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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
禍神:ウロヤミ様

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137/194

十五

〇 ● 〇


 ひたひた……ひたひた……ひたひた……ひたひた……。

 かがり火の奥に蟠る、濃厚な闇の中から白い人影が姿を現す。

 まとう襤褸、生白い肌、骨と皮ばかりの痩せこけた身体、場にそぐわない神々しさすら感じる辰雪瞳女の神面。

 数百、数千……まだまだ増えていく。頭の白い老爺、腰の曲がった老婆、背丈の小さい子ども。男性や女性もちらほら見えるが、向かってくる人影のほとんどは老人、子どものようだ。

 結界のすぐ傍に立つ、小さいシロとアオが、ぽんぽんと跳ねてそれらを指さす。

 真白達がなにか術でも使っているのか、二体の声は結界をすり抜け耳に届いた。甲高い声につられて小雪達が出てこない所を見ると、丞幻と矢凪にだけ聞こえているようだ。


「丞幻、矢凪、あれ、全部ウロヤミ様だ! 年増達が、向こうでがんばって押さえてるけど、こっちにもいっぱい来るからな!」

「あんね! オレとね、シロのね、かりゃだね、()()()()なのね! 真白とね、おっきいオレがね、ちかりゃいれちゃからね! けかいににゃるね!!」


 顔を上げる。無数の人影の奥で、真白と蒼一郎がそれらを薙ぎ払っているのが、かろうじて見えた。

 内臓が千切れそうな痛みに脂汗を浮かべながら、丞幻は笑顔を形作る。心配そうに見上げてくるシロ達に、頷いた。


「うんうん、真白ちゃんと蒼一郎ちゃんが、シロちゃん達の身体に使った、簪に力を込めてくれたのね。それが、結界になってくれるのね。分かったわー、じゃあお願いね」

「う!」

「まかせろ。全く、本当にしょうがない年増だなあ」


 ふふん、と胸を張った二体の身体が、空気にゆらりと溶けた。

 小さいシロ達がいた場所に、銀の簪が二本刺さっている。そこから真白と蒼一郎の瘴気が噴き上がり、為成の結界を包み込むように広がった。

 雲霞の如く押し寄せてくるそれらを前に、傍らの矢凪が拳を構える。


「よしやるか」

「一体だけならともかく、あんな大勢、相手できるわけないでしょ! 飲み込まれて、すぐ終わりよ!」

「分かってらぁ」


 冗談だ、と矢凪は鼻を鳴らして構えを解いた。いや絶対、半分は本気だった。

 ひたひた……ひたひた……ひたひた……ひたひた……。

 一様に同じ面を被った連中が、同じ足取りで真っすぐこちらを見据えて迫って来る。結界のおかげで外の音が遮断されているが、聞こえていれば耳を(ろう)するほどの足音が聞こえたろう。

 丞幻は彼らを睨んだまま、背後の小さな窓を親指で指した。


「矢凪、小雪達に、窓閉めさせて。あんなん見ちゃったら、悪夢見るわ。お夕も、絶対泣くし。笹山殿の集中が、途切れたらいけないし、あれ、見ないようにさせてちょーだい」

「おう」


 矢凪が身を翻す。

 ひたひた……ひたひた……ひたひた……ひたひた……。

 人影の群れが扇状に広がり、結界の外から家を隙無く取り囲んでいく。

 丞幻が睨む前で、その両手が、すぅーっと頭上に上げられた。外周を揺蕩う真白達の瘴気に向かって、両手が振り下ろされる。

 音こそないが、勢いからして中々の速度で両手が叩きつけられる。その瞬間、瘴気が雲丹(うに)の棘のように尖り、群れる人影を串刺しにした。

 串刺しになった箇所から、おからのようにぼろぼろと身体が崩れて欠片が散らばる。それを踏みしめて、奥の人影が前に出た。また両手をすぅーっと振り上げ、叩きつけ、瘴気が尖り串刺しにする。

 壊れ崩れていく己を踏みしめて、大勢のウロヤミ様が結界を破ろうと、両手を振り上げ、振り下ろし続ける。

 操られた人形のように、淡々とした動きを繰り返す様が不気味で、流石に背筋がひんやりと冷えた。


「おい。窓は閉めさせた。為成の奴は、もうちょいかかりそうらしい。あの助平爺にゃ、一応それとなく伝えといたぜ」

「ありがと。孝右衛門殿なら、上手い事お夕達を、宥めててくれるわ」


 戻ってきた矢凪が、閉まった窓をちらと顧みる。


「どしたの」

「……雪の奴。多分、なんかあったって気づいてるみてえだ」


 氷色の瞳に真剣な色を宿した小雪は、「無理はしないでね」とだけ言って窓を閉めたのだという。

 渋面を作った矢凪は、腕を組んでむっつりと息を吐いた。


「あら、複雑そーな顏しちゃって。まー、小雪だものね。そら勘づくわよ」


 花魁として叩き込まれた教養と察しの良さ、それから愛しい人を思う心によるものだろう。小雪の心配は分かるが、馬鹿正直に今の外の状態を伝えるわけにはいかない。

 これ以上、彼女達に怖い思いをさせたくないのだ。


「で、もつのかこれ」

「無理」


 丞幻は即答した。

 ウロヤミ様が手を叩きつける度に、少しずつ瘴気が散らされている。


「矢凪。さっきワシの髪、地面に置いたでしょ。あれに霊力、流して。流し方、分かるでしょ」

「おう」


 頷く矢凪の額に、汗の玉がぽつぽつと浮かんでいる。丞幻は言い添えた。


「言っとくけどお前、霊力空っぽになるまで、流さないでね。お前が動けなくなるのは、困んのよ」

「うるせえ、んな事ぁ分かってらぁ」


 霊力を使えば体力も気力も消耗し、疲労する。髪の檻を破る為に、矢凪は霊力を何度もぶつけていた。加減無しにやっていたようだから、相当消耗しているだろう。

 地面に置かれた髪の輪の前に片膝を付き、矢凪が両手をかざした。眼前のウロヤミ様から微妙に目線を外しているのを見て、丞幻は喉に込み上げてきた笑声を、全力で噛み殺した。

 今噴き出したら、絶対殴られる。

 そういえば、同じ姿のものが一つ所に密集しているの嫌いだったわね、あいつ。


「さて、これで最後、かしらねー」


 羅宇に彫り込まれた文字を指でなぞって、丞幻は大きく息を吐いた。

 父から渡された当初、羅宇にみっちりと刻まれていた文字は今や、吸い口のすぐ下をぐるりと二周する程度しか残っていない。煙管に込められた霊力を使えば使うほど、羅宇の文字は消えていく。


「まあでも、使わない理由は、無いしねえ」


 惜しむようにもう一度、指先でなぞって丞幻は吸い口をくわえた。先ほど噛み裂いた舌をもう一度噛む。鈍い痛みと共に溢れた血を、吸った息ごと噴き出した。

 火皿から血色の煙がぶわりと巻き上がった。煙が立ち上るごとに、羅宇を巡る文字が一つずつ消えていく。

 煙が結界と混ざり合って溶け消え、家とその周囲を覆う半円形のそれが、うっすらと赤みを帯びた。矢凪が霊力を注ぎ込んだのと相まって、先ほどよりも結界の強度が増したのを感じる。

 同時に、外周を覆っていた真白達の瘴気が霧散した。音も無く、動きも全く変わらないままだが、数多に分かれたウロヤミ様が笑っている気配を、丞幻ははっきりと感じた。

 矢凪も感じたのか、殊更(ことさら)不快そうに眉を寄せる。


「笑ってやがんな、あいつら」

「そうねー。ほんっと、やな感じ。性格、悪いったら」


 なんの模様も無くなった煙管を懐に仕舞い、代わりに帯に挟んだ十手を握る。慣れない重みに眉を寄せつ、丞幻はしっかと前を見据えた。



 振り上げ、振り下ろす。崩れる。振り上げ、振り下ろす。崩れる。振り上げ、振り下ろす。崩れる。振り上げ、振り下ろす。崩れる。

 淡々と、淡々と。淡々と。淡々と。

 出来の悪い絡繰り人形のように、群がるウロヤミ様は同じ動きを延々繰り返していた。

 両手を振り上げ、結界に向けて振り下ろし、弾かれてぼろぼろと崩れる。そしてまた後ろから新たなウロヤミ様の群れが進み出てきて、同じ動きを繰り返す。

 数多の人型に分裂した分、一体一体の力はそこらの怪異程度しかないのだろう。だが、とにかく数が多い。

 気が狂いそうな光景に、丞幻は意識して深く呼吸をした。きりきりと痛む腹を片手で押さえながら、周囲にゆっくりと視線を巡らせる。


「ああー……やだやだ。これ、下手すれば上から降ってくるわよ。普通の雨なら、好きなんだけどね、ワシ」


 頭の天辺にある毛穴から、何かが引っこ抜かれるようにぞわぞわする。丞幻は目線を上げて、矢凪のように眉間に深く皺を刻んだ。

 いつの間にか、頭上もウロヤミ様の集団に覆われていた。肩や頭を踏み台にしたそれらが、結界の上部に取りつき、年の瀬市のように押し合い圧し合いしている。

 どこを見渡しても、もう白い面と細い手足しか見えない。その奥にいる真白と蒼一郎がどうなっているのかも、分からない。

 面の犇めく空を見上げて、矢凪が何十回目かの舌打ちをした。


「……為成の野郎、まだか」


 みし、みし、と結界の軋む音が響く。

 手のひらを袴に擦り付けて汗を拭き、十手を握り直しながら丞幻は引きつった笑みを浮かべた。不安と恐怖が餅のように、べったりと身体に張り付いて剥がれない。


「そうねー……」


 時間の感覚が曖昧になっている。もう四半時経ったような気もするし、まだ数瞬しか経っていないような気もする。

 ちら、と家に視線を向ける。為成の霊力が、外からでも分かるくらいに練り上げられて高まっている。屋根上の空気が、陽炎のように歪んで見えた。

 ほぅ……と丞幻の口から、安堵のため息が漏れた。

 良かった。間に合いそうだ。


「だいじょーぶ。あれなら、あと少しで出口が――」


 繋がりそう、と続けようとして「つ」の形に口を作ったまま、丞幻はその動きを止めた。

 あれほど結界に群がっていたウロヤミ様が、いなくなっていた。

 いや、違う。真正面にいた。

 棒の如き細い身体に、長い髪。赤い唇にほんのりと笑みを含んだように見える神面。

 最初に(まみ)えた時のように、ウロヤミ様は一体に戻っていた。

 矢凪がウロヤミ様に向けて地を蹴る。丞幻が戸を守る場所に位置取る前に――。

 ぎゅうぅ……っ、と握り込んだ両拳が、思い切り結界壁に叩きつけられた。複数の陶器が一気に割れるような音がした。結界が粉微塵に叩き壊される。


「うぉわっ!?」

「っぐ!」


 拳が振り下ろされた勢いに合わせ、瘴気が烈風となって丞幻と矢凪の身体を弾き飛ばした。

 小石のように、壁に二人まとめて叩きつけられる。薄い木の壁が、二人の体重を支えたのはほんの一瞬。勢いを殺しきれず、壁が音を立てて砕けた。二人絡まり合うようにして、土間に倒れ込む。悲鳴が響いた。

 矢凪の身体に押し潰され、丞幻の肺から空気が押し出された。息が苦鳴となって喉奥から飛び出る。

 痛みをこらえ、顔だけを上げた。歪む視界に、ウロヤミ様がまた数多の人影に分かれ、こちらに向かって迫ってくる。豪雨のような足音が一気に丞幻達を取り囲んだ。


「旦那様、なに……っ」


 小雪が視線を上げて、息を呑んだ。夕吉が甲高い悲鳴を上げる。

 散らばる壁の破片を踏み越え、ウロヤミ様が家に侵入してくる。長い首が、ぐにぐにと揺れた。


「あ、は、は、は、は、は!」「き、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ!」


 心底楽しそうな笑声が、脳内でがんがんと木霊した。


「糞がっ!」


 矢凪が舌打ちし、丞幻の上から転がり下りる。

 体勢を立て直すが早いか、長い足を存分に伸ばし先頭を三人転ばせる。しかし数が多い。まだ来る。丞幻も飛び起き、横から手を伸ばしてきたウロヤミ様の腕に十手を叩きつけ、よろけた所を蹴り飛ばす。


「あ、は、は、は、は、は!」「き、ひ、ひ、ひ、ひ、ひ!」


 それらを踏み越えて、まだまだ人影が入ってくる。長い首をがくがく揺らし、ようやく獲物を捕らえることができる喜びに打ち震えながら。


「旦那様達に、近づくなあああぁぁ!!」


 小雪の怒号が笑声を引き裂いた。

 凍てつく冷気が背を叩く。丞幻達の横をすり抜け、凄まじい速度で飛んだ氷の礫が、迫っていた人影達を弾き飛ばした。


「ウロヤミ様だろうと、なんだろうと、旦那様を傷つける奴は許さないよ!!」


 口元を覆っている為、くぐもっているがその声音は怒りに染め上げられている。


「いい加減にしろ、この阿呆が!」

「あーもう、オマエらしつっけーぞ!」


 そこに生まれた間隙に、真白と蒼一郎が滑り込んだ。丞幻達の前に立ち、迫るウロヤミ様の群れを弾き飛ばし、噛み砕く。


「笹山殿!!」


 土間に叩きつけられた時に、切れた額から流れた血を拳で乱暴に拭い、丞幻は十手を構えながら振り向いた。

 床全体が黒く染まって見えるほど、びっしりと文字が書き込まれている。その中心に正座し、両手を床に着いた為成はこちらに背を向け、頭を垂れていた。

 その口から流れる呪言を聞いて、丞幻は口元を手で覆い、叫んだ。


「全員、笹山殿んとこに集まって!! あと三つ数えりゃ、出口が繋がって現世に帰れるわよ!!」

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