霜月二日・昼-二
〇 ● 〇
「この子は本当に、人なんですか」
思わず、というように隣からこぼれた声には、絶望にも似た色がまぶされていた。
信じられない、と続ける巾木に、為成は人差し指を己の口元に当て、しっ、と鋭く息を吐き出した。
「巾木」
薄桃色の瞳をはっと開いて、巾木は失言を取り消すように口を覆う。それでもその瞳には、悍ましさと痛ましさが同時に浮かび、細い眉を歪ませていた。
「すみません、笹村さん」
「うん。……俺達はこの子ほど言霊を扱えるわけではないけど、それでもこの子が人であることを否定するのは控えた方がいい。この子は俺達と同じ、人間だ」
――まだ。
思わず付け加えそうになった言葉を飲み込むと、鉛のように胸が重くなる。
成ろうとしている。
子どもを一目見た時、為成はそう思った。
根拠は無い。理屈は思い浮かばない。他人に上手く説明できない。
ただ、この子ども。しらてふと名乗らされている、哀れな子ども。この子どもが今にも人の殻を脱ぎ捨てて、何かに成ろうとしているのだと、そう直感した。
そしてその直感は、間違っていなかった。間違っていて欲しかった。
魂が外から歪められている、と子どもを一目見た年嵩の与力は言った。頭である青音が大祓祭関係で出払っている今、彼が白寿教関連の指揮を執っていた。
「泥翡翠で意識曖昧な時に、しらてふだ、生き神だと、ずっと言い続けられ、予見をさせられる。確固たる己の無い幼いみぎりから、そう生きていたんだ。自分はそういうものだと、そう思い込んでもおかしくない」
そして実際、己の告げた日に、その人物が死ぬ。それを何度も繰り返せば、「ああ己には、そういう力があるのだ。己とはそういうものなのだ」と思い込む。大人でもそんな事態が続けば、そう思うことはあるだろう。
それが子どもなら、なおのこと。
与力は、痛ましいものを見る目で子どもを見た。
「だから、魂が歪んでいる。歪んで、しらてふに成ろうとしている」
歪み、成った先に何が待っているのかは誰も分からない。白寿教の教祖も分からないし、この子どもも分からないだろう。
人々の言う通り、しらてふと呼ばれる神になるのか。
あるいは、しらてふと名乗る怪異になるのか。
あるいはまた、別の何かか。
だがこの子は、まだ人の際に留まっている。ほんのぎりぎり、寸での所で。
子どもの中に何か小さな、それこそ棘のように小さな何かがあって、それがこの子を人の側に引っかけているのだ。
「だから、なるたけこの子を『人間だ』と認識しろ。口に出してもいい。我々には霊力があり、この子には劣るが言霊を扱える者もいる。この子のよすがが分からない以上、下手な一言で道を踏み外しかねない。人の側に全力で引き留めろ。この子は何も……何も悪くは無いのだから」
熱の入った与力の言葉を思い返しながら、為成は眼前の子どもを見やった。
ぶ厚い綿入り布団の中に肩から下を収めた子どもは、天井を見上げたまま微動だにしていない。なにものの映していないような青い瞳は、目封じの呪符が縫い付けられた白い布で隠されていた。
しらてふは、己の目で見て認識した者に対して言霊を使う、という推測からの判断だった。
「あの子は、瞬きをしないんですね」
冷たい廊下に、ぽつんと巾木の声が落ちる。為成は顎を引いた。
布で目を塞がれているというのに、子どもは瞼を閉じていない。開けたままだ。そして、目にぴったりと張り付いた布が、内側から押し上げられて動くこともない。――瞬き一つ、していないのだ。
目に直接布が当たり続けていれば、痛いし不快になるというのに。
それが一層、子どもの人間離れを強調しているようで、為成と巾木は同時に舌打ちした。
矢凪が連れてきたしらてふは、異怪奉行所の奥、“散”の間と呼ばれる部屋に寝かされている。
“散”の間は、板張りの床と壁に覆われた窓の無い部屋で、飾り気のない簡素なものだ。広さは二畳ほどの狭いもので、子ども一人が横たわるのがやっとである。為成と巾木は、部屋の外から子どもを見ていた。
板張りの廊下は氷のようで、漂う空気は身を切るように冷たい。剥き出しの耳や鼻がかじかんで痛みを覚える中、二人は廊下に端座していた。
後は戸を閉めて外から鍵をかけ、交代まで見張っていればいい。戸は、ちょうど為成の顎の辺りが四角くくり抜かれ、玻璃がはめ込まれている。そこから室内の様子が見れるようになっているから、戸を開けっ放しにしておく必要は無いのだ。
だが、戸を閉めるその一瞬、その一瞬のうちに、小さな身体がどこかへかき消えていきそうな気がして、どうにも手が動かない。巾木も同じなのか、膝の上に置いた手を上げては下ろしを繰り返している。
この部屋は散の名の通り、室内にいる者の霊力を完全に遮断し、散らす。怪異や呪いの影響、あるいは突如霊力が発現し扱いきれず、霊力を暴走させている者を隔離しておく部屋である。
ちなみに術を悪用した為に捕らえられた者は、霊力を封じる呪具を付けられて牢に放り込まれる。本来であればしらてふも『術を悪用した』者だが、五、六歳の幼子の手に枷を付け、牢に放り込むのも忍びなく、“散”の間にて軟禁ということに相成った訳である。
それに、悪いのはこの子の才に目を付け、悪用している白寿教の教祖永白である。奴が悪い。十割悪い。覚悟しろ永白、捕らえた暁には貴様の逸物にこの五寸釘をぶち込んで串刺しにしてやるからな。縦に。
と、為成は胸の中のもやもやを、永白への殺意に変えて溜め込んでいた。
時は少しずつ過ぎていく。
廊下を通りがかった同心の一人が、「いや廊下に座ってたら寒いだろ」と火鉢と座布団を差し入れてくれた。更に他の面々も「これ食っとけ」「寒いから羽織持ってきたぞ」「茶を持ってきたぞ」「餅も食え」とあれやこれや差し入れてくれた。ありがたい。それは大変ありがたいのだが。
「……何の儀式でしょうか」
「さあ。なんか呼び出しちまいそうだな」
自分達の間に置かれた棚と、そこに並べられた差し入れの数々を見て、二人は思わず苦笑いした。
「廊下に置きっぱなしだと邪魔だから棚置いとくな」と片付けようとしていた階段棚を設置し、そこに差し入れをずらり並べてくれたので、まるでお供え物のようになっている。どこぞで怪異になっていたのを浄化した棚は、黒塗り漆の重厚な奴で、側面には上から下へ落ちている、物凄い形相の女の絵が。各段の左右には真珠の実をつけた銀の枝葉が、飾りとして取り付けられている。それでますます何か儀式めいたものに思われて、為成は笑うしかなかった。
差し入れの蜜柑を剥き、白い筋をちまちま取る。細かい所まで完璧に取ってから、口に放り込んだ蜜柑は酸っぱかった。
「すっぱ」
「私は甘いので当たりですね」
顔をしかめると、得意げに巾木が笑う。巾木は皮を剥いた蜜柑を、白い筋も取らず丸ごと齧っていた。あれだと筋が口の中に残って気持ち悪くなると思うが。為成はそれが苦手だ。
暁九つ|(午前零時)を超えようという時刻だが、異怪奉行所内は人の気配が満ちていた。あちらこちらから微かな話し声と、足音が響く。
普段であれば不寝番を数人残すばかりだが、今は大祓祭と白寿教、二つの案件を抱えている。よって誰もが家に帰らず……もとい、帰れず、己の仕事を黙々と続けていた。
「磯崎さん、言霊返しの書物が見つからないと帰れない、と泣いてましたね」
「あいつん所は嫁さんが強いからなあ。言霊返しは確か、西の倉にあったのを見たぞ。春に虫干しをした時、俺が西担当だったから覚えてる」
為成は子どもから目を離さないまま、懐から矢立と紙を取り出した。伝える旨を書きつけて鳥の形に折り、小さく呪言を唱えて紙に息を吹きかける。
鳥の形をした紙は小さく震えると、ゆっくりと羽ばたいて廊下の奥へ飛んで行った。これで、磯崎も帰れるだろう。
ううん、と為成は太い腕を組む。
「問題は、この子がどれほどの術者かなんだよな」
言霊をかけられた者に対し、返しの術をかければ、恐らく無理に歪められた人々の運命は元に戻るだろう。ただ、それはあくまで言霊をかけた側――しらてふの力を上回っていた場合に限る。
霊力が無いとはいえ、鉦白家長子である丞幻の運命を歪めているのだから、相当な力と見ていい。それこそ鉦白家などのように、名のある祓家でないと難しいのではないだろうか。
「そうですね。私達が複数人で術をかければ、あるいは……とは思いますが。お頭の神様は、何か言っていないんでしょうか」
「さあ、俺は何も聞いてないなあ。高堂さんに後で聞いてみるか」
「そうですね」
高堂さんとは、この件の指揮を執っている与力である。「しらてふをただの子どもと認識しろ」と言ったのも彼だ。現在時刻は夜更けであるが、無礼承知で貴墨城へ赴いている。
出がけに見た、疲れ切った顔の高堂を思い出し、為成は蜜柑をもう一粒口に放り込んだ。
「しかし、九季原の奉行所も大変だったろうな」
「そうですね。むしろ、白寿教を追い詰めて国から出したのは凄いと言うべきですよ。結局妨害が重なって、取り逃してしまったようですが。それでもです」
ちんちんと鳴る鉄瓶を取りながら、巾木は白い息を吐いた。置かれた火鉢で膝の辺りは温かいが、顔周辺は冷えた空気にさらされている。耳が痛い。物理で。
白湯を注いだ湯呑みを差し出され、為成はありがたく受け取った。
かじかんだ指先を温めながら、ため息を一つ。
「上手い事、言いくるめられればいいんだけどなあ。あの人、口下手だから」
「だから口が病的に上手い宝峯同心を連れて行けばいい、と言ったんですけど」
「宝峯は宝峯で、別行ってるからなあ。……あーあ、面倒臭い。睨みさえ無けりゃ、ぱぱっと行って五寸釘ぶん投げるんだが」
酒の代わりに白湯をあおって、為成も白い息を吐いた。
本来であれば、すでに白寿教など解体させることができるのだ。なにせ相手は、天帝の落とし子を名乗っている。それだけで大罪であり、異怪奉行所が与力同心達を突撃させる理由に十分なりうる。
九季原国の奉行所からは、白寿教についての話が来ていた。だから、その時点で捕らえられたのだ。本来なら。
それができない理由は簡単で、上、つまり貴墨城の重役に就いており、異怪奉行所も無視できないような、やんごとなき方々から、睨みをきかされているのだ。
――白寿教が、生き神を天帝の子と騙って人々を騙していると。
――なればそのうち、天大神が罰を下されよう。
――悪戯に動けば、天大神ひいては天帝の気に障るのでは。
――今は大祓祭、しかも天帝が貴墨におられる。白寿教なぞに注視するより、天帝の御身の守護に励んだ方が良かろうよ。
他にも色々と、求肥に包んだような言い回しをされたが、要するに「お前らは手を出すな。ほっとけ」と言いたいようだった、とは城から帰ってきた青音の言である。
「……普通なら、そんな怪しい連中さっさと捕縛してしまえと言いそうな方も、手を出すのは渋っていたんですっけ」
「そうそう。天帝が貴墨にいらっしゃる前に、白寿教を潰す方がよっぽど良いって、ちょっと考えれば分かる筈なんだけどな。これが九季原でもあった、白寿教に手を出そうとすると妨害される、って奴なんだろ」
「実際ほっといた結果、天帝に斬りかかろうとした者もいましたからね」
高堂が城に向かったのは、睨んでいる連中にこの事を伝える為だ。お前らの言う通り見守っていた結果、ついに天帝に害を為そうとする者も出た。それでも白寿教を放っておくのか、と。
ちなみに大祓祭という一大神事、ほとんどの者が屋敷に帰らず城に詰めている。
「っていうか泥翡翠使ってるんだから、そこら辺詰めてどーにか強制的に行けないもんかな」
「ああそこ、この間言ったらしいんですけどね。要約すれば、口だけでは何とでも言えるから実物持って来い、ってことらしいですよこれだから現場を知らないお偉いさん達は口だけでは何とでも言えますね、けっ」
「巾木、巾木」
唸る巾木を窘め、為成は正座を崩して胡坐をかいた。流石に足が痺れてきた。
「……さっさとどうにかできてりゃ、丞幻殿も変な事にならなかったんだけどなあ」
丞幻にまといついていた死相を思い出して、陰鬱になった。白寿教対処は遅れてもいいから、丞幻の事はどうにかしたい。
話を聞いた時に、為成は頭を抱えてしまった。つい先日、ウロヤミ様に襲われて堅須国に放り出されたばかりだというのに、どうしてまたおかしなことに首を突っ込んでしまったのやら。
「せめて目が治るまで大人しく療養しててほしかった」
心底の呟きが床を這い、巾木はきょとりと目を瞬かせた。
しばし、時間が過ぎる。
しらてふは相変わらず、天井を見上げたままだ。胸が微かに上下するのを見ていなければ、本当に生きているのだろうか、と疑ってしまうほどに、ぴくりとも動かない。
一刻ごとに見張りを交代するので、そろそろ交代の時間だ。為成は小さく欠伸をして、疲労と眠気でぼんやりしてきた頭を軽く振る。
「白寿教が台頭し始めたの、いつからでしたっけ」
ふと、巾木が独り言のように呟いた。
「……九季原国から数えるなら、一年くらいだったかな」
「泥翡翠をその時から吸い続けていたのなら……例え人の身のままいれたとしても」
泥翡翠の中毒は、恐ろしい。ほんの少し吸うのを止めるだけで、凄まじい禁断症状がその身を襲う。頭痛や幻覚などの禁断症状に心の臓が耐え切れず、そのまま命を落としたという話もある。
「禁断症状が出るまでは、確か一日か二日……重度なら半日、だったか」
「こんな、まだ小さな子が、大の大人でも耐え切れない症状に耐えられるわけが……」
巾木の瞳が、泣きそうに歪む。
「巾木」
「あの糞禿げ肥溜めどぶ滓排泄物野郎、絶対生まれてきてごめんなさいと言わせるまで追い詰めて堅須の土を舐めさせてやりましょうね」
「うんお前は本当同情を殺意に変えるのが上手だな」
めらめらと殺意を燃やす巾木に、為成は苦笑する。
人らしさを削り取られ続けている子どもは、同心二人の声にも反応一つ見せず、置物のように横たわっていた。




