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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
真・荒れ寺の祟り神

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15/194

 まだ涼し気な空気の流れる朝方、畦道に鈴を転がすような歌声が響いていた。


「いーち、にーい、産婆のばばさんどこへ行く」

「わう!」

「わたしゃ、四辻よつじの道の先、五つ子取りあげにまいります」

「あうっ」

「暮れ六つ超えたらお月さん。七山超えるは辛かろう」

「うーうー!」

「なんのわたしゃあ鉢担ぎ、九重山ここのえやまとておちゃのこさ」

「わうわーう」

「……とーおで到着、東ノ宮(とうのみや)

「みやー!」

「……アオー」


 合いの手を入れてご満悦な青髪の童に、シロはじっとりとした半眼を向けた。


「なーに、シロ。どちたの?」

「おれが歌ってる時に、じゃまするなって言っただろ。なんでじゃました」

「じゃまじゃなーよ! オレも、いっちょにおうた、うたったの!」


 ぷうーっと頬を膨らませ、上目遣いに睨んでくるアオ。その視線を真っ向から受け止め、シロは睨み返した。

 歌を歌っている時は一人でのびのびと歌いたいので、例え合いの手だろうと邪魔をされたくない。しかしアオからすれば、邪魔をしたつもりはなく一緒に歌っていただけなのだ。意見の相違である。

 無言の攻防を繰り広げていた二人の戦いは、快活な笑い声で終息した。


「いつも元気だねえ、あんた達は」

「あ! おはよーごじゃます!」

「…………おはようございます」


 畦道をゆっくり歩いてきたのは、大きな籠を背負った洗濯屋の年増女だった。それを認めたアオは元気に両手を挙げて挨拶をし、シロは俯き加減になり小さな声で挨拶をする。

 対照的な二人の挨拶に笑って、女は挨拶を返した。


「はいおはよう。今日の洗濯物を受け取りに来たよ」

「ん」


 シロは、足元に置いたたらいを女の方にぐいと押しやった。盥の中には、何枚もの着物や手拭が折り重なっている。女は洗濯物の柄と種類を帳面に書きつけると、手際よく籠に入れていった。

 男性の割合が多い貴墨で、自分の代わりに洗濯をしてくれる洗濯屋は、欠かす事のできない商売の一つだ。金を払えば洗濯もしてくれるし、つくろい物もしてくれる。独身男性にとってはありがたいものだ。例に漏れず、独身である丞幻も洗濯屋を重宝していた。


「そういえば、最近着物がやけに多いねえ。もしかして、先生にもついに良い人ができたのかい?」


 籠を背負い直した女が、盥を返しながら首をかしげた。

 ちなみにこの辺りでの丞幻評は、「嫁が余所に男を作って逐電ちくでんし、残された子ども二人を男手一人で育てている、変わり者の作家の先生」である。噂を聞いた本人が面白がって訂正しないので、噂話には既に尾ひれが付いて好き勝手に飛び回っていた。

 女の問いに、手の中の毬に視線を落としながらシロは口を開いた。


「丞幻の奴、こないだ男を拾ったんだ」

「あんねー、矢凪ってゆーの! オレ矢凪しゅきなのー! おいちぃにおいしゅるのー!」

「あらあらあらあら、まあまあまあまあ」


 女は急にそわそわし出すと、挨拶もそこそこに早足で元来た方に去って行ってしまった。聞かれた事に答えただけなのに急にどうしたんだろう、とシロとアオは顔を見合わせる。

 余談であるが、洗濯屋は長屋の女達がよく行う内職の一つだ。洗濯屋、顔突き合わせて手を動かせば、噂話に花が咲く。手を動かしながら口もせわしなく動かす洗濯屋の女達にとって、物珍しい話題は大好物なのだ。

 例え嘘だろうと本当だろうと、面白ければ何でもいいのである。尾ひれに次いで、噂に胸びれが生えた瞬間であった。

 さて、洗濯物を渡してしまえば今日の仕事は終わりだ。大きな盥を胸の前で抱えたアオが、きらきらとした目でシロを見上げた。


「シロ、シロ、はやくごはんたべてあしょぼ! オレねー、かけっこがいーの!」

「やだ。おれはまりがいい」

「まりであそぶの、いちゅもでしょ! かけっこ、かけっこがいーい!」

「着物が汚れるから嫌だ」


 朝顔の咲いた振袖をひらりと翻して、シロはぷいとそっぽを向いた。折しも昨日は大雨で、道には所々水たまりが残っている。そこでかけっこなんてしたら、お気に入りの着物が汚れてしまうではないか。

 アオは四つ足で濡れた地面を踏みしめ、首をぶんぶん振った。長く化けるのが苦手なので、既に小狼の姿に戻って盥を背に乗せている。


「かけっこ! かけっこすぅの!」

「やだって言ったら、いやだ」


 言い合いをしながら農夫達が働いている田畑の横を歩き、ひねもす亭へ続く坂へ差し掛かる。

 屋根のように竹が左右から道を覆っているせいで光が通らず、坂道はこれまでの道と比べて、びちゃびちゃに湿っていた。泥が撥ねないように裾を上げ、またここを歩かないといけないのかと思うと、自然ため息が出てくる。

 坂を見下ろしたアオが、尻尾を千切れんばかりに振った。


「じゃあねえ、じゃあねえ、どんころあしょび! どんころであそぶ!」


 シロは橙と青が混ざり合った瞳で、隣の小さな頭をねめつけた。


「どんころじゃなくて、どろんこだ。ど、ろ、ん、こ」

「どんろこー!」

「もういい。いいかアオ、こんなどろんこの所で遊んだら、着物がな――」


 お兄さんぶって滔々(とうとう)と言い聞かせていたシロの鼻を、濃厚な蜜をたたえた林檎のような香りがくすぐった。


「おい」

「みっ!?」


 不意に背後から声をかけられて、心臓が口から飛び出るほど驚いた。

 大きく深呼吸をしてから振り返る。段々と上がって来た太陽を背に、矢凪が立っていた。ここ最近は丞幻の着物を借りていた彼だが、今日は見慣れない鉄砲袖の着物と、足首で絞った袴をまとっている。自前だろうか。

 先の香りは、矢凪からふんわりと漂っている。と、言っても嗅覚に直接訴えかけてくるわけではない。怪異の本能とでも言おうか、そういった深い所に訴えかけてくるのだ。


「なにしてんだ、そこで」


 不思議そうに見下ろしてくる金色の瞳から、シロはついと目をそらした。毬で口元を隠して、ぽそぽそと呟く。


「……うるさい、お前には関係ない。おどかすな、ばか」


 喜色を浮かべたアオが後ろ足で立ち上がった。背に乗せた盥が落ちて、坂の下に転がっていく。


「矢凪ー! おきゃーり! どこ行ってたのー? どこ、どこ? おいちぃおみせ?」

「ちげぇよ。ねぐらから荷物持ってきただけだ」

「おいちぃのは? おいちぃの!」

「ねぇよ」


 くるくると周囲を回る狼を面倒そうにあしらいながら、矢凪は膨らんだ風呂敷包みを見せた。露骨にアオが残念そうな顔になる。


「ぶー」

「……」


 そのやり取りを見て、シロは複雑な気持ちになった。

 アオはすっかり矢凪に懐いていて、ここ最近はシロと遊んでいない時はちょろちょろと矢凪の近くをうろつくのが日課になっていた。最初こそ本気でかじりついていたが、


「じゃあ矢凪たべぅ」

「止めろや馬鹿犬」


 あぶっ、と足首を甘噛みするアオの頭に軽く拳骨を落とす矢凪。

 そんなじゃれついたやり取りができるくらい、一人と一匹は打ち解けていた。矢凪の方は何を考えているか分からないが、少なくともシロの目にはそう見えている。


「おい」


 矢凪とアオの間に割って入る事もできず、さりとて一人家に戻る事もできず。疎外感を覚えながら一歩離れた所で毬を抱きしめていると、矢凪がこちらを振り向いた。

 肉食獣のような鋭い瞳と仏頂面に、びくりと肩が勝手に跳ねた。毬を持つ指に力がこもる。


「な……なんだ」


 威嚇するように毬を眼前に構えるシロに、矢凪はしゃがみ込んで目線の高さを合わせた。


「坂は滑って危ねえから、遊ぶんなら別んとこで遊べよ」


 どぎまぎしていたシロは予想外の言葉に、激しく目を瞬かせた。

 なにか言わないと。だけどなにも出てこない。ぱくぱく、と貝のように何度か唇を開閉させた後で、ようやく言葉を絞り出した。


「……うるさい。そんなこと、分かってる。よけいなお世話だ」

「そうか、じゃあいい」


 頷いて立ち上がり、矢凪はすたすたと坂を下りて行く。危なげなく坂を下りる背中を見送り、シロは大きく息を吐きだした。


「シロー、シロー」

「ん?」


 ぺふっ、と膝に柔らかいものが当たった。アオの尻尾だ。下を向くと、青の瞳がじっと見上げてきた。


「なんだ」

「シロは矢凪、きらい?」


 唐突な問いかけに、シロは虚を突かれた。

 嫌い。どうだろうか。苦手には思っているが、嫌いではない、と思う。

 シロが苦手に思っている事を察しているのだろう。矢凪は適切な距離を取って、無暗に絡んでこなかった。だけど話す時は、こちらを気遣ってしゃがんで目線を合わせてくれる。矢凪は丞幻と一緒で背が高いから、見上げると首が痛い。だからしゃがんでくれるのは、ひどく嬉しかった。

 本音を言えば、シロだって矢凪と話してみたいのだ。丞幻の時のように、からかったり、おねだりをしてみたい。


「でも、どう話していいか、分からないし……」


 まだ、シロにとって矢凪は「知らない人」だ。どう話しかけたらいいか分からない存在だ。

 下手な事を言えば怒られるかもしれない、機嫌を損ねるかもしれない。

 だから自分から上手く話せないし、話しかけられてもなんと返していいか分からない。混乱して悩んで、ああして憎まれ口のようなものを叩いてしまう。


「それに……あいつ生餌いきえだろ。うっかり食わない保証がない」


 下駄の先で柔らかい地面をつつきながら、シロはこぼした。

 人の中には時々、怪異にとってひどく美味そうな匂いを漂わせる者がいる。生餌と呼ばれる彼らは血肉、魂に至るまでが素晴らしく美味だと、怪異の中では評判だ。

 矢凪はその生餌体質の人間だ。だからいつもひどく美味そうな匂いがする。うっかり噛みついてしまい、貪ってしまったらどうしよう、と思うと迂闊に近寄るのも躊躇ためらわれた。アオはそんな事は気にせずかじりついているが。

 とつとつ、と話す親友の前で、アオは耳をぴこぴこと動かす。そうして、良い事を思いついたと言わんばかりに尻尾を振った。


「じゃあねえ、じゃあね、今日はどんころあしょびじゃなくて、矢凪とあしょぼ! したら矢凪のこと分かぅよ! いっぱいおはなしできーよ!」

「あいつと……?」

「行こ、シロ! はやく! ごはんたべてあしょぼ!」

「う……」


 きらきらとした青い目に抗えず、結局シロは悩みながらもこっくりと首を振った。



 ひねもす亭に戻り、泥まみれになった盥を洗って片付け、下駄を脱いで揃える。アオの足を拭ってやっていると、言い争う声が聞こえた。

 声の方向へ行くと、自室から上半身を半分だけ出した丞幻と矢凪が言い争いをしていた。


「ねえちょっと矢凪、時を戻せる怪異探しに行かない? 江唄国(こうべのくに)にそういう怪異がいるらしいのよー。三日くらい戻せればねえ、ワシ〆切守れるって絶対」

「三日ですむのかてめぇ」

「無理……ねえちょっと代筆しない? あと三十枚くらい。お前助手でしょ助手、ちょっとぱぱっと書いちゃってよー」

「てめぇの仕事だろ、てめぇで書けよ」

「それができないから言ってんでしょーが! できるんだったらワシかて頼まんわよ! 馬鹿じゃないの!!」

「なに言ってんだてめぇ」


 結っていない髪を振り乱して逆切れする丞幻が、矢凪の両足を掴んだ。ひくっ、と童顔が引きつる。

 廊下の角から顔を覗かせて、シロはあーあと肩をすくめた。いつものが始まった。

 〆切が近くなった丞幻が狂うのはいつものことだ。

「じゃあ、ちょっとワシ四方よも川に行って小人さん捕まえてくるから。小人さんが手伝ってくれればすーぐ書き終わるからねー」と真冬に褌一丁でけん玉片手に出て行ったり、

 異界に引きこもって「もうあんな生活嫌よ! あなたと一緒にいたいの、お願いワシをぎゅっと抱きしめて離さないで」と絶叫し、怪異にどん引きされた事件に比べれば、今日はまだましな方である。

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