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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
神祭:大祓祭

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165/194

霜月一日・夜半-二

〇 ● 〇


「おおっ、これうまいなあ! この生姜の辛さが、疲れた身体に染みてくようだ!」


 丼を抱え、忙しなく箸を動かしながら、天帝(あめのみかど)は華やぐような笑みを浮かべて叫んだ。

 貴墨の南側を一日かけて回った後。天帝と空晴、蓮丞の三人は貴墨一の歓楽街と名高い冴木にある旅籠、茶桜屋に泊まっていた。

 重箱のような四角い二階建てで、部屋数は七つ。全体的に小ぢんまりとしているが、奉公人の質が良く、丁寧なもてなしをすることで評判だ。与力同心達や神祇官達とはここで解散し、また明日合流することになっている。


 ちなみに、天帝が大祓祭の際に泊まる所は、その年によって変わる。理由は非常に単純で、いつも同じ所に泊まるのはつまらないからだ。

 折角、中々来れない所に来ているのだから、色々なものを見て、色々なものを食べて、色々な所に泊まりたい。本当は、ぶらりしゃらりとしながら目についた宿に飛び込んでみたいのだが、「急に天帝が『一晩泊めてくれ!』と飛び込んできた旅籠の者の気持ちを考えてください」と懇々と説教されたのでやめた。

 だが諦めてはいない。いつの日か必ず果たしてみせよう、天帝のぶらり一人旅を。

 などというよく分からない決意を抱きながら、天帝は旅籠一上等な部屋で、夕餉に舌鼓を打っていた。


「こっちの兎のつみれ汁もいいなあ、この塩辛いくらいの味噌味がいい! 人参も大きいし、椎茸も分厚くてうまい!」


 用意してもらったのは、この茶桜屋で一番人気だという桜丼と兎汁だ。

 桜、という名だが本当に桜が乗っているわけではない。縦切りにした甘藷(かんしょ)を天婦羅にして、炊き立ての飯の上に桜の花弁のように乗せ、甘辛いたれをたっぷりとかけたものである。中心には荒く刻んだ生姜が散らされ、甘藷の甘さと生姜の辛さが絶妙に混ざっていて、美味い。

 丼は擂鉢のようにでかくて、いかにも高級なものです、といった黒塗りの膳には収まらず、わざわざ別の盆に乗せられてきたのだ。

 それからはみ出るほど大きな甘藷を、大口で一息にかじる。さくっとした歯触りの衣もいいが、たれを吸ってぺったりと柔らかくなった衣も、いい。


「この甘藷、ほくほくねっとりしててうまいぞ! しかもでかい! でかいのはいいことだ!」

「お、お褒めに預かり光栄で御座います……!」


 わしわし、と育ちざかりの子どものように勢いよく食べ進めつつ、茶桜屋の主人に笑顔を向けた。近くに端座している主人が、畳に額をこすりつけて声を震わせる。

 感動しているのか、恐縮しているのか、平身低頭しているのでよく分からない。綺麗に禿げ上がった頭が玻璃竹行灯の光を反射して、輝いているのだけはよく分かる。


「この桜丼、考えたのは君か? 芋を桜に見立てるなんて、中々思いつかないぞ、やるじゃないか」

「あ、いえ。これは私の父が。何か宿に名物が欲しいと頭をひねったものです。たまたま、親戚で甘藷を育てている者がいまして、それで」

「そうかあ。じゃあ、君の父御に感謝だな。このたれも?」


 頭を上げた主人が、顎を引いて首肯する。そうかあ、とまた呟いて、天帝はたれを吸って茶色になった米を口に運んだ。

 丼の底に溜まるくらいたっぷりかけられた、このたれで米を食うのがまた美味い。少し濃い目の味つけなのが最高だ。あっという間に完食して手を合わせる。

 食後の茶は、桜の葉を炒った茶だ。これも少し苦くて美味い。口の中に残った濃い味を、ほんのり香る桜の匂いが、綺麗に押し流してくれるのだ。

 茶を飲み干し、ふう、と息を吐く。甘藷は腹に溜まるし、米も量が多かった。満腹だ。


「いやあ、美味かった、美味かった。特にたれが最高だったな。たれだけで三杯はいけそうだった」

「その、本当に用意するのは桜丼でよろしかったんでしょうか……」


 ぷふー、と息を吐いている天帝の横で、主人が恐る恐るといった様子で声をかけてきた。

 くちくなった腹を撫でるのをやめて顔を上げ、


「ん?」


 と首をかしげる。

 緊張でか、頭にびっしり浮いた汗を拭きながら、主人は続けた。


「いえその、桜丼は正直、一杯二十文もしない、安いものです。満腹になればいい、ってんで、とにかく腹にたまる甘藷と米しか使っていませんし、味も大衆向けの濃い味で……そのー、天帝の前にお出しするのは」

「いや、そんなことはないぞ」


 主人が続けようとしたのを遮って、天帝は首を横に振った。


「あのな、凝って洒落たものなら、家でも十分食べられる。飽きてるくらいだ。俺はな、主人。ここでしか食べられない、そういう名物が食べたかったんだ。安かろうが構うものか。みんなが食べて、美味しいって笑顔になるものを俺も食べ――」


 と、言い募っていた天帝の言葉を遮って、横の部屋から何かが倒れるような音がした。

 自然、目線がそちらに行く。隣の部屋は、空晴と蓮丞の部屋だ。


「なんだ、もう。俺が今、うまいこと言ってたのに」


 本当だったら夕餉を共に取るはずだったのだが、二人で明日の道順を確認するとかで先に食べていてほしいと言われていたのだ。一人で食べるのは寂しいので、食事を持ってきた主人を引き留めて、ついあれこれ雑談をしていた天帝である。


「なんでしょうか」

「すまんな、うちのがなんだか暴れてるみたいだ。ちょっと、様子を見てくる」

「あ、私が」


 腰を浮かせかけた主人を手で制し、天帝は立ち上がった。


「いい、いい。うちのが迷惑かけてるから、俺が見に行くのが筋だろう」


 苦笑し、頭をかりかりとかく。その庶民じみた仕草に、主人は目をぱちぱちとさせた。



 重い風切り音。それに似合わぬ柔らかい感触が、背に。逃げられない。こらえられない。膝が崩れる。


「むぎゅっ!」


 勢いよく、蓮丞は畳に腹から叩きつけられた。息の塊が喉を通って、奇妙な悲鳴となって吐き出される。畳に手をつき、立ち上がろうとするが無理だ。術を使いたいが、霊力を巡らせようとすると先んじて空晴が印を組み、蓮丞の霊力を散らす。


黒羽(こくは)、頼むからそのまま押さえておいてね。少しでも力を緩めれば、その子は思いっきり突っ走って行っちゃうから」


 ぐるぐる、と返事のように喉が鳴った。

 十二畳と、それなりに広い部屋の半分を埋めるように、黒い塊が鎮座している。

 春の草原のように柔らかな毛並みは漆黒。丸い瞳は満月の金。帯のように長い尾は二本。部屋に存在する調度品を崩さないよう、器用に丸くなっている黒猫。天井に背が擦れるほど、その身体は巨大だ。

 蓮丞はその猫の右前足で、畳に押さえつけられていた。

 空晴の式――祓い屋が使役している怪異のことだ――である、黒羽だ。怪異としての名は影猫。影に身を沈め、獲物を狙う猫の姿をした怪異である。


「おのれええぇぇぇ……!!」


 恨みを込めた唸り声を上げ、眼前に立つ空晴を睨む。口元に刀印をかざした空晴は、やれやれと言いたげに息を吐いた。


「少し落ち着きなよ、蓮丞。空の上で、『分別はついています』と言った君はどこに行ったんだい」

「過去の発言がころころ変わるのはよくある事です」

「君まで、腹黒お奉行や優柔不断若年寄連中のようにならないでほしいね。……とにかく、君がこの場を離れるのを認めないよ。私は」


 口調自体は柔らかいものの、瞳には厳しい色が浮かんでいる。蓮丞は歯を軋らせながら、畳を平手で叩いた。


「よりにもよって兄様が、兄様が言霊によって寿命を二日にされているのですよ!! というか、叔父上は何をやっていたんですか、何を!!」


 脳裏に浮かぶのは、墨渡の広小路で飛び出してきた丞幻の姿。

 あの時、思わず飛びつかなかった自分を蓮丞は褒めてやりたかった。

 視ただけで分かった。兄の運命が、外から無理やり歪められている。柔らかい羽を大きく広げ、運命の糸を捻じ曲げている、白い蝶に似た霊力。

 それが誰の手によるものか、蓮丞にはすぐ分かった。白寿教の生き神、しらてふだ。

 天帝の落とし子だと言い張っているだけでも許しがたいのに、兄に手を出すなど言語道断。部屋に着いた瞬間、感情に任せて飛び出そうとして空晴に阻止されたのである。


「兄様を傷つけた原因を殲滅しに行って、何が悪いのですか!!」

「自分のお役目を放棄すること。貴墨の異怪奉行所の仕事を横から奪うこと。結果、鉦白家の名に泥を塗ることになることかな」

「ええ、ええ、そこは理解していますとも」


 黒羽に潰されたまま、蓮丞はふん、と息を吐いた。

 鉦白家には、敵が多い。

 陽之戸五大名家の一つであり、代々千方の異界奉行所の奉行を務め、祓家の中では唯一天帝の住まう雲涼殿への立ち入りと、直接の面会が許されている。その立場に成り代わりたいというのは多いし、怪異や呪いを操ったとして鉦白家に睨まれ、家を潰された連中もいる。

 当主である蓮丞の言動、態度一つで、彼らが付け込む隙が生まれる。

 それは分かっている。十分に分かっている。


「ですが、兄様の危機なのです!! わたしは兄様の危機ならどこにいようと駆けつけて、その敵を全て殲滅すると決めてるのです!!」

「あのねえ……」


 激高する蓮丞と対照的に、空晴はただただ呆れたように息を吐く。


「君はそうやって兄の危機、兄の敵は殲滅と言って兄に過保護だけど。君の兄だって子どもじゃない。君が助けなくても、自分に跳ねた火の粉くらい自分で何とかするだろう。――それとも、何かな?」


 ゆるりと腕を組んだ空晴が、ふと冷笑を口元に刻んだ。


「君の兄は、妹にわざわざ拭いてもらわないと、自分の尻すら満足に拭けない男なのかな。それはそれは、大した兄だね」


 蓮丞の目の前が真っ赤になった。


「貴様ぁッ!!」


 感情に呼応した霊力が渦を巻き、室内を席巻する。黒羽の前足の力が緩んだ。空晴の唇から笑みが消える。


「はいどーん!!」


 すぱーんと快音を立てて、襖が開いた。

 勢いよく開いた襖が奥に当たって跳ね返り、また閉まる。

 蓮丞と空晴、黒羽まで、全ての動きを止めてそちらを見る。


「むむ……勢いが強すぎたな」


 今度は普通に襖を開けて、天帝が入って来た。気まずそうに、ぽりぽりと頬を指先でかいている。

 蓮丞は、それからぷいと目を逸らして明後日の方向を見た。天帝をほっぽりだして兄の元に行こうとしていた手前、当の本人と目を合わせるのが少し気まずい。

 室内をぐるりと見渡して、天帝が腰に両手を当てた。


「で、なにしてるんだ。君達。さっきから騒がしかったぞ、ここの主人に迷惑をかけちゃ駄目だろう」

「すみません。ちょっと蓮丞と揉めていました」

「蓮丞と?」


 透き通った青い視線が、蓮丞に()っと注がれる。


「れーんじょーう、どうしたんだ?」


 純粋な疑問をまぶした声に促されるように、蓮丞は視線をそらしたまま、口を開いた。おからのように、ぼそぼそとした口調で呟く。


「……ちょっと、ここを離れて、兄様の敵を殲滅に行こうとしていただけです」

「と、言って飛び出そうとしていたので押さえていました」

「げんちゃんの? ……ああ、そういえば変に歪んでたなあ。まあ、とりあえず空晴、蓮丞を離してやれよ」


 天帝のその言葉に、空晴が一言「黒羽」と式の名を呼ぶ。背中の重みが消える。蓮丞はゆっくりと起き上がり、着物を軽くはたいて埃を落とした。乱れた三つ編みを背中に流して、その場に端座する……と見せかけて立ち上がり、窓に向かって突進。空晴がすかさず足を引っ掛け、転ばせる。畳に顔面を派手に打ち付け、蓮丞は転んだ。立ち上がろうとする前にまた、背中に黒羽の前足が乗せられて押さえつけられる。


「むぎゅっ!」


 じたばたと足掻くが、先ほどより強く押さえ付けられている。短剣のように太い爪が着物を突き通して素肌に刺さった。


「……と、まあこんな感じがさっきから」

「成程な。まあ、げんちゃん大好きだもんな。蓮丞は」


 瞳を細めて穏やかに笑う天帝に、空晴が息を吐いて腕を組む。


「兄が好きなのは構いませんが、役目を放棄されては困ります。天帝を放り出した挙句、貴墨国の異界奉行所の仕事を横取りしたと知られれば、鉦白家の家名に泥を塗ることになる。蓮丞の行動一つで、鉦白家の評判を落とす事になる。……と、先ほどから説明しているんですけどね」

「それで話が平行線を辿り、君は蓮丞の神経を逆撫でするようなことを言ったと」


 川で泳ぐように手足をばためかせ、暴れている蓮丞をちらりと見て、空晴は肩をすくめる。


「あまりに話を聞かないもので、つい。間違った事は言ってませんよ。丞幻は霊力こそ無いですが、知恵は回る方だし知識もある、人脈も広い。好奇心旺盛すぎて自ら危険に飛び込む悪癖はありますけど、蓮丞の助け無くとも、なんとか切り抜ける事はできるでしょう」

「げんちゃんは悪知恵働くからなあ」

「そのせいで、何回雲涼殿から逃亡したんでしょうね」


 じとり、と咎めるような視線を「あっはっは」と笑って適当に誤魔化し、天帝は暴れる蓮丞をかえりみた。


「――こらこら蓮丞、そう暴れるな」


 怒っているわけでも、失望しているわけでもない。幼子を咎めるような穏やかな口調だったが、蓮丞の頭を一気に冷やすほどの圧を持っていた。


「蓮丞、あのな。丞幻のとこに行ったら駄目だぞ」


 ひょい、と間近に天帝がしゃがみこむ。それに、蓮丞はしかめ面を作ってそっぽを向いた。


「……ふん。はいはい分かってますよ、大祓祭の際、鉦白家当主は天帝の側を片時も離れずお仕えすること。はいはい分かってます分かってます、わたしはお役目ちゃんとやります。はいはい」


 視界の隅に、空晴が苦虫を噛んだ顔をしたのが映るが無視。不遜なのは重々承知だ。

 蓮丞の無礼な態度を咎めるでもなく、天帝は申し訳無さそうに眉を下げて笑った。


「行かせたいのは山々だけどな。お前が行ったら、今、ものすごーく捻じ曲がってるげんちゃんの運命が、更に捻じ曲がるから駄目なんだ。ごめんな」

「更に……?」

「うん。今、蓮丞がげんちゃんと会うと、運命が馬鹿みたいにぐるぐる回って、戻らなくなる。だから、会わせられないんだ。ごめんな。でも、大丈夫だからな」


 手が伸びて、頭を撫でられる。細い指は兄と全然違うが、優しい手つきはそっくりだ。蓮丞は思わず、そっぽを向いていた首を巡らせて、天帝に向ける。

 青色の瞳を細め、天帝は満面の笑顔を浮かべていた。


「げんちゃんは、絶対大丈夫だ。天帝の言葉だ、偽りは無いぞ」


 その言葉に、少しの沈黙を挟んだ後で。

 こくり、と蓮丞は頷いた。

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