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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
怪異:目々屋敷

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「……まあ、誰もいないわよねえー」


 腹ばいのまま振り返った先には、誰もいなかった。お約束と言えばお約束だが、実際やられると気味悪い。眉間に自然と皺が寄った。

 よいしょー、と気分を変えるように、わざと大きな声を上げて本を小脇に抱えて立ち上がる。


「覗き見する奴のいる所になんて、おちおちいられないわ! 着替えでも覗かれたらたまったもんじゃないし、ワシは別の部屋に行くわよ!」


 予定を早めて、酒とつまみを持って矢凪の部屋にでも突撃しよう。

 丞幻が泊まっている部屋は、かの武士が目に筆を突き立てて死んでいたという例の部屋だ。なので他の部屋より危険度が高い、気がする。実際に今、おかしなことが起こったし。

 十年前の事なので当然血は拭き取られているものの、どうにもこうにも薄寒い。死人の出た部屋に泊まるのは、企画としては美味しいのだろうが。

 ちなみに矢凪達が泊まっている部屋は、ここから離れた玄関近くにある二部屋である。どの部屋で寝るかのくじを引いてそう決まったのだ。悲しい。


「うーわ、くっらー。明かり持ってった方が良さそうねん」


 襖を開けて廊下に顔を出す。明かりの無いそこは暗く、黒く塗られてるせいもあって、底無しの闇が口を開けているようにも見えた。

 ここを明かり無しで進むのは、流石に無理だ。

 細く切った玻璃竹を手燭に乗せて、廊下に出た。

 相変わらず廊下にも瘴気は霧のように漂っていて、視界が一層悪い。陰気の満ちる夜になったせいか、昼よりも濃度が濃いように感じる。


「せめて大本さえ分かればねえ。矢凪にぶっ飛ばしてもらうなり、アオちゃん達に追っ払ってもらうなりできるんだけど」


 昼餉の後、それほど多くない部屋を全員で視て回ったのだが、結局どこに怪異の大本がいるのかは掴めなかった。

 家中に満ちた瘴気が隠れ蓑の役割をしていて、怪異の姿を綺麗に覆い隠しているのだ。試しに視線を強く感じる場所を矢凪に殴ってもらったが、なんの変化は無かった。壁にひびが入っただけだった。

 丞幻はそれを見て、密かに冷や汗を滲ませた。

 どうか、どうか夕吉に、ひいては曾根崎屋にひびが入った事がばれませんように。


「それに、アオちゃんの鼻は馬鹿になっちゃってるしねえ。まあ墨の臭いが濃いから、しょーがないわね。鼻が利きすぎるってのも困りものじゃのー」


 人間である自分達ですら、顔をしかめる程に墨の臭いが濃いのだ。それより鼻の良いアオがどうなるかなど、推して知るべし。

 間近で見られているような視線の群れに耐えつつ、厨に到達する。竈の内側すら黒く塗られた厨には、シロとアオがはしゃぐ声が微かに聞こえてきていた。


「えーっと、確か矢凪が三つくらい酒持ってきてくれたのよねー。瓢箪腰にぶら下げて。いやー、あれ面白かったわー」


 腰に大きな瓢箪を三つ括りつけていた矢凪の姿を思い出し、丞幻は一人肩を震わせた。

 良い盆があったので、それに三つの瓢箪と猪口を二つ乗せる。後はつまみだ。確か、日持ちするものを曾根崎屋が置いていってくれているはずだ。


「あら、干しスルメあるじゃないの、干しスルメ。お、蒲鉾かまぼこに揚げ豆腐もあるじゃなーい。これに醤油かけると美味いのよね、やるじゃないの曾根崎屋」


 ついでに、昼に残した胡瓜と茗荷の酢の物をちょいちょいと小鉢に乗せる。これは中々良いのではないだろうか。


「よしよし。ほんとは炙ればもっと美味しいんだけどねえ、スルメ」


 だが、丞幻がやればスルメは黒焦げ。ついでに目々屋敷も、墨ではなく煤で真っ黒焦げになってしまうに違いない。

 盆に手燭を乗せ、両手で持ち上げる。

 瓢箪を倒さないように気を付けながら、一段高くなっている廊下に戻った。


「視線しか感じないけど、耳ってあんのかしらねえ。ここの怪異に」


 こほん、と咳払いをして丞幻は視線を上向けた。


「……ちょっと聞いてる? もしお前、ここでワシを驚かせてみ? そんで驚いたワシが盆落として、酒とつまみ駄目にしてみ? お前絶対許さんからね。目という目に蜜柑汁と辛子味噌塗ったくるからね、墨でなく。分かった? 分かったら大人しく指くわえて見てなさいよ」


 果たして本当に目があるのか不明だが、そう脅しつけておく。まあ件の武士は「目がある、見ている」と言っていたから、あるのだろう、多分。

 そうして顔を戻して。


「!?」


 黒くわだかまった影が前方に見えて、思わず肩が小さく跳ねた。瓢箪が揺れて、皿がかちゃかちゃと音を立てる。

 盆に乗った手燭の玻璃竹に照らされて、自己主張の強い毛先が見えた。


「……なんだ、矢凪じゃないの。脅かさないでよね、もう」


 一瞬跳ねあがった心臓を宥めながらよくよく見れば、影は今まさに訪ねて行こうとした人物であった。こちらに背を向け、廊下に立っている。


「……」

「……矢凪?」


 様子がおかしい。

 丞幻は盆を廊下の端に置いて手燭だけを持ち、そろそろと近寄った。微動だにしない矢凪の背中が、玻璃竹の白い光に浮かび上がる。


「……な…………る……て……」


 矢凪は厠の戸の前に棒立ちになり、額を戸に押し付けていた。ぽそぽそと、何かを口の中で呟いているのだが、声が小さすぎて何を言っているか定かではない。


「矢凪、どうしたのー。漏れそうなら、さっさと厠入んなさいよ。今、シロちゃんもアオちゃんも入ってないわよん」

「……み…………な…………ろ……」


 おどけて明るく声をかけてみるが、反応は無い。丞幻は強めに矢凪の肩を叩き、耳元で「矢凪!」と声をかけた。


「っ!」

「にょわっ!?」


 反応は劇的だった。

 鋭い風切り音と共に拳が振るわれた。こめかみ目掛けて加減無しで飛んできた裏拳を、すんでで回避する。とと、と後ろに二、三歩よろめくように下がって、丞幻は胸に手を当てた。ばくばくと心臓がうるさい。

 びっくりした。ここ最近で一番びっくりした。


「……あ?」


 ぱちり、と満月の瞳が夢から覚めたように瞬く。


「ちょっ、お前ねえ! いくらなんでも後ろから声かけて裏拳は無いでしょーよ! ワシの可憐で守りたくなるほど小さな頭が、落ちた瓜みたいに爆散するとこだったでしょ!」

「別に小さかねぇだろ」


 律儀につっこみを入れてから、矢凪は己の拳と丞幻を不思議そうに見比べた。


「……あ?」

「あ? じゃないわよー、この仏頂面。てか、厠の前で何してたの?」


 矢凪はますます不思議そうにした。


「何って、厠に入ろうとしたんだが」


 そしたらてめぇが急に声をかけてきたから驚いた、と続けた矢凪の前髪が、変に潰れている。髪に癖が付くほど、長い時間その場に立っていたのは明白だった。だというのに、その記憶は無いらしい。

 夕吉に聞かされた話に、そんな話がありはしなかっただろうか。

 ――蔵の壁をじっと見つめて動かなく……。

 昼間に聞かされた話が耳の奥で蘇る。


「お前、大丈夫? どっか具合悪いとか、変な声が耳の奥でするとか、そういうことなーい?」

「ねぇよ。……つーか、てめぇも厠か?」

「あ、ごめんね、お前厠だったわね。いいわよいいわよ、行って行ってー」


 顔いっぱいに不審の色を浮かべながらも、厠に入る矢凪を見送って、丞幻は首をかしげた。

 今のはなんだったのだろう。矢凪の悪ふざけだろうか。いやしかし、そんな事をするタチではない筈だ。では怪異の仕業だろうか。憑りつかれたのだろうか。


「でも、そんな感じは無かったのよねー」


 爪先でふくらはぎの辺りをかきながら、首を反対側に捻る。

 人間に怪異が憑りつけば、そうと分かる。だが矢凪に何かが憑りついた様子は視えなかった。あるいは瘴気に当てられたか。常人なら半刻滞在しただけで気分が悪くなるほど、この屋敷には瘴気が満ちている。それで精神に異常をきたしたのかもしれない。それとも、亡き武士の思念でも残っていて、それに同調してしまったか。

 ああでもない、こうでもないと黒い廊下で一人考えていると、矢凪が出て来た。同じ所に立っている丞幻を見て、「おい」と声をかける。


「出たぞ」


 待ってたんだろ、と言いたげに背後の戸を親指で指す矢凪に、丞幻は違う違うと首を振った。


「酒とつまみあるから、お前と飲もうと思って持ってきたのよー。飲むでしょ?」


 手燭を持った手を、床に置いた盆に向ける。

 アオとシロがしゃがみ込み、皿に乗せたつまみをむしゃむしゃ食べていた。


「こらぁっ! アオちゃんシロちゃん、勝手に食べちゃ駄目でしょ! それワシらのおつまみよ!」

「むぐっぐー! むむー!」

「うるさいぞ、けち。おれ達にもよこせ。育ちざかりだぞ、夜は腹が減るんだ」


 子狼の鋭い牙が干しスルメを噛み砕き、白い小さな指が薄く削った蒲鉾を次から次へと口に運んでいく。よく見れば皿のほとんどが空になっていた。

 しまった、考え事に集中してつまみ盗人達への警戒を怠っていた。もう茗荷しか残ってない。


「いい、いい。食わせろよ。俺ぁもう寝る」

「え、寝るの?」


 自分の横を素通りする矢凪に、丞幻は目をしばたたかせた。


「寝る。んなじろじろ鬱陶しい中で飲んでも、酒がまずくなるだけだ」

「あー……それもそうねえ」


 確かに昼餉も夕餉も、視線が気になってろくに味がしなかった。成程と納得して頷いている内に、


「てめぇらもさっさと寝ろよ」

「う!」

「寝るのか。お休み」

「おう」


 短い言葉を交わして、矢凪は自室に引き上げてしまった。


「……ちなみにシーロちゃん。あいつになんか、変なの視えた?」


 襖が閉じるのを見てから、傍らのシロを見下ろす。もぐもぐと口いっぱいの蒲鉾を咀嚼してから、シロは小さな口を開いた。


「視えなかったぞ。いつも通りだった」

「う! へんなにおいもなかったー! いいにおいー!」

「あっそう、困ったわねー。なんだったのかしらん、あれ」


 怪異の目を通せば、なにか分かるかと思ったが浅はかだったか。


「ま、なるようになれ、だわねー。別にここで一月過ごすわけでもなし」


 もし、また矢凪がおかしくなったら、それはその時に対処しよう。臨機応変だ。ついでに万一自分がおかしくなったら、一発ぶん殴って正気に返してもらうよう頼まねば。

 そこまで考えて、先の唸りを上げて振るわれる拳を思い出した。


「……手加減して殴るよう頼んどかないと駄目ねー」


 最後の蒲鉾の欠片を取り合うシロとアオの頭上で、丞幻は硬く決意した。


〇 ● 〇


 見ている。見ている。見ている。

 姿は無いが、見ている。

 いつでも。屋敷のどこからでも。数多の目が、見ている。


〇 ● 〇

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