常蔵の脇に丞幻がしゃがみ込んだ時だった。部屋の中に、丸いものが投げ込まれた。
「ぶわっ!?」
それの正体を確かめる前に、そこから濃い白煙が噴き出す。一瞬で視界が分厚い白で遮られた。
何か刺激性のあるものが含まれていたのか、目がひどく痛んで開けられない。丞幻はげほげほと咳き込み、袂で口を覆った。しまった、何も見えない。今なにかされたら終わりだ。周囲の気配を探るが、アオのきゅんきゅん鳴く声が響くのみで、殺気一つ感じない。
時間にすればほんの数秒だろうか、唐突に室内に風が吹いた。立ち込めていた煙が、渦を巻くように巻き上げられて廊下へと流れて霧散していく。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、丞幻はようよう目を開けた。
室内には誰もいなかった。
「……はぁ?」
先ほどまでいた黒ずくめ達が、影も形もなく消えている。
逃げたのか。いや、一人で逃げられるような輩は誰もいなかった。となると、外に仲間が潜んでいたのか。こちらに気配を悟らせず、絶妙な瞬間で妨害し、ほんの数秒で十数人近くいた人間を音も無くかっさらっていく。それをやってのけるとは、かなりの手練れと見ていいだろう。それこそまるで、曾根崎屋の影達のようだ。
「ちっ」
涙の滲んだ目をしばたたかせ、舌打ちした矢凪が廊下に飛び出した。素早く周囲を見渡すが、人の気配は微塵も無い。屋敷の異常に気付いた周囲の住民達が、騒ぎ立てる声が聞こえるだけだ。
もう一度舌打ちして、部屋へ戻ってくる。
「くそ……っ、なんだ今なぁ」
「知らんわよ。あんなヘボ達、わざわざ回収するほどじゃないと思うんだけどねえ」
「同心にとっ捕まった挙句、ぺらぺら話されちゃ困ることでもあったんじゃぁねえか?」
「かしらねぇ……シロちゃんアオちゃん、だいじょーぶ?」
「おれはだいじょぶだ。アオはだいじょぶじゃないけどな」
胸の前で後生大事に日記を抱きかかえたシロが、目をくしくしこすりながら胸を張った。その膝の上で、アオがひんひんと泣きぼろめいている。五感の鋭いアオに、先ほどの煙は堪えたのだろう。目からも鼻からも出るものが全部出ていた。
ひょいと抱き上げて、懐紙で鼻水を拭いてやる。
「うぶー……」
「よーしよしよし、アオちゃん大丈夫? おめめ痛かったねえ」
「めめいたいの、おはないたいのー……」
「そうねそうね、痛い痛いねー」
よしよしと頭を撫でてなだめながら、丞幻は周囲を見渡した。
室内はひどい有様になっていた。壁も、天井も、ぼろぼろだ。つぅ、と頬に冷や汗が伝う。
「……お夕になんて言い訳しよっかしら」
〇 ● 〇
目々屋敷のあれこれが終わった、翌日。
「結局、なんだったんかしらねえ、あいつら」
ひねもす亭の自室で、ずず、と冷えた翠茶を啜り、丞幻は首をかしげた。翠茶は緑茶より薄い色の茶だ。鼻に抜ける爽やかさと、すっきりとした後味がある。夏に飲むと暑さが和らぐような気がして、丞幻は好んで飲んでいた。
「奉行所の連中はなんつってたんだ?」
瓢箪から酒を飲みながら、矢凪。その胡坐の上には、アオがへそ天でぷーすか眠っている。ちなみにシロは丞幻の背中にくっついて、貸本屋から借りた絵草子を読んでいた。文字を拾い読む声が振動となって、背に響いてくる。
薄焼煎餅をぱりぱり食べつつ、丞幻は肩をすくめた。
「“闇虫”の常蔵って、西の方じゃそれなりに有名な盗人集団の頭らしいのよ。西から流れてきて、適当な所を襲ったんじゃないか……って話」
「はっ。あれで頭たぁ、笑える話だ。手首折っただけで泣きやがって、器が知れらぁな」
「たださぁ。最後にほら、外から煙玉がぶん投げられて、全員消えちゃったじゃない?」
奉行所の同心達が調べた所、手がかりがほとんど無かったようだ。警邏犬が両棚を流れる四方川までは追えたが、以降はどこに逃げたか不明らしい。
丞幻としては正直、同心や警邏犬の鼻を煙に巻く凄腕達が、あの程度の男に付き従っているとは思えなかった。しかし世の中という奴は不思議なものだから、もしかしたら奴に何か人を惹きつけるようなものがあったりするのかもしれない。
「結局、日記をなんで狙ってたのかも分かんないし。あー、そういやあの日記、奉行所に持ってかれちゃったのよねえ。はよ返してくんないかしら」
丞幻の皿から煎餅を二、三枚失敬しながら、矢凪は「で?」と文机に乗った真っ白な草稿に視線を向けた。
「話、書かねえのか」
「書くわよ! ……もうちょっとお茶飲んでから」
目を泳がせながら、ずずっ、と茶をもう一口。
昨日、朝になって迎えに来た夕吉は、ぼろぼろになった屋敷と集まった同心達を見て、流石に目を点にした。屋敷の一室を破壊した丞幻は平身低頭で土下座したが、想像と違って夕吉は上機嫌でこう言ったのである。
「いいじゃないかい、げん兄! 怪異の出てくる屋敷、憑りつかれた助手、そこに突如現れた黒ずくめ、狙われた日記……次の話、期待してるよ!」
それはつまり、屋敷破壊を咎めない代わりに、高水準の小説を求められているということで。
一体どんな風に話を書こうかと、頭を抱える丞幻なのであった。
喧嘩囂躁=慌しく騒々しいこと。または、その様子。
〇 ● 〇
怪異:影目
危険度:丁
概要:
赤津国でよく見られる怪異。
暗がりから視線を感じる時、ふと振り向いて暗い所から目玉が生えているなら大体こいつ。目玉が見える時と、見えずに視線だけを感じる時がある。
目玉が生えているのは気味が悪いが、それ以外に害は無い。時には、黒く塗られた場所を暗がりと勘違いして出る場合もある。
退散させるには、ツユクサの花びらを漬けた水でその場を拭く。
怪異:目々屋敷 ※椿の置き土産案件
危険度:丙
概要:
両棚にある屋敷。現在の所有者は曾根崎屋。
内部の至る所が墨で真っ黒に塗られている。影目に憑かれた武士が狂死し、以降怪現象が勃発。
主な現象は、屋敷全体から視線を絶えず感じる、上から覗き込まれる、狂死した自分の姿を見下ろす夢を見るなど。
影目にできる範囲を超えているのは、武士の魂を取り込んだ為に力を増した為と考えられている。
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