急
先の亡者を皮切りに、丞幻の目がそこらに蠢く堅須の住民達を捉え始めたのは、それからすぐの事だった。
一列になり、ぐるぐると同じ場所を回り続ける男達。蠕動する、蕩けた餅のような肉塊。犬の頭をした女が吼え、砂塵を巻き上げながら血色の竜巻が天を突く。どこかで見た男の顔を持つ蝸牛が「しにたくない」と啜り泣いているかと思えば、地面に点々と落ちた根付を、身体中に黴の生えた子どもが泣きながら辿る。
地面に半ば埋まった茶碗、枝の代わりに首を括る縄が幾十と吊り下がった木、縮緬の座布団に座った頭の無い花嫁人形、岩に突き刺さった刀とそれを囲む髪の縄と骨の杭、魚の骨がいくつも吊るされた屋敷。
そんな風に、人とも怪異ともつかない存在が目まぐるしく視界に映っては消えていくものだから、丞幻はげんなりとした。
これならまだ、色町によくある春覗き――春画を使った覗き絡繰りだ――の中でも、とびきり下品なものを覗いていた方がいくらかましである。
「あまり、視ぬ方が良かろうよ。其方に気づけば、襲って来るものも多かろう」
「そうね」
こちらを振り向かないまま咎めてくる香坂に頷いて、丞幻は視線を眼前で揺れるかつぎぬに固定した。
香坂はあまりお喋りな質ではないらしく、丞幻が話を振らない限りは口を開く事はしないらしい。丞幻が着いて来れる程度の速さで、淡々と足を進めている。
「…………」
じゃりじゃりと赤土を踏む音、ずりずりと革袋を引きずる音だけが、周囲に響く。
目に映るものこそ増えたものの、それらが発する音は耳に入ってこない。
まだ完全に堅須に馴染んでいないからなのか、意識をそれらに向けない限りは聞こえないのか、そこは分からない。ただ、先の亡者達の声は聞こえたので、後者でしょうねー、とは思う。
試してみる気は無い。声を聞かせるだけで、人を魅了し狂わせる怪異もいる。祓い屋によって堅須に落とされた怪異の中には、そういうものも多い。耳をすませてみた結果、うっかりそんな怪異の声を聞いてしまったら阿呆の極みである。
死んでも死にきれないわ、そんなん。化けて出るわよ。
「…………ところで、香坂殿」
「如何にした。休息を取るか」
「いえそれは大丈夫なんだけどね。お宅、どうしてワシを案内してくれるのかしらん」
「嗚呼、それは簡単な事よ」
きき、と肩を揺らして香坂は笑う。
「其方を利用したいのよ、我が身の為に」
「……ふぅん?」
肩の辺りに力が入る。思わず声が低くなった。
緊張する丞幻を面白がるように香坂はまた、きき、と猿の鳴き声のような笑声を上げた。
「怖いか。祓家に生まれ、怪異への憎悪を髄まで叩き込まれておきながら。闇を恐れて厠に行けぬ幼子の如く、この身を恐れるか」
「ふん……」
こちらを嘲る色が含まれた声には返事をせず、丞幻は小さく鼻を鳴らした。
あからさまな挑発に乗らず、向こうの反応を待つ事、少し。ぜろぜろという呼吸音の合間に、香坂が口を開いた。
「――堅須に落ちた亡者は、現世にいる知己が祈る事で、天の階がかかるという」
「ああ、そゆこと」
丞幻は、ふうんと頷いた。
天帝が遥か昔、子が堅須に落ちて泣く母に、「現世の知己が真に亡者を哀れに思い、祈れば我が父にその祈りが届き、天の階がかかろう」と慰めた事がある。
この世を創った天大神の子であり耳目たる天帝の言葉は、天大神の言葉そのもの。その場しのぎの慰めとはわけが違う。
事実、一心に祈りを捧げた母の枕元に子が立ち、母の祈りのおかげで青海へ向かう事ができると、笑ったという。
「ワシが帰った後、『どうかあの助けてくれた親切なお方が、天大神の元へ行けるよう、どうかお願いしますー』って、祈ってほしいの、お宅。だから助けてくれるのね」
まあ、納得はできる理由だ。
香坂は、きき、とまた肩を揺らして笑う。
「故に、其方にはどうあっても現世に戻ってもらわねば困る。さ、着いて来るが良い。出口まで案内致そう」
「……はいはい」
納得はできたが、彼を信用するかはまた別だ。
手の中に握り込んだ懐紙を強く握り、丞幻は一つ息を吐く。
そういえば、とこちらの警戒を歯牙にもかけない様子で、香坂がふと声をかけてきた。
「其方、名をなんと申す」
聞いておらなんだな、と続く言葉に、丞幻は一呼吸、二呼吸おいて、
「無名よ、無名」
とだけ、答えた。
まだ心を許していない相手に、名を教えるのは自殺行為だ。人、怪異に限らず、力の強い者は名を知った相手の魂を掴み、支配する事ができる。
「ほう、無名と」
「そう、無名よ」
「それは面白い」
きき、と香坂は笑う。丞幻は笑わなかった。
空気に薄く引き伸ばされた腐臭と土の臭いが、一際強くなったような気がした。
じゃりじゃり、ずるずると音を立てて二人歩くこと、しばし。
「……む」
それまで淡々と、歩みを進めていた香坂の足が止まった。
「どうしたの、香坂殿」
右耳の辺りで、不快な羽音と共に恨み言を呟き続ける人面蚊に辟易していた丞幻は、しっしと手を動かしながら、香坂の後ろ頭を見上げる。
革袋に繋がる紐を持っていない方の腕がゆるりと上がり、前方を指し示した。
「少々、迂回する必要がありそうだ」
「あら」
ひょい、と香坂の横から顔を覗かせ、前を見る。
赤茶けた空に似合わない、巨大な金の御殿が正面に鎮座していた。五階建ての高いそれの屋根は金、壁一面には真珠、庭を彩る花々は銀。そこを堀がぐるりと囲み、水晶と瑪瑙で作られた橋が上にかかっている。
絵草子にでも出てくるような、贅を凝らした御殿だ。
「美しい姫君!」「綺麗なお嬢様!」「この世で一等美しく尊い御方!」「貴女の美貌の前ではこの御殿など襤褸に等しい!」「美しい!」「美しい!」「美しい!」「美しい!」「美しい!」
その御殿の前に、年も着物もばらばらの男が数十人近く犇めき合っていた。全員、開け放たれた戸の奥に向かって、声の限りに賛辞を送っている。
「無貌の姫御殿ね。山中怪異の一つだわ」
「ほう。寡聞にして知らぬが、如何なる怪異なのだ」
興味を覚えたらしい香坂に問われ、丞幻は簡潔に説明した。
「陽之戸の山ならどこにでも出てた怪異よ。あの御殿が山中にでーんとあって、戸が開け放たれている。不思議に思って覗いたら最後、魂を抜かれたみたいにああなるって話よ。ちなみに男ばかりが狙われて、女人が山中を歩いてる時には出てこないらしいわー」
御殿を見た瞬間に肉体を操られることもなく、開けられた戸の奥を見なければいいだけなので、回避自体は簡単な怪異である。
香坂が巨体を活かし、群がる男達の後ろから背を伸ばして御殿の奥を、覗き込むような動作をした。
「ほう。魂と引き換えに、その美貌を拝んでみるのもまた、一興か。其方もどうだ、一目」
丞幻は顔をしかめた。
「やめてちょーだい。そしたらお宅をここから救い上げる奴がいなくなってよ」
「それは困る。では、着いて来るが良い。出口まで案内致そう」
ざり、と香坂の爪先が右を向く。御殿を囲む堀に添う様に、右へ身体を向けて歩き出した。丞幻もそれに続く。
音も無く流れる水は透明で、堀の底がよく見える。大粒の翡翠や珊瑚が敷き詰められ、こちらを見上げていた。それを一瞥したきり、丞幻は視線を、香坂が引きずる革袋に落とす。
欲を言えばネタ収集がてら、御殿をじっくり観察してみたい気持ちはあるのだが。今はそんなことをしている場合ではない。もし場所が堅須国でさえなければ、奥を見ないように気を付けて、御殿の外観や庭をがっつりしっかり舐め回すように見たいのに。できれば一刻ほど見たい。
「次の巫女姫に出そうかしらねえ……姫御殿」
女人は狙わないはずの姫御殿が、なぜか女人を引き込んだ。それを調査していた巫女姫達だが、不意を突かれ一人が姫御殿に狙われ引き込まれてしまい――
「ほう。巫女姫に、あれを。それは面白そうな」
ならば、やはり、是が非でも、現世に帰ってもらわねば。
うっそりと、香坂が笑ってそう零す。丞幻は我に返って、瞬きをした。
自分の考えに沈んでいたせいで、あまり聞いていなかった。
「あらごめんなさい、口に出してた?」
「む……」
丞幻の言葉に返答しないまま、止まれ、と低い声が空気を揺らす。丞幻は足を止めた。軽く緊張を孕んだ声音に、何か良くないものでもいたのかと、微かなざわめきが胸を引っかく。
肩越しに振り返った香坂が、赤い口髭の下からもごもごと言葉を紡いだ。
「面倒な手合いがいる。暫し、足を止めた方が良さそうだ」
「面倒な手合い……?」
「かあぼうよ」
「ぅげっ」
かあぼう。
その名に丞幻は、潰れた蛙のような声を上げた。
「かあ……」「……ぼう」「かあ……」「……ぼう」
か細い声が香坂の進行方向から、風に乗って腐臭と共に漂ってくる。
陰鬱とした感情をたっぷりとまぶした、低い声が二つ。女の声と幼子の声。
丞幻は物音を立てないよう、そぉ……っと足を横に踏み出した。香坂の身体の横から、顔をそろりと出して前方を見る。
「かあ……」「……ぼう」
「――……!」
三間|(約五メートル)も離れていないところに、かあぼうがいた。
思ったより近くにいたことに驚いて、丞幻は反射的に出そうになった声を全力で押し殺した。
かあぼうの前で、音を出してはいけない。
「かあ……」「……ぼう」
赤い鼻緒の下駄の下、赤土がじゃりじゃりと鳴っている。
暗い色の紅をさした唇と、伏し目がちな瞳は一見して陰気にも見えるが、どこか影のある美しさを彼女に与えていた。
艶のある卵色の髪はきっちりと結われ、さした簪の端でのべっ甲の亀が揺れている。麻の葉模様の小袖を着こなした姿は、どこにでもいる妙齢の女性そのものだ。
女は胸の前で、赤ん坊を抱えていた。布にくるまれた赤ん坊の頭は、若い男のものであった。小さい首の上に、成人男性の男の頭が乗っかっている。
それが赤子のようにくしゃくしゃに顔を歪めて、「かあ……」と母を呼ぶ。それに女が「ぼう……」と答える。
「かあ……」「ぼう……」
互いに呼ばいながら、女はその場で円を描くようにうろうろと、歩き回っていた。
――うわうわうわ、本当にかあぼうだわ。最近噂聞かなかったけど、あいつ堅須に落ちてたのね。どこの馬の骨が落としたのか知らんけど、落とさないで滅しておいてちょうだいよ!
腹の中で、どこの馬の骨かも分からない祓い屋に文句を零す。
かあぼうは数年前まで、貴墨十大怪異に選ばれていた怪異だ。
決まった日にち、時刻にしか出ないが、その時に自分を目にした者を追いかけ、捕まえる。どこまでも追いかけ続け、神社に逃げ込んでも入ってくるという単純な危険性と狂暴性から、貴墨十大怪異に選ばれていた。
ちなみに遠くから見かけるだけでも駄目だし、近くで音を立てるのも駄目だ。最悪である。
捕まった者がどうなるのかは、今もって不明である。食われるとも、新しい赤子の頭になるとも言われているが、結局分からないまま目撃情報は途絶えていた。
丞幻も当時、かあぼうについて軽く取材をしていたが、シロとアオが物凄く嫌そうな顔をして「あれはやめとけ、絶対やめとけ」「あれね、オレきらいにゃの。きとね、まじゅいの」と言うので途中で止めた。
だが今時分は、かあぼうが出る時期ではないはずだが。堅須国では日にちは関係無いらしい。
――しっかしこれ、どうすりゃいいかしら。あいつがいなくなるの待つ? いやでも確かあいつ、一ヵ所にしばらく留まるはずよね。だったら足音立てないようにして、反対側に行く? そっちの方が良いかしらん? 音立てないようにして、おーおきく迂回すれば大丈夫かしらね?
ここで、かあぼうが消えるのを待つよりはいいかもしれない。
前を向いたままの香坂のかつぎぬを、軽く引いて注意を向けようと手を伸ばし……丞幻は半端に腕を曲げた体勢で、ぴたりと止まった。
香坂の様子がおかしい。
「う…………ぅ……」
何やらむにゃむにゃと、小さく呟きながら、身体をゆっくりと左右に揺らしている。
かつぎぬの裾がゆらゆらと揺れ、蜃気楼のように巨体の輪郭が霞む。
さっきと同じだ。
瞬きごとに、白い体毛の猿が現れては消える。ぱちり。人に。ぱちり。猿に。ぱちり。人に。春の野のようなかつぎぬの上から、香坂が頭を抱えた。ぶん、ぶん、と何かを振り払うように、上体を激しく揺らす。
「うぅ……ぅぅぅおおおおおぉぉ…………!」
苦し気な呻きが空気を震わせた。
じゃり、と前方で奏でられていた足音が止んだ。
丞幻の顔から、血の気が引いた。
まずい。
じゃりじゃりじゃりじゃりじゃりじゃりじゃりっ。
激しい下駄の音が、前方から駆け寄ってきた。




