三
アオのお腹空いた攻撃に加え、そろそろ腹が減り始めたのは皆同じなので、一同は離れを出て庭を歩いていた。
先刻まで、そろそろと夕焼けが近寄っていた空は、離れで話しているうちにすっかり宵闇に覆われ、爪で引っかいたような細い月が浮かんでいた。庭のあちこちに玻璃竹行灯が置かれ、白い光に照らされた足元は黒眼鏡越しでも歩きやすい。
冷え冷えとした空気が、頬や首筋を撫でる。そろそろ、息に白いものが混じり始める季節だ。
「先生」
「はあい?」
シロとアオに手を引かれている丞幻に、子虎が近寄ってくる。六尺はある丞幻より、頭半分は高い子虎を見上げると、その首がことんとかたむけられた。
「先生はもしかして、お目が悪いのですか? 足元が覚束ないように見えますが」
「あー、ちょっと数日前に、色々ありましてね。一時的に視力が落ちちゃって……」
たはは、と笑う。
「ああ、だからか」
納得したように、一つ頷いた子虎が手のひらを丞幻に向けて差し出した。
ん? と首をかしげてそれに顔を近づけて目を細める。大きな手のひらに、丞幻がかけているのと同じような黒眼鏡が乗っていた。
「よろしければ、こちらの方をどうぞ。今かけているものより、こちらが見やすいと思いますよ」
「子虎がそう言うなら貰っとけよ」
「そうだよ、大将が言うなら間違いないよ」
少し前を歩いていた矢凪と小雪が振り向いて、同じように勧めてくる。
そう? じゃあちょっと失礼して、と丞幻はかけていた黒眼鏡を外す。玻璃竹行灯の白い光が目を焼いた。針でつつかれるような痛みに眉をしかめながら、子虎の手に乗った黒眼鏡をかけ。
途端に、視界が明瞭になった。
ぼやけていた輪郭が一気に引き締まり、平素と変わらない風景が戻ってくる。
「あ、もしかしてこれ、ちゃんとした眼鏡かしらん?」
丞幻が先までかけていたのは、お洒落の為に作られた立て眼鏡。子虎が差し出したのは、目が悪い人の視力を補う為に作られた、普通の眼鏡だった。硝子部分には墨が塗られているので、色合いは先と変わらず黒褐色のままだが、景色の輪郭がはっきりと見えるだけでだいぶ違う。
今までかけていた黒眼鏡を懐に仕舞って聞くと、子虎は「はい」と肯定した。
「それを渡せと仰っていたので」
「仰る?」
子虎の言葉が少し引っかかって、丞幻は彼の顔を見上げる。
もし矢凪が、「丞幻の奴にそれ渡しとけ」とでも言ったら、「仰っていた」とへりくだった言い方はしないだろう。
「どちらの御大尽が、大将にそう言ったのかしらん?」
玻璃竹行灯に下から照らされた顔は、鼻筋は高く目元の彫りが深い。成程シロの言った通り、あまり見ないような顔立ちをしている。母親が西極の人間だから、そちらの血が強いのか。童顔の矢凪と並べば、こちらの方が年上に見える。
問いに答えようと、口を開けた子虎を見上げている丞幻の脛を、矢凪が思いきり蹴り上げた。
「あっだあああぁ!?」
目が覚めるような痛みに、丞幻は悲鳴を上げた。脛を押さえてぴょんぴょんと跳ねる丞幻に、矢凪が一言、
「寒ぃ」
と、眉間に皺を寄せて吐き捨てた。
寒ぃからさっさと屋内に入りたいのに、何をてめえはくっちゃべってんだ早く行くぞこの三流へぼ作家。
そんな声が聞こえてくるようだ。
「ぱぱ、めっ。そうやって、何でも暴力に訴えるのは良くない。言いたいことがあるなら、口で言わないと駄目だぞ。何の為に口があると思ってるんだ」
「うるせえぞ、子虎。飯食って酒飲む為に決まってんだろうが。さっさと来ゃーがれ」
けっ、と舌を鳴らして、矢凪はどてらの袖に両手を差し入れ濡れ縁へ向かう。旦那様待ってー、と小雪がそれを追いかけ、シロとアオがお腹空いたーと、矢凪達を追い越して濡れ縁によじ登った。
丞幻を見下ろした子虎が、しゅんと眉尻を下げる。
「先生、足の方は大丈夫ですか、痛くないですか? ぱぱがすみません」
「あつつ……だいじょーぶですよー。いつものことなんで」
姿勢が崩れるほど蹴られるのは、久しぶりだが。
ここ数日は目がよく見えない丞幻を慮ってか、ほどほどの力加減のつっこみを受けていたので。
「いつも」
むむっ、と下がっていた眉尻が吊り上がる。
「後で、ぱぱにはきつく言っておきます」
慌てて、丞幻は両手を振った。
「いえいえ、だいじょーぶですよ。矢凪とああしてど突きあうのは、なんだかんだで楽しいので」
「そうですか」
それならいいんです、と子虎の表情がほっと緩む。
濡れ縁を平手で叩きながら、シロとアオが「はーやーくー!!」と叫んだ。
店が開いて四半刻も経っていないが、賭場は大層賑わっていた。
「うちは、賭場の他に飯屋もやっているので、夕餉を食べに来る人もいるんです」
子虎の説明を聞きながら、空いている席に着いた。奇しくも喧嘩を観戦していた時と同じ所だ。
座るとすぐに、先ほど飲んだものと同じ西茶と、品書きが運ばれてくる。
品書きには、あまり聞かない料理の名前が記されていた。夜明けの鳥では、西極料理を主に出しているらしい。料理名の下には料理の説明と、料理の絵が描かれていた。絵に見覚えがあると思ったら、丞幻の小説によく挿絵を描いている絵師だった。世間は狭い。
各々料理を頼んで、喧噪に身を浸す。
「あいつぁ、神たらしなんだよ。だぁら多分、言ったなぁ神だ」
賑やかな声の中、頬杖をついた矢凪がぼそりと呟いた。
「えぇ?」
丞幻は、何のことか分からず瞬きをする。
ぱち、ぱち、と二度ほど瞬きをして、あの変わった形の湯呑み――てぃーかっぷというらしい――を持ち上げて西茶を一口飲み、てぃーかっぷを卓に置いて。
「ああ、さっきワシが虎の大将と話してた奴? それにしろって言ったのは誰かっていう?」
ようやく矢凪が言わんとしている事を察して、丞幻は聞いた。
そうそう、と矢凪は頬杖をついたまま首を縦に動かす。
番頭と何やら話をしている子虎を横目で見て、続けた。
「なんかあいつ、好かれるっぽくてな。昔っから色々教えられたり、頼まれ事したり、なんか貰ったりしてた」
「ふーん。愛され体質なのね、稀にいるわよ。神様に好かれて、お告げ貰ったり、加護を受けたりする人。ほら、異怪奉行の青ばあちゃんもそれよ、それ」
怪異に好かれる生餌体質の父親に、神に好かれる息子。組み合わせとしては最高だ。
神が好いている人の周囲は居心地が悪いのか、怪異が寄り付かない。子虎が傍にいた時期は多分、矢凪に近づく怪異は一体もいなかっただろう。
シロと手遊びをしていた小雪が、こちらの会話に口を挟んできた。
「大将の予見って、馬走じゃ有名だよ。どこそこへ行かない方が良いって言われて、家にいたらその場所が火事になったとか。今日は金を余計に持って行った方がいいって言われた人が、長く探してたものが見つかって買おうとしたら、財布の中の金ぴったりだったとか。釣りに行かない方がいいって言われて行かなかったら、釣りに行った別の人は風に煽られて海に落ちたとか」
「へえぇー、そういう感じなの。後で大将に色々聞いてみましょ」
後は、矢凪とどんな風に暮らしていたのかも聞いてみたい。
「……」
じっとりとねめつけてくる視線に、丞幻は肩を竦めた。
「はいはい。興奮して迫んないから、そんな目で見ないでちょーだい。この過保護」
そんな会話をしているうちに、女中が料理を持ってくる。
「おむれつです」
丞幻の前に、平皿が置かれた。盛られた楕円形の卵の塊。上にはとろりとした赤い液体がかけられている。白米とすまし汁も付いていた。
「ろおすとびいふです」
矢凪の前にも平皿が置かれる。肉の塊を薄切りにしたものの脇に、蒸した里芋が三つほど盛り付けられていた。こちらには四角い煎餅のようなものが四つ付いている。
「さんどいっちです」
小雪の前に置かれた皿には、饅頭のような白い生地で、野菜を挟んだものが二つ。隣にはとろりとした白い汁の入った椀もある。
「童御前です」
シロとアオの前には、丞幻達のものより大きな平皿が置かれた。上には小さめのおむれつ、平たくして焼いたつくねのようなもの、さんどいっちが二つ。
それから透明な椀に盛られ、葛餅のようにぷるり震える透き通った青の丸い塊。「これはおまけです」と小さな独楽を渡され、シロとアオが歓声を上げた。
「はーい、じゃあいただきまーす」
「「いただきます」」
丞幻が音頭を取り、両手を合わせて声を揃える。「ぱぱがちゃんといただきますって言ってる……ぱぱが……あのぱぱが……凄い……先生は凄い……」と感動するような声が騒々しい中を縫って丞幻の耳に届いた。
振り向けば番頭の傍にいる子虎が、両手の指先を口元に当てて、ふるふる震えている。隣の番頭が慈愛の微笑を浮かべ、子虎の背を擦っていた。
右横の矢凪にも聞こえたのか、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「さて、っと」
手のひらを口に当てて笑声を殺し、丞幻は匙を取った。折角の御馳走を前に、殴られたくはない。
西極料理を食べるのは、これで二度目だ。
蛙田沢の料亭通りにも西極料理を出す店はあるが、材料が手に入りにくい為に値段が張る。そうほいほい食べに行ける店ではなかった。前に食べたのもおむれつだったが、これより二回り小さい上に金三枚もした。ちなみに金三枚もあれば、猿若一座の一等良い席で芝居を見て弁当を食ってもまだお釣りが来る。
夜明けの鳥はどの料理も百文で統一されており、そこと比べると目玉が飛び出る程に安い。普通の飯屋と比べれば勿論高いのだが、頑張れば手が出せる値段だ。
賭場の方で儲かっているから、値を抑えているのだろう。
「おー、ふわっふわ! おむれつって、こんなにふわっふわだったかしらねえ」
一口含むと、あっという間に卵がほどけた。おぼろ豆腐のような柔らかさと、ほわりとした甘みが口内を満たす。
おむれつにかかっている赤いものは、赤茄子を潰して煮詰めたものらしい。
ころんと丸く、鮮やかな赤色の赤茄子は、見た目は愛らしいが物凄く酸っぱい。アオですら鼻面に皺を浮かべ、顔をそらすものだったが。
「ん、美味しいわこれ。よくまあ、あんなくっそ酸っぱ渋い実がここまで甘酸っぱく美味しくなるわねー。料理人の腕が良いのねきっと」
程良い甘酸っぱさが、卵の柔らかい味をきゅっと引き締めている。鼻を突く青臭さも、舌が痺れるような渋さも全く無い。
「小雪ー、その白いのなんだ? おいしいのか?」
矢凪の皿から、ろおすとびいふをこっそり一枚失敬する丞幻の左横で、むっくむっくとおむれつを食べていたシロが、身を乗り出した。
青と橙が混ざりあった瞳が見ているのは、小雪の手の中にある椀だ。椀に入っているのは汁物のようだが、白くとろりとしている。
「甘酒か?」
小雪はにこにこと笑いながら、シロに「ほら」と差し出した。
「一口飲んでみる? 美味しいよ」
「オレも! オレも! シロ、オレも!」
「アオ、待てだ、待て! まずおれからだ! おれが最初にもらったんだから、おれが最初だ!」
「こら、仲良く分けないとあげないよ」
温かい椀を受け取って、すんすんと匂いを嗅ぐ。
甘酒じゃない。味噌の匂いだ。白い味噌汁ってあるんだなあ、と思いながら一口啜る。
「う? みそ汁じゃない?」
啜ってすぐ、こてん、とシロは首をかしげた。
味噌汁かと思ったが、甘い。普通の味噌汁と違って、角の無いまろやかな優しい甘さが口に広がった。味噌の味もするが、この優しい甘さの元はなんだろう。
愛らしい顔いっぱいに不思議そうな表情を浮かべ、うんうん唸っているシロに、小雪が笑みを噛み殺しながら汁物の正体を告げた。
「それね、牛の乳と、味噌の汁物だって。変わってるけど美味しいねえ」
アオに「一口だぞ、これ小雪のだからな」と言い含めて椀を渡して、シロはぱちぱちっと瞬きをした。
「牛の乳なのかー。おれ、ぜんぜん分かんなかったぞ」
「ねー。乳臭さが無かったもんねえ」
貴墨には牛が多くいる事もあり、牛の乳は貴墨っ子にとって茶や酒と並んで、よく飲まれている代物だ。そのまま飲むより砂糖やきな粉を混ぜて甘味を出したり、寒天で固めておやつにして食べる事が多い。
中には、緑茶や抹茶に入れて飲む、なんて人もいるらしい。特に抹茶と混ぜると、苦味がまろやかになって美味しいのだとか。
だが、味噌と合わせて汁物にするのは初めて見た。しかも美味しい。
矢凪に頼んだら作ってくれるかな、と心の中で呟くシロ。
「おいちかった!」
「あれ、アオ。お髭が付いてるよ」
椀を返してもらった小雪が、ぷっと噴き出した。
アオの鼻下に、うっすらと白い線が一つ刻まれている。丞幻の口髭みたいだ。
気づいていない様子で、アオはきょとんとしている。
白い髭を付けたアオに、丞幻も噴き出した。
「あらまーアオちゃん、ワシとお揃いねー。でもアオちゃんには二十年早いから、お髭拭いちゃいなさいねー」
「おい丞幻。てめえ俺の肉喰ったろ。一枚足りねえぞ」
「人に濡れ衣着せないでちょうだいな。ところでろおすとびいふって、噛み応えあって美味しいわね」
「やっぱ食ってんじゃねえか」
「あだっだだだ! 足の小指だけ踏むの止めて! 地味に痛い、地味に!」
「なあなあ小雪、このさんどいっち、蒸したえびが入ってるぞ」
「あたしのには栗が入ってたよ。アオのは何が入ってた?」
「おいちいやちゅ!!」
周囲の喧騒にも負けない賑やかさで、丞幻達が食事をしていた時だった。
「お兄ちゃん、ただいまぁ! 遅くなってごめんなさい!」
元気な声と共に、賭場に小さい影が駆け込んで来る。
あらなにかしら、と丞幻が首を巡らせる前に、小雪が声の方向に向けた目を、まん丸に見開いた。
「……ありま?」
桜色の唇から、呆然とした呟きが零れた。




