五
「……まあ、誰もいないわよねえー」
腹ばいのまま振り返った先には、誰もいなかった。お約束と言えばお約束だが、実際やられると気味悪い。眉間に自然と皺が寄った。
よいしょー、と気分を変えるように、わざと大きな声を上げて本を小脇に抱えて立ち上がる。
「覗き見する奴のいる所になんて、おちおちいられないわ! 着替えでも覗かれたらたまったもんじゃないし、ワシは別の部屋に行くわよ!」
予定を早めて、酒とつまみを持って矢凪の部屋にでも突撃しよう。
丞幻が泊まっている部屋は、かの武士が目に筆を突き立てて死んでいたという例の部屋だ。なので他の部屋より危険度が高い、気がする。実際に今、おかしなことが起こったし。
十年前の事なので当然血は拭き取られているものの、どうにもこうにも薄寒い。死人の出た部屋に泊まるのは、企画としては美味しいのだろうが。
ちなみに矢凪達が泊まっている部屋は、ここから離れた玄関近くにある二部屋である。どの部屋で寝るかのくじを引いてそう決まったのだ。悲しい。
「うーわ、くっらー。明かり持ってった方が良さそうねん」
襖を開けて廊下に顔を出す。明かりの無いそこは暗く、黒く塗られてるせいもあって、底無しの闇が口を開けているようにも見えた。
ここを明かり無しで進むのは、流石に無理だ。
細く切った玻璃竹を手燭に乗せて、廊下に出た。
相変わらず廊下にも瘴気は霧のように漂っていて、視界が一層悪い。陰気の満ちる夜になったせいか、昼よりも濃度が濃いように感じる。
「せめて大本さえ分かればねえ。矢凪にぶっ飛ばしてもらうなり、アオちゃん達に追っ払ってもらうなりできるんだけど」
昼餉の後、それほど多くない部屋を全員で視て回ったのだが、結局どこに怪異の大本がいるのかは掴めなかった。
家中に満ちた瘴気が隠れ蓑の役割をしていて、怪異の姿を綺麗に覆い隠しているのだ。試しに視線を強く感じる場所を矢凪に殴ってもらったが、なんの変化は無かった。壁にひびが入っただけだった。
丞幻はそれを見て、密かに冷や汗を滲ませた。
どうか、どうか夕吉に、ひいては曾根崎屋にひびが入った事がばれませんように。
「それに、アオちゃんの鼻は馬鹿になっちゃってるしねえ。まあ墨の臭いが濃いから、しょーがないわね。鼻が利きすぎるってのも困りものじゃのー」
人間である自分達ですら、顔をしかめる程に墨の臭いが濃いのだ。それより鼻の良いアオがどうなるかなど、推して知るべし。
間近で見られているような視線の群れに耐えつつ、厨に到達する。竈の内側すら黒く塗られた厨には、シロとアオがはしゃぐ声が微かに聞こえてきていた。
「えーっと、確か矢凪が三つくらい酒持ってきてくれたのよねー。瓢箪腰にぶら下げて。いやー、あれ面白かったわー」
腰に大きな瓢箪を三つ括りつけていた矢凪の姿を思い出し、丞幻は一人肩を震わせた。
良い盆があったので、それに三つの瓢箪と猪口を二つ乗せる。後はつまみだ。確か、日持ちするものを曾根崎屋が置いていってくれているはずだ。
「あら、干しスルメあるじゃないの、干しスルメ。お、蒲鉾に揚げ豆腐もあるじゃなーい。これに醤油かけると美味いのよね、やるじゃないの曾根崎屋」
ついでに、昼に残した胡瓜と茗荷の酢の物をちょいちょいと小鉢に乗せる。これは中々良いのではないだろうか。
「よしよし。ほんとは炙ればもっと美味しいんだけどねえ、スルメ」
だが、丞幻がやればスルメは黒焦げ。ついでに目々屋敷も、墨ではなく煤で真っ黒焦げになってしまうに違いない。
盆に手燭を乗せ、両手で持ち上げる。
瓢箪を倒さないように気を付けながら、一段高くなっている廊下に戻った。
「視線しか感じないけど、耳ってあんのかしらねえ。ここの怪異に」
こほん、と咳払いをして丞幻は視線を上向けた。
「……ちょっと聞いてる? もしお前、ここでワシを驚かせてみ? そんで驚いたワシが盆落として、酒とつまみ駄目にしてみ? お前絶対許さんからね。目という目に蜜柑汁と辛子味噌塗ったくるからね、墨でなく。分かった? 分かったら大人しく指くわえて見てなさいよ」
果たして本当に目があるのか不明だが、そう脅しつけておく。まあ件の武士は「目がある、見ている」と言っていたから、あるのだろう、多分。
そうして顔を戻して。
「!?」
黒くわだかまった影が前方に見えて、思わず肩が小さく跳ねた。瓢箪が揺れて、皿がかちゃかちゃと音を立てる。
盆に乗った手燭の玻璃竹に照らされて、自己主張の強い毛先が見えた。
「……なんだ、矢凪じゃないの。脅かさないでよね、もう」
一瞬跳ねあがった心臓を宥めながらよくよく見れば、影は今まさに訪ねて行こうとした人物であった。こちらに背を向け、廊下に立っている。
「……」
「……矢凪?」
様子がおかしい。
丞幻は盆を廊下の端に置いて手燭だけを持ち、そろそろと近寄った。微動だにしない矢凪の背中が、玻璃竹の白い光に浮かび上がる。
「……な…………る……て……」
矢凪は厠の戸の前に棒立ちになり、額を戸に押し付けていた。ぽそぽそと、何かを口の中で呟いているのだが、声が小さすぎて何を言っているか定かではない。
「矢凪、どうしたのー。漏れそうなら、さっさと厠入んなさいよ。今、シロちゃんもアオちゃんも入ってないわよん」
「……み…………な…………ろ……」
おどけて明るく声をかけてみるが、反応は無い。丞幻は強めに矢凪の肩を叩き、耳元で「矢凪!」と声をかけた。
「っ!」
「にょわっ!?」
反応は劇的だった。
鋭い風切り音と共に拳が振るわれた。こめかみ目掛けて加減無しで飛んできた裏拳を、すんでで回避する。とと、と後ろに二、三歩よろめくように下がって、丞幻は胸に手を当てた。ばくばくと心臓がうるさい。
びっくりした。ここ最近で一番びっくりした。
「……あ?」
ぱちり、と満月の瞳が夢から覚めたように瞬く。
「ちょっ、お前ねえ! いくらなんでも後ろから声かけて裏拳は無いでしょーよ! ワシの可憐で守りたくなるほど小さな頭が、落ちた瓜みたいに爆散するとこだったでしょ!」
「別に小さかねぇだろ」
律儀につっこみを入れてから、矢凪は己の拳と丞幻を不思議そうに見比べた。
「……あ?」
「あ? じゃないわよー、この仏頂面。てか、厠の前で何してたの?」
矢凪はますます不思議そうにした。
「何って、厠に入ろうとしたんだが」
そしたらてめぇが急に声をかけてきたから驚いた、と続けた矢凪の前髪が、変に潰れている。髪に癖が付くほど、長い時間その場に立っていたのは明白だった。だというのに、その記憶は無いらしい。
夕吉に聞かされた話に、そんな話がありはしなかっただろうか。
――蔵の壁をじっと見つめて動かなく……。
昼間に聞かされた話が耳の奥で蘇る。
「お前、大丈夫? どっか具合悪いとか、変な声が耳の奥でするとか、そういうことなーい?」
「ねぇよ。……つーか、てめぇも厠か?」
「あ、ごめんね、お前厠だったわね。いいわよいいわよ、行って行ってー」
顔いっぱいに不審の色を浮かべながらも、厠に入る矢凪を見送って、丞幻は首をかしげた。
今のはなんだったのだろう。矢凪の悪ふざけだろうか。いやしかし、そんな事をする質ではない筈だ。では怪異の仕業だろうか。憑りつかれたのだろうか。
「でも、そんな感じは無かったのよねー」
爪先でふくらはぎの辺りをかきながら、首を反対側に捻る。
人間に怪異が憑りつけば、そうと分かる。だが矢凪に何かが憑りついた様子は視えなかった。あるいは瘴気に当てられたか。常人なら半刻滞在しただけで気分が悪くなるほど、この屋敷には瘴気が満ちている。それで精神に異常をきたしたのかもしれない。それとも、亡き武士の思念でも残っていて、それに同調してしまったか。
ああでもない、こうでもないと黒い廊下で一人考えていると、矢凪が出て来た。同じ所に立っている丞幻を見て、「おい」と声をかける。
「出たぞ」
待ってたんだろ、と言いたげに背後の戸を親指で指す矢凪に、丞幻は違う違うと首を振った。
「酒とつまみあるから、お前と飲もうと思って持ってきたのよー。飲むでしょ?」
手燭を持った手を、床に置いた盆に向ける。
アオとシロがしゃがみ込み、皿に乗せたつまみをむしゃむしゃ食べていた。
「こらぁっ! アオちゃんシロちゃん、勝手に食べちゃ駄目でしょ! それワシらのおつまみよ!」
「むぐっぐー! むむー!」
「うるさいぞ、けち。おれ達にもよこせ。育ちざかりだぞ、夜は腹が減るんだ」
子狼の鋭い牙が干しスルメを噛み砕き、白い小さな指が薄く削った蒲鉾を次から次へと口に運んでいく。よく見れば皿のほとんどが空になっていた。
しまった、考え事に集中してつまみ盗人達への警戒を怠っていた。もう茗荷しか残ってない。
「いい、いい。食わせろよ。俺ぁもう寝る」
「え、寝るの?」
自分の横を素通りする矢凪に、丞幻は目をしばたたかせた。
「寝る。んなじろじろ鬱陶しい中で飲んでも、酒がまずくなるだけだ」
「あー……それもそうねえ」
確かに昼餉も夕餉も、視線が気になってろくに味がしなかった。成程と納得して頷いている内に、
「てめぇらもさっさと寝ろよ」
「う!」
「寝るのか。お休み」
「おう」
短い言葉を交わして、矢凪は自室に引き上げてしまった。
「……ちなみにシーロちゃん。あいつになんか、変なの視えた?」
襖が閉じるのを見てから、傍らのシロを見下ろす。もぐもぐと口いっぱいの蒲鉾を咀嚼してから、シロは小さな口を開いた。
「視えなかったぞ。いつも通りだった」
「う! へんなにおいもなかったー! いいにおいー!」
「あっそう、困ったわねー。なんだったのかしらん、あれ」
怪異の目を通せば、なにか分かるかと思ったが浅はかだったか。
「ま、なるようになれ、だわねー。別にここで一月過ごすわけでもなし」
もし、また矢凪がおかしくなったら、それはその時に対処しよう。臨機応変だ。ついでに万一自分がおかしくなったら、一発ぶん殴って正気に返してもらうよう頼まねば。
そこまで考えて、先の唸りを上げて振るわれる拳を思い出した。
「……手加減して殴るよう頼んどかないと駄目ねー」
最後の蒲鉾の欠片を取り合うシロとアオの頭上で、丞幻は硬く決意した。
〇 ● 〇
見ている。見ている。見ている。
姿は無いが、見ている。
いつでも。屋敷のどこからでも。数多の目が、見ている。
〇 ● 〇
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