八
「……で」
話が一段落したのを感じたのか、目元を腕で覆ったまま、小さく矢凪が呟いた。
「どうする気だ、てめぇ」
丞幻は首をかたむけた。
「なにがよ。あ、今日の昼餉? お前具合悪いんだったら、しょーがないからワシがお粥作ったげるわよ。卵あったから、卵落とそっか? それとも梅干しの方がいーい? あ、沢庵刻んで入れてみる? 美味しいらしいわよ、わりと」
「やめろ丞幻! お前がおかゆ作ったら、こげこげの黒々になるだろ! 矢凪がお腹痛くする!」
「うぶー……おかゆ? あんね、オレね、おかゆじゃなくて、ふちゅうのがいい!」
目を覚ましたのか耳をぴこっと動かし、顔を上げたアオが話に割って入る。膝上の子狼を、シロはじっとりと半眼で見下ろした。
「アオ、起きたなら話がある。そこ座れ」
「う? ……う!」
「おれは言ったな。矢凪は生餌だから、ちゃんと見てろって」
「う!」
「だってのに、部屋のど真ん中で、風呂敷でおくるみにされて、ぐうぐう寝てたばかがいるらしいな」
アオはきょろきょろと左右に首を動かした。そして、こてんと首をかたむける。
「う?」
夜明けを溶かしこんだシロの瞳が、きっと吊り上がった。
「お前だ、ばか!」
そのまま取っ組み合いを始める怪異二体は放っておいて。腕を上にずらし何とも言えない複雑な表情で、シロ達のわちゃこらを見つめている矢凪に視線を戻した。
「んで、お粥に何入れるー? ちなみにワシのおすすめは大根の葉っぱ刻んで、溶き卵かけた奴なんだけど。あ、でも大根無かったわねー。代わりに青菜でもいーい?」
「……もういい」
梅で頼む、と疲れたように呟いた矢凪は身体の力を抜き、また静かになった。
「梅ね、分かったわー」
頷いて、丞幻は腰を上げる。きゃんきゃん騒いでいるシロとアオの間に、すっと手を入れて争いを中断させた。
「はーい。喧嘩はもう終わりよ、おーわーりー。矢凪まだ具合悪いんだから。傍で騒いでたら、めんめでしょー」
「むむっ」
「うー」
「んで、矢凪がさっきみたいにおかしくならないようにするには、どーすりゃいいのかしらん。ワシ、生餌体質の人って見るの初めてだから、よう知らんのよ」
「簡単だ。おれかアオがそばにいればいいんだ。おれもアオも、この屋敷の怪異よりは強いからな。『これはおれのだ』って、いかくしてれば近寄ってこないぞ。すごいだろ。丞幻の結界よりすごいんだぞ」
むふん、と自慢げに胸を張るシロの頭をよしよし撫でた。そうして丞幻は、ひょいっとアオを持ち上げて矢凪の胸元に乗せた。
「……おい」
「じゃあアオちゃん、矢凪お願いね。ワシとシロちゃんで昼餉作ってくるからねー」
「今度はちゃんと見てるんだぞ。いいな、アオ」
「う!」
胸板の上でちょこんとお座りし、やる気に満ちた目をするアオ。それに手を振って部屋を出る。ばふばふと振られる尻尾が矢凪の顔に当たって、どんどん眉間に皺が刻まれていくのは見なかった事にした。
「……小指の一本でも切り取って、持っておけばいいんだ。それ以外が怪異に食われたとしても再生するからな、生餌っていうのは」
襖を閉じてすぐに、毬を手の中で転がしてシロが小さく呟いた。平坦な声音には感情が無い。
「だから、怪異を退治しようとする祓い屋にとっては、生餌ってのはちょうどいい道具なんだ」
なにせ、怪異が出そうな所に縛りつけておくなり、足を折るなりして捨ておけば、勝手に怪異が寄って来てくれる。貪っている間は動きを止める為、労せず祓ったり封じたりできる。指でも切って保管していればそこから再生するので、また使う事ができる。……怪異退治において、これほど使い勝手の良いものは無いだろう。使われる生餌の意思はさておくとしてもだ。
シロもアオも、生まれてかれこれ数百年は経つ。飽くるほど長い生の中、そうやって祓い屋に使われる生餌を何度も見てきた。どれもこれも、醜悪な光景だった。
目の前の男が、そんな阿呆なことをする奴だとは思わない。だが、人とは思わぬところで怪異の想像を超えるものだ。
「丞幻、お前は矢凪を生餌と知ったな。なあ、お前はあいつをどう使う?」
つい、と視線を上げたシロの瞳は、凪いだ空のように静かだった。きゅる、と瞳孔が獣のように細くなる。
一切の表情を消したシロを見下ろして、にんまりと丞幻は笑った。
「そうねー、一緒に食べ歩きするのは楽しそうねえ、あいつ大食いだし。萬福屋の品書き制覇させてみたいし、ああそうそう、あそこの名物、激甘饅頭食わせてみたいわねー。甘い物苦手っぽいから、食わせたらどんな顔するかしらん。あと芝居ね、シロちゃんもアオちゃんも途中で興奮して暴れるから、押さえる要員がいてくれるのはありがたいわ」
あとは当然、助手として雇ったのだから怪異調査も手伝ってもらわないと。そうそう、生餌だってんなら、怪異避けの強い御守り持たせとかないとね。目を離した隙に怪異に食われちゃたまらんものね。
ひーふー、と指折り数えて、丞幻は首をかたむけてみせた。
「ま、そんなとこかしらね。シロちゃん、満足?」
「満足だ」
細い首を揺らして頷いたシロの、ぽっちりとした赤い唇が弧を描いた。
「だからおれもアオも、お前が気に入ってるんだ。丞幻」
「あら嬉しい、ワシもシロちゃん達のこと好きよー」
白いおかっぱを撫でると、シロは安堵したような息を吐いた。一体、なにを心配していたのやら。
確かにシロが言ったような事をすれば、隠れている怪異もすぐにおびき寄せられるだろう。そうすればネタ収集にも困らないが、そんな事をしたって面白くもない。胸糞が悪いだけだ。
面白くない事はやらないのが、丞幻の主義だ。
それに、と閉じた襖を振り返る。
多分誰かに、そうやって道具として使われた事があるのだろう。咄嗟に昼餉の話題で誤魔化したが、下手な事を言えばすぐさまこちらを殺しにかかりそうなほど、矢凪の身体には殺気が満ちていた。
「んー……家庭円満でいたいしねえ」
折角仲良くなりかけているのに、好感度を爆下がりさせるのは御免である。矢凪の事は結構気に入っているのだ。
生餌事情に関しては触れない事にしよう、と丞幻は心に決めた。ネタは欲しいが、そこはそれである。
今はそんなくだらない事より、重要任務を達成しないといけないのだ。うっすらと黒い霧のような瘴気漂う廊下の中央で、きっ、と厨のある方向を睨む。
「さて……うまいことお粥、炊ければいいんだけどね」
〇 ● 〇
見るな。見るな。見るな。見るな。
目があるからだ。目があるから視線を感じるのだ。私に目があるから視線を感じるのだ。
目が無ければ視線を感じない。目が無ければ。目が無ければ。目が無ければ。
〇 ● 〇
ぺらり、と紙片を繰った。
行灯の光を頼りに、貸本屋から借りた本を読む。濃い墨で書かれた文字の上で、己の影が踊った。
ふと、あぐらをかいた爪先に何かが当たった。なにか、なんだろう。足袋を履いていない指の先に、さわさわと細いものが当たる。
なんだろう。糸束でも放り出していただろうか。だが首を動かしてそれを見るより、本の続きが気になった。視線を座卓に広げた本に落としながら、爪先を動かして正体を探る。
短い毛のような細いものが横一列に並んでいる。それが畳の上、ちょうど座卓の足付近にあるようだ。長さとしては三寸程度。もしやこれは百足か、と思った瞬間。
ぱちり。
それが唐突に、上に向かって動いた。
咄嗟に視線を向ける。
目が合った。
畳の上に、人間の目玉が生えていた。短い毛の生えた細いものはまつ毛だった。上に向かって動いたのは、目を開けたからだ。
丞幻は一瞬でそれを理解した。身体が岩のように硬直し、ひゅ、と喉が鳴る。
ぱちり。
また、目玉が瞬きした。下から舐めるような、強烈な視線が突き刺さった。
「んおっ……?」
はっ、と丞幻は目を開けた。
寝起きでぼやけた視界に、黒い畳が映る。……黒い畳?
「は?」
眠気で霞んでいた脳みそが、ぶん殴られたような衝撃に襲われた。
いかなるわけか、丞幻の身体は浮いていた。部屋を真上から見下ろしていた。藤蔓模様の欄間がすぐ近くにある。左右を見れば、真っ黒に塗った天井の木目が見えた。
どういうことだ、なぜだ。どうして自分が、天井に浮いているのだ。訳が分からない。
混乱してもう一度視線を下に向けて、丞幻は大きく目を見開いた。
は、と息が零れる。
畳の上に自分が仰向けに転がっていた。大の字になって、全身をぐんにゃりと弛緩させている。
両目には、筆が二本突き立っていた。穂先にはたっぷりと墨が含まれていたようで、涙や血と混じった黒い液体が、目尻の横からだらだらだらだら流れて畳に染み込んでいた。あんぐりと開いた口から、変色した舌がはみ出ている。
ああ……と無惨な死体を見下ろして、すとんと丞幻は納得した。
自分は死んでしまったのか。
己が番をしていた蔵の中から、物を持ち出してまで銭を工面したのに。それで墨を買い込み、目玉が出ないように屋敷中に塗りたくったのに。屋敷に憑いた怪異は墨を嫌うと言われたのに。墨を嫌うから、目玉の出る所に墨を塗れば怪異は出なくなると言われたのに。
なのに、怪異は現れた。目玉自体は出なくなったが、視線は変わらなかった。どころか、当初は暗がりにしか現れなかった視線が屋敷中あちこち、どこにいたって感じるようになった。
どうして。どうして。どうして。どうして。
昼夜問わずに感じる舐めるような視線と、蔵の物を盗み出した事がいつ発覚するか。恐怖と後悔で身が引きちぎられそうな思いだった。
好物を食っても味は分からず、好きだった本を読んでも面白くもない。視線から逃れる為に浴びるように酒を飲んで、気絶するように寝る。それを毎日。
そうして心身ともに限界になったある日、視線に耐え切れず思い余って筆で目玉を――
「って、なわけないでしょ!? なにが悲しゅーて自害せにゃならんのよ! つかワシ蔵番なんてくっそ面倒なことせんわよ!?」
頭の中にどんどんと流れてくる誰かの思考に、丞幻は怒号を上げた。
蔵番なんて就いた事はないし、この家で暮らしてなんかいないし、墨なんて塗っていない。勝手に人の頭に入ってくるな。天井付近に浮いた身体を、遮二無二よじって抵抗する。
と、下から睨み上げるような強い視線を感じた。
畳の上で目玉に筆を突き立てていた自分が、いつの間にか知らない男に変化している。
ざんばらの黒髪を振り乱した壮年の男だ。骨に直接皮を貼り付けたように頬はこけ、角ばった頬骨が露わになっていた。
黒豆のように小さな目が、はっきりと丞幻を射抜いた。
かぱり、と口が開かれる。赤黒い口腔の中で、歯だけが異様に白いのが不気味だった。
「――見るな」
はっ、と目が覚めた。
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