霜月二日・深更‐四
――鈴。
涼やかな音と共に、また風が吹く。粉雪のように空中を舞っていた白い鱗粉が、それにまとめて吹き上げられた。
矢凪がしらてふを打ち上げ、大穴が開いた天井に向かって風が吹き抜け、消えていく。
「本当は、来ないつもりだったんだ。俺が関わると、ただでさえ複雑に絡んで捻じ曲がってる運命の糸が、更にごちゃつくかもしれなかったから」
でも、このままじゃあ、あんまりあの子達が可哀相で。
慈しむような、柔らかい響きを帯びた独白が、背にぶつかる。
丞幻は、矢凪に背負われたまま振り返った。黒眼鏡越しであってもなお、鮮やかな色合いを見せる空雲色の髪が視界に入る。
「だから、ちょっと無理を言ってな。来たんだ」
うっすらと青に塗られた唇が、言葉を紡ぐ。
破砕された襖の欠片が散らばる、畳の向こうの廊下。かつて襖があったことを示す溝のすぐぎりぎりの所に、天帝が立っていた。
足首を隠すほどに長い空雲色の髪、玉をはめ込んだように透き通った青い瞳。人のものと思えぬほど整った白い顔に、袖が大きく広がり指先まで隠されている白い着物。細い首にかけられた、青水晶の鈴飾り。
天帝を構成するそれら全てが、玻璃竹行灯の無い薄暗い廊下にぼんやりと浮かび上がっている。
「天帝……」
為成が思わず、と言った調子で名を呼んだ。それから我に返ったように銀の目を大きく見開き、慌てて片膝を付こうと身をかがめる。
「ああ、大丈夫だ。そんなに畏まらなくていいぞ」
それを穏やかに制して、天帝がゆっくりと視線を横に向けた。為成の隣に立っている矢凪、そして背負われた丞幻に目を止めた。ふ、とその目尻が緩む。
――仕方ないなあ、げんちゃんは。
透き通った青い目がそう言っているような気がしたので、丞幻は焼けてひび割れた唇を歪ませて肩をすくめてみせた。
「兄様あああぁぁぁっ!!」
廊下から、絶叫が矢のように走った。天帝の細い身体を突き飛ばさん勢いで、蓮丞が座敷内に飛び込んでくる。
端麗な顔をぐしゃぐしゃに歪め、泣きながらこちらに突っ込んで来ようとし――
「はい、そこまで」
「ふぎゅむっ!」
爽やかな声と共に奥から伸びてきた黒い紐のようなものに足首を掴まれて、勢いよく畳に突っ伏した。あの声は空晴で、黒い紐のようなものは空晴の使う式、黒羽の尾だ。
受け身も取れずに顔面からいった妹が、「あにさまああぁぁ……!」と泣きながら、ずるずると連れ戻されていく。
廊下の床板を引っかく細い指に、胸がぎちりと締め付けられる。丞幻は鉛を呑んだように重い息を吐き出した。
蓮丞を泣かせてしまった。しかも、前回会った時も加えれば二回目だ。
心配かけないでくださいね、と釘を刺され、それに頷いておきながらこの体たらく。兄失格だ。呑気な己も流石に、心に来る。
「……どんな顔して会おうかしらねえ」
「その間抜け面にしとけよ」
笑う矢凪の頬に手を伸ばし、ぐいと引っ張ろうとするが大して力は入らず、頬を軽くつまむだけに留まった。
〽ああ みえない みえない ああ ああ なぜ どうして
沈黙を保っていたしらてふが、言葉を発した。
先ほどまでの、蟻をいたぶるかのような無邪気な残酷さに満ちたものではない。心底困惑したような、道に迷った子どものような頼りない声音が、激しい羽ばたきと共に発せられる。
〽ああ ああ なぜ なぜ このみは てんに とどくというに あめのみかどが なぜ みえぬ
暗闇を飛び回る蝶のように、しらてふが無茶苦茶に飛び回っていた。
〽あおい ひかりが ああ みえない あおい ひかり ひかりが まぶしくて ああ
天井に背をぶつけては方向を変えて窓枠に頭をぶつけ、また方向を変えて膳を引っくり返し、畳に足を擦らせ、壁に身体を自ら叩きつけるようにして。
まるで天帝から逃げ惑うように、しらてふがしっちゃかめっちゃかに飛び回る。身体が暴れる度に、白い鱗粉が吹雪のように丞幻達に吹きつけてきた。
だが、天帝の首元の鈴が鈴と鳴る度に、柔らかい風がそれを押し返す。
「可哀相に」
天帝の唇から、憐憫のこもった声が漏れた。
足袋も何も履いていない足が、ついと前に出て敷居を跨ぎ越す。鈴がまた鳴り、天帝の周囲を風が取り巻いて鱗粉を優しく押し流した。
〽あおい ひかり ああ まぶしい みえない あめのみかどが なぜ なぜ てんにたつのは この しらてふ そのはずなのに
「……光?」
つい、ついと音も無く足を進める天帝が、丞幻達の傍を通り過ぎる。それを見送りながら、片目を眇める矢凪に、丞幻は深く息を吐きながら説明した。
「怪異にはね、天帝が眩しすぎるのよ。天大神の御子だもの、並の怪異には姿すら視えないくらいに、魂の光が強いの。だから多分、太陽を間近で見た時みたいに、眩しいんじゃないかしらん」
「ふうん」
「丞幻殿達は、少し緊張感を持った方がいいと思うぞ」
為成に苦言を呈されている間にも、天帝は足を進め続ける。暴れるしらてふのすぐ真下まで来ると、足を止めて首を僅かに仰向けた。
〽ああ ああ あおい あおい ひかり まぶしい まぶしい ああ ああ
しらてふの羽ばたきは激しさを増し、声はもはや悲鳴に近くなっている。
「幼い身で、運命を歪められた君を哀れに思う。だけど、人の道から外れてしまった君を、人に戻すことは俺にもできない。本当は、こうなる前に君達を助けてやりたかった。でも、人の運命に俺が積極的に干渉することはまかりならないんだ。本当にすまない」
滔々と、天帝は語る。悲哀が溶けた声だった。
悲鳴を上げて飛び惑うしらてふの声に混ざらないくらい、その声ははっきりとしていた。
「俺ができることは、せめて君の魂を塵にならないよう守って、父の元に送ってやるだけなんだ」
つい、と天帝が片手をしらてふに向かって差し伸べた。長い袖がするりと天帝の手首を伝って肩の方へ落ちていき、白い二の腕までが露わになる。
風がゆるりと吹いて、天帝の空雲色の髪を下から吹き上げるように揺らした。
「――わた坊」
暴れていたしらてふの動きが、ぴたりと止まった。
魂の光に目を灼かれ、どこに天帝がいるかも分からなかっただろうに、その二つの青い大きな瞳が、眼下に立つしらてふを捉える。
『あ、あ、あ』
腕の羽ばたきから発せられる音ではなく。顎の上から長く伸びてくるりと丸まっている口吻の辺りから、肉声が発せられた。
小さな小さな、男の子の声だった。
『あ、あ、あ』
「おいで。怖くないから」
慈愛に満ちた声に招かれるように、しらてふがゆっくりと動いた。一度、二度と腕を動かし、ゆっくりと下りてくる。その小さな身体を、穏やかな風が取り巻いた。
風はそのまま渦のようになって、しらてふを中に包みこむ。同時に青い光が風から発せられ、丞幻達の目を眩ませた。
一拍、二拍おいて、光が消える。
眩んだ目が元に戻ったころには、その場には天帝一人しか立っていなかった。
手のひらの中に、小さな子どもの魂が乗っている。強い力をもって生まれた為に利用され、心を壊され、最後には怪異と化してしまった、哀れな子ども。
最初から、こうなる運命だったわけでは決してない。
永白の手を取らず、村に残ることもできた。差し伸べられた手を払って逃げ、村外れの小屋に隠れる道もあった。そうすれば、永白と織部をやり過ごす事もできた。そこが、この子の運命の岐路だった。
隣の村には、子どもの母親の兄がいた。彼が妹の死を遅まきながら知り、忘れ形見を引き取りに来たのは、永白が村に来たその翌日の事。そちらの手を取っていれば術者として大成し、歴史に名を残す傑物となっただろう。
運命は迷路のようなものだ。入口は一つだけだが、出口は複数ある。そして、どの道を選んでどの出口に辿り着くかは、自分次第。
この子は、己が怪異と成る道を選んでしまった。
「よしよし。怖かったなあ、わた坊」
手の中でぼうと光る魂を撫でて、天帝は子どもを父の元に送った。
自分の子の名を騙ったことに対し、若干怒っているような気配が伝わってきたので、後でもう一度取りなしておこう。
そう心に決めてから、天帝は座敷の壁に目を向けた。永白がそこに背中を張り付けるようにして、へたり込んでいる。いつの間にか意識が戻っていたのか、「あ、あ」と唇をわななかせて声にならない声を上げていた。
天帝は、そちらに足を向ける。「天帝……!?」と為成の声が背中にぶつかったが、それに振り返って天帝はにこりと笑ってみせた。
その笑みで察してくれたのか、丞幻がこちらに駆け寄ろうとする為成を止めている。持つべきものは頼りになる悪友だ。
「あ、ひ……っ、ひぃ……」
永白の前に片膝をついて、目線を合わせる。吐瀉物にまみれた顔を引きつらせ、永白は激しく左右に目を動かしていた。怯えた小動物のようなその様子が哀れで、天帝は手を伸ばす。
顔にこびりついた汚れを、着物の袖で拭ってやる。胃液を吸ったそれがたちまち、黄色く汚れた。
「よしよし、怖くないぞ。そんなに怯えない、綺麗にするだけだからなー。…………よし、綺麗になったぞ」
丁寧に顔を拭ってやり、天帝はよし、と頷いた。呆然と見上げてくる永白に、めっ、と眉を吊り上げてみせる。
「君は、悪いことをしたな。悪い子だ。君のせいで、たくさんの人が泣いたし、怒った。そこは駄目だ、ちゃんと自分が悪いことをしたんだと、反省するんだぞ」
そう叱ってから、拭った方とは違う手で永白の頭を撫でた。
「ああ、でも、良かった。最悪のところまで行きつく前に、君を止めることができて。……よしよし、大丈夫だぞ。泣かない、泣かない。父上だってな、今はちょっと怒ってるけど、君がちゃんとごめんなさいしたら許してくれるぞ。怖かったら、俺も手を握って一緒について行ってやるからな」
永白は答えない。口から言葉にならない言葉を垂れ流して、へたり込むままだ。最後にその頭をもう一度撫でて、天帝は微笑したまま口を開いた。
「あのな、さっき叱っちゃったけど、俺は君のこと嫌いになったわけじゃないからな。君のことは大好きなまんまだぞ」
天帝が、永白の頭を撫でながら何事かを話している。それを見ながら、矢凪が「なあ」と背負ったままの丞幻を振り返った。
「なに話してんだ、あれ」
「あー……多分、悪い子だから反省するんだぞ、とか、でも俺は君のこと大好きだからな、みたいなことかしらね」
「は?」
あいつさっき、あのガキを可哀相だって言って浄化したよな? なのにそれをやった当の本人に大好きだって言ってんのかあいつ? 何考えてんだ?
そんな言葉が聞こえてきそうな、どすの利いた「は?」だった。
丞幻は口を苦笑の形に歪める。気持ちは分かる。
恐らく、他の者より天帝と関わりの深い丞幻だが。自分を殺そうとした相手や幼子を食い物にした相手に、ひとかけらの憎しみも抱かないというのは正直、理解できない。
理不尽に殺されそうになれば、恐怖を感じるし相手を憎む。無辜の民を食い物にする相手には嫌悪感を覚える。だが、天帝にはそれが無い。
彼は、地上に生きる全ての人々を好いている。そこに例外は無い。相手がどれほどの悪党でも……例え千人殺した者だろうと、神に弓引く者であろうと、悪いことは駄目だと叱ることはあっても、嫌い、憎み、遠ざけはしない。天帝はそういう方だ。
だから、しらてふを心底哀れんだその心で、しらてふを怪異と化させた永白を心底慈しみ宥めている。
ふうん、と矢凪は面白くなさそうに呟いた。
「気持ち悪ぃ奴」
「それは口に出さないで、胸にしまっといてね」
とてもとても正直な感想を述べる助手の頭を軽く引っぱたいた時、永白との話を終えたらしい天帝が立ち上がったのが、視界の端に見えた。




