霜月二日・昼
〇 ● 〇
書奉祭は、とにかく忙しく、うるさい。
目玉が飛び出るほどの安値で新刊や古本が乱れ飛び、代金を払えばその場で望みの絵を描いてくれる絵師達があちこちにいる。それだけでなく、本や舞台に出てきた小物を作って売る者もいるし、好きな登場人物の恰好をして小芝居をする者や、小説に合わせた曲を作って演奏している者もいる。
その為、あちこちで歓声と音楽と小競り合いの音がひっきりなしに、会場である境内に轟いていた。
通常、貸本屋から本を借りる際の値段は二十四文。一冊買うなら銀二枚。本というのは高いのだ。大工の一日半近くの稼ぎが、本一冊に消えていく。
それが、書奉祭においては一冊約三十文。新刊のみならず、装丁や挿絵を少し変えた既刊、作家自身による作品の二次創作や裏話集、あるいは既に世に出回っていない絶版本。値段に多少差異はあれど、大体の本がそれくらいの値段で売られているのだ。皆々、目の色を変えて目当ての本を猛然と買い込んでいる。
中には、目当ての本を先に買われた、という理由で喧嘩が勃発することもあり、町奉行所の与力同心達がそこらで目を光らせていた。
その中で大手版元、曽根崎屋の陣地で独楽のように動きっぱなしだった丞幻は、昼頃にようやく休憩を与えられ、ぐんにゃりと縁台に伸びていた。
「……づがれだわあー……」
綿入りの毛氈に突っ伏し、腹の底から息を吐きだす。
曽根崎屋は大手だけあり、陣地が他より広いし、場所も良い。神社へ続く石段を登ってすぐにある、手水鉢の横。訪れる者達の目に、すぐに入る場所が曽根崎屋の場所だ。ちなみにこの場所を含め、神社の入り口周辺は貴墨に根を張る大手版元が、毎年陣取っている。去年も同じ場所だった。
広く取られた陣地の奥は布が張られて目隠しされ、丞幻達売り手はその布の奥で休憩を取ることを許されている。六つほど置かれた縁台では、他の売り子達が腰掛けたり、横たわったりして、休憩を取っていた。
書奉祭の際に曽根崎屋の売り子を務めるのは、曽根崎屋で働く者達の他、丞幻のように〆切を守らず罰として雑用を命じられた作家達である。〆切を毎回守る良い子の作家達は、売り子が免除される。とはいえ読者と生の言葉を交わしたい、みんなが忙しそうだから手伝いたい、この忙しい雰囲気が好きだ、と手伝いに来てくれる者もいるが。
ちなみに曽根崎屋に仕える影達は、書奉祭の手伝いに駆り出されることはない。彼らが手伝えば、それこそ百人力なのではないかと丞幻は思い、実際主人に聞いてみたが、「いやあ、影を表舞台に出すのはちょっと」と至極全うな返事をもらった。
閑話休題。
突っ伏したまま、頭の上に伸ばした両手をぱたぱたとさせる。
「もーむり……ワシとける……とけてなくなって、はるにあたらしいワシとしてうまれるわあ……あたらしいワシをどうぞよろしくね」
「意味分からねえ」
疲労のあまり、自分でも訳の分からない言葉がつらつらと出てきた。
休憩を取っている他の面々も似たようなもので、地面で蚯蚓の真似を始めたり、突如脱ごうとしたり、「あれ、一文って何文だったっけ? 二文だっけ、三文だっけ? あれ? 急に計算できなくなったぞ」など呟いていたりする。
「…………なんか、食うか」
「えぇー……なにー…?」
「飯、買ってくっか。昼だし」
珍しく矢凪が気を使ってきた。丞幻は突っ伏したまま、一つ頷いた。
「よろしくー……」
「おう」
頷く矢凪に向かい、俺にもー、拙者にもー、おいどんにもー、と縁台で溶けている面々から声がかかる。
「うるせえ。てめえらはてめえらで買え」
それらをすげなく一蹴し、矢凪がすたすたと出ていく。横たわったままそれを見送って、丞幻は大きな欠伸をした。
小雪とシロとアオは、今日は屋台巡りをするのだ、とわくわく顔で繰り出して行った。会場である神社の外には、様々な屋台がずらりと並んでいるのだ。貴墨国の外からやって来た物売りなんかもいるので、珍しいものは多いだろう。
夕吉は、まだ見ぬ才能の塊を見つける為、あちこちの陣地を見回っている。まだ版元がついていない作家の卵達は、ここが一つの好機だ。自分の書いた本が読まれ、「これは面白い」と認められれば版元に声をかけられることもある。
丞幻もそうして、曽根崎屋に見出された一人だ。……よもや、曽根崎屋の作家として書き出して数年後に、妹分が入ってくるとは思わなかったが。
「おなかすいたけどー……またちょうちょがでてきたらいやねえ……たかがまぼろしのくせに……なまいきなのよー……」
縁台にべったりと頬を預けたまま、ぶつぶつと呟く。
今朝の、白い蝶を思い出す。あれは、しらてふが自分の運命に干渉した影響だろう、と丞幻は考えていた。
他の人物にも同じことが起きていたのかどうか、確かめていないから確定ではないが。
不安に思う自分の心が見せた幻覚ということもありえたが、それは無いだろうな、と思う。このままいけば明日に死ぬことが確定している命だが、心は妙に凪いでいてそれに対して一寸の不安も抱いていない。
異怪奉行所にしらてふが確保されたから、もう安心だと感じているのか。……いや、違う。なんというか、心と身体が乖離したような、奇妙な感覚がある。朝起きて矢凪達とじゃれていた時も、売り子として忙しく動き回っていた時も、今こうして疲労し寝転んでいる時も、どこか他人事のように感じる冷めた感覚。
楽しい、疲れた、と表面上では思うのに、心の奥は鋼のように冷たく固まり、ぴくりとも動かない。
「んー……なにかしらねえ……これ……あー、鬱陶しい…………」
動かない心に、自分のことながら苛立ちが浮かぶ。
「とりあえずー……終わったら奉行所に行って、聞いてみましょー……」
また食べ物が蝶に見えたら嫌だわあ、とぼんやり考えていると。表と裏を隔てる幕がぺらりとまくられた。
そこからひょっこりと、丞幻同様に雑用係としてこき使われている作家が顔を出す。
「おーい、丞幻。ちょっと来てくれ」
「なによお……ワシ、さっき交代したじゃないのよお……もーしんどいのよ、こちとら」
無理無理、と突っ伏したまま片手だけを立ててひらひらと振る。
「いやあ、どーしても巫女姫の作者に会いたいって言ってる奴がいるんだ。お前と握手したいんだって」
丞幻は、目を半眼にした。
「……ちびっこ?」
「いや、白髭のおっさんだぞ」
「…………じゃ、行くわあ」
亀のようにのっそりと、丞幻は起き上がった。
年端もいかない子らに、巫女姫が人気なのは大変嬉しいのだが。巫女姫の内の誰かが、自分達の物語を書いている、と思っている子が多いようで、会う度に「え、誰、このおじさん……巫女姫様は……?」みたいな目で見られ、あるいは直接言われ、若干凹んだ丞幻である。親御さんの、非常に申し訳なさそうな視線が心苦しかった。
ちびっこ達の夢を無暗に崩したくないので、小さい子だったら出る気は無かったが、おっさんだと言うなら自分が出ても大丈夫だろう。さすがに髭が白くなるまで生きた男が、夢が破れたと大泣きはすまい。……したら、それはそれで怖いがネタになるので、よし。
乱れた着物と髪を軽く整え、頬を軽く叩いて気合を入れてから幕をめくる。
「お、来た。――旦那、巫女姫の作者はあの萌黄色の彼だ」
「はいはい、ワシが巫女姫の作者の丞々でございますよー」
疲労を覆い隠した明るい声を上げながら、丞幻は台の前に立った。ちなみに丞々とは、作家としての名である。
自分を指名してきた客を見上げ、
「んっ?」
丞幻は、ぱちりと目を瞬かせた。
大きな手に、幾つも本を抱えた男を見上げる。
老齢の男だが、肩幅は広く、胸回りも腰回りも分厚い。まるで大木の幹のように、どっしりとした大男だ。身の丈六尺の丞幻より、さらに高い。
短く刈った白髪と、そこから短い顎髭が途切れずに続いている。顔を覆うように毛が生えている様子は、どこか猿の毛並みを思わせた。陰浅黄色の地味な着流しの上から、春の野を写した派手な振袖を袖を通さず引っ掛けている。振袖は写し染めのようで、裾の方で柔らかそうな草がそよそよと泳ぎ、袖の方から裾にかけて桜の花びらがくるくると舞っている。
着流しの袖に両手を差し込み、初老の男は白目がほとんど見えない赤錆色の左目で、凝っと丞幻を凝視していた。左目だけで。右目は無い。鋭いもので突かれたように、完全に潰れていた。
周囲の皮膚も痛々しく引き攣れ、思わず目をそらしそうになるほど酷いものだが、男は堂々とそれを見せつけていた。己の傷と、その傷をつけた相手を、誇っているようにも見える。
――あまりにも、似ていた。
「丞幻、どうした?」
隣からの声が遠い。
どこまでも広がる、赤茶けた地面と空が脳裏に蘇る。堅須国に迷い込んだ際、助けてくれたかつぎぬの男に、眼前の男はひどく似ていた。
あの時はかつぎぬに阻まれて顔を伺うことはできなかったが、その逞しい体格や着ていたものが、あの男に酷似している。
丞幻の内心を知らぬ気に、男は大きな口をにんまりと笑ませた。唇がばかりと開き、真っ赤な口内が覗く。
「先日の巫女姫は、実に面白きものであった。ああも血沸き肉躍るどころか、血肉笑い転げるような話を書くとは思わなんだ。よもやアオナの放った一撃が好物であったが故に力を増した怪異が、一笑いでもすれば即座に尻をしばかれるような結界を張る展開になるとは」
「……はあ、それは、どうも」
人を食ったように赤い口内から、言葉がするすると出てくる。どこか身構えていた丞幻は拍子抜けしてしまい、それに曖昧に頷いた。
その後も、男はここが面白かった、あそこでは笑いすぎて息ができなくなったなど、普通の感想を述べる。実に楽しそうに言う男と、どうしてもかの地で出会った香坂を重ねてしまい、丞幻は、はあ、ええ、と生返事を返すことしかできなかった。
「――いや、いや。誠に面白きものであった。儂も思わず、年甲斐も無く腹を抱えてしまったわ」
最後にそう結んで、男がこちらに手を差し出してくる。
「そこまで言っていただけるとは、作家冥利に尽きるってもんです。嬉しいですよー」
差し出された手を握り、そう答えると、思ったより優しい力で握り返された。
「堅須の影響は、見鬼だけで済んだか。――良き哉、良き哉」
喧噪に混じって囁かれたしゃがれ声に、一瞬反応が遅れた。
「ちょっ、お宅……!」
丞幻が言葉を発する前に、するりと手が離された。積んだ本が崩れるのも構わず、台に両手をついて上体を伸ばし、派手な振袖を探す。
見上げるような巨体を見逃すわけがないのに、その姿は雑踏に紛れてどこにも見えなくなっていた。
――苦、忌、忌、忌、忌。
喉の奥を震わせる、猿のような笑声だけが喧噪を縫って丞幻の耳に滑り込む。
「おーい、どうした丞幻、急に。なんかネタでも浮かんだのか?」
「いや……さっきの方の名前を、聞きそびれちゃったわあ……って思って」
のんびりとかかった声に、適当な言葉を返す。目の下にくまをたっぷり作った彼は、丞幻が落とした本を拾い上げながら口を開いた。
「あれは蜃楼閣の桜主殿だぞ。よく行ってるから知ってる」
「蜃楼閣……」
それは、貴墨の中でも上等な遊郭の一つだ。丞幻は足を運んだことはないが、行った者はそれはそれは夢心地の気分を味わうのだという。
「お名前は?」
「香坂刃左衛門殿だぞ」
「香坂……」
堅須国で助けてくれたあの男の名も、香坂だった。
自然、眉間に皺が寄る。
だがそのことに思案を巡らせるよりも早く、人込みをかき分けてきた矢凪が目に入った。その後ろには、異怪奉行所の黒羽織を羽織った為成がいる。
刀傷の走った強面の顔が、焦った表情を浮かべていた。
なんだろう、なにかあったのか。
「おい、こいつやらかしたぞ」
「は?」
駆け寄ってくるなり、一言。
矢凪のそれに眉を寄せた丞幻の前で、為成ががばりと頭を下げた。
「すまん、丞幻殿! しらてふが消えた!」




