十五
〇 ● 〇
ひたひた……ひたひた……ひたひた……ひたひた……。
かがり火の奥に蟠る、濃厚な闇の中から白い人影が姿を現す。
まとう襤褸、生白い肌、骨と皮ばかりの痩せこけた身体、場にそぐわない神々しさすら感じる辰雪瞳女の神面。
数百、数千……まだまだ増えていく。頭の白い老爺、腰の曲がった老婆、背丈の小さい子ども。男性や女性もちらほら見えるが、向かってくる人影のほとんどは老人、子どものようだ。
結界のすぐ傍に立つ、小さいシロとアオが、ぽんぽんと跳ねてそれらを指さす。
真白達がなにか術でも使っているのか、二体の声は結界をすり抜け耳に届いた。甲高い声につられて小雪達が出てこない所を見ると、丞幻と矢凪にだけ聞こえているようだ。
「丞幻、矢凪、あれ、全部ウロヤミ様だ! 年増達が、向こうでがんばって押さえてるけど、こっちにもいっぱい来るからな!」
「あんね! オレとね、シロのね、かりゃだね、かじゃしなのね! 真白とね、おっきいオレがね、ちかりゃいれちゃからね! けかいににゃるね!!」
顔を上げる。無数の人影の奥で、真白と蒼一郎がそれらを薙ぎ払っているのが、かろうじて見えた。
内臓が千切れそうな痛みに脂汗を浮かべながら、丞幻は笑顔を形作る。心配そうに見上げてくるシロ達に、頷いた。
「うんうん、真白ちゃんと蒼一郎ちゃんが、シロちゃん達の身体に使った、簪に力を込めてくれたのね。それが、結界になってくれるのね。分かったわー、じゃあお願いね」
「う!」
「まかせろ。全く、本当にしょうがない年増だなあ」
ふふん、と胸を張った二体の身体が、空気にゆらりと溶けた。
小さいシロ達がいた場所に、銀の簪が二本刺さっている。そこから真白と蒼一郎の瘴気が噴き上がり、為成の結界を包み込むように広がった。
雲霞の如く押し寄せてくるそれらを前に、傍らの矢凪が拳を構える。
「よしやるか」
「一体だけならともかく、あんな大勢、相手できるわけないでしょ! 飲み込まれて、すぐ終わりよ!」
「分かってらぁ」
冗談だ、と矢凪は鼻を鳴らして構えを解いた。いや絶対、半分は本気だった。
ひたひた……ひたひた……ひたひた……ひたひた……。
一様に同じ面を被った連中が、同じ足取りで真っすぐこちらを見据えて迫って来る。結界のおかげで外の音が遮断されているが、聞こえていれば耳を聾するほどの足音が聞こえたろう。
丞幻は彼らを睨んだまま、背後の小さな窓を親指で指した。
「矢凪、小雪達に、窓閉めさせて。あんなん見ちゃったら、悪夢見るわ。お夕も、絶対泣くし。笹山殿の集中が、途切れたらいけないし、あれ、見ないようにさせてちょーだい」
「おう」
矢凪が身を翻す。
ひたひた……ひたひた……ひたひた……ひたひた……。
人影の群れが扇状に広がり、結界の外から家を隙無く取り囲んでいく。
丞幻が睨む前で、その両手が、すぅーっと頭上に上げられた。外周を揺蕩う真白達の瘴気に向かって、両手が振り下ろされる。
音こそないが、勢いからして中々の速度で両手が叩きつけられる。その瞬間、瘴気が雲丹の棘のように尖り、群れる人影を串刺しにした。
串刺しになった箇所から、おからのようにぼろぼろと身体が崩れて欠片が散らばる。それを踏みしめて、奥の人影が前に出た。また両手をすぅーっと振り上げ、叩きつけ、瘴気が尖り串刺しにする。
壊れ崩れていく己を踏みしめて、大勢のウロヤミ様が結界を破ろうと、両手を振り上げ、振り下ろし続ける。
操られた人形のように、淡々とした動きを繰り返す様が不気味で、流石に背筋がひんやりと冷えた。
「おい。窓は閉めさせた。為成の奴は、もうちょいかかりそうらしい。あの助平爺にゃ、一応それとなく伝えといたぜ」
「ありがと。孝右衛門殿なら、上手い事お夕達を、宥めててくれるわ」
戻ってきた矢凪が、閉まった窓をちらと顧みる。
「どしたの」
「……雪の奴。多分、なんかあったって気づいてるみてえだ」
氷色の瞳に真剣な色を宿した小雪は、「無理はしないでね」とだけ言って窓を閉めたのだという。
渋面を作った矢凪は、腕を組んでむっつりと息を吐いた。
「あら、複雑そーな顏しちゃって。まー、小雪だものね。そら勘づくわよ」
花魁として叩き込まれた教養と察しの良さ、それから愛しい人を思う心によるものだろう。小雪の心配は分かるが、馬鹿正直に今の外の状態を伝えるわけにはいかない。
これ以上、彼女達に怖い思いをさせたくないのだ。
「で、もつのかこれ」
「無理」
丞幻は即答した。
ウロヤミ様が手を叩きつける度に、少しずつ瘴気が散らされている。
「矢凪。さっきワシの髪、地面に置いたでしょ。あれに霊力、流して。流し方、分かるでしょ」
「おう」
頷く矢凪の額に、汗の玉がぽつぽつと浮かんでいる。丞幻は言い添えた。
「言っとくけどお前、霊力空っぽになるまで、流さないでね。お前が動けなくなるのは、困んのよ」
「うるせえ、んな事ぁ分かってらぁ」
霊力を使えば体力も気力も消耗し、疲労する。髪の檻を破る為に、矢凪は霊力を何度もぶつけていた。加減無しにやっていたようだから、相当消耗しているだろう。
地面に置かれた髪の輪の前に片膝を付き、矢凪が両手をかざした。眼前のウロヤミ様から微妙に目線を外しているのを見て、丞幻は喉に込み上げてきた笑声を、全力で噛み殺した。
今噴き出したら、絶対殴られる。
そういえば、同じ姿のものが一つ所に密集しているの嫌いだったわね、あいつ。
「さて、これで最後、かしらねー」
羅宇に彫り込まれた文字を指でなぞって、丞幻は大きく息を吐いた。
父から渡された当初、羅宇にみっちりと刻まれていた文字は今や、吸い口のすぐ下をぐるりと二周する程度しか残っていない。煙管に込められた霊力を使えば使うほど、羅宇の文字は消えていく。
「まあでも、使わない理由は、無いしねえ」
惜しむようにもう一度、指先でなぞって丞幻は吸い口をくわえた。先ほど噛み裂いた舌をもう一度噛む。鈍い痛みと共に溢れた血を、吸った息ごと噴き出した。
火皿から血色の煙がぶわりと巻き上がった。煙が立ち上るごとに、羅宇を巡る文字が一つずつ消えていく。
煙が結界と混ざり合って溶け消え、家とその周囲を覆う半円形のそれが、うっすらと赤みを帯びた。矢凪が霊力を注ぎ込んだのと相まって、先ほどよりも結界の強度が増したのを感じる。
同時に、外周を覆っていた真白達の瘴気が霧散した。音も無く、動きも全く変わらないままだが、数多に分かれたウロヤミ様が笑っている気配を、丞幻ははっきりと感じた。
矢凪も感じたのか、殊更不快そうに眉を寄せる。
「笑ってやがんな、あいつら」
「そうねー。ほんっと、やな感じ。性格、悪いったら」
なんの模様も無くなった煙管を懐に仕舞い、代わりに帯に挟んだ十手を握る。慣れない重みに眉を寄せつ、丞幻はしっかと前を見据えた。
振り上げ、振り下ろす。崩れる。振り上げ、振り下ろす。崩れる。振り上げ、振り下ろす。崩れる。振り上げ、振り下ろす。崩れる。
淡々と、淡々と。淡々と。淡々と。
出来の悪い絡繰り人形のように、群がるウロヤミ様は同じ動きを延々繰り返していた。
両手を振り上げ、結界に向けて振り下ろし、弾かれてぼろぼろと崩れる。そしてまた後ろから新たなウロヤミ様の群れが進み出てきて、同じ動きを繰り返す。
数多の人型に分裂した分、一体一体の力はそこらの怪異程度しかないのだろう。だが、とにかく数が多い。
気が狂いそうな光景に、丞幻は意識して深く呼吸をした。きりきりと痛む腹を片手で押さえながら、周囲にゆっくりと視線を巡らせる。
「ああー……やだやだ。これ、下手すれば上から降ってくるわよ。普通の雨なら、好きなんだけどね、ワシ」
頭の天辺にある毛穴から、何かが引っこ抜かれるようにぞわぞわする。丞幻は目線を上げて、矢凪のように眉間に深く皺を刻んだ。
いつの間にか、頭上もウロヤミ様の集団に覆われていた。肩や頭を踏み台にしたそれらが、結界の上部に取りつき、年の瀬市のように押し合い圧し合いしている。
どこを見渡しても、もう白い面と細い手足しか見えない。その奥にいる真白と蒼一郎がどうなっているのかも、分からない。
面の犇めく空を見上げて、矢凪が何十回目かの舌打ちをした。
「……為成の野郎、まだか」
みし、みし、と結界の軋む音が響く。
手のひらを袴に擦り付けて汗を拭き、十手を握り直しながら丞幻は引きつった笑みを浮かべた。不安と恐怖が餅のように、べったりと身体に張り付いて剥がれない。
「そうねー……」
時間の感覚が曖昧になっている。もう四半時経ったような気もするし、まだ数瞬しか経っていないような気もする。
ちら、と家に視線を向ける。為成の霊力が、外からでも分かるくらいに練り上げられて高まっている。屋根上の空気が、陽炎のように歪んで見えた。
ほぅ……と丞幻の口から、安堵のため息が漏れた。
良かった。間に合いそうだ。
「だいじょーぶ。あれなら、あと少しで出口が――」
繋がりそう、と続けようとして「つ」の形に口を作ったまま、丞幻はその動きを止めた。
あれほど結界に群がっていたウロヤミ様が、いなくなっていた。
いや、違う。真正面にいた。
棒の如き細い身体に、長い髪。赤い唇にほんのりと笑みを含んだように見える神面。
最初に見えた時のように、ウロヤミ様は一体に戻っていた。
矢凪がウロヤミ様に向けて地を蹴る。丞幻が戸を守る場所に位置取る前に――。
ぎゅうぅ……っ、と握り込んだ両拳が、思い切り結界壁に叩きつけられた。複数の陶器が一気に割れるような音がした。結界が粉微塵に叩き壊される。
「うぉわっ!?」
「っぐ!」
拳が振り下ろされた勢いに合わせ、瘴気が烈風となって丞幻と矢凪の身体を弾き飛ばした。
小石のように、壁に二人まとめて叩きつけられる。薄い木の壁が、二人の体重を支えたのはほんの一瞬。勢いを殺しきれず、壁が音を立てて砕けた。二人絡まり合うようにして、土間に倒れ込む。悲鳴が響いた。
矢凪の身体に押し潰され、丞幻の肺から空気が押し出された。息が苦鳴となって喉奥から飛び出る。
痛みをこらえ、顔だけを上げた。歪む視界に、ウロヤミ様がまた数多の人影に分かれ、こちらに向かって迫ってくる。豪雨のような足音が一気に丞幻達を取り囲んだ。
「旦那様、なに……っ」
小雪が視線を上げて、息を呑んだ。夕吉が甲高い悲鳴を上げる。
散らばる壁の破片を踏み越え、ウロヤミ様が家に侵入してくる。長い首が、ぐにぐにと揺れた。
「あ、は、は、は、は、は!」「き、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ!」
心底楽しそうな笑声が、脳内でがんがんと木霊した。
「糞がっ!」
矢凪が舌打ちし、丞幻の上から転がり下りる。
体勢を立て直すが早いか、長い足を存分に伸ばし先頭を三人転ばせる。しかし数が多い。まだ来る。丞幻も飛び起き、横から手を伸ばしてきたウロヤミ様の腕に十手を叩きつけ、よろけた所を蹴り飛ばす。
「あ、は、は、は、は、は!」「き、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ!」
それらを踏み越えて、まだまだ人影が入ってくる。長い首をがくがく揺らし、ようやく獲物を捕らえることができる喜びに打ち震えながら。
「旦那様達に、近づくなあああぁぁ!!」
小雪の怒号が笑声を引き裂いた。
凍てつく冷気が背を叩く。丞幻達の横をすり抜け、凄まじい速度で飛んだ氷の礫が、迫っていた人影達を弾き飛ばした。
「ウロヤミ様だろうと、なんだろうと、旦那様を傷つける奴は許さないよ!!」
口元を覆っている為、くぐもっているがその声音は怒りに染め上げられている。
「いい加減にしろ、この阿呆が!」
「あーもう、オマエらしつっけーぞ!」
そこに生まれた間隙に、真白と蒼一郎が滑り込んだ。丞幻達の前に立ち、迫るウロヤミ様の群れを弾き飛ばし、噛み砕く。
「笹山殿!!」
土間に叩きつけられた時に、切れた額から流れた血を拳で乱暴に拭い、丞幻は十手を構えながら振り向いた。
床全体が黒く染まって見えるほど、びっしりと文字が書き込まれている。その中心に正座し、両手を床に着いた為成はこちらに背を向け、頭を垂れていた。
その口から流れる呪言を聞いて、丞幻は口元を手で覆い、叫んだ。
「全員、笹山殿んとこに集まって!! あと三つ数えりゃ、出口が繋がって現世に帰れるわよ!!」




