二
――それから半時後。
他の作家や担当達との熾烈な争い――落とし穴を掘られたり闇討ちされかけたり毒を盛られかけたり――を繰り広げ、見事に執筆権利を勝ち取った丞幻は、さすがにへろへろになって件の屋敷前でしゃがみ込んでいた。
目々屋敷は、貴墨城の背後にある両棚という町に存在していた。両棚は下位の武家や祓家が多く存在し、町家や店はほとんど無い。その為、賑わう声が少なくひどく閑静な印象を受けた。
ちなみに影達は審判を担当していたらしく、他の担当と作家達に結果を伝える為に三々五々に散っている。
木戸門の柱に頭を預け、丞幻は襟元を緩めて風を入れた。
葉月の終わりであるが、今年は残暑が厳しい。もったりとした熱気にまとわりつかれ、おまけに走り回ったので汗だくだ。肌に張り付いた着物が鬱陶しい。
薄雲の流れる青空を見上げて、熱のこもった息を吐く。
「……あー、ワシもうへっとへと。昼抜きで走り回るとは思わなかったわー。ちょっとお夕、お前ワシにもう一枚銀ちょーだい。四枚じゃ割りに合わんわ、あれ。なーに最後、四つん這いで壁伝って走ってくる作家なんて、ワシ初めて見たわよ」
目を血走らせてしゃかしゃかと手足を動かし、油虫のように壁を這って追いかけてきた姿を思い出して、丞幻はげんなりと息を吐いた。ただの人間の筈なのに、あれは先日遭遇した友引娘に通じるものがあった。端的に言って怖かった。
反対側の木戸門に背を預けていた夕吉も、同じように疲労に満ちた顔で財布を取り出す。
「はいよ」
指先で弾かれた小さな銀板が、陽光を照り返して光る。それを受け取り、先に受け取った四枚と合わせて財布に入れる。
銀五枚となれば、ちょっとした大金だ。庶民一日の稼ぎが、ざっと六百文。千文で銀一枚になるので、銀五枚では大体八日分の稼ぎになろうか。うむ、と一つ頷く。
「よしよし。こんくらいあれば、そこそこ持ちそうねー」
「……しかし、意外だねえ。げん兄が金に釣られるなんてさあ」
行儀悪く地面に両足を投げ出して座り込んでいる夕吉が、ぼんやりと呟いた。妹分に顔を向けると、夕焼け色の瞳が真っすぐこちらを見てくる。
「げん兄、そんなに金に執着しないじゃないかい。食い物と面白い物でなら、よく釣れるけどさ」
「ワシにも色々あんのよ。最近居候が一人増えてねー。これがまあ、よく食べるんで金がちょっと入用なんじゃよ。なにあいつ、どこに入ってくのあの量。十人前はぺろりよ、ぺろり。腹に牛でも飼ってんのかしらん……っふふふふ、腹に牛って、ふふふふ……」
矢凪の腹の中で「もうもう」と鳴く牛を想像し、思わず噴き出す丞幻。それを夕吉は「相変わらずだね」みたいな冷めた目で見つめた。
荒れ寺から矢凪を拾って、もう十日ほどになるだろうか。
最初は警戒する野良猫のように、用がある時以外は話しかけてこなかったし、近寄っても来なかったが。十日も経てば、そこそこ警戒心が薄れてきた。ように思う。
「シロちゃんアオちゃんと遊んでる時はわりかし楽しそうだし、最近はワシにもよく話しかけてくるしねえ……『おい』とか『飯』とか『腹減った』とか……んんん?」
丞幻は首をかしげた。なんだろう、急に反抗期の息子を持った気分になった。独身なのだが。
そう夕吉に伝えると、彼女は胡乱気な半眼を向けてきた。
「ちゃんと話の脈絡を繋げなよ、げん兄」
「いやー、新しい助手がさあ。無口っていうか、言葉少なですっごい仏頂面でねえ。あーそうそう、ほら昔長屋にいたでしょ、バツ吉。額にバツ印の傷あるでっかい猫。あいつみたいにいっつも顔しかめてんのよー」
「へえ。懐かしいね、バツ吉。アタシよく引っかかれたっけ」
「それはお前が昼寝してるバツ吉に突撃するからよん。寝てるとこ邪魔されたら、誰だって怒るでしょーよ」
「昼寝してるのに突撃したのはげん兄だろ。頬べたに見事な三本線こしらえてたじゃないか」
「そーだったかしらん?」
昔の事なので記憶が曖昧だ。はてと首を捻っていると、夕吉は立ち上がった。雲模様の着物の裾をぱんと払って、丞幻を見下ろす。
「ま、そこは置いといてさ。折角勝ったんだから、早速入るかい?」
「そうねえー、いい加減ここにいるのもあっついしねえ」
よっ、と軽い掛け声と共に丞幻も立ち上がる。
そうして改めて、今日から二日間泊まり込む屋敷を見上げた。
平屋の屋敷だ。庭は周囲と比べて広めだが、屋敷の大きさ自体は他の屋敷と変わらないくらいである。
「ふーん。外は他と同じ感じなのねー。ワシてっきり、外も真っ黒に塗られてると思ってたぞい」
「屋敷の中でしか、怪異は起こらなかったらしいからね。だから外には手ぇ付けてないんじゃないかい?」
「だったら、そこらの屋敷に助け求めりゃ良かったのにねえ。人付き合い苦手だったのかしらん」
話によれば馬鹿真面目な男だったらしいから、自分一人の力でなんとかせねばと思ったのか。それとも、怪異に憑かれた事で助けを求めるという思考が歪められたのか。
後者かしらねえ、と思いながら内側に向かって開かれた門をくぐる。
飛び石の置かれた庭に出た。五つほどの平石が、庭と玄関を繋いでいる。左右は青々とした生垣で覆われ、目隠しになっているようだ。しかし丞幻は背が高い。生垣越しに庭を垣間見ることができた。
「あらら、あんまり手入れしてないじゃないの。折角広い庭なのに、もったいなーい」
「家の中の掃除だけで手一杯だったんだよ。アタシらだって忙しいんだからね」
広い庭には隙間無く、雑草が生い茂ってひどく荒れていた。飛び石周りこそ整えられているが、よく見れば生垣もあちこちから枝が伸びている。
近くに立ちのぼる蚊柱を眺めて、丞幻は顔をしかめた。
「それこそ“影”にやらせりゃいいじゃないの。忍なら壁だって天井裏だって這い回れるんだから、ぱーっと終わらせてくれるでしょ」
「あいつらにはあいつらの仕事があるんだから、そんな雑用任せれるわけないだろ。馬鹿だね、げん兄」
「……」
作家と担当の醜い争いの審判は、「そんな雑用」に入るのではないだろうか。
玄関に手を駆けようとする夕吉の背中を眺めつつ、そう思う丞幻である。
「あ」
ふと、小さく呟いて夕吉がこちらを振り向いた。
「なーに、どしたの?」
「いやほら、アタシじゃなくて、げん兄が開けるかい? やっぱりこの屋敷で起こった事を執筆する権利を持ったアンタが玄関を開けてこそだと思うんだよね」
早口で告げた夕吉が小走りで近寄ってきた。そのまま背後に回り込み、ぐいぐいと強い力で背を押す。
丞幻は鼻下の髭を撫でながら、にんまりと笑みを浮かべた。
「なーに、お夕。もしかしてー、屋敷に入るのが怖いの? ふーんそっかー、怖がりなのは相変わらずじゃねー」
「うるっさいよ、別に怖がってるわけじゃないさ。アタシはただ、一版元が開けるよりこの屋敷の出来事を執筆する作家が開けた方がいいんじゃないかと思ってるだけだよ」
「ふーん」
肩越しに妹分を見下ろすと、夕焼け色の瞳が明らかに泳いでいた。への字になった口元は強張っているし、背に触れた両手も少し震えている。
ちゃきちゃきとした姉御肌である夕吉だが、一つだけ弱点がある。こういった怪異や、怪談話に滅法弱いのだ。
幼い頃は日が落ちて薄暗くなってくるだけで丞幻にしがみつき、涙目でぶるぶる震えて「げん兄! はやく! おうちかえる!」と喚いていたものである。……「あそこに頭だけのお婆ちゃんいるわねー」「お夕、あっちから案山子が歩いてくるから、目を合わせないようにねー」と、事あるごとに話していた丞幻にも、怖がりになった原因の一端はあるのだが。
にまにまと悪戯っ子のような笑みを浮かべながら、丞幻は夕吉の額を指先でつついた。
「ま、そうねー。確かに、ワシが開けた方がそれっぽいわねー。夜に厠行くたんびに旦那さん起こすような、怖がりちゃんが開けるんじゃなくってねー」
「うっさい!! あん人は文句言わないからいいんだよ! アンタと違って! あん人はいっつも優しく笑って付き合ってくれんだよ! アンタと違って!!」
「いっだ!? いだだだだ鉄扇で叩かないで! 悪かったって、ワシが悪かったから腰を重点的にぶっ叩くの止めて!! 折れる! ごめんって!!」
ばっしばしと勢いよく鉄扇の角で叩かれ、丞幻は叫んだ。
鋭角で腰を叩かれ続けるのは、流石にきつい。しかも全力だ。叩かれ続ければ腰が死ぬ。慌てて謝ると、頬に朱を上らせていた夕吉は、最後に力強くぶっ叩いてから懐に鉄扇を仕舞った。
「ふん……。ほら、うずくまってないでさっさと開けな、げん兄」
「いっつつつ……おま、最後の効いたわぁ……」
顔をしかめ、痛みに痺れる腰を押さえながら立ち上がる。
そんな怖がりで、よく怪異本の担当をやれているなと常々思うが、夕吉曰く丞幻の書く物語はどんなものでも大丈夫なのだそうだ。
なんでかしらねえ。ワシも時々怖いの書くけどねえ。
ぷちぷちと口内で呟いて、屋敷を見上げる。庭は広いが、平屋の屋敷はそう大きくない。縁側に出る妻戸はきっちり閉め切られ、中の様子を伺う事はできなかった。
屋敷をじっ、と視て怪しげな気配を探ってみるが、特に琴線に引っかかるものは無い。
「うーん? 特になんも感じないけどねえ。ここ、ほんっとーに目々屋敷?」
眉をひそめて、戸に手をかける。特に引っかかる事なく、するするとそれが開いた。
闇が口を開けていた。
一瞬、妻戸が全て閉め切られているから、暗いのだと思った。しかし目が慣れてくるにつれて、違うと分かった。
土間も、板張りの床も、天井も、梁も、真っ黒だった。元々黒い素材で作られているのではない、偏執的なまでに家の中が染め上げられていた。怪異に憑かれた武士が墨を家中に塗りたくったという、かの噂の通りに。
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