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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
神祭:大祓祭

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霜月二日・深更‐二

 その場の全員を圧倒するほどの瘴気が立ち上り、丞幻は思わず息苦しさに喘いだ。

 ああくそ、と丞幻は歯噛みする。

 今更分かった。

 何度も視ていた、あの白い子どもの幻覚。

 あれは呪いでも、言霊の影響でもない。ただあの子は、助けてほしかっただけだ。

 助けてほしくて、必死に声を届けようとしていた。届かない声を伝えようとしていた。たまたま波長が合ったのか、最初から丞幻を選んでいたのか、それは分からないけれど。

 しかし丞幻はその言葉を正しく受け取れず、助けを叫んでいた子どもは怪異と成った。

 気づかず何もできなかったという悔恨を抱く暇も無く、怪異しらてふが羽となった腕を二、三度羽ばたかせる。体重の無いもののように、小さな爪先がすうと浮いた。


 異形と化した身体が軽やかに宙に浮かび上がり、白い鱗粉をまき散らしながら旋回する。時折くるりっと宙返りをしたり、天井から吊るされた玻璃竹行灯を見やって首をかしげ、長く伸びた口でちょんっとつついてみたり。

 人を無理やり蝶に見立てた異様な様相であるが、その動きはしなやかで、羽化の喜びに満ちていた。

 もしこれが芝居の一幕であれば、素晴らしい演出に丞幻は拍手喝采を送っただろう。

 だが悲しいかな、今いる場所は芝居小屋ではなく蝶御殿。緩やかに宙を舞っているのは役者ではなく、怪異と成った哀れな子ども。芝居ではなく現実だ。


「丞幻殿!」


 鋭い叫び。風切り音。回転しながら飛んできたものに、手を伸ばす。為成の十手だ。棒芯をぬらりと光らせたそれは、吸い込まれるように丞幻の手に収まった。

 視線を向ける。呪縛が解けたのか、為成が立ち上がっていた。鼻血を拳でぐいと拭い、懐から五寸釘を幾本か取り出す。


「こうなってほしくなかったが、なったものは仕方ない。あれを修祓する! 巾木、下の連中に声かけてきてくれ! あれを逃がさないように御殿の周囲に結界を!」

「そちらの怪異と、げろ滓塵親父は任せました!」


 機敏に立ち上がった巾木が、襖を蹴り飛ばして廊下の向こうへ駆けていく。

 十手の柄をぎりと握り締め、丞幻は天井を舞うしらてふを見上げた。矢凪が獣のように低く唸り、いつでも飛び出せるように身構える。這いつくばっていた永白は、座敷の奥へと蹴り飛ばした。


「なーに、矢凪。今日は随分と協力的じゃないの。いっつも、ワシが何言ってもさっさと飛んでってぶん殴るってのに」

「るせ。強ぇ獲物は集団で狩んのが基本だろ」

「ふーん。いつもは強い獲物こそ独り占めしたがるのにねえ」


 くるくると宙を飛び回るしらてふを注視しながら、丞幻は茶化す。矢凪もしらてふから目を離さないまま、ちっと舌打ちをした。


「ぐだぐだうっせえ。てめえから殴っぞ」


 気をほぐす軽口を叩き合う。緊張しているのが互いに分かった。

 しらてふは今、こちらに注意を向けずにひらひらと飛び回っている。不意打ちを仕掛けるのは今が絶大の好機なのだが、それができない。

 動けないのだ。

 しらてふがその身から放つ瘴気は強大――あのウロヤミ様にも匹敵するかもしれない――で、丞幻達の四肢を鎖のように絡め取っている。

 蛇に睨まれた蛙、いや熊に睨まれた兎のような心持ちだ。

 落ち着きなさいワシ。強大な怪異に相対したことが、初めてなワケないでしょ。

 奥歯を噛み締めて瘴気の呪縛を振りほどき、太腿の辺りを拳で強く殴りつける。矢凪が足を動かし、足袋と畳の擦れる音がする。離れたところにいる為成が、息を吸う。

 それらを聞き咎めたかのように、天井の木目を見つめていたしらてふが、きょろりと眼下に目を向けた。


 〽あれ おかしや この しらてふに やいばをむける ものがおるよ


 腕を羽ばたかせるごとに、ばさりばさりという羽音の代わりに、嬉しげな声が響く。


 〽おかし おかしや はむかうか この しらてふに はむかうか


 響く声には節が付いていて、やや調子が外れてはいるものの、歌っているようにも取れた。くるりくるりと天井付近で回転しながら、しらてふが軽やかに歌を響かせる。


 〽もえろや もえろ びょうぶに しゃみせん つづみ もえろや もえろ ごうごうと


 轟、と音。見ると部屋の隅に片付けていた黒屏風と三味線、鼓が炎に包まれている。無数の火の粉が飛び散り壁や畳にぶつかるが、不思議とそれ以上燃え広がることは無い。

 橙色の炎の中で、屏風がたちまち燃えて飾り金具が溶けていくのが目に映った。


 〽はむかうならば こうなろう はいものこさず もえつきよう


 けっ、と矢凪が不機嫌に舌を打つ。


「てめえの力ぁ見せつけやがって」

「んっとにね。しかし怪異に成った途端、ずいぶんとお喋りな自信家になったこと」


 上機嫌に歌うしらてふを見上げて、丞幻は眉を寄せる。

 妙に上からの物言いなのは、永白に生き神とは、しらてふとは、こうこうかくあるべしと、教え込まれた名残か。

 こちらの出方を伺っているのか、しらてふはくるりくるりと天井を舞っている。炎が白い肌に映って、橙に光っていた。


 〽つぶれろ つぶれろ ふすまに しょうじ


 上から巨大な手が押し潰したかのように、襖と障子が勢いよく潰れた。生木が割れるような音と共に木っ端が四方に飛び散り、丞幻達の足元にも突き刺さる。


「ああ、くそ……駄目かしらん」


 助けを求めた哀れな子どもの魂が、一欠片でもどこかに残っていないか。そう思って目を細めて視るが、力の弱った瞳には強大な瘴気が渦巻いていることしか分からず、丞幻は小さく舌打ちをした。

 魂の底まで怪異と成ってしまった人間は、祓われれば魂ごと消滅し、塵と消える。

 それはあまりに、可哀相だ。

 障子が潰れたせいで吹き込んできた寒風に、矢凪が舌打ちしている。それに目を向けて、丞幻はしらてふを顎で指した。


「矢凪、あの子視て。魂残ってる?」

「寒ぃ。よく分かんねえ。寒ぃ。怪異な感じしかしねえ」

「ああ、そう。やっぱり駄目かしらね。せめて魂が人間のまんまだったら、人に戻せなくても魂だけ天に送ってやれるかと思ったんだけどねえ」

「できんのか」

「やれんことはないわよ。ワシできないけど、為成殿なら多分できるわ」


 と、そこで為成がこちらに駆けてきたので、会話を切り上げる。


「二人とも。あれはやっぱり、言霊に特化した怪異に成ったようだ。あの子に罪は無いが、ここで修祓する」

「おう」


 矢凪が即座に頷く。丞幻も顎を引いて頷き、天井を見上げた。

 しらてふは、くるくると舞うのを止めた。中空にぴたりと止まる。腹の両脇から生えた六本の腕をくきくきと動かしながら、巨大な青い瞳を丞幻達に凝っと据えた。


 〽あれ あれ おかしや おるよ この しらてふに やいばをむける しれものが


 仄白い殺気が立ち上がり、ぴりと肌を刺す。


 〽そこの ものらは いま すぐに


 羽がばさりと羽ばたいて、節の狂った音が座敷に響いた。

「いま すぐに」――その先に紡がれるものがロクでもないことは、百も承知だ。


「肩!」


 矢凪が叫ぶ。丞幻は踏ん張って衝撃に備える。矢凪が跳んだ。丞幻の肩を蹴って踏み台にし、天井近くに浮くしらてふに肉薄。霊力をまとわせた拳を、胴体に叩き込み天井目掛けて突き上げる。くの字に折れた身体が天井をぶち破った。轟音と共に板の欠片が落ちる中、矢凪が畳に着地。舌打ち。


「仕留めきれてねえ。また来るぞ!」

「分かった! 虫には炎と相場が決まっている、火呑巳渦鎚神ひのみかずちのかみの術で燃やすから、その間の時間稼ぎ頼む!」

「はいよ!」


 丞幻は頷く。為成が柏手を叩いて、呪言を唱え始める。


「掛けまくも畏き火呑巳渦鎚神――」


 天井にぽっかりと開いた穴から、無数の白い蝶が噴き出した。瀑布となって畳に落ちた蝶は、鱗粉をまき散らしながらほどけて消える。

 水煙のようにもうもうと沸き立つ白の中、ゆらりと影が動くのが見えた。


 〽おろか おろか さからうなどと あめのみかどの みにかわり この しらてふは てんにたつ


 白い鱗粉が、渦となってしらてふの腹部に吸い込まれていく。見れば、矢凪がつけたと思しき拳の痕が赤く爛れていて、そこを鱗粉が包帯のように覆っていく。

 たちまちのうちに傷が治り、後には白い素肌が残された。


「怪異が天に立つたぁ、面白ぇこと言いやがる。てめえの小説のネタにしたらいいんじゃねぇのか」

「明日命があったら考えとくわ」


 丞幻の言葉を鼻で笑って、矢凪が矢のように飛び出す。

 飛び立とうとするしらてふの、広げた腕の先にある手首を掴んでねじり上げて引き倒し、もがこうとする後頭部を畳に押し付け馬乗りになり、もう片方の腕は膝で押さえる。

 完全に拘束したと思った直後、矢凪が顔をしかめてそこから飛びのいた。


「矢凪!?」


 糸を引かれた人形のように、しらてふが立ち上がる。そのまま、また羽を大きく羽ばたかせた。丞幻はそこに向けて、大きく回転させた十手を投げつけた。十手の柄には長い組紐を巻き付けている。鎖分銅の要領で投げたそれは、狙い過たずしらてふの身体を腕ごと絡め取り、またしても畳に引き倒した。


「気ぃつけろ、そいつの身体ぁ尋常じゃねえぞ!」


 駆け寄ってきた矢凪が怒鳴り、己の手を見せつける。しらてふの身体に触れていた部分が、ぼろぼろと崩れていた。固めたおからが崩れるように、矢凪の指や手のひらの皮膚と肉が剥がれて畳に落ちる。剥がれた端から再生してはいるものの、強く掴んでいた指部分は骨が見えていた。

 丞幻の脳裏に、為成が投げた釘がほどけて消えた光景がよぎった。上を見る。しらてふの身体を絡めとっていた組紐がぼろぼろと崩れ落ちて、畳に散らばっていた。


「ああっ、もう! そうだったわ、面倒臭いわねえ!」

「なんなんだよあの身体ぁ!」

「大方、『自分を傷つけようとしたものは崩れる』とでも言霊をかけてたんだわ!」


 自由の身になったしらてふが、ばさりばさりと腕を羽ばたかせる。瘴気が広がり、天井近くで雲のように渦を巻いた。


 〽こよ こよ どくじゃ しれものの ししむらを くいつくせ


 渦巻いた瘴気の雲から、毒蛇が雨のように降り落ちる。ぼたぼたと降ってきたそれらが、一斉に鎌首をもたげた。しゅーしゅーという吐息が、波のように押し寄せた。

 小さいものは蚯蚓ほど、大きいものは兎を丸のみできるほど。大小様々な蛇が爛々と目を光らせて、畳の上で身をくねらせた。その数ざっと、数十匹。


「面倒臭ぇなあ、おい!」

「そうね、ぬくぬく冬ごもりしてんのを呼ぶんじゃないわよ!」


 畳を這う蛇を蹴り飛ばし、飛びかかってきたものを十手で弾く。怪異でもない普通の蛇だ、追い払うのは簡単だが、なにぶん数が多い。毒蛇というのは臆病で大人しいのが多いが、言霊で操られているのか、狂ったように身を振り立てて襲ってくる。

 丞幻は毒蛇を蹴散らしながら、為成に視線を向けた。呪言を唱えている為成は、毒蛇から身を守れない。


「――この声は我が声にあらじ、この声は神の声なり、この息は我が息にあらじ、この声は神の息なり。火呑巳渦鎚神の御名にてかの不浄を……」


 朗々と呪言を唱え上げる為成の周囲は、半球状の結界に覆われていた。どうやら先んじて結界を張っていたらしい。流石だ。なら彼を守る必要は無い。

 後はこの毒蛇どもと、しらてふが何を仕掛けてくるか……と思考を巡らせた丞幻の耳に、情けない悲鳴が響いた。


「しっ、しらてふううぅぅ!! どっ、どういうつもりだ! お前っ、俺はお前の主だ、そうだろう!? すぐにこいつらを引っ込めろ、命令だ!!」


 永白だ。壁際に縮こまった永白の方へも、何匹かの毒蛇が這い寄っていた。ぶくぶくに肥えた身体を必死に壁に擦り付けるようにして、顔を引きつらせてしらてふに叫ぶ。


「何してるしらてふ!! お前が殺すのはそこの犬どもだけだ! 俺じゃねえ! さっさと蛇をどかせ、俺の言うことを聞けえええ!!」


 唾を飛ばして叫ぶ永白に、宙に浮くしらてふが顔をくきりと向けた。


 〽おろか しれもの この しらてふが てんにたつのに どうして しれものが ひつようか しれものは みなみな どくじゃの えさよ

「なっ……」


 永白が絶句する。

 金魚のように口をぱくぱくとさせていたが、やがてその顔が真っ赤に染まった。


「……織部といいお前といい、どこまでも俺の言うことを聞かねえ道具どもが!!」


 懐に手を突っ込んだ永白が、そこから呪符を掴み出す。五枚ほどの呪符を鷲掴み、永白は金切り声で叫んだ。


「炎よ! 出てこい! 蛇となりて燃やし尽くせ!!」


 呪符が光を放ち、そこから伸び上がるように炎の蛇が現れる。轟々と燃える蛇が牙を剥いて、四方八方に飛び散った。


「ちっ」


 矢凪が身を伏せ、炎をやり過ごす。しらてふはくるりくるりと舞って炎を躱した。為成の結界に炎蛇がぶつかって弾け、礫となった炎がこちらに襲い来る。丞幻が身をよじってかわした先に、毒蛇が鎌首をもたげていた。


「っとぉ!?」


 蛇を踏まないよう更に身をよじると、無理な体勢が祟って上半身の均衡が大きく崩れる。こける、と直感した刹那、頬に熱がぶつかった。目を向ける。永白がでたらめに放った炎蛇が、眼前に。躱す。無理だ。体勢を戻せない。当たる。燃える。炎蛇が視界一杯になる。


 ――そなたの、じゅみょうは

 ――あと、ふつか

 ――もえて、しぬ


 脳裏に、男とも女ともつかない声が蘇る。

 夜九つ|(午前0時)の鐘が、ごおんごおんと鳴ったのが聞こえた。

 ああ、成程。

 この炎で、燃えて死ぬのか。

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