蜃楼閣の怪夢
入って来たおしるこは、艶のある珊瑚色の瞳を丞幻に向けた。長い髭がそよぎ、鼻がふんと鳴らされる。
「全く。相変わらずの野暮天だねえ、兄さん。にゃんだい、その着物は。天糸織とは言わにゃいけど、せめて絹にしたらどうだい。そんにゃ芋っぽりみたいにゃ着物で遊びに来るにゃんて、粋ってものが分かってにゃいねえ」
本日の丞幻は、右肩から左腰にかけて大きく緑の筋が入った紺色の上衣に、濃鼠の袴だ。確かに、遊郭に来るには些か地味である。元々、来る予定など無かったから仕方ないが。
「いやあー、着替える時間が無くってねえ。それより、姐さんはどうしてここにいるのかしらん。お仕事?」
おしるこは気だるげな息を吐いた。
「まあね。ま、終わったから帰るところにゃんだけど、まだ船が出にゃくてね」
「あらま、災難」
「全くだよ。そんにゃわけで、しばらく温まらせてもらうよ」
言うが早いか、ごろりとその場に横倒しになるおしるこ。そのまま手足をうーんと伸ばし、蛇のように火鉢に全身で巻き付いて、満足そうに息を揺らした。
黒地白ぶちの毛皮が、ゆっくりと上下に動く。陽の光を浴びて、柔らかそうな毛先がちらちらと輝いていた。
……触りたい。
「ちょいと。下手に触ったら、引っかくよ」
うずうずと手を伸ばすと、ぴしゃりと言われた。
だが、触っても良いらしい。
丞幻は、手のひらをおしるこへ伸ばした。
「はいはい、大丈夫よ姐さん。ワシこれでも、実家の猫に鍛えられてんだから」
思った通り、おしるこの毛皮は柔らかかった。それでいて、つべつべと鼈甲のような滑らかさがあり、触っていて飽きない。小さな頭と畳の間に手のひらを滑らせ、頭を支えながら耳の付け根を揉むように撫でると、喉を鳴らす音が聞こえてきた。
「にゃるほどねえ……どんな野暮天にも、一つくらいは取り柄があるんだねえ……」
「失敬ねえ、姐さん。ワシ結構取り柄いっぱいあるのよ」
「ふうん……呼吸していることかい?」
「姐さん?」
何やらひどいことを言われた気がする。しかし猫は可愛いので全て許した。
おしること戯れていると、襖が横に開いたのが視界の端に見えた。
楼主・刃左衛門が来たのか。おしるこから手を離し、顔を上げる。
ふくふくの顔が合った。
「んっ!?」
丞幻は激しく目をしばたたかせた。おしるこが飛び起きる。
一本足の異形がいた。
長くて太い、五尺ほどの足。その太腿の付け根に、餅のように肥えた女の顔がある。腕も、もう一本の足も、胴体も、足も、首さえなく、切り取った足に女の顔をぎゅっと縫い付けたような、異形な姿。
頬肉に潰され、ほとんど見えない目が、丞幻とおしるこを見下ろした。
「ごらあいこう」
がらがらとした声が響いた。
「ごらあいこう」
泥水でうがいをしたかのような、聞き辛い声で繰り返す。
「ごらあいこう」
黄色く濁った歯の奥で、分厚い舌がびらびらと踊る。
異形の膝が、ぐぐっ、とたわんだ。床を踏みしめる指の関節が、ぎゅうぅっと丸まる。
――やだ、まずいわ。
「姐さん」
無言でおしるこが、丞幻の肩に飛び乗った。細い針のような爪が、着物を突き通して肌に刺さる。
「ごらあいこう」
異形の足が地を蹴った。
襖を突き壊し、中の丞幻目掛けて弾丸のように飛び込んでくる。丞幻は機敏に立ち上がり、障子を開け放って外へ飛び出した。
「はぁっ!? にゃんだい、これ!!」
「ああ、もう! 嫌な予感はしてたのよ、嫌な予感はねえ!!」
素っ頓狂なおしるこの悲鳴に被せるように、丞幻は叫んだ。
先ほどおしるこが入ってきた、障子の外には縁側と庭があった。小ぶりではあるが、美しく整えられた庭だったそこは今や、五十畳ほどの大座敷に変わっていた。
柱と壁に、貝と波の飾りが施された大座敷。そこに花、虫、獣、毬、扇などなど、様々な刺繍と染付けが施された、華美な着物をまとった遊女達が数十人、思い思いにくつろいでいた。
ある者は足を投げ出し、ある者達は札遊びに興じ、ある者は布団の中に潜り込んでいる。その様子はいかにも、仕事前の遊女達がくつろいでいるといった雰囲気だが――
誰も彼もが、その細い首を千切れんばかりに激しく振り回していた。
「ごごごごおおおららららあああいいいこここううううううう」
「ごごごおおおおおおららららららああああああいいいいここうううううううう」
美しく整えられた髪が振り乱れるのも構わず、一心不乱に。首よ飛んでいけとばかりに、ぐおんぐおんと振っている。
口からは例の「ごらあいこう」という言葉を吐き出し続けているが、遊女達全員が叫んでいるから、もう何を言っているのかさっぱり分からない。
「兄さん! 来てるよ!!」
「はいはい!」
毛をいが栗のようにぽんぽんに膨らませたおしるこが、耳元で怒鳴った。
背後を振り返る。黒豆みたいな小さな目をひん剥いた一本足の異形が、近くの遊女を踏み潰して大座敷に入り込んできた。白い足に血まだらの装飾が施される。
丞幻は舌打ちしたい気持ちをこらえて、艶やかな人群れに飛び込んだ。
追いかけてくる一本足と違って、遊女達は特に干渉してくる様子は無い。丞幻達にも、一本足にも気づいていない様子で、各々好きなことをしながら首を振りたくり続けている。
腕を大きく振って駆けながら、丞幻は周囲に目をやる。
何か、何かあるか。おかしなもの。ここがどこか象徴するようなもの。何か。文字でも絵でもなんでもいい。何か。壁や柱の造りこそ蜃楼閣だが、ここはもはや異界だ。手がかり。ここがどんな異界か示す手がかりはないか。
「っていうか、なにこれ……!」
大きく手足を動かしながら、丞幻は顔を歪めた。ぜえぜえと息が切れ、前髪の隙間から流れた汗が目に沁みる。
必死に走っているのに、ちっとも身体が前に進まない。地面がやわやわと柔らかく感じる。沼の上に畳を敷いたみたいだ。足を動かしても動かしても、進む距離は微々たるもので、絢爛な遊女達の声が耳に痛い。
「兄さん!!」
ふぎゃあ、とおしるこが激しく鳴いた。爪が更に強く、肩に食い込む。
振り返る間も惜しい。どうせあれが目の前まで迫っているのだ。懐に手を突っ込む。無い。ここに突っ込んでおいた、怪異除けの鉄礫が無い。落としたか。舌打ちし、衣桁にかかっていた着物を引っ掴んで背後に投げる。「ごらあい……」と響いた声がくぐもった。
なんとか辿り着いた襖を乱暴に開け、大座敷から出る。
出た先は厨だった。包丁や鍋、擂粉木なんかから、糸のような手足がにゅっと生え、ばたばたと動き回っている。
関節が存在しないように、ぐにゃぐにゃ動く四肢の先には、子どものような手足がくっついている。それが器用に動いて、やけに極彩色の肉や野菜を切ったりまぜたりしていた。
中央には人間を数十人は煮ることができそうな巨大な鍋が鎮座し、竈から生えた太い手が匙を掴んで、中身をかき回している。
「ごらあいこう」「ごらあいこう」「ごらあいこう」「ごらあいこう」
煮えた鍋の中から、ぐつぐつという音の代わりに響く声。
それを耳に入れながら、相変わらず重たい足で丞幻は厨を駆け抜けた。
「多分ね、姐さん。夢だわ、ここ」
「夢え?」
厨を抜け、階段を駆け下り、樽の間を通り、縁の下を這い……とにかくあちこち駆けずり回って一本足を撒き、ようやく安全そうな場所に転がりこんで息を整え、丞幻はそう言った。
すっかり乱れた毛並みを舌で整えていたおしるこが、怪訝そうな声を上げる。
「にゃんで夢なんだい。確かに、異界っぽい気配はしにゃいけどさあ」
今いる部屋の四方の白壁は、あちこちが丸くくり抜かれ、その部分が障子になっていた。障子の向こうは真っ暗だが、部屋の中はうすぼんやりと明るい。奇妙な光景の中を逃げ惑い、辿り着いたのがここだった。ちなみに入ってきたのは天井からである。床の一部が襖になっていて、何かあればここから逃げられそうだ。
毛づくろいを終えたおしるこが、前足をちょこんと揃えてお座りをしながら、丞幻を見上げる。
丞幻は指を一本、ぴっと立てた。
「そう、まずそれね。異界特有の気配がしないってのが一つ」
二本目の指を、ぴっと立てる。
「蜃の吐く幻とか、どっかの野良術師が幻術を使ってるってのも考えたんだけど。ものを触れたのよねえ」
遊女達が集まっていた部屋で、着物を掴めたことを思い出す。幻はあくまで幻だから、どれほど精巧に作られていても触れない。
「ふーん。だから、ここはアタイ達の夢だって結論に、にゃったわけかい?」
「後はねえ、持ってた財布とか筆とかがぜーんぶ無くなってるのと、走ってる時に全然進まなかったってのも追加ね。ほら、夢の中で誰かに追われてる時って、必死に駆けてるのにちっとも進まないじゃない?」
「そうにゃのかい。アタイはそういう夢を見にゃいから、よく分からにゃいよ」
「ワシはよく見るのよ。追っかけられる夢」
〆切に追われている時は、特に。ここ最近見たのは、手足の生えた南瓜に追いかけられる夢だった。南瓜は無駄に美脚だった。
「変な薬を嗅がされて、頭がおかしくなってるっていう可能性もあるけど、生憎はっきりすっきりしゃっきりしてるしねえ」
珊瑚色の瞳が、小馬鹿にした色を宿した。
「頭がはっきりしてるにょは、兄さんがそう思い込んでるだけで、実際はわけ分かんにゃいことを言ってる可能性もあるんじゃにゃいかい?」
「あら。そしたら姐さんだってそうじゃない?」
「じゃあ違うね。最初に兄さんが言ったように、夢だよ夢」
ついと顔を反らし、前足で耳をくしくしとやりながらおしるこは言う。
それに苦笑して、丞幻はさてと腕を組んだ。
ここが夢の中だと仮定して、ではどうやったら夢の中から抜けられるのか。
所詮は夢なのだから、目を覚ましてしまえばそれで終わりだ。ただ恐らく、これはただの夢ではない。
「こういった場合って、大体目が覚めるために条件があるのよねえ。姐さんは何か、思いあたることってあるかしらん?」
「さあ。アタイはこういう謎解きはさっぱりでね」
団子尻尾をぷりっと揺らして、おしるこは右の前足をちょいちょいと揺らす。
「ただ、ほら。連中がずっと『ごらあいこう』って言ってるだろう? あれに、にゃにか意味があるんじゃにゃいかい?」
「ま、そうよねえ。ていうか、それしかないわよねえ」
何せ今も、外からぶつぶつと「ごらあいこう」と聞こえ続けているのだ。これはもう、この言葉が鍵になっているとみて間違いない、と思う。そうでなかったら詐欺である。
「ごらあいこう……ごらあいこう……ごら、あいこう? ご、らあいこう。ごらあ、いこう……ごらあい、こう。ごらあいこ、う……うーん、抑揚が無いってのが面倒よね。どこで切ればいいんだか。まさか、『ごらあ、行こう』なんて怒鳴っているわけじゃないわよね。だったら面白いけど。うーん、ごらあいこう、ごらあいこう……」
ぶつぶつと、丞幻は己の考えを口にする。思考を全て口に出すのは丞幻の癖だ。
おしるこが三角の耳を根本からくりくりと動かし、周囲の音を探っている間もぶつぶつ呟き続ける。
「ごらあい……ごらーいこう……? ごらーいこう、ごらーいこう……ご来光?」
周囲は真っ暗。夜。夢は夜に見るもの。ご来光。山の頂上で拝む朝日。夢から目が覚めるのは朝。ご来光を拝めば、夢から覚める?
丞幻の目の奥に、白い麻がちらついた。小虎が持ってきた、あの着物。蜃楼閣に届けろと、神のお告げがあった白い麻の着物。あの着物は確か、山の上に太陽がかかった、ご来光の柄ではなかったか。
「あれだわ……!」
いつの間にか俯けていた顔を、ぱっと上げるのと同時に。
「兄さん、またあいつが来たよ!」
おしるこが鋭くしゃあっと鳴き、丸い障子の一つが、細い格子ごとばりばりばりっと音を立てて引き裂かれる。
一本足のふくふくした女の顔が、そこから顔を突き出した。肉に埋もれた小さな目が丞幻とおしるこを見やり、にんまりと笑って、
「ごらーいこう」
先までの抑揚の無いものと違って、はっきりと「ご来光」と口にした。




