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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
怪異:目々屋敷

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22/198

 目を閉じて寝ている筈なのに、周囲の様子が何となく分かっていた。

 視界の端にある襖が、すぅ……っと音も無く開く。開いた襖の隙間から、壁天井に塗られた墨より濃い人影が、ぬるんと入り込んできた。

 顔も、着ているものも、目の色も髪の色も分からない。真夏の黒い影法師が、実体を得て立ち上がったような感じだった。それでもなんとなく、男だと思った。

 襖の前に立っていた影法師は、まるでこちらを伺うように身体をゆらりと揺らす。

 瞬間、影法師は布団のすぐ横に佇んでいた。腰を曲げ、こちらを覗き込むようにぐぅっと顔を近づけてくる。

 視界一杯に、凹凸の無いのっぺりとした黒い顔が映った。


「のわっ!?」


 奇声を上げ、丞幻は飛び起きた。


「……」


 きょろきょろと周囲を見渡す。枕元の玻璃竹行灯が照らす範囲に、人影は無い。相変わらず瘴気が霧のように漂っているだけで、これといった怪異の気配は無かった。

 寝ぼけ眼でもう一度周囲を見渡してから、丞幻はぎりぎりと歯ぎしりした。

 最悪の目覚めだ。


「あー……もう、さいっあく。覗き込まれるなら真っ黒人間じゃなくって、きれーな遊女さんに覗き込まれたいわー」


 そういえば、遊郭になんてしばらく行っていない。目々屋敷お泊まり会が終わったら、矢凪を誘って行ってみようか。


「いやでも、あいつ馴染みの遊女に凍らされかけたんだっけ? んじゃ遊郭連れてくの駄目かしらん。ていうかそもそもどこの遊郭よ、そんな面白遊女囲ってんの」


 三つ編みを結いながら首をかしげた丞幻の鼻を、炊きたての米の香りがくすぐった。


「……ん?」


 単衣の上に、軽く着物を引っ掛けて厨へ向かう。

 厨へ行くと、顔を輝かせたアオとシロが突撃してきた。


「あ、じょーげん! おぁよー! おこめ、おこめ! 矢凪すごーのよ、おこめたけうの!」

「丞幻おはよう。あのなあのな、矢凪すごいんだぞ、米が炊けるんだ、すごいぞ。天才だ、きだいの天才だぞ」

「えぇ?」


 凄い凄い、と単衣の裾を掴んで言い募る二体の頭を撫でながら、顔を向ける。火に炙られて、羽釜の蓋がかたかたと音を立てていた。美味そうな米の匂いはそこからしている。

 竈の前にしゃがんで火の様子を見ている矢凪が、その体勢のまま振り返った。


「おう、起きたか」

「おはよー。なぁに、お前お米炊けたの?」

「あ? てめぇは炊けねえのか」

「いやワシどう頑張っても焦げちゃうのよねえ。水加減と火加減ばっちりなのに、どーしてか、くろっくろのこげっこげになんのよ。あれは一種の才能だわー、うんうん」

「えばる事かよ」


 呆れ顔で呟く矢凪に、昨日のおかしな様子は見られない。いつも通りの様子で肩をすくめて立ち上がり、羽釜の蓋を取っている。

 その背にアオが飛びついて、ぶんぶんと尻尾を振りながら一緒に釜の中を覗き込んだ。きゃあっと嬉しそうな声が上がる。


「じょーげん」

「ん?」


 手を伸ばしたシロを抱き上げると、シロは耳元に口を寄せて、ぽそぽそと囁いた。


「うふふ。ちゃんとご飯が作れる嫁が来て良かったわね、丞幻ちゃん。いいこと、あの嫁はちゃんとつなぎ止めておくのよ。分かった? これは母様との約束よ」


 丞幻は噴き出した。


「おっま……シロちゃん……またそんな事言いだして……っ。今度はなんの本の影響受けたの……っんふふふふ」

「『犬猿妻母けんえんさいぼとなよ竹夫』」

「ああー。面白いわよねー、あの本」

「おい。くっちゃべってんだったらよぉ、漬物切るくれぇはしやがれ」

「やがれー!」


 振り向いた矢凪に、しゃもじを刃物のように突きつけられ、「はいはい」と丞幻は両手を挙げた。



 矢凪は米を炊けるだけでなく、味噌汁も作る事ができた。

 昨日の残りの総菜、曾根崎屋が置いておいた漬物に加えて、温かい米と味噌汁があるだけで朝餉が贅沢なものに感じる。ずずーっと味噌汁をすすって、丞幻はほふぅと息を吐いた。やや塩辛い気がするが、十分に美味しい。


「矢凪、お前料理できるんならそう言いなさいよー。なんで今まで言わなかったのよ」

「あ? 作んのが面倒くせぇんだよ。食いに出た方が楽だろうが」


 ふん、と矢凪は鼻を鳴らした。


「それに、てめぇん家の厨ぁ立派だが道具がなんもねぇじゃねえかよ。言われりゃ米くれぇ炊いてやっけど、羽釜も鍋もねえ、ざるしかねぇんじゃな」


 笊で米炊けってか、と続けてぽりぽりと漬物をかじる。

 白米で膨らんだ頬をもちもち動かして飲み込んだ後、シロが大仰な動作で首を横に振った。


「しょうがないんだ。こいつ一回、でいすいしたあげくに『そうよ! つまみがまずいのは全部こいつらが悪いのよ!』って、くりやで暴れ回ってぜーんぶ壊したんだ」


 はて、覚えが無い。そんな事があっただろうか。


「えー、そんな事あったぁ? ぜんっぜん覚えてないわー」

「おぼえてないから、でいすいなんだろ。ばかだなあ、丞幻」

「じょーげん、おばかねえー」

「あー、そういう事言うの。ふーん。そういう悪い子達の漬物はこうよ!」

「おれのきゅうり!」

「あー! じょーげんがオレのたくあんとったぁー!」

「もちっと静かに食えやてめぇら」


 けらけらと笑い合いながらの食事が終わり、食器を片付けてしまえば途端に暇になる。

 いつもなら芝居を見に行くなり通りをぶらつくなりするのだが、今回は曾根崎屋の企画の関係上、出かける事が事前に禁止されている。室内で暇を潰すしか無かった。

 今日は晴れているが、程よく涼しい風が吹いていた。もし庭が整えられていたなら、ちび達を庭に放逐する事もできたのだが。

 丞幻は口髭を撫でつけつつ、眼前のシロを見た。


「で、ワシとシロちゃんは毬遊びなのね」

「アオは矢凪と、廊下で追っかけっこがしたいみたいだからな。おれは今日、追っかけっこの気分じゃないんだ」


 それに、と行儀よく正座したシロは毬を抱えて得意げに胸を張った。


「丞幻はさびしがり屋だからな。しょうがないから、おれが遊んでやる」

「まー、ありがとシロちゃん。嬉しいわー。後で美味しいおせんべ、こっそり食べようねー」


 廊下の外からは、アオのはしゃぐ声と矢凪の足音が聞こえてきた。

 あっちの追っかけっこ組には内緒よー、と人差し指を口元に当てる。シロもくふくふと笑いながら、しー、と同じように口元に人差し指を当てた。密談成立。

 ぽん、と瓢箪柄の毬が飛ぶ。


「じゅんばん、こうばん、じゅんばん、こうばん、まーもれん悪い子どーこにいるー」

「こーこーよーん」

「悪い子、悪い子なべにしよ。ぷーつぷーつ煮込んでに食わしょ」

「隣のおじちゃんなんてどーお」

「おーじさんごーめんくだしゃーんせ、なーべなーべ一つ、食いなっせー」


 ぽん、ぽんと毬を投げ合いながら手毬歌を歌う。視線も瘴気も相変わらず絡みついてきて鬱陶しいが、遊んでいる分には一人でいるより気がまぎれた。


「いやー、ワシ一人でここ泊まらんで良かったわー。一人で泊まってたら、嫌になって速攻で逃げてたかもしれんし」

「そしたら、おれとアオは矢凪と一緒に、蛙田沢あたざわのりょうてい通りでごうゆうしてたぞ。おいしいもの、たらふく食べてお前に自慢するんだ」

「……なーんか、最近アオちゃんもシロちゃんも矢凪にくっついてるわねー。ワシ、最近仲間外れにされて寂しいわっ」


 毬をシロに投げ返して目元に指を当て、よよよ、と泣き真似をしてみせる。


「あのな、矢凪はな、抱っこも上手だし、遊んでくれるんだぞ。こないだはな、ままごとしたんだ。おれが商家の女房で、アオが隣の女房と浮気してる飲んだくれの旦那で、矢凪が商家の女房に取り入って盗みのための情報を得ようとする盗人の間男役やったんだ」

「なにその闇の煮凝りみたいなままごと面白そうじゃない! 今度ワシも混ぜてね、絶対よ」

「いいぞ。じゃあお前は赤子役な。ちゃんと()()()付けるんだぞ」

「おっと狂気の絵面だわねん」


 襁褓(むつき)を付けて「おぎゃー」と泣く自分を想像して、思わず噴き出す丞幻。

 畳に突っ伏して肩を震わせつつ、それにしても、と思う。よくここまでシロが矢凪に懐いたものだ。ほんの少し前までは、まともに目も合わせられなかったのに。今ではすっかりべったりで、丞幻が嫉妬する程である。


「あいつ、意外と面倒見良いし子どもの扱い上手いのよねえ。教え処の先生でもしてたのかしらん」


 そこら辺踏まえて色々聞いてみよう。そうだ、やる事も無いし調度良い。ちび達が昼寝をした後にでも、遊女の事から面倒見の事まで、一から十までじっくり聞いてやろう。


「ん」


 丞幻がそう決意していると、ぱっとシロが襖の方を振り返った。人の気配だ。丞幻も襖に顔を向ける。


「……」


 すっ、と静かに襖が開いて、当の矢凪が入ってきた。

襁褓=布おむつ


〇 ● 〇


冒頭の怪現象は筆者が実際に体験したものです。夜勤の際に仮眠を取っていた所、影法師に覗き込まれました。白昼夢だとしても、心臓が口から飛び出るほど怖かったです。



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