一
十数年ほど前の事、その屋敷には独り身の武士が住んでいた。
武士と言っても下位も下位。武家の端っこにかろうじてぶら下がるような家柄であり、将軍に拝謁ができる程ではなかった。しかし世渡りのうまかった祖父の代より、同じ下位武士が閑職に置かれる事が多い中、城より離れた所にある蔵番の任を与えられていた。
両親を早くに亡くし、十五で家と職を継いだ彼は物静かで朴訥、ただの蔵番だが与えられた任だから、と決して疎かにする事は無かった。
夏も冬も巌のように蔵前に立ち、帰りに居酒屋で一杯の酒と菜飯を食う。金が無くなれば傘や木刀を作って売り歩き糊口をしのいだ。
そんな生活を、十五年近く続けていた。
――実直と言えば聞こえはいいが、石のように硬く馬鹿真面目な男よ。あれでは嫁も、同じ石のような女でなければ務まるまい。
そう周囲が囃そうが、男は腰に佩いた刀に手を置いたまま、蔵の前に立ち続けていた。
上からの評判は高いが、同僚からはつまらぬ男と揶揄される。そんな巌のような彼だったがある時、腰を痛めた。頼まれて倉庫の整理をしていた所、重い木箱を持とうとしてぐきっ、とやってしまったのだ。
膏薬を買い求めて貼ってみたが、一向に治らぬ。背を伸ばして立とうとすると、痺れるような痛みが走って老爺のように背を曲げて歩くしかできぬ。これでは仕事にならぬと上に湯治を願い出れば、普段の生真面目ぶりが幸いしてすぐに許可が出た。
そうして湯治へ赴いたのだが。
どうにもそこで、よろしくない怪異を引っつけてきたらしい。半月ほどして帰ってきた武士の様子は、どこかおかしいものであった。
――見ているんだ。俺を。いつも。
ぶつぶつと呟いては、なにかを払うように手を振る。かと思えば蔵の石壁をずっと見つめて動かなくなる。他の者が声をかければ、夢から覚めたように正気に返った。
しかし自分が先まで何をしていたかは、一切思い出せなかったという。
――黒く塗らないと。目が。目が見える。塗れば見えなくなるから。塗れば見えなくなるから。
陰鬱な表情でそう呟くようになった彼はやがて、大量の墨を買い付けては家中に塗ったくるようになった。墨自体の値段は安いが、量が多ければ金もかかる。薄給の武士にそこまでの金は無い。
武士は己が番をしている蔵から荷を取り出して売りさばき、金を工面するようになった。
彼の担当していた倉庫に入っているものは、季節の行事に使う細々としたものであり、普段使いするものではなかった。それゆえ発覚が遅れたと言う。
武士の異変と、蔵の荷が消えている事に同僚がようやく気づいた時には、彼の家は畳の縁から箪笥の中に至るまで、真っ黒に塗り潰されていた。
――視線を感じる。視線を感じる。どうしてだ、塗ったのに。全部塗ったのに。黒く塗ったのに。目は出てこないのに。どうしてだ。どうしてだ。
捕縛の為に同心連中が駆けつけた時には、時すでに遅く。
墨の臭いが立ち込める、己が部屋の真ん中で仰向けになっていた武士は、筆を両目に突き立てて事切れていたと言う。たっぷりと墨を含んだ穂先を眼球に突き入れた為、目の脇から墨汁が涙のように流れていたらしい。
その後、家は空き家となり売りに出された。しかしそんな異常な死体が出た屋敷に住みたい、などという奇特な人物は現れず。その内、
曰く、屋敷に入るとどこからか視線を感じる。
曰く、廊下の角から両目の無い男がこちらを見ていた。
曰く、寝ている自分の姿を天井から見下ろしている夢を毎晩見た。
などという噂だけが独り歩きする始末。
近所の者は、目にまつわる恐ろしい噂と、武士の最期になぞらえて、そこを『目々屋敷』と呼んでいる――
〇 ● 〇
「――っていう噂のある屋敷を曾根崎屋で買い取ったんだけどね」
「相変わらず曾根崎屋のやる事ってぶっ飛んでるのー。こないだ呪いの人形雇ってたでしょ、なーにに使うのよあれ」
「〆切守らない作家への催促用。ま、それは置いといてさ。どうだい。アンタ、そこで二晩ほど過ごしてみないかい? その屋敷で作家が実際に体験した事を本にして出す、っていう企画をやろうと思ってるんだけどさ」
「あらなにそれ、面白そうねー! やるやる、やるわよ夕吉、やらせてちょうだい!」
鉄扇で己をあおぎながらそう提案した夕吉に、丞幻は食い気味で身を乗り出した。
曾根崎屋の一室での出来事である。
艱難辛苦を乗り越えて書き上げた『巫女姫対友引娘』の草稿に良しを貰い、次の仕事の話をした後。ふと世間話の延長で夕吉が切り出したのだ。
――アンタ、お化け屋敷で過ごしてみる気はあるかい?
そうして語られた曰く付きの話に、丞幻はわくわくと目を輝かせた。
お化け屋敷に泊まるという、滅多に無い経験ができるのは興味深い。そして、そこで起こった出来事を記録し物語としてまとめるという企画。滅茶苦茶面白そうじゃないか。ぜひともやりたい。
美味しい食べ物と、面白くて変わった物が丞幻は大好物なのである。
ぱちん、と夕吉は鉄扇を閉じて会心の笑みを浮かべた。こうなる事を予測していたような笑みだった。
「じゃあ善は急げというし、早速行くよ」
「えっ、それ今日なの? ワシてっきり、明日とか明後日だと思ったんだけど」
丞幻は目を丸くした。急な話で、当然そこに泊まる準備は何一つしていないのだ。
普通は一度家に帰り、準備をしてから行くものではないだろうか。
「シロちゃん達におやつ買って帰るから良い子にしててねー、って言っちゃったのよん。ほらこれー、水饅頭。ぷるっぷるしてて美味しそうでしょ? それにお昼だってまだじゃない? せめてこれ置いて昼餉食べて、泊まる準備させてからにしてちょーだいよ」
「悪いけどできない相談だね」
言って、夕吉は鉄扇を手のひらに打ち付けた。硬質な音が鳴り響く。
瞬間。
「のわっ!? ちょっ、なになになにいだだだだだ!? ちょっ待っ、そっちにワシの足曲がんないから!! そんな柔らかくないから! 豆腐と違うから!」
天井から黒い人影が複数下りてきたかと思えば、たちまち丞幻の手足を捻り上げて畳にねじ伏せた。突然の蛮行に対応できなかった丞幻は、目を白黒させて夕吉を見上げるしかない。
なんだ、なんだ一体。急に現れた黒ずくめ達に取っ捕まるようなことは何一つしてないぞ。
「夕吉、お夕! どーいう事!? ワシなんかお前にしたっけ!? てかこいつら誰よ!」
「曾根崎屋に仕える“影”だよ」
「なんでたかが版元に影が仕えてんの!?」
影、とはすなわち忍の事である。
諜報と暗殺の専門家たる彼らは、貴墨城を始めとして、あちこちの大名に仕えているのが常だ。丞幻の言う通り、大手とはいえ一介の版元が抱え込むような存在ではない。
夕吉は涼しい顔で渾身の叫びを受け流した。
「まあ、それは今、どうでもいいじゃないかい。……実はねげん兄。この話、ウチが抱える作家達全員に話しててね。自分の担当してる作家の内、どいつが一番に屋敷に辿り着いて執筆権利を勝ち取るかって、他の担当達と勝負してんのさ」
「ワシら競馬のお馬さんじゃなくってよ!? おっまえ、幼馴染の兄貴分をなんだと思ってんの! 勝手に賭けの対象にしないでちょーだい!」
「幼馴染の兄貴分だからこそ頼んでんのさ。他の作家にこんな手ひどい真似するわけにもいかないだろ」
いつものやり取りをした後で、夕吉は空色の手拭を巻いた頭を可愛らしくかしげた。顔の前で両手を合わせる。
「ね、頼むよげん兄。アタシを助けると思ってさ。アンタだって、お化け屋敷に泊まって体験談書くの、面白そうだって言ってただろ?」
「そーねー。つい数秒前に、手足捻じられる前まではそう思ってたわねー」
「そう拗ねないどくれよ。アタシが勝ったら、勝ち分は半分あげるからさ。勝てば総取りで銀八枚。そっから半分でアンタに銀四枚。悪い」
話じゃないだろ、と続ける前に、丞幻はとてもとても真剣な顔で頷いた。
「よし乗った、早く行くわよお夕。なんとしてもワシらが一番に目々屋敷に乗り込むわよ」




