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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
遊郭:蜃楼閣

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ご来光

 丞幻は床の襖を蹴り開けた。おしるこの首根っこを引っ掴み、「みぎゃあっ!」という悲鳴を聞き流し飛び降りる。少しの浮遊感。眩暈。着地。


「もうっ、これだから夢って奴は!」


 床の襖から下に飛び降りた筈なのに、丞幻の足は階段を踏んでいた。足を踏み外しそうになって慌てて踏ん張る。幅の狭い白い階段が、上下に伸びていた。左右は壁で窓は無し。明かりは無いが周囲は見える。真っすぐ伸びている下と、途中で直角に折れ曲がっている上と。上がるか、下るか。

 逡巡(しゅんじゅん)は一瞬。


「上よ!」


 一声叫び、丞幻は階段を駆け上がった。


「ごらーいこう」


 だん、と重たいものを叩きつける音が背後からする。振り返らなくても分かる。あれが追ってきている。

 肩の上で爪を立てたおしるこが、背後を振り返りながら叫んだ。


「兄さん、一体どうする気だい!」

「ご来光を拝めば、多分この悪夢から抜けれるわ! だから上がるの! 太陽は上にあるもんでしょ!」

「にゃるほどね! でっ、そのご来光はちゃんと上がるんだろうね!」

「多分ね! ただ、それに必要じゃないかなーって思う着物が今、手元に無いのよ!」

「はあぁ!?」


 丸い珊瑚の目が、ひん剥かれた。


「最初の部屋に置いてきちゃったのよ! あの一本足に追っかけられた時にね!」

「じゃあ、どーするんだい! 今から戻るってにょかい!?」

「いーや、戻らんわよ! いいこと姐さん、ここは夢なの!」


 ぜい、と荒い息を吐きながら、丞幻は叫ぶ。


「そんにゃことは知ってるよ! 兄さんがそう言ったんだろう! それがどうしたって言うんだい!!」


 尻尾をぶわぶわ膨らませ、おしるこが叫び返す。


「夢の中だから、ある程度は多分、何とかなるわよ!!」

「はあ!?」


 背後から響く足音と声を意識から締め出し、丞幻は脳裏に持ってきた着物を強く思い描いた。

 白い麻の着物。着物全体に墨で高山が、肩部分に橙色でご来光が描かれた、着物。自分はあれを持っている。この手にある。右手に持っている。子虎から受け取ったあの着物を、右手にしっかりと握っている。

 ――丞幻の右手に、柔らかい感触が生まれた。

 泥の中を歩いているように重い足を必死に動かしながら、右を見る。最初に化物に追われた時、置いてきたはずの麻の着物が、己の右手に掴まれていた。

 丞幻は走りながら、拳をぐっと握る。


「よおっし、成功!! 夢の中で飛びたいと思ったら飛べたりするでしょ、あれと同じ感じよ!」


 感嘆、というより呆れた調子で、おしるこがみゃあと鳴いた。


「さすが夢、にゃんでもありだね……!」


 手に持ったままでは邪魔なので、着物を腰に巻いて袖を結ぶ。


「にゃるほどね、それがおてんと様の代わりってわけかい。薄っぺらくて、にゃんとも頼りにゃさそうだけどねえ!」

「なーに、これはどこぞの神様から託宣を受けた虎の大将が持ってきた、有難いお着物よ! きっと、多分、ワシらの明るい未来に導いてくれるはずよ。そうでなきゃ、何の為にお告げがあったっていう話よ! お洒落の為っていう理由だったら、その神様の境内に犬の糞まき散らしてやるわ!!」


 丞幻は口を滑らかに動かし、己とおしるこに発破をかける。

 そうでなければ、じわじわと迫る背後の圧迫感に負けて、足が萎えてしまいそうだ。

 どだん、どだん、どだん。どだん、どだん、どだん。……足音は明らかに、増えていた。

「ごらーいこう」「ごらーいこう」「ごらーいこう」……複数の声が、絡まり合って一つの言葉を吐き出している。

 背後を時々振り返っているおしるこの背中の毛が、いが栗のように膨れっぱなしなので、まあつまり、そういうことだろう。


 ――じょーだん! うっかり振り向いて、一本足集団と目合わせたくないわ!!


 というかそもそも、自分達を追いかけてなんの得があるのだ。追いかけてお得なのは飴売りだけだ。連中は追いかけられると、踊りを踊っておまけをくれる。シロとアオはそれが大好きなので、飴売りが通りかかるのをいつも今か今かと待っているのだ。


「兄さん、目がどっかにいってるよ!」


 夢の中で追いかけられる理不尽に、思わず現実逃避をしかける丞幻。その頬を肉球で容赦無く、おしるこがぶった。ぱあんと良い音がする。


「姐さん! ちょっとばかり現実逃避させてくれたっていいじゃないの!」

「夢の(にゃか)でまで夢見てんじゃにゃいよ、こにょ、すっとこどっこい! さっさと足動かしにゃ!」


 ぎゃあぎゃあ叫び合いながら、丞幻はおしるこを乗せて階段を駆け上がっていく。直角に折れ曲がった場所を、足を滑らせないようにしながら曲がる。更に上へ伸びる階段があった。

 一体どこまで続くのだと舌打ちしかけて、気づいた。

 真っ白く光る階段の、遥か遥か上。階段の終点地であるそこに、アオの小指の先っちょくらい小さな小さな、襖があった。

 あれだ、と直感した。

 あそこまで行けば、終わる。

 終点が見えれば気力が湧く。

 喉奥に滲む血の味を飲み込んで、もうひと踏ん張りだと足に力を込めた時。

 前方に白い壁が降ってきた。


「みゃァっ!?」


 ずどおん、と腹に響く重たい音が上がる。おしるこが悲鳴を上げる。壁じゃない、獣の腹だ。止まるか、いやぶつかる。右脇に隙間、いけるか。迷っている暇は無い。


「っああもう!」


 脳内に渦巻く百万語の罵倒を飲み込んで、丞幻は右脇に見える僅かな隙間に身体を滑り込ませた。頭、上半身、腰と抜けて、足が掴まれた。右足が掴まれ、身体が向こうへ引きずり戻される。丞幻は咄嗟に、腰に巻き付けていた着物をほどいた。肩から飛び降りたおしるこに、それを投げつける。


「姐さん、これ持ってって! 上まで!」

「それをアタイに近寄らせんじゃにゃいよ!」


 なんで自分がそんなことを、とも。あんたはどうするんだ、とも言わず。それだけ叫んだおしるこが、階段に落ちた着物を咥えた。

 白い毛皮の向こうに団子尻尾が消えていくのを見送る間もなく、足を強い力で引っ張られ、階段に叩きつけられる。夢の中のおかげなのか、相当な勢いで叩きつけられたにも関わらず、衝撃も痛みも鈍かった。


「ごらーいこう」「ごらーいこう」「ごらーいこう」「ごらーいこう」


 のっぺりとした、感情の無い声が丞幻を取り囲む。腹筋を使って飛び起きると、足元に違和感。

 狭苦しい階段だったはずなのに、いつの間にか板が張られた正方形の(やぐら)に丞幻は立っていた。……夢だからと、なんでもあり過ぎではないだろうか。

 見下ろすと櫓は階段の上に立てられていた。四方は注連縄で囲まれている。ちらと下を見れば、例の一本足共がひしめきあい、こちらを見上げていた。おしるこの姿は見えない。首尾よく逃げてくれたと思いたいが、彼女ばかりを気にしてもいられない。

 重い風切音。視界の隅から来る白い塊を、丞幻は身体を左にさばいて躱す。


「しかし、お宅と(まみ)えるのは二度目かしらあ!?」


 剛腕の一撃をいなして懐に潜り込み、肘を跳ね上げる。厚い胸元に肘鉄をぶち込むが、硬い。厚い毛皮に阻まれて、中まで衝撃が届いていない。追撃が来る前に距離を取り、改めて丞幻は眼前の獣を見上げた。

 縦にも横にもでかい、二足歩行の猿。白い毛皮に、櫓の床をびしりと打つ長い尾。毛に覆われていない顔部分の皮膚はくすんだ肌色。

 その右目は鋭いもので突かれたように抉れ、引きつれた傷跡を晒していた。……そう。かの香坂刃左衛門と同じように。赤銅色の左目の縁は、役者が紅で目元を縁取ったように赤い。

 間違いない。

 こいつは堅須国で香坂と名乗った男が変じた、あの巨大な猿だ。

 大きな口が開かれ、鋭い牙が覗く。唾液をまとった長い舌が、べろりと唇を舐めた。


 ――()()()()()


 軋むような笑声が大猿から漏れて、丞幻は眉を寄せた。

 愉しんでいる。

 この状況を。丞幻の行動を。言動を。全てひっくるめて、愉しんで、嗤っている。

 無性に腹が立った。


「お宅は愉しいんでしょーけど、こっちは全く楽しくないわよ」


 こん畜生、と丞幻は言葉を吐き捨てた。



 唸りを上げて振るわれた足を(かわ)し、懐に入り込む。右手の人差し指と中指。二本揃え、無事な左の眼球目掛けて突き込む。巨体に似合わぬ身軽さで、猿が後方宙返りし回避。蛇のようにしなった尾が、丞幻の脇腹を打ち据えた。踏ん張りきれず横に吹き飛ばされる。

 四方を囲む注連縄に身体が叩きつけられ、縄が軋みを上げて大きく外側に張り出した。夢独特の「なんでもあり」のおかげなのか、縄は千切れることなく勢いよく元の位置まで戻り、丞幻の身体を床に叩きつけた。衝撃で、肺の空気が口から飛び出す。


「ああもう、いったいわねえ……! こういうのは矢凪の役目でしょうに!」


 注連縄を握り、毒づきながら上体を起こす。手のひらに刺さる、縄のちくちくとした感触がやけに現実的だった。


「苦、忌、忌、忌、忌」


 巨猿が嗤いながら、その場で何度も跳ねる。その度に、したんしたんと長い尾が床に叩きつけられた。

 早く立て、と言外に言われている。

 先程同様に痛みは遠いが、何度も何度も叩きつけられ、吹き飛ばされれば流石に堪える。縄を掴み、立とうと力を込めた膝が軋んで、丞幻は口内で舌を打った。

 丞幻が修めた武術は、藤堂(とうどう)流体術。刀など武器を持った相手をいなし、捕縛する捕縛術を主とした体術だ。正面切っての戦い方も教わっているものの、元々は対人間の武術であるからして。

 人外の動きをする怪異相手では、分が悪い。

 現に、拳を打ち込もうが蹴りを飛ばそうが、巨体はびくともしてくれない。ああ腹が立つ。可愛くない。

 矢凪がここにいれば、喜び勇んで戦ってくれるだろうに。


「なんでいないのよ、こういう時に。助手でしょうが、あいつ」


 まあ、そもそも自分が矢凪達を待たず、蜃楼閣に来たからいないのは当然なのだが。あまりに理不尽な目に合い続けているので、ちょっと愚痴りたくなった丞幻だ。

 縄に手をかけたまま、なんとか立ち上がると同時に巨体が地を蹴り、頭から突っ込んできた。横に飛んで砲弾のようなそれを躱し、反撃しようとするが素早く距離を取られる。

 おしるこが着物を上まで持っていってくれる間の時間稼ぎとはいえ、辛い。早く姐さんが頂上まで辿り着いてくれれば、と思った瞬間、悲鳴のような声が落ちてきた。


「兄さん!! 上まで着物を持ってったにょに、にゃんにも起こらにゃいんだけど!?」

「はあっ!?」

「外が明るくにゃっただけだよ!」


 馬鹿な。


「苦、忌、忌、忌、忌、忌」


 巨猿が肩を震わせて嗤う。嗤いながら片手を高々と掲げる。瘴気が渦を巻いてその手に集う。氷塊が背を滑り落ちる。丞幻は慌ててその場から逃げた。

 黒い稲光が目を焼く。

 一拍遅れ、耳を(ろう)する音が響き渡った。顔をしかめて振り返れば、丞幻が先ほどまでいた場所に、黒い雷が槍のように突き刺さっていた。ばぢりばぢりと、黒い火花が散って櫓を焦がす。


「黒い雷に白い毛皮って、まさか……!」


 丞幻は萌黄色の目を大きく見開く。

 鉦白家に代々伝わる怪異の話が、脳裏にちらついた。

 しかし今はそちらではない。

 次々と、狭い空間に雷が落とされる。それを小動物のように、ちょこまか必死に避けながら、丞幻は激しく頭を回転させた。

 間違っていた? 正解ではなかった? 一度おしること合流するか、駄目だこいつは逃がしてくれない。奴らが「ご来光」と口にしていたのは引っかけだった? 罠に嵌まった? いや違う。あの着物の柄と「ご来光」の言葉は一致している。おしるこも外が明るくなったと言った。正しいはずだ。ならなんだ。どうすればいい。何かが足りない? 考えろ考えろ。夢が覚めるには朝日が差して夜が明ける。夜が明けると明るくなる。そしてどうなる。夜が明ける。夜が明ければ。

 丞幻の頭に光が差した。


「かけこう、かけこう、かけこう!」


 御来光が上がれば夜が明ける。夜が明ければ鶏が鳴く。鶏が鳴けば目を覚ます。

 猿が唇をめくり上げ、歯茎を剥きだして笑った。苦、忌、忌、忌、忌、忌と雷の狭間を縫うように笑声が響く。

 それに構わず、丞幻はもう一度大きく息を吸い、叫んだ。


「かけこう、かけこう、かけこう!」


 世界が、唐突に、泡玉のように。

 ぱちんと弾けた。

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