終
ようやく客達から解放された子虎が、よろよろと丞幻の元に辿り着いた。
腹に巻いたさらしの隙間や袴の帯に、おひねりよろしく棒煎餅――細長い形の煎餅だ――や、金平糖や炒り豆の小袋がたんと突っ込まれている。
親戚のおじちゃんおばちゃんに、小遣いや菓子を山ほど与えられる子どものようだ。見ていて非常に微笑ましく、丞幻は自然と口角が緩むのを抑えられなかった。
馬走の顔、虎の大将。
他者と積極的に馴れ合う事はしないが情に厚く、己の縄張りで起こる揉め事は決して許さない。弱きを助け強気をくじく、義侠心あふれた男。
今日、子虎に会うまで丞幻の中にあったのは、そういう姿だった。
実際は父親を慕いつつ乱暴な姿に眉をひそめ、好物に目を輝かせ、抵抗一つできずにお菓子を突っ込まれて困り果てる、一人の青年でしかなかった。
「いやー、やっぱり噂は噂よね。実際に会ってみないと分かんないもんだわ」
一人でそんな事を呟いていると、すっかり弱り切った様子の子虎に、肩をぎゅっと掴まれた。
「先生、あの……さっきの話はその、どうかご内密に……ご内密に、お願いします。あの、あんまり外に出してほしくない話なので、あの、すみません……」
うう、と両手で顔を覆う。
「つい、我を忘れてあんなに暴れて、建物を壊して近隣住民の皆様に迷惑をかけて、挙句に許しを請う相手に蹴りかかるなんて……!」
恥です、と消え入りそうな声で呟く子虎。
丞幻はとんとん、と己の胸元を手のひらで叩いた。
「はいな。じゃあ、今の話はワシの胸の中だけに留めておきましょうね」
「ありがとうございます」
ほっとした顔で、子虎は肩を落とす。
その様子に、丞幻は口髭を指で引っ張りながら、つい零した。
「大将は矢凪と違って、暴力至上主義じゃないのねえ」
「はい。相手が悪い人だから暴力を振るっていい、何をしてもいい、なんてことはありません。こっちが拳を出せば、向こうも拳を出してくる。そうして誰かが傷つけば、傷ついた誰かを大事に思う人が悲しんで、泣きます。それは嫌なんです」
金色の子虎の目には迷いが無い。心底そう思っている事が伝わってくる、真摯な目だった。
「そこでもし、向こうが拳を出してきたり、人質を取るような卑怯な真似をしてくるなら、やむを得ないです。俺も、無抵抗のまま死にたくはないですから。でも、そうなってしまう前に、話し合いで解決できるものなら、解決したいんです」
ふうん、と丞幻は頷く。
「ご立派ねえ」
するりと出た一言は、妙に皮肉気な響きを帯びていた。それに、己が一番驚いた。
思わず、口元を押さえる。
切った張ったに袖の下が多いと言われる馬走において、子虎の信念は甘いだの、所詮理想だのと、捉えられるかもしれない。
だが、仮にも馬走の顔として認知されているならばこそ、無駄な争いは避けるべきだ。『顔』である子虎が率先して暴力を振るえば、他の連中も「あの人がやっているのなら自分達もやっていい」と認識する。そうすればたちまち町は荒れ、「あそこは喧嘩ばかりで恐ろしい所だ」と誰も近づかなくなる。場合によってはお上から手が入るだろう。
それを十分に理解している子虎に好感を持ちこそすれ、皮肉るつもりなど全くなかったのに。
どう言い訳しよう、と酒精が回り始めた頭を回転させていると、子虎は気遣わしげな顔をした。
上体を少し倒して、丞幻の顔を覗き込むようにする。
「あの、先生。もしかして、お疲れですか? 顔色があまり良くないですよ」
そうして一人納得したように頷いて、続けた。
「あと五日ほどで、書奉祭ですからね。確か書奉祭で売る本は、今まで世に出していない新作でないと駄目なんでしたっけ。巫女姫もあるのに、新作を一つ書かないといけないのは、大変ですもんね。うちの常連にも一人、先生と同じ作家がいるのですが、彼も昨日『入牢前の食べおさめだ。地下牢で出されるのは、うっすい粥としっぶい茶だけだからな』って、ぐちぐちと言っていましたから」
やる事がいっぱいで、頭がぐちゃぐちゃになると、つい気分が悪くなりますよねえ。
そう言って、子虎はふにゃり、と笑う。
丞幻は、がしがしと頭をかいた。気を使われてしまった。
「……あー……本当に申し訳ないわ、大将。大将の考えは本当に、立派だとワシ思ってるわよ。少なくとも矢凪の奴は、『一回殺してから考えよう』なんて言うわよー。いっつもやられてるワシが言うんだから、間違いないわようんうん」
妙な雰囲気になった場を戻すように、大仰にふざけて肩をすくめる。子虎もそれに乗っかってくれたようで、首を縦に振った。
「そうなんです。ぱぱは、いっつも相手を殴ってから、言い訳を聞くんです。あれは駄目です。悪い人です」
「そうよそうよ、悪人なのよ」
口髭を指先で軽く引っ張って、丞幻はうんうん頷く。
「おい、子虎ぁ」
そこに、ぬっ、と声が割り込んできた。
「ぱぱ」
「あら矢凪、あっちで飲んでたでしょ。どしたのよ」
一合升からずずず、と音を立てて酒を飲りながら、矢凪は舌を鳴らした。
「子虎を呼びに来たんだよ。向こうで指物屋の爺が呼んでやがったぞ」
あっ、とその言葉に小さく子虎は声を上げた。丞幻を見下ろして、ぺこりと頭を下げる。
「そうだった。じゃあ先生、俺はこれで失礼します」
「はいな。こちらこそ、付き合ってくださってありがとうございます」
「そうだ。巫女姫の新作、楽しみにしています。瑠璃が好きなんです。俺も好きです」
「あら、じゃー気合入れて書かないといけないわねー」
もう一度頭を下げて、子虎は突っ込まれた菓子をそのままに、大股で人込みの中に入っていった。周囲より頭一つ以上は高い上背を見送った矢凪が、椅子に腰かける褌一丁の雇い主を見下ろして鼻で笑う。
「ぁんだそりゃ。涼しそうだなあ、おい」
「勝負に熱中してたら、かなり熱くなっちゃってねえ。脱いだのよ」
手を扇子のようにして、顔を扇ぎながら冗談めかして言うと、矢凪は声を出さずに笑った。そのまま隣にどっかと腰かけて、升をぐいっと煽る。
「……ちなみにお前、それいくつめよ。さっき六樽くらい空っぽになってたわよね」
「十超えてから本番だ」
言って矢凪は、不満そうに下唇を突き出した。
「ここん酒も薄いんだよ。こんな水で、俺が酔えるわきゃねえだろ」
「お前、酒強いものねえ」
飲んでいる姿はいつも見ているが、酔った所を見た事がない。ひねもす亭の酒――水で薄めていない濃い奴だ――を一樽飲んでも、平気の平左である。
ちなみに丞幻はそこそこ強い。いくら飲んでも顔色が変わらないが、一定量飲むと記憶がすこんと無くなる。なおその間は相当な荒れようらしく、シロとアオが怯えて押し入れに籠城する程なので、なるたけ抑えるようにはしている。
「で、子虎と何の話してやがった」
妙な事は聞いてねえだろうな、と言外に瞳が語っている。
「変な事は聞いてないわよ。ただ泥桜事件の事とかー、年齢の事とかー…………お前が悪酔いして、ミツユビのトビグモちゃんを口説いたはないっだだだだだだだ!! もげる!! もげる!!」
三つ編みを物凄い力で引っ張られ、丞幻はぎゃあぎゃあと悲鳴を上げた。
「もげろ」
けっ、と舌を打った矢凪が、とどめにもう一度、強く引っ張ってから丞幻の髪を解放する。
丞幻は涙目で、頭を撫でた。ウロヤミ様の一件で傷ついた頭皮は、まだ傷が塞がっていない。
「ワシ、こないだのせいで頭の皮ずたずたなのよ。だってのに、よく髪引っ張るなんて外道ができるわね、この家庭内暴力常習男」
「うるせえ。てめぇが糞みてえなこと言いやがるからだろうが」
「手が出るのが早すぎんのよー、お前の息子とは大違いだわ」
言いながら、丞幻は内心胸を撫で下ろしていた。
良かった、いつもの調子だ。やはり子虎の言う通り、疲れていたのかもしれない。自分としては疲れているとは思ってないが、知らない所で疲労は溜まる。
特に五日前、堅須国なんていう死と隣り合わせの異界に行き、目がほとんど見えないような生活を送っていたのだ。意識してはいないが、身体は相当疲れているのかもしれない。
しばらくは意識して休むようにしよう、と決めて、丞幻はふと周囲を見渡した。
「そういやシロちゃん達、どこで遊んでんのかしら」
「ん」
升を持つ手が、座敷の方へ向けられる。
座ったまま、首を亀のように伸ばして、丞幻はその方向を見た。人垣がどよめいている。
壁のように積み上げられた千両箱の前に、シロとアオが近年稀に見る得意顔で座っていた。
どこから調達したのか、大きな扇子で己の首周辺を扇ぎながら、シロは座布団に横座りしている。隣に座るアオは丞幻から奪った黒眼鏡をかけ、こちらもどこからか調達してきた扇子を齧っている。
相対している奉公人は可哀想に、真っ青だ。
「……あの子ら、何してんの」
「あいつらぁ、賽子遊びしてんだがな。さっきから負けなしで、ああだぜ」
「ああー。じゃああれだわ、真白ちゃんに助言もらってんのよ。真白ちゃんがね、賽子遊び得意なの」
「へえ」
「ところで矢凪、どてら貸して」
「やなこった」
しょうがない。やっぱり、真白の瓢箪で帰ろう。
すっかりぬるくなった熱燗を飲んで、そう決意した。
〇 ● 〇
子虎に暇を告げ、「またいつでも遊びに来てくださいね。あとその眼鏡は差し上げますのでどうぞ持っていってください」と見送りを受け、真白に頼み込んで瓢箪を使ってもらう。
ぐるり、と胃の腑がひっくり返るような感覚と共に、丞幻達はひねもす亭の玄関に放り出された。
「あうぅ……」
真白の瓢箪初体験の小雪が、青い顔で玄関の土間に蹲った。同じく顔色の悪い矢凪が、その背を擦ってやっている。
「うっぷ……」
酒を飲んだせいもあってか、いつもより気持ちが悪い。板張りの床が褌一丁にはひどく冷たいが、今はそれが逆に心地よかった。
「シロちゃん、アオちゃん。悪いんだけど……厨からお水持ってきて」
喉に気合を入れて吐き気を押さえ、丞幻は真白から戻ったシロと、狼姿に黒眼鏡をかけたアオに頼んだ。
「全く、大人はしょうがないなあ。なあアオ、おれ達がしっかりしないとな。長者のおれ達がな」
「ちょね、ちょーじゃのオレたちがね、ちっかりね! おみじゅね、いまね、もってくうからね!」
ふんすふんす、と得意満面の二体が、可愛らしい足音を立てて厨に走っていく。
シロ達が賭場から巻き上げた、千両箱は全部で十箱。しかし中に入っていたのは輝く黄金色の菓子ではなく、からっと焼かれた黄金色の煎餅であった。
安くて美味い、満頬堂の煎餅だ。煎餅を十枚以上買うと、千両箱に似た箱に入れてくれるのである。
醤油、塩、葱味噌、ざらめ、梅、梅ざらめ、海苔、胡麻、小海老、栗。
十箱それぞれに一味ずつ、たっぷりと入っていた。
子どもだから銭は賭けられないと言われ、菓子を賭けたのだ、とシロ達は鼻の穴を膨らませて得意げであった。
「しばらく、シロちゃん達はおやつ無しでいいわねー……」
「だな」
うん、と矢凪が同意する。
「そういやさっき、聞き忘れたことがあんのよね。大将の子虎って名前」
「名前がどうした」
「いやあ、なんていうか、人の名前っぽくないわねーって思って」
「ああ、俺が付けた。虎の目みてえでにゃーにゃー鳴いてたかんな」
「成程」
なんだか妙に納得してしまった丞幻である。矢凪が名を付けたなら納得だ。
落ち着いた小雪を框に腰かけさせ、下駄を脱がせてやりながら、矢凪は顎を擦った。
「あいつの母さんが、ちゃんとした奴ぁ付けてんだけどよ。西の名前だから、舌が擽ってえんだよ。だから子虎ってぇ名にした」
「へえ。元々は何ていうお名前なの?」
「あー、なんっつったっか。てい、ていが? あーいや、てぃ? てぃーが、てぃがー……まあそんな感じの奴」
丞幻は呆れた目を向けた。
「自分の子どもの本名くらい、ちゃんと覚えときなさいよ」
「うるせえ、あいつぁ子虎でいいんだ。上もそうだからいいんだよ」
「上、って……旦那様?」
少し頬に赤みが戻った小雪が、座ったまま矢凪を見上げて小首をかしげる。
そういえば小雪は、矢凪にもう一人息子がいたのを知らなった。
「上にもう一人いんのよ、矢凪の奴。その子も拾い子らしいけど。――ちなみに矢凪、その子の名前は」
「子猿」
「そのこころは」
「拾った時に足に引っ付いてきーきー鳴いてやがったから」
「お前と小雪の間にややができても名づけ禁止ねお前」
身を起こしながら指さして厳命すると、「あ?」と凄まれる。素知らぬ顔でそっぽを向いてやった。
「やや……旦那様との、ややこ…………?」
小雪が雪のような肌を真っ赤にした所で、ようやくシロとアオが水を汲んで戻って来た。
礼を言ってそれを受け取り、冷たい水を一息に流し込む。
「……お湯って言えば良かったかしらん」
ただでさえ冷えきって、鳥肌を立てていた身体が芯まで凍り付くのが分かる。
丞幻は鼻をむずむずさせると、「ぅえっくしょい!」と大きなくしゃみをひねもす亭中に轟かせた。
ネクスト怪異ズヒント:チャリチャリ




