霜月一日・朝
見るものもほとんど無い、のどかな景色が広がるばかりの旗里が、賑わしい。
「うげ」
「うわあ……墨渡の初物市じゃないんだから」
矢凪と丞幻は、思わずげんなりとした声を上げた。
幅の細い畦道に、人がぎゅうぎゅうとすし詰めになっている。まるで小さな箱に、これでもかこれでもかと人形を詰め込んだようだ。
蟻の行列のようなそれの行きつく先は、田畑のど真ん中に佇む巨大な御殿だ。これが白寿教本部、蝶御殿である。
羽を広げた蝶の鏝絵がいくつも作られた白壁に、朝日を弾く澄んだ青光瓦。雲模様が瓦に彫られ、複雑な陰影を屋根に刻んでいる。大きく張り出した屋根の縁からはこれまた蝶を象った玻璃竹飾りがいくつも吊るされ、風に揺れる度に微かな音を立てていた。
御殿からはだいぶ離れているが、その様相がはっきりと見えるほど、規模が大きい。
それこそ本当に、ちょっとした城くらいはありそうだ。
「うーん……」
蝶御殿を見上げながら、丞幻は口髭を軽く引っ張った。
どこもかしこも派手過ぎて、見た目が非常にうるさい。
一目見て立派だ、豪勢だという事は伝わるのだが……なんというか、趣味が悪い。
「成金野郎が着てる着物みてえだな。ただ派手な奴」
「あ、それ分かるわ」
瓢箪の口をがじり、と噛みながら矢凪がこぼした言葉に、丞幻は全力で同意した。
「そちら様はなにを聞きに?」「私は自分の寿命を。そろそろ年ですし。そちらは? まだお若いようですが」「病がちの母がおりまして。絵姿を見ただけでも、しらてふ様は寿命を視てくださるというので、母の絵姿を……」「そういえば、昨日だか一昨日、神社の境内で死んでいた男。ほれ、抜刀連だかいう……確かあれも、しらてふ様のお力だと……」「ええ、ええ。随分な乱暴者だったそうで、泣かされた人が多かったとか」「しらてふ様にお礼を申し上げたいのですが、お会いしてくださるでしょうか……」「しらてふ様も教祖様も、寛大なお方ですよ。私も、何度もお会いしてお話を……」
少し耳を澄ませてみれば、そんな声が聞こえてくる。
そこに込められた感情は色々だ。物見遊山のように面白がっているもの、必死に縋るようなもの、しらてふ様を心底信仰してやまない真摯なもの。
「しかし、随分と流行ってるわねえ」
胸の前に垂らした三つ編みの毛先を指にくるくる巻きつけながら、丞幻は月並みな感想を漏らした。
貴墨の民は、変わったものや面白いものが好きだ。変わった流行り神が現れれば、大挙して押し寄せる。本気でそれを信じているのではない、お祭り感覚だ。そして、上がった熱は冷めるのも早く、そういったものはすぐに廃れて消えていく。
丞幻もいくつか流行り神を見たが、半年近くもった試しがない。
正直、白寿教もそんなものだと思っていたが、集まっている人々の約半数の熱がやけに高い。誰もが火傷しそうなほど熱い口調で、しらてふ様について延々と語っている。
少し前の方で周囲の人を捕まえ、唾を飛ばしてしらてふ様について語っている男を見て、矢凪がけっ、と舌打ちした。
「なあ。なんか面倒なんがいんな」
「そーね。目合わせちゃ駄目よ」
熱に浮かされたような目には、覚えがある。
信心に、頭からどっぷりと浸かっている目だ。何か一つの物事を、それだけが正しい指針だと、頭から信じ込んでいる目だ。ああいう手合いは関わると怖い。
今日は彼らに取材する訳ではないから、注目されないようにしておこう。
そっと目を離した拍子に、近くの田畑で農作業をしている女と目が合った。女は露骨に顔をしかめると、荒々しく舌打ちをする。丞幻は思わず、首をすくめた。
朝も早くから畦道に行列を作り、わいわいと騒いでいるのだから、近隣住民の皆々様方にはたまったものではないだろう。そりゃ舌打ちの一つもしたくなる。
ふと、前方から大声が聞こえた。
揃いの蝶模様の着物と袴を身に着けた、六人の男女がそれぞれ声を張り上げている。胸の前に、小さな箱を抱えていた。その中から札のようなものを出しては、順々に配っていく。
「皆様、こちらをお持ちください」
「本日は月始め。しらてふ様と教祖永白様のご厚意により、先着百名の方のみ拝観料は一両となっております」
「こちらの木札をどうぞ。さああなたは四十三番目、あなたは四十四番目」
丞幻は感心した。
「へえー、商売上手だわね」
「こないだ酒買いに行ったら、同じんやってたぞ」
「ああ、やっぱりどっこも同じ事やってんの。あれね、考えることは教祖も酒屋も同じなのねー」
そんな雑談をしている間に、丞幻の横にも蝶模様の着物を着た男がやって来た。
ぱさついた髪とこけた頬に対して、新たに仕立てたらしい着物がどうにも似合わない。
落ち窪んだ目には淀んだ熱を漂わせ、ひび割れた指先を胸の前に抱えた箱――これも蝶模様だ――に突っ込んでいる。
「どうぞ、あなたは九十九番目です」
九十九、と青い墨で書かれた木札を渡されたので受け取る。隣では、矢凪が「あなたで百人目、これで終いです」と木札を渡されていた。
木札の表には数字、裏には「白寿教」という文字と、羽を広げた蝶が焼き付けられていた。
「ほんっと、蝶尽くしだこと」
木札で自分の頬を軽く叩きながら、丞幻はそう呟いた。
前の列はどんどん短くなり、七十番目が呼ばれ始めた辺りで、丞幻達は蝶御殿の中に入る事ができた。
玄関をくぐった先は、広い土間になっていた。土間の壁際には縁台、土間から一段高くなった所には座布団がいくつも用意され、そこに腰を下ろして順番を待てるようになっていた。
御殿内の柱や欄間は空色に塗られて、派手で華美な装飾が隙間無く彫り込まれ、水晶や青玉がそこを囲むように埋め込まれている。壁には写し染めの布が一面に貼られ、空に遊ぶ色とりどりの蝶が羽を羽ばたかせていた。
天井はと見上げれば、大きな蝶とそれに乗る美しい子どもが描かれていた。空色のかつぎぬを被いている為に顔は見えないが、紅を引いたように赤い唇に笑みを浮かべている。どうやら、あれがしらてふ様のようだ。
順番を待っている人の中にも天井の絵に気づき、両手を合わせて拝んでいたり、柱の青玉を見て「いくらで売れるかねえ」と話している者もいる。
座布団に行儀悪く胡坐をかいて、丞幻は何度かめのため息を吐く。
「……一刻は経ったわよ、もう」
「うん、経ったな」
「なんていうか、あれよ。ワシお腹空いてきちゃったわ」
「わあ、そうだな。俺もだ」
「…………だって、ねえ。朝が早かったもの」
「……脳味噌でも啜ってろよ」
胡坐の上に頬杖をつきながら、丞幻は隣の矢凪をちろりと見た。
「それは流石に無理が無い? さっきの『わあ』もだいぶ酷かったけど」
「うるせえ」
退屈しのぎに、矢凪としりとりをして待っているのだが、それでも暇だ。本の一冊でも持ってくれば良かった、と後悔していると、ようやく丞幻と矢凪の番が来た。
「九十九番の方、こちらへどうぞ」
蝶が舞い飛ぶ袖を揺らし、女が深々と一礼する。丞幻は縁台から立ち上がりつつ、矢凪を顎でしゃくった。
「あのね、こいつはワシの連れなんだけど、一緒に行ってもよろしいかしらん?」
女は、乾いて皮の剥けた唇に、やんわりとした微笑を浮かべて頷いた。
「かしこまりました。それでは百番の方も、こちらへ」
「おう」
短く頷き、矢凪も立ち上がる。
女は部屋の奥に軽い足音を立てて向かうと、部屋の一角にかかっていた紗幕を横にずらした。大人が二人並んで通れないほど狭い廊下が、姿を現す。
「しらてふ様の元へ案内致します。どうぞこちらへ」
女の先導で、丞幻と矢凪は廊下へ足を踏み入れた。二人並んで歩けないので、女、丞幻、矢凪の順で歩く。
窓が無い廊下は、ひどく暗かった。廊下の両脇には、玻璃竹行灯が等間隔で置かれているが、それでも自分の足元がかろうじて見える程度の明るさだ。
加えて、天井からは長い紗幕が何枚も何枚も垂れ下がっていて、視界が悪い。これを一々めくりながら進まなければならないので、黒眼鏡を直しながら丞幻はうんざりと眉を寄せた。
――しらてふ様の神秘感を出したいのかもしんないけど、ちょーっと鬱陶しいわ、これ。
「……なんか臭ぇ」
ふと、矢凪が囁いた。
言われて、丞幻は鼻をひくりと動かす。
確かに、何かが鼻先を刺激する。そこまで強い匂いではない。香か何かをどこかで焚いているようだが、微かすぎて何の匂いか分からない。
「お前、よく分かったわねえ。ワシ、言われなきゃ気づかんかったわ」
ひそひそと囁くと、ふんと鼻が鳴らされた。
「酒じゃねえのは確かだ」
「言うと思ったわ」
と、女が立ち止まった。どうやら着いたらしい。丞幻も口を閉じて、前を向く。
「この先に、しらてふ様がいらっしゃいます」
女は一歩横にずれると、こちらに身体ごと向き直って、深々と頭を下げた。そのまま動かない。自分達で戸を開けろという事だろう。
戸は、豪奢に飾り立てられていた。蝶の透かし彫りが戸板のあちこちにあり、羽の部分には薄く削った青玉がはめ込んである。引き手部分は螺鈿細工で、玻璃竹の光に照らされてぬらりと光った。
一目で、ここがしらてふ様の間であるという事が分かる様相だ。そしてやはり、派手過ぎて趣味が悪く感じる。
――しかしほんと、お金と手間暇かけてるわあ。この戸外して売るだけで、絶対三日は食ってけるわよ。
そんな庶民的な事を思いつつ、丞幻は戸に手をかける。少し開いた隙間から、ふわりと煙が漂って指先に絡みついた。
音も無く戸を開け、中に身体を滑り込ませる。
室内にも紗幕が幾重にも垂れ下がっていて、奥を見通す事ができない。続いて入ってきた矢凪が、ひくひくと鼻を動かして首を巡らせた。
「なあ。さっきの」
「そうね、多分こっからだわね」
「だよな」
薄暗い部屋の中、鼻の奥がすーっと通るような、清涼感のある香りが漂っている。先ほど気づいた匂いはどうやら、ここから漏れていたものらしい。
丞幻達のすぐ近くに燭台があり、太い蝋燭がそこに突き立っていた。橙色に揺らめく炎の先から、薄い緑の煙がゆらりゆらりと漂って空中に溶け込んでいる。
いつまでも突っ立っているわけにもいかないので、とりあえず丞幻はその場に座った。矢凪が隣に、どっかと胡坐をかく。
「えーっと、じゃあしらてふ様。そうねえ、ワシの寿命を――」
と、丞幻の言葉を遮るように、眼前の紗幕が大きく揺れた。空気が動いて、より強く香りが鼻を刺激する。
揺れた紗幕をかき分けて、小さな影が丞幻の視界に現れた。
「――そなたの、じゅみょうは」
黒眼鏡の奥で、萌黄色の瞳が大きく見開かれる。一瞬、呼吸が止まった。
眼前の、小さい影。
男か女か分からない中性的な容貌。
白い肌、白い着物。白い帯。白い蝶の刺繍。
「あと、ふつか」
淡々と告げる声音は、感情が感じられず透き通っている。
瞬き一つせずにこちらを見つめる瞳は、空を塗り付けたように青い。
くるぶしの辺りまで伸ばされた癖の無い髪が、僅かに揺れる。
澄んだ空色の所々に、たなびく雲のように白が入った特徴的な髪色。この世でただ一人、天帝だけが許された色と、同じ色。
蝋燭のか細い明かりと、肌も着物も白い中で、その髪と目だけがひどく浮き上がっている。
「もえて、しぬ」
真っすぐに丞幻を指さし、天帝同様の空雲色の髪を蝋燭の炎に照らし出した子ども――しらてふ様は、感情の無い声でそう告げた。




