十一
〇 ● 〇
無数の手に飲み込まれ、髪を着物を手足を、ありとあらゆる箇所を引っ張られ、引きずられる。どこに。決まっている、ウロヤミ様の口の中にだ。
べちんっ、ばちんっ、と顔に指や手のひらが当たる。口元を覆っていた手拭が引きちぎられ、爪が目の脇を掠め皮膚を破り、音を立てて髪がむしられていく。眼窩にまで指が入ってきそうで、丞幻はしっかりと目を閉じ奥歯を噛み締めた。身体中掴まれ引っ張られ、どこが痛いかもう分からない。
力の抜けた指から退魔刀が零れ落ちた。
為成と孝右衛門の気配はあるが、二人とも同じく身動きが取れないようだ。
――さいっあく! 途中までは上手くいってたのに! 大人しく封じられてりゃいいってのに、暴れんじゃないわよもう!
胸の中で吐き捨て、踵に力を込めた。
身動き取れず、仕掛けた術を数瞬で突破されても、それは抵抗を諦める理由にならない。
十方封陣。今回は丞幻の髪で代用したが、本来なら清めた十本の針を使う縛りの術だ。対象の周囲に針を円形に突き刺す事で、発動する。この円というのが重要である。
円とは巡るもの、切れる事なく終わらないもの。
ひとたび針に霊力を通せば、それは切れる事なく円を巡り続ける。途切れぬ円をぐるぐると循環させる事で、霊力は強まり束縛を強化する。
少ない霊力でも格上の怪異を縛る事ができる術だが、ウロヤミ様をこれで完全に封じ込める事ができるとは丞幻も、為成も思っていなかった。
目的は時間稼ぎ。
難を逃れた矢凪が、霊力を叩きつけて檻を壊そうとしているのは分かっていた。
だからウロヤミ様を少しの間、縛り付けておけばこちらからも攻撃を仕掛け、檻を破る事ができる筈だったのだ。
計算違いだ。まさか、あそこまで早く封陣を破られるとは。
「ぐ、ぐ……!」
腰に力を入れ、足を踏ん張って全力抵抗しているのに、引きずられる速度は変わらない。
一瞬の隙さえ作れれば、為成が退魔術で腕を吹き飛ばせる。
袂の煙管。あれさえ引っ張り出せれば。
こちとら、お前の餌になる気は微塵も無いのよ。
目を固くつぶったまま、丞幻は前に引っ張られている腕を、なんとか引き戻そうともがいた。だが、肘も手首もがっちり掴まれていて動かせない。指先すら握られて、ぴくりとも動かない。一際強く引っ張られ、身体が前のめりになった。踵が浮く。上手く踏ん張れない。
――まず……っ!
流石にまずいと思った瞬間。髪の檻を突き破り、飛び込んできた二つの瘴気が丞幻達の左右をすり抜けた。
真っ暗な視界の中、前方で強大な瘴気が爆裂する。
「が、あ、あ、あ、あ、あ!」「ぎ、い、い、い、い、い!」
怒りを含んだ絶叫が木霊し、引っ張る力がふっと軽くなった。
その隙を逃さず、丞幻は右腕に絡む手を振り払う。袂に手を突っ込む。硬い感触。取ろうとした指が滑って煙管が逃げる。落ち着け焦るな。細い羅宇を掴む。しっかり握り込んで取り出す。持ち方なんてどうでもいい。舌を噛み裂く。口内に血が溢れる。
「――砕刃ッ!!」
隣で為成の絶叫にも似た怒号。霊力の刃が吹き荒れ、縄のように絡む腕が切断される。
丞幻は吸い口を噛み、血を混ぜた煙を思いっきり吐き出した。煙管に残っている霊力の残量など気にしていられない。
血生臭い煙が、ぶわりと周囲を取り囲む。執念深く丞幻達を掴んでいた腕が、がさがさと虫のように指を蠢かし慌てたように離れた。
目を開ける。
あるかなしかの微笑を浮かべた神面の向こうから、耳障りな声が叫んだ。
「いらないいらないいらないいらない!」「怪異は消えろいらない怪異は消えろいらない怪異は消えろいらない!」
喉元から股まで真っすぐ縦に裂けた腹の中に、丞幻達から離れた腕が吸い込まれていく。身体は棒立ちのまま、長く伸びたウロヤミ様の首だけが、感情を表すようにぐねぐねと激しく動いていた。
「そうか、そうか。いやあすまないな、禍神。俺達の為にわざわざ遊び相手まで用意してもらって恐縮だが、だいぶ脆くてなあ、あれ。つんぽろだったぞ。……だからこのまま帰ってしまうには、あまりにも、すこぉし、つまらなくてなあ」
だから今から、俺とたぁーくさん、遊んでおくれ。
嘘臭い猫撫で声と、重たく派手な風切り音。赤い瓢箪に繋がる紐が絡んだ真白の繊手が軽やかに動き、巨大なそれが軽々と回されている。
「おー、丞幻達、だいじょぶかー? あっ、ちなみにつんぽろってのはな、つんって突いたらぽろって崩れちまうって意味だぞ。ほら、丞幻の部屋にいっぱい積んでる本みたいな」
根本からぶんぶんと長い尾を振りながら、蒼一郎が片耳を震わせる。口調は朗らかだが姿勢を低くし、いつでも飛び掛かれる体勢を取っていた。
「ほっといてちょーだい、蒼一郎ちゃん。あれはワシが、一番使いやすいように積み上げてんだから」
息を整えながら軽口を叩いて、丞幻は己の場所を確認する。
檻の端にいた筈だが、中央付近にまで引きずられていた。振り返れば、自分達の踵の跡が地面に真っすぐ刻まれている。
「おい! さっさと来やがれてめえら!」
鋼のように囲っていた髪の一部に穴が開き、そこを矢凪が両手で掴んだまま顔をこちらに突き出していた。
「あんまし、もたねえぞ!」
その言葉を裏付けるように、穴の縁を掴む矢凪の両手が小刻みに震えている。穴を塞ごうと動く強い力を、全力で押さえつけているのだ。腕力で。
「いやほんっと、相変わらず馬鹿力だこと!」
「流石だ矢凪! 親友として誇らしいぞー!」
「うるっせえさっさと来いってんだよ!」
為成と二人、全力で褒め称えながら地を蹴った。身体中を走る痛みは無視。どこを怪我したかは後で確認だ。
孝右衛門はと見れば、一歩遅れて左隣を走っていた。
「孝右衛門殿、足動くー!? 良ければおんぶするわよー!」
「いえいえ、そう簡単に義兄上殿に甘える訳にはいきませんぞ。ここは一つ、義弟のできる所を見せて褒めていただかなくてはいけませんからな」
顔の前に垂れた布は下部分が斜めに引き千切られ、右頬から口元までが見えている。皺の刻まれた口元が軽やかに動いて、ふざけた事をのたまった。
更にその一歩後ろに為成が付いて、殿を務めている。
「おい、さっさと出やがれ!」
「間夫、二号、為村さん! 早く!」
「お前さん、怪我してないかい!?」
矢凪の肩越しから、小雪と夕吉が顔を出して叫ぶ。
「為村さん、お先に!」
「分かりましたぞ」
人一人通れるくらいの穴を、孝右衛門がするりと抜ける。為成が目で促してきたので、次いで丞幻が――厚い肩幅と胸板が少しつっかえたが、なんとか抜けた――穴の外へ逃げだす。
最後に為成が鰻のように抜け出てくるのと同時に、矢凪が手を離した。勢いよく穴が閉じる。
穴など無かったかのように黒々と横たわる髪の檻の向こうで、闇を裂く遠吠えが響き渡った。
階段を転げるように下り、集落の一番奥にある家へ全員で飛び込む。叩きつけるように戸を閉めた為成が、五寸釘を敷居に打ち込んだ。
「この戸は鋼の如く大樹の如く、破るは許さじ、砕くは認めず……!」
清浄な霊力が五寸釘から音も無く伸び上がり、家を覆う結界と化す。
屋内に漂う瘴気がたちまち浄化され、肌がぴりつく感覚が消えた。
次いで為成が呪符を取り出し、呪言を唱える。呪符が白く光り、屋内を照らした。一畳ほどの土間の向こうに、部屋が一つあるばかりの小さな家だ。
ウロヤミ様がすぐ傍にいる以上、この場から離れた方がいいのだがその体力が無い。
はあぁ……、と丞幻は息を大きく吐いた。框に腰を下ろし、膝に両腕を乗せて頭をがくりと落とす。
全身が痛い。腕が這い出てこようとした喉も、噛み裂いた舌もまだ痛い。
着物も袴もあちこち引き裂かれ、そこから覗いた肌には血を流す引っかき傷や指の痕がくっきりと付いていた。肉や骨に達するほど深い傷も、折れた箇所も無いのが幸いだ。伝う汗が顏に付いた傷に染みて痛い。頭に手をやれば、頭皮が破れたのか血が指に付着した。
多分、為成も孝右衛門も似たような具合だろう。
「あー……しんど……」
「おう、お疲れ」
ぽん、と矢凪に背を叩かれてねぎらわれ、丞幻は力無くへらりと笑って顔を上げる。
「まあ……」
ね、と最後の言葉が喉の奥で消えた。
鈍い音が狭い屋内に響く。丞幻のみならず、その場の視線が全て、音の原因に向いた。
「……つき……」
ぶるぶると、震える声が土間に落ちた。
夕吉だ。身体の脇に落ちた両手は握り締められ、小刻みに震えている。夕吉の眼前に立つ為成は、無言で彼女を見下ろしている。その鼻から赤い血が筋となってつぅと流れ、唇を濡らした。
「お夕」
黒装束がほどけた孝右衛門が、妻の名を咎めるように呼ぶ。夕吉が、為成の鼻を握り締めた拳で力いっぱい殴ったのだ。
柳のように細い身体が、傍目に分かるほど震えている。丞幻の位置からは背中しか見えないが、為成の苦し気な表情で、夕吉がどんな顔をしているかは手に取るように分かった。
震える拳が振り上げられる。どん、と厚い胸を打った。
「このっ、嘘つき! へぼ野郎! 無事に帰すって言ったじゃないか! なのに、なんだいこのザマは! 嘘つき! ふざけんな、アタシの旦那も、げん兄も、ずたぼろにしやがって! なにが異怪同心だ、全員守るだ、ふざっけんな! できもしないこと言いやがって、何様のつもりだい!!」
為成の胸を立て続けに殴りながら、悲鳴にも似た声が、叫ぶ。声音に涙が滲んでいた。
「……」
ウロヤミ様と対峙していた時よりも苦し気な顔をし、為成はそれを甘んじて受けていた。何も言わず、夕吉の激情をただ受け止める。殴られる度に、逞しい体躯が微かに揺れた。
「嘘つき! ふざけんな、へぼ野郎……!」
「お夕」
立ち上がった孝右衛門が、後ろから夕吉の両拳を握った。やんわりと為成から引き剥がして身体を反転させ、胸の中に夕焼け色の頭を抱え込む。
「お夕。……申し訳ありませんな、怖い思いをさせました。矢凪殿がいたとはいえ、心細かったですな」
「……っ」
孝右衛門の腕の隙間から見える夕吉の顔が、泣きだす寸前のようにぐしゃりと歪んでいる。
「お前、さん……」
ひゅ、と引き攣れるように息を吸い、
「……帰りたい……」
普段の気丈な姿とはかけ離れた弱々しい声音が、ことんと落ちた。
そのまま、孝右衛門の胸に顔を埋めて、夕吉は肩を震わせる。
沈黙。
外からは、奇妙なほど何の音も聞こえてこない。外に意識を集中させて「視」れば、三つの瘴気が絡まり合い、ぶつかり合っているのが分かった。
互いの瘴気は拮抗している。しばらくは膠着状態だろう。
――よし、真白ちゃん達にあっちは任せましょ。なに、あの子ら強いし簡単に死にゃしないでしょ。
頑張ってー、とウロヤミ様問題を二体にぶん投げ、丞幻は屋内に視線を戻した。問題はこっちだ。
土間に佇んだままの為成は、太い眉をきつく寄せている。身体の脇に垂れた拳は力を入れすぎて、白くなっていた。
孝右衛門は夕吉の頭を抱え込んだまま、ゆっくりと彼女の背を叩いている。夕吉は小刻みに身体を震わせたまま、夫の胸に顔を埋めてぴくりとも動かない。
小雪が夕吉に声をかけようとして口を開け、しかし何も言えずに桜色の唇を噛む。上がった手が所在なさげに彷徨って、結局矢凪の二の腕辺りをそっと掴むに留まった。矢凪が安心させるように、手の甲を軽く叩く。
じわりと屋内に広がった重たい空気が、各々の口を貝のように閉ざさせている。
呪符の光の下で、丸い金色の瞳がぎろりと丞幻を睨んだ。
「おい、おい。丞幻」
「わーかってるわよ」
この空気を何とかしろ、と訴える目に、丞幻は小声で返した。
このまま押し黙っているより、なにかしら身体や口を動かした方が気は紛れる。だが、音が鳴る事を拒むように、空気はすっかり固まってしまっている。
まあ、確かにこんな重ったい空気ぶっ壊すのは、ワシが適任よねー。
胸中で呟き、よいしょと丞幻は框から重い腰を上げた。




