一
NOTホラー
湯呑みを取ろうと手を伸ばした若い男の肘が、隣に座っていた髭面男の肩に軽く当たった。
「おい、おめえの肘が当たったぞ」
「おっと、こいつぁ悪かった」
軽い謝罪に、髭面男がぎろりと若い男を睨み上げる。
「なんだあ、その態度は。おめえ、一体どこのお大尽だってんだ、えぇ?」
「はあ? 何だい、あんた。酔ってんのか」
むっつりと答える若い男に、髭面男が食ってかかった。胸倉を掴み上げながら立ち上がり、唾を飛ばして怒鳴り散らす。
「誰が酔ってるって!? おめえ、おいらを馬鹿にしてるだろ! おいらはなぁ、五升飲んでもほろ酔いにすらならねえんだ!」
「知らねえし、馬鹿にもしてねえよ! 一体あんた何なんだよ、俺ぁさっき謝ったろうが!」
「あんなん、謝った内に入らねえよ!」
酔いの席。酒で湿した舌は常より滑りやすく、止まらない。
たちまち二人は顔を赤く染め、拳を握った。
先手。若い男が握った拳を、髭面男の顔面に放った。大柄な身体が、細長い卓の上を勢いよく滑って床に叩きつけられる。卓上に並んだ硝子の鉢が諸共に叩きつけられ、連続して澄んだ音を響かせる。
「やりやがったな、おめえぇ!!」
髭面男が怒鳴る。まくった袖から覗く太い腕が力こぶを見せつけつつ、拳を若い男目掛けて飛ばした。
若い男は自分の座っていた椅子の背を掴み、それを振り上げて盾にする。椅子の足が砕けた。若い男はそのまま足を踏み込み、椅子を横薙ぎに振るう。髭面男が脇を絞め、身体でそれを受けた。椅子が砕け散り、大小の木切れが宙を舞う。
二人の男は、互いを罵倒しながら拳を繰り出し、周囲の物を盾にしながら喧嘩を続ける。数人がそれを取り囲み、やんややんやと野次を飛ばしていた。
「わぁっ、わあぁっ」
身を乗り出し、派手な喧嘩を眺めていた小雪が、小声で歓声を上げた。目を輝かせ、食い入るように喧嘩を見つめている。
「凄いね、旦那様、本当なんだね! 本当に居酒屋って、あんな喧嘩が起こるんだあ……!」
「うん……まあ……おう」
話しかけられた矢凪は、丸い瞳をうろうろと泳がせた。口の中で、もごもごと頷く。
かつてついた嘘――貴墨の居酒屋ではよく、椅子や卓を使った派手な喧嘩が行われている――を素直に信じて喜んでいる小雪に、いたたまれなくなったらしい。
丞幻はにやにやと笑いながら、矢凪の脇腹を肘で軽く小突いた。
「ま、居酒屋じゃなくて、ここ賭場だけどね」
――貴墨は馬走にある賭場、『夜明けの鳥』。
冴木と馬走を繋ぐ椿橋を渡り、町木戸をくぐってすぐの所に建つ、二階建ての大きな賭場だ。入口にかかる暖簾をくぐると、珍しい事に土間ではなく板張りの床が広がっていて、そこに丸い卓がいくつも置かれている。丞幻達が座っているのは、その内の一つだった。
その右奥には数人が並んで座れる細長い卓があり、そこが喧嘩の中心になっていた。
丞幻は頬杖をついて、矢凪の脇腹を小突き続ける。
「しかもあの喧嘩、芝居だし」
どこからか調達した皿を、若い男が手裏剣のように次々投擲。髭面男は負けじと箒を薙刀のように振り回し、全て弾く。
凄い凄いと、小さく手を叩いて喜ぶ小雪。
はしゃぐ彼女には悪いがこの喧嘩、全て芝居である。
小雪の思い描く「派手な喧嘩が行われる居酒屋」を現実のものにする為、矢凪が事前に頼み、一芝居打ってもらったのだ。喧嘩をしている二人も、野次を飛ばしている人々も皆、実はこの賭場で働く奉公人である。
ちなみにここは、「虎の大将」と呼ばれ慕われている馬走の顔役が開いている賭場だ。
大将の評判はよく聞くが、直接会った事は無い。しかもその「虎の大将」、実は矢凪の息子なのだという。
なので今日、会えるのを少し楽しみにしている丞幻である。
「で、お前大将になんて言ったの。自分が昔戯れについた嘘を信じてる恋女房の為に、嘘を本当にするのに協力してくださいお願いしますー、って?」
「うるせえ」
卓の下で足の甲を思い切り踏まれた。踵で。
「ふおっ!」
思わず悲鳴を上げると、膝の上に座っているアオとシロが、ばっと丞幻を振り仰いだ。
「どちちゃの、丞幻。いちゃい?」
「だいじょうぶか? どこか痛いのか? 横になるか? あ、おれ、お水もらってくるか?」
そわそわと身体を揺らし、心配そうに見上げてくる、ちび二体。その頭を同時に撫で、丞幻は黒眼鏡越しに目を合わせた。
「だいじょーぶよー、アオちゃんシロちゃん。矢凪にあんよ踏まれて、ちょっと痛かっただーけ」
だからもう痛くないわよー、と包帯を巻いた両手でぐりぐり頭をかいぐりまわすと、シロ達はほっと肩を落とした。二体の大きな瞳に、安堵の色が広がる。
全くもう心配症ねーと、卓上に置かれた湯呑みを取ろうと手を伸ばす。
するとすかさず、右横に座る矢凪が湯呑みを取り上げて、丞幻の手に押し付けた。正面に座る小雪が手巾を懐から取り出し、大きく身を乗り出して丞幻の前に広げる。
丞幻は、半眼で矢凪達を見渡した。
「……あのね、そこまでされなくてもだいじょぶよ、ワシ」
湯呑みくらいは取れるし、零さないで飲めるわよ、と言い、湯呑みを口に運んだ。零さず無事に一口お茶を飲んで、ほらね、と笑う。
丞幻が堅須国から救い出されてから、五日。
身体にまとわりついていた瘴気は、徹底的な浄化で祓われた。だが堅須国の空気に馴染んでしまった丞幻の目は、浄化を受けて尚、本調子とは言い難かった。
太陽の光を異様なほど眩しく感じ、視界は常に寝起きの時のようにぼやけている。近くに座る矢凪達の表情も曖昧だ。見鬼の力も弱まっているようで、町を歩いても、そこらをうろついている怪異を視ることはできなかった。
「まだ黒眼鏡かけてないと痛いけど。ほら、湯呑みだって掴めるし、シロちゃん達の頭だってほらこの通りちゃんと撫でれるわー」
へらへらと笑い、湯呑みを置いてシロ達の頭を撫でる。
「小雪の泣き黒子だってばっちり拝めるわよ、今日もきらきら輝いてるわねお前の黒子」
「あたしの黒子、別に輝いてないけど」
戻って来た当初は太陽の光は眩しいというより痛いくらいで、目玉に刃物を突きこまれたような激痛に、絶叫を上げて転げ回った。目もほとんど見えず、掴めないままに物を倒したり躓いて転んだりしていた。
やけに矢凪達が過保護なのは、その様子を間近で見ていたからだろう。
今はある程度、物の輪郭は掴めるしー、一人でもなんとか大丈夫なのよね、と胸の内でひとりごちる。
真面目腐った顔で、矢凪達がぼそぼそと言葉を交わし始めた。
「どう思う、雪」「あたし達を心配させないように、見栄張ってるだけだよ。一昨日も、眩しい痛いって騒いだ後で『いや悪いわねー驚かせて、ちょっと足、いやほら目がね! 目が攣っちゃってあっはっは』って見え見えの嘘ついてたし」「いらねえ見栄だな」「しょーがないな、丞幻はかっこつけだからな。おれ達は『うんうん分かってるぞ』って、生ぬるーく見守ってやろう」「しょよしょよ、ちょがにゃのよ」「そうだな」「そうだね」
小声で話しているふりをしているが、丞幻にしっかりはっきり聞こえるように話している。
ずれた黒眼鏡を直しながら、丞幻はぶすくれた。
「なーによ、お前ら。疑り深いわね、本当よ。……ところでシロちゃん達、重いんだけど。そろそろワシのお膝から下りて、椅子に座らない?」
膝の上で、足をぱたぱたさせているシロとアオを見下ろす。
「や」
「やよ!」
「そうなの、嫌なのー。じゃあしょうがないわねー」
にっこりと、丞幻は満面の笑みを浮かべた。
「下りて」
「外道!」
「げどー!」
情け容赦なくちび二体を膝から下ろすと同時に、喧嘩の決着が着いた。歓声がわっと響く。
髭面男の顎を、若い男の拳が打ち抜いた。天井近くまで吹っ飛んだ髭面男が、頭から床に落ちる。
痛そうな音に、小雪が「わっ」と小さく声を上げた。
「え、旦那様、あれ大丈夫? ぐしゃって音したよ、ぐしゃって」
「問題ねえよ」
矢凪の言葉を補足するように、髭面男が呻きながら起き上がろうとしている。派手な音を立てていたが、上手く受け身を取ったらしい。
湯呑みを置いて、丞幻は口髭を撫でつけた。
いやーあの喧嘩、目がしっかり治ってから見たかったわ。
下手な芝居小屋より、絶対に面白かったろうに。残念だ。
「店、散らかしちまって悪かったな。取っといてくれ」
若い男が自分と相手の分の代金を卓上に置いて、片手をあげて颯爽と外へ出て行く。その姿は役者のように堂に入っていて、まさに芝居の終わりを思わせるようなものだった。
丞幻は思わず小雪と一緒に拍手をして、男の後ろ姿を見送った。シロとアオも飛び跳ねながら、思いっきり手を叩いている。
「あれ。旦那様、どこ行くの」
小雪が顔を上げた。
拍手をしている丞幻達をよそに、立ち上がった矢凪が懐手をしたまま、奥の座敷に足をかけている。
「ん、ちょっとな」
短くそれだけ言い、矢凪は座敷にいる番頭らしき男に近寄って行った。二、三言葉を交わした後、矢凪は番頭の後ろにある襖を開けて、奥の廊下へ消えていく。
すとん、と襖が柱にぶつかる軽い音が響いた。
「じょーげん、じょーげん。矢凪どこいっちゃの?」
アオが、丞幻の羽織を引っ張る。今は童姿だが、常の子狼の姿だったら耳が不思議そうに、ぴこぴこ動いていただろう。
「うーん、厠かしらねえ」
「でも丞幻、かわやはあっちだぞ。おれ、さっき行ったから知ってるぞ。外だったぞ」
「あー。そういやそうだったわねー」
何をしに行ったのだろう。……気になる。
丞幻は立ち上がった。
「どうしたの、間夫」
不思議そうに、小雪が見上げてくる。
「うん、ちょっとね、矢凪がなにしに行ったのかなーって、気になっちゃって」
番頭さんに聞いてこようと思うんだけど、小雪も来る?
そう尋ねると、少し考えた後で小雪も頷いた。シロとアオに視線を向けると、残像が見える勢いで首を縦に振る。
「んっふふふ……シロちゃんアオちゃん、そんなに首振ったら、頭くらくらするわよ」
首をぶんぶん振りたくるシロ達に笑いながら、草履を脱いで座敷に上がる。座敷も畳ではなく、板敷きだ。足袋を履いていても、少し冷たい。
頬杖をつき、算盤を弾いている番頭に、声をかける。
「ね、番頭さん」
「はい。どうかしました?」
蛇のような目が、丞幻を見上げた。
「矢凪の奴、どしたの?」
「ああ、大将を起こしてくるって言ってましたよ。大将って、実はかなり寝汚いもんで、なっかなか起きてくんないんですよね。一度寝たら、ほんっと何しても目ぇ覚まさないんですよ」
丞幻の脳内に、一日の半分以上を寝て過ごしていた実家の猫が浮かんだ。
「ふうん。ワシらも行ってみていい?」
黒眼鏡越しの視界には、色がついている。うっすらと黒褐色に染まった番頭が笑い、どーぞ、と手を翻して襖を示した。
「旦那のお連れなんで、ご自由にどうぞ。ただ、大将って本当に起き抜けの機嫌最悪なんで、気を付けてくださいねー」
その言葉が終わるか終わらないかの内に、襖の向こうで重たい何かが叩きつけられるような音が、賭場中に響いた。
箪笥でも倒れたのでは、と思うほどの轟音に、シロとアオが飛び上がった。驚いた猫のようにそこらをばたばた走り回り、丞幻の足に左右から縋りつく。
どたんばたんと、重たいものが暴れる音が、連続で響く。それに不明瞭な怒号が混じって、襖の向こうが大層賑やかしい。
背後を一瞥した番頭が、こめかみを指で軽くかいた。
「あっちゃぁー……」
と、一言だけ呟いて、また顔を帳面と算盤に戻す。
その近くを通りかかった奉公人の男も、襖に視線を向ける事なく軽く肩を竦め、土間に下りて行った。丁稚らしい男の子は流石に驚いたのか、身を竦めて持っていた籠を落とした。すかさず若い女中がそれを拾い上げ、宥めている。
小雪が周囲を見渡し、ぱっちりとした目を何度も瞬かせた。
「あんまり、驚いてないねえ」
「そうねー、多分よくある事なのよ。……シロちゃん、アオちゃん、爪立ってる。そこね、ワシ痛い痛いのとこだからね。やめてね」
ちょうど傷のある辺りを強く掴まれているのが、地味に痛い。小さな手を軽く叩いて咎めて、じゃあ行きましょ、と襖を指さした。賑やかしい音は、絶えず聞こえ続けている。
「お気をつけてー」
気の無い様子で手を振る番頭も、店内を行き交っている奉公人達も、店内に響き渡る音を気にする様子が無い。襖に目を向けず、各々の仕事に精を出している様子に、ああ本当にあの音と怒号は日常茶飯事なのねー、と丞幻は納得した。




