霜月四日‐終
〇 ● 〇
せーの、と声を揃えて丞幻は箱を持ち上げた。ずしりという重みが腕に伝わる。
天帝が貴墨国を出た事で大祓祭も書奉祭も終わり、賑やかさがひけた後に残るのは物悲しい静謐ばかり……ということは一切無く。
「おい! 誰だここの木箱崩しやがった奴ぁ! 味噌汁の出汁にしてやっから出て来いや!!」「荷車が足りねえぞ、持ってこい!! なに、無いだぁ!? よし、曾根崎屋から奪い取ってこい! あそこぁ影がいっから荷車なんていらねえんだよ!!」「えー、お疲れの皆様ぁー。甘酒、大福、甘酒、大福ぅー。あったかーい、あったかーい」「おうい、こっちに甘酒!」「いや、うちが先だろ!!」
会場の境内は、後片付けに追われる人々の大声で満ちていた。冬鳴虫のとぅーとぅーと言う鳴き声をかき消すほどの声が両耳を貫いて、脳味噌をぶっ刺すようだ。
「あーあ、うーるさい。よくまあ元気に怒鳴れるわねえ、みんな。ワシなんて、もうへとへとなんだから」
「腹減った」
向かいで箱を持つ矢凪が、眉間に皺を寄せて唸った。
「はいはい。ここさっさと片付け終われば家帰れるから。もーちょっと我慢してちょーだい」
「俺ぁてめえの分もシロとアオに構ってやってたんだが」
「……帰りに塩漬けの鮭買うから」
「一切れじゃねえぞ、一本な」
「さよならワシの銀五枚」
などと他愛の無い会話をしながら、重たい箱を荷車に乗せる。
なおその傍らでは、荷車を奪いに来た他の版元連中と曾根崎屋の影による仁義なき戦いが繰り広げられており、影による見事な脳天唐竹割りが決まっていた。
やんやと喝采が上がり、もう片付けそっちのけで酒を飲みつつ、喧嘩を観戦している者もいる。賑やかで結構なことだ。
うずうずしている矢凪の首根っこを引っ掴んで、片付け作業に引き戻す。
「ほら、そっちの垂れ幕畳んで」
「んー」
曾根崎屋、と書かれた垂れ幕を畳みながら、丞幻は首に当たる風に思わず身をすくめた。
動いているから身体は温かく汗ばんでいるが、そのせいで余計に風を冷たく感じる。見上げると青の色が見えないほどの曇り空。今にも一雨きそうな厚い雲のせいで、いつもより空は低く見えた。
空の向こうに去った妹達は、今どの辺りだろうか。
あの後は夢でも会えないまま、蓮丞達は貴墨を飛び去って行った。蓮丞の、涙で濡れた茶色い目を思い出す。
あれは、丞幻を責める目だった。
なぜ何も教えてくれないのだと。なぜまた危険を冒そうとするのかと。自分はそんなに信用できないのかと、自分が嫌いだから言ってくれないのかと。
そんな声無き叫びが込められた目だった。
「……んなわけないでしょー」
目の奥に浮かぶ妹の幻影に、小さく呟く。
蓮丞は今、鉦白家の当主の地位にある。彼女が表立って動けば鉦白家が、そして千方国の異怪奉行所も動く。自分一人の為に、奉行所を丸々一つ動かすわけにはいかない。
蓮丞の肩に乗っているのは、兄一人だけではないのだから。
「真澄鏡の事だって正直ぎりぎりだったんだから、これ以上は『もっと手貸してちょ』なーんて言えないわよ」
「何ぐだってんだ、てめえ」
「っだああ!?」
畳んだ垂れ幕で頭を叩かれ、目の奥に星が散った。
小さく畳まれた垂れ幕は、もはや凶器だ。かなり痛かった。
丞幻は頭を押さえ、勢いよく振り返る。
「ちょっと矢凪! 人の頭をばかすか叩くんじゃないわよ! 馬鹿になったらどーすんの!!」
「それ以上馬鹿になりゃあ、逆に傑作が生まれるんじゃねえか」
「お黙り! ワシの頭はお前の石頭と違って繊細なの。ちょっとの衝撃ですぐ壊れちゃう玻璃のよーに優しく丁寧に扱いなさい」
「おう。じゃあ次は腹にするわ」
「こちらの神社におわします神様、どうか矢凪の中から殴る蹴るという選択肢を消去してくださいませ永遠に」
本殿に向かって手を合わせ、拝む。本殿の奥に坐する神が爆笑する気配が伝わってきたので、願いが叶う事は無さそうだ。
黒眼鏡の位置を直そうと自然に手が動き、眉間に指が触れる。
「どうした。そこ殴ってほしいか」
「違うわよ馬鹿」
短い期間に付いた癖は、中々直らない。
天帝のおかげで、丞幻の視界はまた元の賑やかさを取り戻していた。むしろしばらく力が弱まっていたせいで、制御の仕方を身体が忘れているらしい。普段は無視できていた力の弱いものなんかも、全て視界に入ってくるので、非常に鬱陶しい。
落ち着くまでまだ少しかかりそうだ、と一人苦笑した丞幻の耳に、
「そいや聞いたかい、白寿教の話」
と、単語が滑り込んできた。
自然、耳がそちらに向いて会話を聞き取ろうとする。傍らの矢凪も、耳をそばだてていた。
「とんだぺてん野郎だったって話じゃねえかい、あそこの教祖様はよお」「ああ、瓦版で読んだよ。なんでも、薬でこんまい坊主を言いなりにしてたって話だ。俺ゃ、あそこは怪しいって睨んでたんだ」「よく言うぜ。おめえだってしらてふ様のお告げが~って言ってたじゃねえかよ」「てっ、うるせえや! あれぁ嬶がぞっこんだっただけさね」
げらげらと、荷物を運びながら男達が笑っている。
流行りが過ぎた宗旨など、こんなものだ。目の色を変えて熱中していても、いざ馬脚を現すと手のひらを返して石を投げる。
彼らの中では、白寿教はもう終わったことなのだ。
教祖はぺてん師で、幼い子どもを攫い薬を嗅がせて言いなりにしていた卑劣漢。同心達に捕まって、後は裁きを待つだけ。
生き神は哀れな子ども。孤児だった為に目を付けられ、薬を嗅がされて洗脳されていた。治療を受けた後で、どこかに引き取られる。
瓦版に書かれたそれらが真実で、それ以上の事を突っ込もうとする物好きは少ない。
しらてふは結局、利用されただけの哀れな子どもという扱いになった。怪異と成り、天帝に浄化されたことは伏せられた。
祓われた怪異の身体は現世に残らない。身に着けていた白い着物一枚だけが、異怪奉行所が管理する集合墓地――怪異に襲われた身元不明者の遺体を葬る場所だ――に葬られた。
永白はまだ厳しい取り調べの最中だが、余罪の多さを鑑みて極刑……千の死を毎日幻影で体感し、狂う事も許されない千死刑に処されるだろうと為成は言っていた。
俺が執行者になりたいなあ、とわくわくした顔で言っていたので、存分におやりなさいと返しておいた。
師走に向けて加速していく忙しさにかまけて、すぐに貴墨から白寿教という名は忘れ去られていくだろう。
「おっ、雪だ」
誰かの呟きに、顔を上げる。
厚い雲の隙間から、白い鱗粉に似た粉雪がほろりと落ちた。
〇 ● 〇
汚れを知らない純白の綿花が、一面に広がっている。
その白海の中を、子どもが一人泣きながら歩いていた。
背中に広がる白い髪を揺らすように、蝶がひらひらと羽をはためかせて飛び回っている。
ぐず、と赤くなった鼻を啜り、涙の溢れる青い目を時々手の甲で擦りながら、とぼとぼと子どもは歩く。
「わた坊。あらあら、またそんなに泣いて」
「……おっかあ」
前からかかった声に、子どもは――わた坊は、ぱっと顔を上げた。
綿花を山と入れた駕籠を背負って、母親が正面から歩いてきていた。わた坊はそこに駆け寄り、母親に抱き着く。
腰の辺りに両手を回して腹に顔を埋めると柔らかい匂いがして、また涙がぼろぼろと溢れてきた。
「また、たけ坊達に何か言われたの?」
髪を梳かすように撫でられて、わた坊は何度も頷いた。
「こ、ないだっ、宋じいが、死んだの、おれの、せいだって、おれ、がっ、宋じいがっ、病気で、死ぬって、言った、からって」
しゃくり上げながら、途切れ途切れにそう訴える。
自分の視ているものと、他人が視ているものが違うと気づいたのは、最近の事。
視界に映る人の中に、時々別の姿が重なって視える時があった。その重なっている姿は大体、首を裂かれて血を流していたり、青紫の顔で目を閉じていたりする。
それを口に出せば気味悪がられ、村の子ども達は石を投げて怪異の仲間だと騒ぎ立てる。
そして、わた坊が口にした通りの死に様で死人が出てから、それはより一層ひどくなった。
「そっか、そっか。わた坊が悪いんじゃないんだけどね。きっとわた坊は、目がとっても良いだけなんだよ。だからきっと、先の事まで視えちゃうんだよ。それだけ」
優しい言葉と共に、しゃがみ込んだ母が手拭いの綺麗な所で、目元を拭ってくれる。
泣いて腫れた皮膚に、硬い手拭いはざらりとして痛かった。それでもそうやって慰められ、目を拭かれれば、心に刺さって痛みを生み出していた言葉の棘は、あっさりと抜けてしまう。
「ほらおいで。今日は、わた坊の好きな筍のお味噌汁を作ってあげるからね」
「……ん」
こく、とわた坊は頷く。母に手を引かれるまま、素直に足を進める。
父のいない、母子二人の暮らしは辛い事も多い。他の村人より貧しい暮らしをしているのは、小さなわた坊でも理解できていた。
でも、母がこうして笑う度、辛い事も怖い事も、いつの間にかどこかへ飛んで行ってしまっていた。
「お歌を歌って帰ろうね。わた坊の一番好きな奴」
母がこちらを見下ろして、微笑む。わた坊もそれを見上げ、仄かな笑みを浮かべてこくりと頷いた。
〽わたっこ一つ、みーつけた。
わたっこ二つ、みーつけた。
お山に、お空に、飛んでって。
白いちょうちょに、なっちゃった。
歌う二つの声が絡まりあって、白い綿花に溶けていった。
よく晴れた、ある日の事だった。




