十三
帰れる、という言葉に夕吉が反応した。
肩をぴくりと動かして、そろそろと顔を孝右衛門の胸から顔を上げる。泣きすぎてすっかり真っ赤になった目が忙しなく動いて、為成を捉えた。
「……ほんとに……ほんとに、帰れるのかい……?」
「はい。さっきから頼りない所ばかり見せてしまってる、へぼ同心じゃあ心もとないでしょうが、もう少しだけご容赦ください」
「……」
孝右衛門の背にしっかり両手を回したまま、夕吉はおずおずと頷いた。先ほど思い切り罵ってしまった手前、若干気まずそうな表情を浮かべている。
為成はそれを気にしていないと言わんばかりに、夕吉を元気づけるような男臭い笑みを向けた。それから、丞幻に顔を向けて手を突き出す。
「丞幻殿、ちょっと矢立を貸して欲しいんだが、いいか?」
「いいわよー。門を書くの?」
「お。流石は丞幻殿。当たりだ。俺は丞幻殿にみたいに、墨も筆もいつも持ち歩いてるわけじゃないからなあ」
「はいはい、どーぞ」
ウロヤミ様に身体中引っ掴まれて引きずられた時、幸いにも矢立は落とさなかった。蛙と鯉の根付が揺れる矢立を取り出し、渡す。ちなみにこの矢立、かつて留まり小路で為成に初代矢立を壊された後、弁償代だと押し付けられた金で買った二代目である。
礼を言って、為成がそれを受け取った。
矢立をしっかりと握り、真剣な顔で、ぐるりとその場の面々を見渡す。
「今から、現世へ帰る為の準備を始めます。まずはそこの床に帰還の為の方陣を書き、門を作ります」
孝右衛門と夕吉の座る板張りの床を、為成が指した。
異界にあるせいか、床に埃はなく雨漏りや虫食いも無い。建てたばかりのような、まっさらとした綺麗なものだ。ここに直接呪文を書き込んでも、掠れたり途切れたりすることはないだろう。
丞幻がそう思っている内にも、説明は続く。
現世にいる異怪同心達が現在、向こう側でも門を作っている。こちらに入口、向こうに出口を作る事で道を繋ぎ、脱出する。
大勢が一気に異界から脱出し、更に遠い貴墨まで戻る為に、術は複雑なものとなる。床に書き込む呪文も、その分多い。
「なるたけ早く終わらせますが、少しだけ俺に時間をください」
「それは構いませんが笹の字。どの程度かかるのですかな」
孝右衛門の質問に、異怪奉行所の黒羽織を脱ぎ、たすきを掛けながら、為成は答えた。
「四半時(約30分)足らずです」
長いとも、短いとも、誰も口に出さなかった。
ただ、帰れるまでの時間が明確に分かった事で、また少し空気が緩んだ。
床に片膝を付き、墨に筆を付けている為成の傍にしゃがみ込み、丞幻はひそりと囁く。
「ま、笹山殿が動けない間は任せてちょーだい。結界の強化と時間稼ぎくらいはできるから」
「すまないなあ、丞幻殿。流石に門を書きながら守るのは、俺の力では無理だ」
方陣を書くのと、ウロヤミ様が襲ってきた時に迎撃するのと、両方同時にやろうとすれば、一方がどうしても疎かになる。相当に腕の立つ術者――例えば妹である蓮丞――であれば可能なのだが。
すまなそうに眉を下げる為成を、いつの間にか傍に来た矢凪が腕を組んで睨み下ろした。
「てめえ、後で酒奢れよ」
「あ、じゃあ今度開催の男子会、笹山殿の奢りって事で。はい決定」
「そりゃいい。おい丞幻、美味くて高い店にしろよ。奢りなら遠慮するこたねえしな」
「そうねー、そうしましょ。蛙田沢の白梅楼なんかいいわねー。あそこの梅酒と梅酢、めっちゃくちゃ美味しかったのよ」
きゃっきゃうふふと、為成に口を挟ませず矢凪と話を進めた後で、丞幻は「じゃ」と口を開いた。
「白梅楼で奢ってもらう為にも、笹山殿もワシらも頑張んないとねー。というわけで、結界強化してくるから十手貸して」
十六夜に押し付けられた退魔刀は、落としてしまって手元に無い。煙管にはもう、霊力がほとんど残っていない。後一度、煙で結界を張れば完全に霊力を失って、ただの煙管となってしまうだろう。
そうなれば矢凪はともかく、丞幻は身を守る術が無くなる。
「本当はほいほい渡しちゃいけないものなんだが……まあ緊急事態だしな。それから羽織も持ってってくれ。祝詞が縫い込まれてるから、戸口前に広げておけば簡易的だが結界になる」
渡された十手を受け取って、立ち上がる。軽く振ると、赤みを帯びた銀色の棒芯が、呪符の明かりでぬらりと光った。
為成が真剣な眼差しで丞幻達を見上げた。
「丞幻殿、矢凪、本当にすまない。気休めだが、守りの術をかけておくから」
柏手を打った為成が、低く呪言を唱える。丞幻と矢凪の周囲を微風が取り巻き、すぐに収まった。
「孝右衛門殿、申し訳ないんだけどまた、お夕と小雪を頼めるかしらん?」
為成の邪魔にならないよう、夕吉を連れて框の方に移動していた孝右衛門は、丞幻を見上げて静かに一つ頷いた。
「安心してくだされ、義兄上殿。この身に代えてもお夕達には怪異の髪一筋触れさせないと約束しましょうぞ」
「いやこの身に代えられたら困るのよ」
孝右衛門の片腕をしっかりと抱き込んだ夕吉が、そのやり取りに顔を上げた。
どこに行くの、と言いたげな夕焼け色の瞳を覗き込んで、丞幻はにっこりといつも通りに笑ってみせる。
「お夕、ちょっと待っててね。すぐ戻ってくるから。だいじょーぶ、もうワシ、怪我なんてしないから」
「……げん兄は、すぐ嘘つくから、信用なんないよ」
「あら手厳しい。だいじょぶだいじょぶ、なんたってここから帰ったら、次はお前に地下牢にぶち込まれないといけないんだから。ちゃんと帰ってくるわよ。って、あら待って、ワシってば閉じ込められてばっかね? ああ暗くて狭い所にまた閉じ込められるなんて、可哀想なワシ……ううっ、哀れなこの身を助けてくれる強くて恰好良くて勇ましいお姫様はいないのね……この世は辛いわ……」
ふざけたように喋り倒し、とどめに着物の袖を噛んで泣き真似をしてみせると、ようやく夕吉の口にほんのりとした笑みが浮かんだ。
よしよし、少しは元気になったかしらん。
「矢凪ー、行くわよー」
「おう。……じゃあ雪、お前もここにいろ。すぐ戻る」
矢凪が土間に片膝をつき、框に腰を下ろしていた小雪に声をかけた。行儀良く腿の上に重ねた両手を置いていた小雪は、一つ瞬きをした。
「旦那様、ちゃんと怪我しないで戻って来る?」
嘘を許さない強い視線を、矢凪は真っ向から見返す。
「ったり前だろ。それとも雪。お前、俺があんなのに負けっと思ってんのか?」
その言葉に、心配、信頼、恐怖、全てがない交ぜになったような笑みを浮かべて、それでも小雪は手を振った。
「ううん、それならいいの。行ってらっしゃい、旦那様。気を付けてね」
それから、丞幻にも視線を向ける。
「間夫もね」
おざなりのように告げられた言葉に、丞幻は苦笑してひらひらと手を振った。
「はいはい、怪我しないように気を付けて行ってくるわよー」
戸の敷居には、結界の核である五寸釘が打ち込まれている。これを外す事は結界を解く事と同じなので、丞幻達は部屋の奥にあったもう一つの戸から外へ出た。
「戸が二つあって良かったわー。……しっかし、あんなに狭い小さな家なのに、よく二つあったわねえ」
「畑用だろ。ほら」
「ああ、成程ね」
出る前に矢凪に頼んでかけてもらった暗視術のおかげで、先ほどとは違い昼間のように周囲を見渡せる。
目を凝らせば闇の中、卵の殻を被せたような半円の結界がしっかりと張られているのが分かった。家を出て、二歩も前へ歩けば結界の縁に着く。
縁のすぐ外には、猫の額ほどの畑があった。整えられた畝には何も植えられておらず、寂しげだ。裏口のすぐ隣には鍬が立てかけられている。
成程、表戸から裏に回るのは面倒だから、裏口を作ったのね。
納得し、丞幻は家の横手を回って正面に出た。矢凪も後から付いてくる。
結界に遮断されて音も声も届かないものの、怪異三体の戦いは激しさを増していた。先と変わらず、どちらが優勢ということもない。
真白が瓢箪を鎖分銅のように振り回し、ウロヤミ様へ叩きつける。勢いのままに吹き飛ばされながら、ウロヤミ様が髪と手を長く伸ばして真白を捕らえようとする。それを横手から飛び出してきた蒼一郎が噛み砕き、吼える。咆哮と共に瘴気が矢のようにウロヤミ様に突き刺さり、一歩よろめいたそこにすかさず、真白がまた瓢箪をぶち当てた。
ふむ、と丞幻は口髭を撫でつける。
「今んとこは、拮抗状態って感じかしらね」
「だな。……しかし、あいつら強ぇな」
うずうずとした様子の矢凪を、じろりとねめつける。
「戦うなら後でにしてよね」
「おう。まずはてめえからな」
「なんでそうなんのよ」
呆れると、矢凪はにやりと唇の端を吊り上げた。
「てめえと戦った事、そういやねぇんだよな。前に盗人とやり合った時、なんか武術やってる動きしてたし、それなりには強ぇだろ、なあー」
「はいはい、こっから無事に帰ったら一回くらいは組手してあげるわよ」
適当にあしらい、丞幻は持ってきた異怪奉行所の羽織を広げた。言われた通り、戸口の前にかけようとして、どこにも引っかかりが無い事に気づく。
「おい、これ」
どうしようかと思っていると、横から矢凪が鍬を突き出してきた。裏手にあったのを持って来てくれたらしい。
礼を言って受け取り、鍬の柄に衿を引っ掛けて戸口に立てかける。これで良し。
唐突に胃の腑がぎゅうと痛んで、丞幻は顔をしかめた。ぎゅうぎゅう、ぎちぎちと、内腑を捻じられているかのような、嫌な痛みに脂汗が浮く。
痛みをこらえる為に自然と浅くなった息を、必死に深いものに変える。
ここがひねもす亭だったら、その場にうずくまり「おなかいたい」としか吐き出せない人形と化していた所だ。
「……三十路近くの、大の男の、あられもない、幼児がえりを見なくて、良かったわね、糞が」
ウロヤミ様を横目で睨んでそんな事を吐き捨て、丞幻は痛みに震える指を髪に絡ませた。矢凪がきょとりと首をかしげる。
「どうした?」
「お前、よく平気だわね、この痛いの」
「ああ」
そういや確かに腹が痛えなとうそぶいて、矢凪は腕を組んだ。
「気合だ、気合」
要するに瘦せ我慢か。
「あらそ」
そう返して、丞幻は一息に髪を引き千切った。頭皮に痛みが走ったが、もう身体中傷だらけなのだ。新しく傷が一つ二つ増えた所で問題無い。
指の間に絡まる数十本の髪を、まだ血を滲ませる傷口に擦りつけた。たちまち萌黄色が血に染まる。
矢凪がどん引きした表情を浮かべた。
「……なにしてんだ、てめえ」
「別に、おかしくなったわけじゃ、ないわよ。言ったでしょ、鉦白家の血肉は、怪異に毒だって」
鉦白家の髪と血を加え、結界を強化する。本当はもう少しあれこれ手を加えたいが、ただの栗拾いの予定だったので、ろくな呪具を持ってきていない。手元にあるのは煙管だけだ。
「これを、結界の内側に置いて……こう、大きな輪っかに、なるみたいにね。あ、髪同士は、結ばなくていいわよ。本当は結んだ方がいいけど、時間無いし。少し重なるくらいに、置いてくれればいいから。途切れさせないように、してね。ワシが、こっちからするから、お前反対側からね」
「おう」
血濡れの髪を半分渡し、二手に分かれて地面に髪を置いていく。
内腑を引き絞られるような痛みと、身体中の怪我が訴えてくる痛みに負けず、淡々と結界の内側を半周し、矢凪と合流した。
「これでいいのか?」
「いいわよ。ほら、結界、さっきより強くなってるでしょ?」
「あー?」
丸い目を細めて結界を注視した後、矢凪は分からんと言いたげに首を振る。
「とりあえずね、強くなってんの。ただ、これだけじゃ不安だし、矢凪、霊力に余裕あるなら、結界の張り方教えるから――」
その時だ。
丞幻の言葉が、二つの甲高い声に遮られた。見れば身の丈三寸|(約9センチ)ほどのアオとシロが、結界のすぐ外で大声を張り上げている。
「じょーげん! 矢凪! たーへんよ、たーへん! おっきいオレからの、ででんごよ!」
「丞幻! 年増と蒼一郎が、やらかしたぞ! こっちに、あいつが来る!」




