七
「あら矢凪、アオちゃんと遊んでたでしょ。どしたの、アオちゃんがお腹空いたって駄々こねた? おやつだったら厨で水瓜冷やしてたでしょ、それあげてー」
丞幻の言葉が聞こえていないのか。
「……」
ふら、と矢凪は部屋に足を踏みいれた。酔った様な足取りで丞幻達の脇を通り過ぎる。そうして、部屋の角に額をくっつけるようにして立ち止まった。
かくれんぼの鬼だろうか。それにしては様子がおかしい。通り過ぎた際に見えた顔からは、すこんと表情が抜け落ちていた。
「矢凪?」
丞幻の脳裏に、昨夜の光景が蘇った。
――厠の戸に額を押し付け動かず、ぶつぶつと何かを呟いていた姿。
「ちょっと、矢凪」
「……な……み…………る……」
立ち上がり、矢凪の肩に手をかける。強めに揺すぶって名前を呼ぶが、反応が無い。昨夜ならすぐに反応してくれたのだが、脱力した手が動きに合わせてゆらゆら揺れるだけだ。
揺すぶられるままになりながら、角に額を付けて口の中で何かを呟いている。なにを話しているのかと耳をそばだてると、やがて丞幻の耳に意味のある言葉が聞こえてきた。
「見るな」
――見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。
感情のこもらない三文字が、延々と口から垂れ流されている。背中を強く叩いてみても、耳元で叫んでも反応が無い。
むう、と唸る。これは少し、まずい状態かもしれない。
丞幻はシロを振り返った。
「シロちゃん、ちょっと矢凪見ててくれる? 神水ぶっかけるわー」
「分かった」
機敏に立ち上がったシロと場所を入れ替わり、自分の荷物を置いている部屋に戻る。敷きっぱなしの布団横に投げ出していた風呂敷から、陶器の小瓶を引っ掴んで駆け戻った。
毬を胸の前に抱えたシロが、大きな瞳を矢凪にじっと向けている。凝視されている矢凪は相変わらず、額を部屋の角にぴったり押し付けたまま身じろぎ一つしていない。
丞幻の足音に気づいたのか、シロがぱっと首を向けてくる。
「シロちゃん、様子は?」
「さっきと変わらないぞ。おれはちょっと、アオの様子見てくる」
あの馬鹿、ちゃんと矢凪のこと見とけって言ったのに。
ぷんすこと頬を膨らませたシロが、振袖を揺らして部屋の外へ駆けて行く。去り際の言葉が気になったが、今はこっちだ。
矢凪の肩を掴んで力ずくでこちらを向かせ、半開きになった口に小瓶を突っ込んで傾ける。小瓶の中身は水だ。ただし、普通の水ではない。神水と呼ばれる特別な水だ。
神々に祈祷して神気を込めた清らかな水は、少量だろうと怪異を祓い清める力を持つ。穢れた場所に撒けば場を清め、人に飲ませれば中からその身を清めて正気に戻す。
「っ!?」
喉が動いて神水を嚥下した瞬間。表情の抜け落ちていた矢凪の顔が、歪んだ。口元を押さえてよろめき、ずるずると壁に背を預けて座り込む。
げぼ、と痰の絡んだような濁った咳が一つ。
押さえた手の隙間から、黒い汚水のようなものがあふれて手の甲を伝った。げぼ、ごぼ、と咳込む度に粘度のあるそれが吐き出され、黒い畳にびちゃびちゃと小さな水たまりを作った。
「よーしよし、さっさと全部吐いちゃいなさいねー。吐いたら楽になるから」
畳に突っ伏して咳込む矢凪の背をさする。しばらくそうしていると、痙攣するように震えていた背中がだいぶ落ち着いてきた。
呼吸が深く、静かになってきた辺りで丞幻は声をかけた。
「やーなぎ、だいじょーぶ? 落ち着いた? ワシの言ってること分かる? 陽之戸内の国名と都市名と町名と名物全部言える?」
「…………くそまじぃ……」
掠れてはいるが、しっかりとした声が返ってきた。ゆらりと顔が上がる。顔色は紙のように白いが、金の瞳はさっきと違って光が宿っていた。
丞幻はほっと息を吐いて、おどけて肩をすくめてみせた。
「あー、そらそうよ。お前が吐いたそれ、要するに穢れの塊だもの。それが美味しいわけないでしょ」
「……泥水みてぇな味がする。あと変に墨臭ぇ。泥に墨溶かしたみてぇだ」
「一々味の感想言わんでいいわい、想像しちゃうでしょーが」
「俺だけくそまじぃ思いすんの理不尽だろうが」
お裾分けだ、と鼻を鳴らす矢凪。そこにさっきまでの不気味な様子は見られない。
どうやら、本当に正気に返ったようだ。
「とりあえず、少し横んなる? ワシが寝てたとこ、まだ布団敷きっぱなしよー」
「寝る」
頷いて立ち上がった矢凪の長身がふらついた。そこにひょいと肩を貸すと、悔しそうな歯ぎしりが聞こえた。
「くっそ腹立つ。……おい、詫び代もらう代わりにこの家、ぶっ壊しちまっていいよなぁ?」
「弁償代がわりに、ワシが向こう一年くらい稿料抜きで監禁執筆させられる事になるから、それは勘弁してちょーだい。ってか、自分が何してたか覚えてる?」
木目の穴まで黒く塗られた廊下を、素足でぺたぺた歩きながら問う。癖っ毛に包まれた頭が横に振られた。
「アオが眠いっつーから寝かしつけて、酒飲もうと思って瓢箪に手ぇ伸ばして……」
矢凪が覚えているのはそこまでだ。
次に気づいた時は、口の中に清涼で仄かに甘い液体を流し込まれていた。次の瞬間、それが酷い臭気を漂わせる汚泥に変化して、訳が分からないままに、とにかく吐き出そうと咳込んだ。
自分の口から腐った泥水のようなものが次から次へと出て来た時は、さすがに吐きながらどん引きしたが。
「あの黒いなぁ、一体なんなんだ」
「さっき言ったでしょ、穢れの塊よ。お前ん中にあった怪異か瘴気の残骸が、ああして固まって出てきたの」
「……ぞっとしねぇな」
言葉を交わしながら部屋に入って、敷きっぱなしの布団に矢凪を寝かせる。
正気に返りはしたが、一時的とはいえ怪異に支配された身体は本調子ではないのだろう。仰向けのまま、目元を片腕で覆って深く息を吐いた。
「……視線がうるせえ」
「そーね。ワシなんて寝起きに覗き込まれちゃったわよ。もー、今日はさいっあくの目覚めだったわ」
枕横であぐらをかき、ぐるりと真っ黒に塗られた部屋を見渡す。天井付近には欄間があり、隣室の天井がちらと見えていた。見事な藤蔓模様の細かい所にまで、むら無く墨が塗られているのを見た時は、武士の執念にさすがの丞幻も二の腕にぷつぷつと鳥肌が立ったものだ。
その欄間の隙間からも、天井からも、床からも、壁からも、いつの間にか開いていた押し入れの隙間からも、ひしひしと視線を感じる。
まるで視線で二人を圧殺しようとでもいうように、束になった視線が重くのしかかってくる。
気分が悪い。蠅を追い払うように手をぱたぱた振って、丞幻は苦いものを噛み潰してじっくり味わったような顔をした。
「しっかし、今日はとみに視線が鬱陶しいわねー。昨日はここまでじゃなかった気がするんだけど」
「それはそいつが生餌だからだ」
すぱーん、と快音を立てて襖が開いた。同時にシロが高らかに言い放つ。
勢いをつけすぎた襖が、奥にぶつかって跳ね返り、また閉まった。
「……」
思わず無言になった二人が見守る中、今度はそろっと襖が開いた。
「……それはそいつが生餌だからだ」
抱きかかえたアオを顔の前にぶら下げたシロが、ばつが悪そうに同じ言葉を繰り返す。髪の隙間から見える耳が真っ赤に染まっていた。ぶら下げられたアオは、首をがくんと仰向けて、すぴょすぴょ寝息を立てている。
丞幻は片手を挙げ、おいでおいでとシロを手招いた。
今、何やら聞き捨てならない単語が聞こえた気がする。
「シロちゃん。今、生餌って言ったかしらん?」
布団に横たわる矢凪を挟んで向かい側に座り、アオを膝上に乗せたシロは、そうだと頷いた。
「矢凪は生餌だぞ。いつもすっごくいい匂いがするんだ。だから、こいつらも沸き立ってるんだぞ。矢凪の事、食わせろって」
「うーわー……そうなの……生餌なの、お前……そっかあ……初めて見たわあ、うん……」
「……」
言葉を濁して矢凪を見下ろす。こちらの話を聞いているのかいないのか、片腕で目元を覆ったままぴくりとも動かない。
生餌。
怪異にとって、ひどく美味そうな匂いを漂わせる体質の人間。話には聞いた事があるが、実際に見るのは初めてだ。なにせその体質上、幼い子どもの内に怪異に身も魂も丸ごと食われ、血の一滴、髪の一筋も残らない事が多い。
「成程ねえ。拷問されて殺されて埋められて、蘇ったってそういうこと。生餌って確か、欠片でも残ってれば蘇れるんだっけ?」
そういや前に本で読んだわー、と丞幻は一人納得して頷いた。
今でこそ家を出てのんびり作家業をしているが、かつては実家を継ぐべく黙々と知識を叩き込んでいたのだ。その為、怪異や術に関する知識は下手な祓い屋よりあると自負している。
丞幻の家は祓家として長く歴史があり、国からも重宝されている。将軍への拝謁も許された、いわば名家であった。
祓家の名家当主の座。それを見鬼の才は十分だが、肝心の怪異を祓う霊力が無い。そんな中途半端な男が継ぐとなれば、当然反発はあちこちからある。
実際、散々陰口は叩かれるわ、丞幻の前で自分の子を跡継ぎとして推薦する阿呆は出てくるわ、色々と嫌な思いをしたものだ。もちろん黙って耐える性格ではない丞幻は、きちんと反撃していたが。
そんな四方八方からの反発を少しでも抑え込む為に、幼い頃から丞幻は怪異に関する知識、あらゆる術、呪具の使い方などを、片っ端から頭に叩き込まれていた。
霊力が無くとも、豊富な知識があれば他の術者に指示が出せる。術を知っていれば、知らない者に教える事ができる。力が込められた呪具であれば、霊力の無い身でも使う事ができる。
先頭に立ち率先して怪異を祓うのではなく、一歩引いて全体を見渡し的確な指示を下す軍師のような当主となるよう。当主である父は丞幻にそうあるべしと説いたし、丞幻もじゃあそうなるように頑張ってみるわねー、と勉学に励んでいたのだ。
それも才気煥発な妹が生まれ、彼女が次期当主と決まるまでの間、だったが。
閑話休題。
ともかくそうして蓄えた知識の中に、生餌についてひどく嫌な記述があった。
曰く。生餌体質の人間は血肉の欠片一つでも残っていれば、そこから復活を遂げることができ、生前の状態に戻る。自らの意思で死ぬ事はできず、怪異に血肉の欠片も残さず全て食われる事により、ようやく死ぬ事を許される。その為、寿命も無いに等しい。
それを読んだ時、幼い丞幻少年は思ったものだ。
生殺与奪を怪異に握られているなんて、ぞっとする。嫌だなあ、怖いなあ、生餌じゃなくて良かったなあ、と。
物思いにふけっている丞幻を、鈴を転がすようなシロの声が引き戻した。
「あのな、丞幻。生餌って奴はな、時たま自分の身を怪異に差し出す事があるらしいんだ。無防備な状態で、どうか自分を食ってください、ってな。しかもな、それ、無自覚なんだ」
丞幻は髭を撫でながら、視線を感じる天井に目線を向けた。
「あー……つまり、なあに? 無意識のうちに、怪異の元にふらふら行って、身を捧げちゃうってことかしらん? 昨日の夜も、さっきのも、そうってこと?」
「そうだ。ええと、ほら、あの、でんでんむしの目を大きくして、鳥に食べさせる奴がいるだろう? あんな感じだ」
「ああ、あれね。あれ見た目すっごい気持ち悪いわよねー。ワシ初めて見た時、なんの怪異かと思ったわよん」
しかし、これで成程と納得したことがある。
夕方にしか出ない友引娘が昼に出て来たのは、生餌の匂いに釣られたに違いない。そして友引娘と相対した際にアオに噛みつかれるまで矢凪が微動だにしなかったのは、まさしく怪異に自らを差し出さんとする、生餌としての習性だったのだろう。
でんでんむしの目を大きくして、鳥に食べさせる奴=ロイコクロディウム
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