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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
丞幻、怪しの子どもを煙に巻く事

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 男の子が一人、長蛇の列が物珍しいのか並ぶ人々の傍らに立ち、しげしげと眺めていた。

 ざんばらの緑髪が、青白い頬や首筋に絡んでいる。着ている着物はぐっしょりと濡れそぼって身体に貼りつき、乾いた地面にたつたつと水を染み込ませていた。離れた所に立っているのに、生臭い磯の香りが鼻腔を刺す。

 ふうん、と丞幻は呟いた。


「昼間っから出る怪異って、案外多いんよねえ」


 よく見ると、子どもの足元には影が無い。誰も気づいた様子を見せないのは、それが誰にも視えないからだ。

 陰の気が満ちる夜の方が活動しやすい為、基本的に怪異は夜に出る事が多い。では昼には出ないのかと言われれば答えは否だ。昼だろうと朝だろうと、出てくるものは出てくる。特に貴墨のような大都市では、それが顕著だったりする。理由は分からないが、怪異も賑やかな声が好きなのかもしれない。


「そういや西の大陸の方じゃ、太陽が当たっただけで灰になる怪異もいるって話、本当なんかね。いっぺん見たいもんだけど……っと」


 ずぶ濡れの子どもが唐突に、首だけをぐりんっ、とこちらに向けた。

 素早く丞幻は視線を逸らして明後日の方向を向く。しまった、あまりじろじろ見過ぎたか。

 怪異に絡まれるのは面倒だ。願わくば、こちらに気づいていなければいいのだが。


「うーん、そう上手くはいかんよねー」


 ぺちょり……ぺちょり……と濡れた足音がこちらに近づいてくるのを聞いて、丞幻は諦めのため息を吐いた。

 列から抜け、なんでも無い顔を装って通りを歩き出す。

 ああ、あと半時待てば美味そうな氷菓子を食べれそうだったのに。おのれ怪異、よくも怪異。この恨みは絶対返してやるからな、小説で。


「友引娘の前に出てきて二行でやられる雑魚敵にしてやるわ、絶対」


 息巻いて、すたすたと早足で大通りを歩く。

 ぺちょり……ぺちょり……。

 すぐ後ろから、泥を踏むような音が響いてきた。半分腐った魚のような、ひどい生臭さが追いかけてくる。鼻が曲がるような臭気に、思わず顔をしかめた。


「おとさん……おとさん……おとさん……」

「ワシゃまだ独身よ、もう。誰がお父さんか。そらまあ、ちびいのが二人……いや二体いるけど」


 背後から響いてくる細い声に、口内でぶちぶちと愚痴る。

 先ほど出て来た曾根崎屋の前を通り過ぎ、更に早足で進む。これでければ僥倖だと、わざと人込みを突っ切るように歩くが、ぺちょり……ぺちょり……と泥を踏むような音と、細い声は耐えず聞こえ続けている。


「おとさん……おとさん……」


 声と足音は、ずっと一定の距離を保って追いかけてきている。一体、どれくらい自分と離れているのだろう。それがふと気になって、わずかに首を動かし、背後を見た。

 子どもの影は無かった。


「ありゃ?」


 思わず足を止める。

 かんかんと照る太陽の下には、大通りを歩く人々しか見えない。もしや、うまい具合に撒けたのか。


「おとさん……」


 丞幻の腹の辺りから、声が聞こえた。

 咄嗟に視線を落とす。ばくんと心臓が跳ね上がった。


「おとさん……」


 頭から爪先までぐっしょりと濡れそぼった子どもが、一歩の距離を置いてすぐ前にいた。丞幻の腹に抱き着こうとするように、紅葉のような両手を伸ばしてくる。

 蟹か魚に食われたのか。子どもに目玉は無かった。ぽっかり空いた眼窩に緑色の藻が引っかかって、鼻筋に添うようにぺっとりと貼りついている。

 子どもはひどく嬉しそうに、口をぱかりと開けて笑った。


「おとさん……すてないで……すてないで……いっしょきて……」


 見えた乱杭歯らんぐいばにも藻が絡まっていて、澱んだ生臭さが丞幻を襲った。すっかりふやけて白くなった指先が近づいてきて、冷水を浴びせられたように、背筋が総毛立つ。


「だから、ワシはお前のお父さんじゃないって言ってるでしょー!」


 言うが早いか、腰に下げた煙草入れを掴んで子どもの鼻面に叩きつけた。「ぎゃッ!」と叫んだ子どもが、顔を押さえてよろめく。顔を覆った両手の隙間から、しゅうしゅうと白煙が立ちのぼっている。

 唐突な奇行にじろじろと不審そうに見つめてくる通行人を無視し、落ちた煙草入れを掴んで丞幻は踵を返した。元来た道を早足で進む。いっそ駆け逃げてもいいのだが、多分すぐに追いつかれるだろう。体力の無駄だ。


「いやー、良かったわ怪異避けの呪文刻んだ煙草入れ持ってて! ワシってば偉い!」


 友引娘の時に道具を色々忘れた事を踏まえ、ならば最初から持っていれば忘れないだろう。と、日々使う道具類を対怪異用に変えていたのが、早速役に立つとは。

 やはり日頃から準備をしておくのは良い事だ。軽やかに通りを歩きつつ、丞幻は己を賞賛する。


「おとさ……おとさん……」

「だーもう、しつっこい! しつこい子は女の子に嫌われんのよ!」


 あれで諦めてくれれば良かったのだが、存外しつこい。

 人込みを縫うように進みつつ背後を見れば、ぺちょり……と足音を立てて子どもが追ってきていた。煙草入れが当たったであろう部位が、赤黒く爛れている。

 目が無いのによく自分を追えるものだわねえ、と思わず感心する丞幻である。

 しかし、いつまでも追っかけっこをしてはいられない。多分、あれは捕まったらいけない類のものだ。先ほどは不意を突けたから良かったが、次も逃げられるとは限らない。


「異怪奉行所にこのまま突っ込んで処理してもらってもいいけど遠いし、あんまり行きたくないのよねー……よし」


 あまり使いたくないが、仕方ない。

 足を動かしながら、丞幻は懐から煙管を取り出した。火も付いていないそれを吸い、ふぅ……っと口をすぼめて息を吐きだす。

 白い煙が立ち上った。風も無い中、煙はするすると背後へ流れて行く。


「おとさん……おとさん、どこ…………?」


 ぺちょり、という足音が止む。声に戸惑いの色が混ざった。

 振り返れば、白い煙に囲まれた子どもが眉を下げて、うろうろとあちこちを見渡している。

 今の内だ、と丞幻はさっさとその場を立ち去った。


〇 ● 〇


「あー、とんだ目に合ったわ、もう」


 小舟に乗って冴木さえきへ戻りながら、くるくると丞幻は煙管を指先で回していた。狭い船上に客は丞幻一人。を操る船頭が、回る煙管に目を止めた。

 吸い口と火皿は黒。そこに螺鈿らでんがちりばめられ、回る度に日光を弾いて光っている。萌黄色に塗られた羅宇らうには、細かな文字が彫り込まれていた。

 ほう、と船頭は感嘆の息を漏らす。


「お客さん、そりゃ随分と珍しい煙管ですねえ。いってぇ、どこで買いなすったんです?」

「ああ、これ? 貰い物なのよー。実家出る時に、父上から渡されちゃってねえ」

「へへえ。家宝かなんかですかい。ご立派なもんだ」

「いやー、『お前は怪異を祓える力なんて無いから、煙に巻いて逃げる用にこれをやるからな。危ない時はこれ使って逃げろよ』って言われて押し付けられたんで、家宝もクソも無いのー」

「へえ……?」


 分からないなりに相槌を打つ船頭に、けらけらと丞幻は笑う。


「まあ、独り立ちの餞別ってとこかね。それか別名、顔見せに来い煙管」


 怪異の瘴気も探せるし、文字通り煙に巻く事もできる便利な道具なのだが、使う度に込められた力は少しずつ消えていく。消えた力を補充するには、父に力を込めてもらうしかない。

 暗に、たまには実家に顔を出せ、という意味が込められているのだ。


「ワシ、もう二十八歳なんだけどねえ。そんなに心配なのかしらん」


 船体にもたれて空を見上げる。青空に子連れの鳥が飛んでいるのが見えて、思わず口元に苦笑いが浮かんだ。


 〇 ● 〇


 ちなみにひねもす亭に帰った後、「お昼は!」とシロとアオに叫ばれ、矢凪に半眼で睨まれ、もう一度外に出なければいけなくなった丞幻であった。

怪異名:藻之子ものこ

危険度:乙

概要:

全身濡れそぼった、緑髪の男童姿をした怪異。人通りの多い所ならどこにでも出現するが、墨渡の周辺によく現れる。三十年ほど前から現れる由来不明の怪異。

緑か、それに近い髪色の男性の前に現れて「おとさん」と呼びかける。

この怪異に触れられた者は、その場で大量の水を吐き戻し死亡する。吐いた水は生臭さの漂う海水であり、時には腐った魚や貝なども吐くという。

出現場所を絞れず、かつて退治の為に奉行所が仕掛けた囮に反応せず別場所に出現し、犠牲者を出した為に危険度を「乙」とする。


『貴墨怪異覚書』より抜粋。

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