九
この話以降、木曜日、月曜日の0時前後に投稿いたします。ご了承下さい。
がばりと起き上がると、ちゃんと畳の上で寝ていた。
「あぁ? 起きたのか」
矢凪の声にそちらを向く。
畳に頬杖をついて寝そべっている矢凪は、布団でぷうぷう眠っているシロとアオの腹を交互に叩いてやっていた。銭を挟めそうなほど、眉間の皺が深い。
「てめぇ、こいつら甘やかしすぎなんだよ。腹叩かねぇと眠れねぇって、どんだけ甘えたに育ててんだ、えぇ?」
「そう言いながらやってあげるお前も、じゅーぶん甘いとワシ思うけど」
「うるせぇ」
自覚はあるのか、矢凪は渋面を作った。
くあ、と小さく欠伸をして、丞幻は頭をばりばりかく。
そうだそうだ、思い出した。少し焦げた粥と総菜の昼餉を済ませた後で、ちび達が眠そうにしていたので寝かしつけていたのだ。
「それでワシもうっかり寝ちゃったわけねー。っていうか、あー……なんかもう、つっかれた。全然寝た気しないわー」
夢の中で更に夢を見る、という器用な事をしたせいか、身体がひどく怠い。しかも内容が内容だ。
あれは多分、狂い死にした武士の思念だ。建物には暮らした人間の思念が染みつきやすい。それを、夢という形で見せられたのだろう。傍迷惑な話だ。
「うーん……?」
と、そこまで考えて丞幻はふと首を捻った。
――当初は暗がりにしか現れなかったのに。
夢の中で、丞幻は確かにそう思った。
暗がりでしか現れない目玉。墨を家に塗ったら、家中どこにでも出てくるようになった目玉。
「えーっと、えーっと……ちょっと待ってねー、えーっと……」
「あ?」
「えーっと……あー……あ?」
胡坐をかいて腕を組み、うんうん唸った末に。昔々のその昔に脳みそに叩き込んだきり、埃をかぶっていた知識をようやく丞幻は引っ張り出した。
――その形、人の目の如し。潜むは暗がり、ぱちりと目開けて視線を一つ。
ぽくっ、と手を打つ。
「ああ、思い出した。影目だわ、影目」
「あぁ?」
怪訝そうに片眉を上げる矢凪に向き直って、丞幻はぴっと指を一本立てた。
「だから、この目々屋敷にいる怪異の名前よ。影目って」
「だぁら、その影目ってなぁ、なんなんだって聞いてんだよ」
「家の暗がりに住む怪異よー。薄暗い家に憑くことが多いって言うわねん。確か、赤津国の方面でよく聞く怪異だったはずじゃよー」
赤津国は温泉が多く、湯治客がよく訪れる。もしかしたら、件の武士が湯治に行ったのもそこだったのかもしれない。
影目は暗がりに住み、家の住民をじっと見つめるだけの弱い怪異だ。視線は気になるし、部屋の隅に目玉が生えているのは非常に不気味だが、それ以外に害も無い。暗がり以外に現れる事はできないから、蔵や納戸など、閉め切られた場所によく出現する。
「ただ、この怪異って阿呆でねえ。墨とかで黒く塗られた場所も、暗がりだと思って出てくる事があんのよー」
「へぇ」
ぐるり、と矢凪は目玉を動かして部屋を見た。一点の隙無く、墨で漆黒に塗られた部屋を。
「黒く塗られた場所を」
丞幻は無言で頷いた。
黒いものを暗がりと誤認する影目にとって、この屋敷はさぞ居心地が良かった事だろう。なにせ、どこへ行こうとも黒い場所だらけだ。影目は増殖するというから、一体今、この屋敷には何千、何万の影目がいるのか。考えたくもない。
夢の中で、武士は「墨を嫌うのに」と言っていた。だが実際は、それは全くの逆効果だ。大方、どこぞの似非祓い屋でも頼って大法螺を吐かれたに違いない。それで命を失う事になったのだから、全くやるせない話である。
一人うんうん頷いている丞幻に、矢凪が問いかけた。
「んで、怪異の正体が分かったなぁいいが、どうすん気だ。家ぇ壊すか」
「やめて物騒な提案。ほんっとにワシが監禁執筆タダ働きの憂き目に合うから。……そうねー。どうせ今日泊まったらこの屋敷とはいさようなら、なんだけどー。寝るなら気持ち良く寝たいんよねー、ワシ。また寝顔覗き込まれんのも、自分の死に様見せつけられんのも御免だわ」
「よし、家ぶっ壊すか」
「ねえ話聞いてる? ちゃんと耳付いてる?」
シロ達の腹をぽんぽん叩いていた手が、ぐっと握り拳を作るのを見て丞幻は口元を引きつらせた。
どうしてこの助手は暴力にすぐ訴えようとするのか。こっちは止めろと散々言っているのに。
拳を見て残念そうに舌打ちする姿に、丞幻はひやひやしつつ安堵してもいた。生餌だと知っても態度を変えなかったのが良かったのか、矢凪の態度は普段通りだ。
良かった。これでまた警戒心むき出しに戻っていたら、泣く所だった。
「その怪異が家に憑くんだったらよぉ、ぶっ壊しゃぁいいだろうが。そうすりゃこの鬱陶しい視線も消えんだろうが」
「したらワシの金も消えんの。お前ね、ワシの金が消えたら毎日美味しいもの食えんし、お前への日当も払えんのよ。そこ分かって発言してる? 考える頭ある?」
「ぬぐ」
「いい? ワシの懐が寒くなったら毎日大豆一粒生活よ。どこの修行僧よワシら。あと絶対に一年は断酒だかんね。絶対に酒飲ませんからね、居酒屋も出入り禁止よ。家壊して雇い主に迷惑かけた罰として」
「ぐぬ」
口をもごもごさせて黙った矢凪に、ぐっと握り拳を作る丞幻。よし勝った。
「……いや違うわよ、そーじゃないでしょ」
勝利の喜びも束の間、丞幻は我に返っていやいやと首を横に振る。そう、そんな事をしている場合ではない。
すっくと立ちあがって、丞幻は矢凪の鼻先に指を突きつけた。
「というわけで、大掃除よ、大掃除」
〇 ● 〇
かつて仕入れた知識によれば、影目を退散させる方法は二つ。
一つは、影目の現れる暗がりに日光を当てて、その暗がり自体を消す事。
一つは、ツユクサの花を漬けた水を使い、影目の現れる暗がりを拭く事。
雑巾を持った矢凪が、眉を下げてげんなりとした顔をした。
「……で、掃除ってか」
「そーよ。ツユクサはいっぱい庭に生えてるしー、家全体に光当てるよりこっちの方が良いと思わん? ちび達も楽しそうだしねえ」
耳を澄ませば、屋敷の端の方からシロとアオの雄たけびと、ずだだだだっ、と廊下を走る荒い足音が聞こえてくる。廊下で雑巾がけ競争でもしているのだろう。
丞幻は手に持った桶を、矢凪に押し付けた。ツユクサの青い花びらがたっぷり入った水が、ちゃぷんと揺れる。
「はいこれ、矢凪の分。東側からお願いねー」
「……なんでツユクサなんだ。怪異追い出すんだったらハバキバナでも、ヘイソクソウでもいいじゃぁねえかよ」
「ツユクサが朝に咲いて、昼にしぼむからよん。陽光をたっぷり溜め込んだまましぼむから、影目の嫌う日光が花びらに残ってんの」
「へぇ」
納得した風の矢凪に、丞幻は肩をすくめた。
「多分ね」
「おい」
一瞬で眉が吊り上がり、桶を持っていない方の手が握り拳を作る。丞幻は慌てて、ぱたぱたと手を振った。
今は自分も桶を持っているのだ、これでぶん殴られた日にはもう一度、あのやぶ蚊の王国と化している庭に出て行ってツユクサの摘み直しである。それは御免被る。
「待ちなさいってば! すぐ暴力に訴えないで家庭内暴力禁止!! 影目がよく出る所にはそう言い伝えがあんの! 理由は伝わってないけど、多分そーゆー理由だと思うの、ワシは!」
「言い伝えぇ? そんなん信用できんのか?」
「効果があるからこそ言い伝えられてんのよ」
今よりずっとずっと昔。まだ異怪奉行所が設立されておらず、民間の祓い屋に頼るしかなかった時代。護符に呪符、呪具など、とかく祓い屋家業というものは金がかかる。遠くの地からの依頼が舞い込めば、そこまでの旅費もかかる。
結果、心無い祓い屋に法外な依頼料を吹っ掛けられる事も少なくなかったというし、適正価格の料金であってもひどく高かった。それゆえ市井の人々は、なんとか自分達で怪異に対抗しなければいけない事がままあった。
様々な試行錯誤を重ね、失敗を繰り返し、その度に犠牲を払いながらも倦む事なく模索し続け。その内に怪異に有効だとされた方法や歌などが見つかり、それが脈々と言い伝えられた。
今でも異怪奉行所やそこに属さない民間祓い屋が尋ねるに厳しい所などでは、受け継がれた言い伝えによって現れる怪異に対抗しているという。
「……ああ、成程」
今度こそ納得した矢凪が、「にしても、掃除たぁな……糞が……」とぶつぶつ文句を言いながらも、言われた通り東側へ向かって行く。
一人にするのは少しばかり心配だが、怪異避けの守り石を持たせているから大丈夫だろう。多分。
「さて、ワシもさっさとやりましょーかね」
桶に浸していた雑巾をぎゅっと絞り、板張りの廊下を拭く。途端に、周囲に漂っていた瘴気がゆらりと動き、奥の方へ逃げた。かまわず壁を拭けば、更に瘴気が逃げていく。
「んふふふふ……なんかちょっと面白くなってきたわー」
ふんふん、と鼻歌を歌いながら、ぎゅいぎゅいと遠慮容赦の欠片も無く壁を拭く丞幻である。悪夢の恨みを思い知れ。
黒い霧のような瘴気は、雑巾で壁や床が清められるごとにそこから逃れようと動く。四方からそれを中央に追い詰めるように、丞幻達はとにかくひたすら屋敷を拭き続けた。
下級武士の屋敷とはいえ、部屋は複数あるし、厨も風呂場も厠もある。それを全て拭き上げ中央に存在する、かの武士が狂い死にした部屋まで来た時には、日はすっかり落ちて空には一番星が輝いていた。
「しかし……ずいぶんでっかいわねー。影目って増殖するとは聞いてたけど、膨張もするもんだったんかしら」
「ここで死んだ男の魂を食ったんだろう。そしたら、こんな雑魚でも力は増すからな」
「こらシロちゃん、雑魚って言わない。お口が悪いわよー」
「祓い屋でもない人間に追い出されるくらいの、脆弱でひ弱で軟弱で惰弱な怪異でも、人間の魂を食えば力は増すからな」
「おい雑魚よりひでぇぞ」
「おなかしゅいた!」
丞幻、矢凪、シロ、アオに囲まれていたのは、水瓜ほどの大きさの目玉であった。黒い畳の中、白目がくっきりと浮き上がっている。
畳に浮かんだそれは、黒い眼球をぎょろ、ぎょろ、ぎょろ、ぎょろ、四方八方に動かしていた。
まるで逃げ道を探しているかのようだが、屋敷中はツユクサの水で清められ、己自身は囲まれているのだ。どう頑張っても逃げられはしないだろう。
ふんふんと目玉の匂いを嗅いで、アオが鼻面に皺を寄せた。
「おいちくなさそうねー。あのねじょーげん、オレおなかしゅいたの。ごあんたべたいの」
「おれもだ。おれも腹が減ったぞ、腹ぺこだ。ぺこぺこだ。早く終わらせて、ご飯食べよう」
「腹減った」
「そうねー、ワシも疲れたわ。ていうか、最近ワシ肉体労働多くない? 作家よ? こちとら基本的に机にかじりついて動かない作家よ?」
矢凪を地面から掘り出し、友引娘から全力疾走で逃げ、なんかよく分からない子どもに追いかけられ、屋敷中を雑巾がけ……ざっと思い出すだけでも、だいぶ動き回っている。
まあ動くのは健康には良いから、と自分を慰めつつ、雑巾をたっぷりと水に浸す。軽く絞って、目玉をぎょろめかす影目に雑巾を押し付ける。
力を込めてぐいぐい拭くと、影目は溶けるように姿を消した。同時に、僅かばかりに残っていた瘴気も、霧散していく。
後には何も残らなかった。
相変わらず部屋は一分の隙無く真っ黒で、噎せ返りそうな程に墨臭い。だが、それだけだ。間近で凝視するような、舐めるような嫌な視線は、もう感じない。
男一人を死に追いやった怪異の幕切れにしては、ひどくあっけない物だった。
ばさり、と丞幻の背後で紙束が落ちるような音がした。
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