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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
根国:堅須国

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144/193

幕間之二

〇 ● 〇


 鉦白の小僧の匂いが、消えた。

 紅瓢の匂いがしていたから、小僧を連れて現世に戻ったのだろう。

 あの小僧が、紅瓢と蒼狼を傍に置いている事は、知っている。紅瓢達が、小僧に格別の感情を抱いている事も。

 故に自分が出口まで導かずとも、いずれ迎えに来るだろうとは踏んでいたが、思っていたより早かった。


「――良き哉、良き哉」


 苦しむ演技を止め、二言、そう呟く。

 立ち上がり、裾に付いた赤茶色の土を払い落とす。人と猿が混ざり合ったような、半ば異形に変じた身体を見下ろした。

 軽く念じ、人の姿に戻る。しかし、急激に身体を膨張させたせいで、胴丸も着物も綺麗に弾け飛んでしまった。

 どうせ駄目になるだろうと、気に入っていないものを着て良かった。

 被いていたかつぎぬを外し、腕を通す。革袋の口を縛っていた縄をほどき、腰に回して軽く結わえた。

 最後に顔の下半分を覆う赤い髭を軽く撫でると、たちまち唇に感じるちくちくとした感触が消えた。腐臭漂う湿った空気に、髭で隠れていた肌が晒される。


 短く刈った白髪と、そこから続く短い顎髭が温い風に揺れる。厳めしい顔に刻まれた皺は深く、顎髭の上にある口は大きい。白目がほぼ見えない瞳は赤錆色で、右目は鋭いもので突かれたような(いびつ)な傷痕が残り、完全に潰れていた。周囲の皮膚も引き()れ、嫌に生々しい。

 見た目だけなら、とても堅気には見えない老人。その巨体が、赤茶色の地面と空の間に立っていた。

 緩く開いた胸元に左手を差し込み、小僧が去って行った方向に視線を向ける。だが既に、そこには何の姿も見つけられなかった。


「ふん……」


 小さく、鼻を鳴らす。


「流石は、鉦白の直系よ。弱れども、最後まで儂に縋りはせなんだか」


 どこで何をしていたかは知らないが、ここで発見した時は心身共に随分と衰弱していた。それこそ、祓家殺しの怪異に魅入られかけるほどに。

 わざわざ、彼が堅須国まで下りてきたのは、あの小僧の心が折れていないか、屈していないか確かめる為だった。故に放っておいても良かったのだが、周り全てが敵ばかりの堅須国において、希望を目の前にぶら下げられたらどう出るだろう。

 それが気になったので助け、手を差し伸べたが。希望に縋りつくでも、警戒するあまりその場から逃げるでもなく、小僧は一定の距離を保ち続けた。

 必要以上に踏み込まず、踏み込ませず、最後の最後まで己の名を教える事も、こちらに同情を寄せる事も、差し出された酒や饅頭に手を付ける事も無かった。


(いささ)か、猿芝居が過ぎたか」


 流石に怪しすぎたか。もう少し、怪しさを控えて善良な人物を演じれば、素直にこちらの言葉を信じ込んだだろうか。

 まあもし、己の言葉を鵜呑みにし、雛のように盲目的に着いて来たならば、一思いに殺していたが。


「……()()()()()


 低い笑声が、喉を震わせる。

 最後、首を絞めてみたがあの状態から反撃されるとは、予想外だった。てっきり、抗えずにそのまま落ちると思っていたので、少々面食らってしまった。

 だが、それでこそ。それでこそ、だ。


「それでこそ、我が目を潰し、骨肉を食み合った鉦白陽一郎の血族。諦めの悪さは、陽一郎譲りと見える」


 苦苦、と肩を震わせる。

 遠い遠い昔、死闘を繰り広げた、かの男。潰された目は絶えず疼き、あの時の高揚を胸の内に呼び起こす。

 鉦白陽一郎。あの男との死闘ほど、喜悦に満ちた戦いは無かった。


「嗚呼……愉しかったなあ、陽一郎よ」


 一つしかない瞳を恍惚に(とろ)かし、厚い舌でべろりと唇をなぞる。

 当時、彼は人に紛れて過ごしていた。元々が、猿の怪異である。人真似は、得意であった。盗人というものが面白そうだったので、好んでそれを真似ていた。

 だが、人と怪異では、盗む際の力加減、匙加減というものが違う。

 彼が盗みに入れば後に残るのは、焼け焦げた肉塊と、屋敷だった残骸であった。それが、一日の内に何度も起こった。時には、村一つが無くなった。

 故に、当代きっての祓い屋であった鉦白陽一郎が、腰を上げた。

 当時既に六十を超えていたが、陽一郎は強かった。

 互いに全力で戦って――負けたのは、彼だった。

 脇腹を抉られながらも、殺気と戦意を失わなかった陽一郎は、彼の右目に手刀を突きこみ、堅須国へと叩き落としたのだ。

 負けた事は悔しかったが、それ以上に愉しかった。人に紛れ、盗人の物真似をするより、奴との戦いはずっとずっと愉しかった。

 できる事なら、また遊びたかったが、ようよう堅須国から這い上がった時には、既に時は流れ、鉦白陽一郎は過去の偉人となっていた。


「しかし、あの鉦白の小僧……見鬼の才こそ陽一郎に比肩するが、霊力を欠片も持たぬというのは、本当らしいな」


 あの見鬼の才と、状況判断能力。多少の霊力さえあれば、堅須国から脱するのも容易いだろうに。つくづく惜しい。

 袖の中に両手を入れ、唸る。

 霊力が無く、怪異に対抗できずとも構わない。大事なのは陽一郎と同じく、何に対しても媚びず折れず屈さずの強い芯があるかどうかだと、彼は考えている。

 最後まで諦めず抗い、自分の目を潰し、堅須国に落とした男の血。それを継いだ者が、何の芯も無く、血の尊さに固執するだけの心弱き軟弱者など、あってはならない。

 それは、鉦白陽一郎にとって侮辱であるし、彼と戦い喜悦を感じた己への侮辱でもある。

 今の所は幸い、鉦白陽一郎の直系において、そんな無様を晒す者はいないようだが。


炎骨(えんこつ)に首を押さえられてはいるが、折れてはおらぬようだしな」


 己の商売敵ともいえる、宵色髪の女を思い描く。

 なんでも、小僧に首輪を付け、よくできた猟犬だと喜んでいるらしい。獲物を運んでくる忠実な()がいるのだから、それで満足していればいいものを。

 よりによって、鉦白の小僧に目を付けるとは。


「あの小娘……いい加減、目障りよな」


 あれは人の癖に、怪異を食らう。相対(あいたい)する度、馳走を見る目で見られるのも、少々辟易(へきえき)していた所だ。ここは一つあの小僧に手を貸して、炎骨を文字通り、骨も残さず燃やし尽くしてしまうのが良いだろう。

 決めた。決めた。そうしよう。

 己の思い付きに満足し、彼はようやくその場から動いた。

 放り出していた革袋の尻を無造作に鷲掴み、口を地面に向けて一度振る。

 どさり、と。

 重たい音を立てて赤茶色の地面に放り出されたのは、両手足をまとめて縛られ、猿轡(さるぐつわ)を噛まされた若い男であった。

 この男には、決して動くな、声を出すなと言いつけていた。それを忠実に守った事に満足して、革袋を放り出す。


「良き哉、良き哉」


 鷹揚に褒めるが、反応は薄い。

 こちらの言葉が届いているのか、いないのか。着物が肌にべっとり張り付くほど、汗みずくになった身体は哀れっぽく震え、大きく見開かれた目からは滂沱の涙が溢れている。


「どうした、恐ろしいか。何が恐ろしい。この場か、儂か」


 静かにそう尋ねるが、応えは無い。猿轡の隙間から、ひっひっと痙攣のような呼吸音を漏らすだけだ。

 男を見下ろし、彼はいっそ優しげに声をかけた。


「そう恐るるな。難題を押し付けようという訳ではない。貴様はただ黙って、儂の言う事を聞いてさえいれば良いのだ」


 正気と狂気の(はざま)にいる事を示すように、男の黒目が激しく動いていた。

 震える男の脇に、片膝を付く。


「どうした。儂の言いつけは何でも聞くと言ったは、貴様だろう。『父は火事で死に、年老いた母と病に伏せた姉を養うには、堅気(かたぎ)の金では足りないんです。だから、貴方様の元で使ってください。おいらぁ、昔から人一倍丈夫って言われてました。だから、何でもやります、やらせてください』――そう言ったは、貴様だろう」


 声真似をしながら、彼は男の髪を無造作に掴んだ。ぐいと引き上げ、目線を合わせる。

 髪を引っ張られる痛みも消えるほど、男は恐怖に支配されているのだろう。何とか逃れようと、縛られた身体を芋虫のようにくねらせている。

 それに目を細め、淡々と言葉を紡ぐ。


「安易に、何でもやると言うものではない。己の身一つでは、到底(まかな)えぬ事を命じられたら、貴様は如何にする? 大店から千両箱を全て持ちだせと命じられたら。大将軍の首をと望まれたら、出来るか。出来ぬだろう。『何でもやると言ったろう』と、返されれば貴様はどう返す? 『それはできない』『そんな事を言われるとは思わなかった』と、反駁(はんばく)するか? その言い事が通じるのは酒の場のみよ。儂の前で『何でもやる』と言ったならば、その宣言通り、何でもやってもらう。一つ学んだな」


 まだ若さが残る顔から、どんどん血の気が引いていく。うう、うう、と不明瞭な呻きが、猿轡の隙間から(よだれ)と一緒に漏れた。


「苦苦、失禁する程に恐ろしいか」


 独特の臭気が鼻を突く。目線を下げれば、男の足元が黒く濡れていた。


「案ずるな。粗相の一つや二つ、許そう」


 それほど、この男に課した役目は重大なものだ。


「堅須国に生者が迷い込んだ時、現世と堅須国を繋ぐ道が現れると、儂が小僧に言ったのを聞いていたろう。あれには、面白い抜け道があってな」


 落ちた生者の生皮を剥ぎ、それを被って生者に成りすませば、怪異だろうと亡者だろうと、堅須国から抜け出す事ができるのだ。

 遠い昔、彼が堅須国から這い上がる際に使ったのもその方法だった。


「如何な儂とて、堅須国からこの身一つで出るのは容易くない。其処で貴様よ。分かるな、貴様の役目が」


 一呼吸、二呼吸置いて。

 言葉の意味を理解できなかった……あるいはしたくなかったか。呆然としていた男が、我に返った。


「うう! うううう!! うううううう!!」


 口角から泡を飛ばして絶叫し、髪がぶちぶちと千切れるのも(いと)わず、手足を戒める縄を千切ろうと、必死に身を捩らせる。

 足をつままれた(いなご)のような、か細い抵抗でしかないそれ。


「嗚呼、嗚呼。そう怯えるな。今日は気分が良い、苦痛は僅かに抑えよう。何せ鉦白の小僧が、巫女姫の新作を書くと言っていたからな。あれは面白い、良きものだ」


 喉と腹を満たせれば、酒も飯も味は頓着しない。彼が好むのは、人の書く物語だ。現実とは大きくかけ離れた、荒唐無稽な物語を特に好んでいる。

 かの小僧が書いている巫女姫は、ここ最近一番の気に入りだ。


「――嗚呼、そうか。母と姉を残して逝くのが心配か。何、何、案ずるな。()()()()()()()()()()()()()()()()

「――――――!!」


 怒りと絶望の混じった絶叫が、堅須国の空気を震わせる。

 やがて、ぞぶぞぶと柔いものを食む音が、それに絡まった。絶叫が一際大きく響いた。ぞぶぞぶという音が、ごりごりと硬いものを噛み砕く音に変わる。

 段々と弱々しくなっていた悲鳴は、その頃にはすっかり止んでいた。

 液体を啜る音がしばらく響いた後、一つの影がそこから立ち上がり、確固とした足取りでその場を去って行った。



 ――苦、忌、忌、忌、忌、忌、忌。


 中身を丸ごと食らった男の生皮を被り、それは笑う。

 かつて初代鉦白家当主、鉦白陽一郎と戦い、敗れて堅須国へ一度落とされた巨猿の怪異。

 漆黒に輝く雷を操り、人を真似て世に紛れていたそれを、人は凶雷猿(きょうらいえん)と呼び恐れた。

 盗人を好んで真似ていた凶雷猿は、盗人としての二つ名と、人に紛れる為の名を、持っている。

 どちらの名にも愛着があるので、この数百年ずっと、彼は同じ名を名乗り続けている。

 盗人としての二つ名を、五ツ頭(いつがしら)

 人としての名を、香坂刃左衛門(こうさかじんざえもん)

 “炎骨”の十六夜と共に、貴墨の闇を二分する大盗その人である。

異界名:堅須国かたすこく

危険度:甲

概要:

天地開闢の折より存在する異界。地の底にあると伝えられている。

赤茶けた空と荒野が存在し、岩や木などは無い。異界の中央に行くにつれ、大地は緩やかに下降し、蟻地獄のようになっている。中央には穴があり、そこに落ちた者がどうなるのかは不明。

天の階がかからなかった死者、落とされた怪異が存在している。

生者が落ちた場合、戻って来れる可能性は低い。戻って来た場合、念入りな浄化を行い定期的に異変が無いか聞き取る事。詳しくは『浄化手順書』を確認。

堅須国に落ちた亡者を思い、知己(親類縁者でなくとも可)が祈る事で亡者を堅須国より救い出す事が可能。


(極秘:決して外部に漏らさぬ事)

堅須国にいる亡者や怪異が、落ちた生者の生皮を剥いで成り代わり、這い出てくる事がある。堅須国より戻って来た者に対しては、『浄化手順書』にある通りの尋問を行う事。


『貴墨異界覚書』より抜粋。



怪異名:凶雷猿きょうらいえん(封印済)

危険度:甲

概要:

六百年近く前に当時の千方国、貴墨国、鹿野山国の三国を縄張りとしていた怪異。

白い毛並みの巨大な猿の姿をした怪異。人の姿に化け、盗賊行為を働いていたとされる。二年の間に四十一の町、三十八の村、およそ七百の家が破壊され、死亡した人間の総数は不明。

人に化ける術の他、黒い雷を操る。

鉦白家初代当主、鉦白陽一郎に修祓され、堅須国へ落とされた。


『貴墨怪異覚書』より抜粋。


〇 ● 〇


ネクスト怪異ズヒント:夜明けの鳥(NOTホラー)

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