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ひねもす亭は本日ものたり  作者: 所 花紅
禍神:ウロヤミ様

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132/194

〇 ● 〇


 ウロヤミ様と人々から呼ばれているその禍神は、いつも腹が減っていた。

 ものを食べている間は満たされるが、それが無くなるとすぐに我慢できない程の飢餓が襲ってきて、身を捩り、歯を噛み鳴らし、全身を襲う強烈な飢えに悶え苦しむ羽目になる。


 ――ウロヤミ様、ウロヤミ様。どうか私達を襲わないでください。これを食べてください。


 氷頭山の山頂にある社には、麓から毎日食べ物が届けられる。握り飯だったり、野菜だったり、食べ物は日によって違う。今日は握り飯が二つだった。


 ――お願いします。お願いします。私達を襲わないでください。


 禍神はウロの中から、粗末な社に手を合わせる娘を見ていた。

 僅かに震える頬は餅のように白く、着物の下に隠れている胸や腹に歯を立てたら、あまりの柔らかさにずぶりと沈んで、舌が痺れるほど美味い血が口内を満たすのだろう。

 だらだらと、面に隠れた口から涎を流しながら、逃げるように社を去って行く杏色の着物を追う。

 あの娘はそのまま山を下って、麓の集落に帰るのだ。

 氷頭山の麓には集落が四つほどあり、沢山の人間が暮らしている事を禍神は知っていた。

 いっそ、集落を襲って人間を皆々食べてしまおうか。

 だが彼らは、自分を祀る者達だ。社に手を合わせ、自分に祈りを捧げる事で、自分を強くしてくれる者達だ。それを皆々食べてしまえば、祀る者がいなくなる。そうすれば神の位を頂いていたこの身はたちまち、元の怪異へと成り下がるだろう。

 力が無くなれば、獲物を狩るのが難しくなる。だからこそ、麓の人間を食うわけにはいかなかった。

 しかし社に捧げられる食べ物や、山の獣や虫だけでは、到底足りない。


「たす、助けっ、ひいぃ……」


 鉈を片手に籠を背負い、山中分け入ってきた男を、ウロから無数の手を伸ばして捕まえる。

 ――トトト。トトト。

 ぬうぅ……と男の上から首を伸ばし、怯えた顔を覗き込む。見覚えは無い。氷頭山の匂いもしなかった。これは、集落の人間ではない。

 獣や虫、木や山菜を食い尽くさず、氷頭山を豊かなままにする。そうすると、こうして集落以外の人間が山に入り、恵みを取りに来る事に気づいたのはいつからか。

 自分を拝む人間は食べないが、拝まない人間は食べて良い。禍神はそう決めた。

 被っていた面を、横にずらした。ぐばあ……と口を大きく開ける。(まなじり)を裂けんばかりに見開いて、男が絶叫した。


「ぎゃあ……っ」


 山に轟く叫びは途中で途絶えた。

 大きく開いた口で男の頭を丸ごと飲み込み、ばぢゅん、と首を噛み切る。豆腐のように首の骨を噛み裂き、溢れる血を飲み下し、夢中で肉と(はらわた)を貪った。

 まだ熱の残る身体から抜け出て、空へ逃げようとする魂も捕まえ、一口で飲み込む。途端に全身が蕩けるような、えも言われぬ味が口内に広がった。満腹感。腹が満たされ、げふ、と口からげっぷが出る。

 人間の魂を口にすると、飢えが満たされる。ほんの少しの間だけだが、身の内を噛むような飢餓感が無くなる。

 腹が一杯になるのは幸せで、嬉しくて、また空腹に襲われた時、余計に苦しくて、悲しくて、辛くなる。


「おなかすいたねえー……」「腹が空いたねえー……」「ひもじいよお」「ひもじいねえ」「くるしいよお」「苦しいねえ」


 ウロからウロを伝い歩き、飢えを抱えながら、禍神は今日も山を彷徨い歩く。



 ばんばんばんばんばんっ。がんがんがんがんがんっ。

 獲物達を包んでいた透明な壁が、音を立てて砕け散った。


「あひっあひっあひっあひっ」「ひえっひえっひえっひぇっ」


 禍神は嗤いながら、無数の手を獲物達目掛けて殺到させた。轟音。土煙。数十の手のひらに手ごたえが無い。


「あれえ」「おかしいねえ」


 掴んだのは僅かな着物の切れ端と、ざらりとした土だけ。

 手に掴んだものを仮面の下に運んで咀嚼しながら、首をごきごき巡らす。右に一人、左に二人、逃げていた。

 退路を塞ぐ髪の檻から手を生やし、捕らえようとするが子鼠のように、ちょろりちょろりと動き回って(かわ)される。

 禍神は不愉快になった。

 獲物達は、顔に開いたウロ――鼻や口、耳だ――を隠していた。髪の毛を耳の前に流し、鼻から下を手拭で覆っている。ウロが見えなければ、そこを伝い歩く事ができない。

 遠く遠く離れた場所にある、瘤松の下にいた獲物達。複数人いたから沢山食べれると思って連れてきたものの、その中に自分の事を知っている者がいたようで、恐慌状態で逃げるでもなく、「トトト」と音を立てても慌てず対応していた。

 すぐに捕らえられない事に苛立ちつつも、気配を消してその背を追った。辛抱強く近づき、あと少しで、という時に気づかれて三人逃がしてしまったのだ。

 がきっ、がきっ、がきっ、とその事を思い出して、歯噛みする。

 逃がした三人はまだ、近くに留まっていた。髪の檻を破って中の獲物達を助けようとしているのか、獲物の一人が何度も檻に攻撃を仕掛けてくる。手足にまとった霊力が髪を焼き切り、砕くが、すぐに髪を伸ばしてその箇所を覆った。

 離れた場所から獲物を連れてくるのは、力の消耗が激しいのでいつも以上に腹が減る。だから絶対に、この獲物達は逃さない。


 ――数多の人間に長年拝まれ禍神に成り上がった頃、できる事が増えていた。

 氷頭山にしか生えていない瘤松を求め、好事家がまだ若い松を持ち帰る事がそれなりにある。そうして離れた地で根付いた瘤松のウロまで伝い歩き、人間を異界に引きずり込めるようになっていた。

 ウロの中で音を出して人を呼び寄せ、氷頭山の異界に引きずり込んで襲って食らう。

 今日の獲物達もそうやって、離れた場所から連れて来た人間達だった。

 一緒にいた邪魔な怪異達は山頂の方にいるが、囮として置いておいた分身と戦いになっている。どういうわけか、あの怪異達はこの人間達を守っているようだ。だからきっと、分身を倒したらこちらに来る。分身だけでは奴らに勝てない。

 怪異達が来る前に、獲物を食らってしまわないと。

 左を先に食べよう。どちらを食べようか少し考えた後で決めて、身体を左に向ける。

 二人いる方のうち、一人は霊力を持っていた。霊力を持った人間の血肉は、普通の人間より美味い。もう一人は真っ黒の着物で顏も隠していて、よく見えない。あれは触ったら痛そうだが、力を込めて引き千切ればなんとかなりそうな気がした。

 右にいる萌黄色の方は、とても美味しくない。先ほど血を浴びせられた手は痺れ、まともな動きができない。あれの血と肉は毒だ。腹は減っているが、食べたくない。


「ひだりにしようよ」「左にしようねえ」


 だから左の美味そうな方を捕まえようとしたのに、右の獲物が気安い調子で声をかけてきた。


「ねーえ、ちょいとちょいとウロヤミ様。こらっ、聞こえてんのに無視しないでよー。お宅さーあ、山に引きこもってばっかりで、都のものなんて食べた事あんまり無いんじゃなーい? ほらほらこれ見て、いいものあげるわよー。先にこっち食べてみない?」


 無視しようと思ったが、右の獲物の方から芳醇(ほうじゅん)な甘い香りがした。今までに嗅いだ事がない。思わず顔を向けてしまう。

 右の獲物が、手のひらに丸いものを乗せている。甘い香りはそこからしていた。

 飴のようだ。光に照らされた丸いそれは透明で、中に橙色の欠片がいくつも入っている。

 鼻と口を覆った手拭の下から、状況にそぐわぬ明るい声が響いた。


「ね、ね、気になるでしょ。これはねー、こっちでは売られてない飴よ。この飴は期間限定でねー。期間限定分かる? この時期でしか売られてないの。だから今を逃せば食べれないのよ、これ。綺麗でしょー、中に入ってるのはねえ、蜜漬けにした蜜柑の皮なの。ねえ、まずそっちの拷問狂は後にして、こっち食べてみなーい? 人間ならいつでも食べれるけど、これは今を逃せば食べれないのよー。なんてったって、都にしかない店で売ってる奴なんだから」


 獲物が飴を軽く放った。

 足元に落ちたそれと、左の獲物とを何度も見比べる。

 飴は動かない。だから、先に獲物を狩った方がいい。それは分かっている。だが、放られた小さな丸い飴から目が離せない。

 社に捧げられるものは主に米や野菜で、甘味を捧げられた事はほとんど無い。足元の飴に、視線が釘付けになる。


「あまそうだよ」「甘そうだねえ」「いいにおいだよ」「良い匂いだねえ」「きっとおいしいよ」「きっと美味しいねえ」


 元々、人間の魂から生まれた存在なので、人の話す言葉は分かる。

 だから右の獲物が言っていた言葉も分かった。

 ――今を逃せば、食べる事はできない。

 ウロが数多開いた手を伸ばし、飴を取る。口に運んで、一息に噛み砕いた。


「あひっあひっあひっあひっ」「ひえっひえっひえっひぇっ」


 甘い。美味い。

 どろりとした濃厚な味が口の中に広がって頭を突き抜け、目を眩ませる。

 檻の中にいる獲物の事も、外にいる獲物の事も、迫ってくる怪異達の事も、頭の中から飛んだ。

 口の中に残った飴の破片を舌の上で転がす。じゅわりと唾液が溢れて、止まらない。


「美味しかった? ほらもう一個あるわよ。折角だからあげるわねー、ほいっ」


 足元にまた、飴がころころと転がってくる。それを掴んで、口に放り込む。今度は噛み砕かず、口の中で転がした。飴の甘さと蜜柑の皮の甘酸っぱさが交互に広がって、溢れた唾液がだらだらと顎を伝って地面に流れる。

 あまりの甘さに、腰から力が抜けてその場に座り込んだ。


「あひっあひっあひっあひっ」「ひえっひえっひえっひぇっ」


 身体が勝手にゆらゆらと揺れて、笑い声が喉から漏れた。

 口の中で転がしていた飴は、あっという間に無くなってしまった。すぐにぽん、ぽん、と飴が小気味よく放られる。それを両手に二つ、鷲掴んだ時だった。


「ひ、ふ、み、よ、い、む、な、や、こ、と! ゆらゆらと伸びよ十鎖、ゆらゆらと伸びよ十鎖(とぐさり)、搦めよ結わえよ(いまし)めよ!」


 ぱぁん、と高らかに柏手が鳴る。周囲から、ぶわりと霊力が噴き上がった。

 禍神は、慌てて首を巡らす。

 周りを囲むように、細い萌黄色の糸……いや、髪が十本地面に突き立っていた。針のように真っすぐ刺さったそれから、霊力で形作られた鎖が伸び、十の方向から身体を戒めている。

 動けない。

 禍神は怒号を上げて、身を捩った。ばきん、と鈍い音がして鎖が一本弾け飛ぶ。だが、まだ身体が動かない。


「が、あ、あ、あ、あ、あ!」「ぎ、い、い、い、い、い!」


 歯をごりごり軋ませ、喉の奥から声を上げて瘴気を爆発させる。放たれた瘴気は豪風となり、檻の中をしっちゃかめっちゃかにかき回した。

 ばきん、ばきん、と鎖が次いで砕けた。片手が動く。でたらめにそれを動かし、辺りを薙ぎ払うが手ごたえが無い。

 獲物はと見れば、手の届かない範囲に三人固まっている。禍神は苛立ち、彼ら目掛けて瘴気を叩きつけた。髪の檻から無数の手を伸ばして捕まえようとするが、霊力の鎖で縛られているせいか上手くできない。

 ちょろりちょろりと駆け回り、瘴気の塊を躱す獲物達に更に苛立ちが増す。

 苛立ちが怒りを増幅させ、怒りは空腹を増幅させる。

 腹が減った。腹が減った。腹が減った。腹が減った。腹が減った。

 耐えがたい空腹に唸り声を上げ、右に左に身体を捩る。ばきん、ばきん、ばきん。連続する音。鎖が全て砕ける。身体が動く。

 獲物はどこだ。捕まえる。全員捕まえて、引き裂いて、血の一滴残らず貪ってやる。腹がばきばきと縦に裂ける。裂けた箇所から無数の腕が噴き出す。手ごたえ。誰か捕まえた。離さない。力を込める。肉を裂き骨が軋む感触。腕を引く。引きずり込む。腹の中に引きずり込んで、食ってやる。


「――疾ッ!」


 銀閃が目を焼く。抵抗が無くなり後ろによろめく。腕が切断されている。見る。顔に真っ黒な布を垂らした獲物が刀を鞘に納めている。あれのせいだ。あれのせいだ。あれのせいだ。

 腹が減った。腹が減った。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。邪魔をするな抵抗するな大人しくしろ食わせろ食わせろ食わせろ食わせろ食わせろ――


「くわせろおおおぉぉぉぉ!」「食わせろおおおぉぉぉぉ!」


 二つの声が絡まり一つの言葉を叫ぶ。腹が更に裂け、みちみちと音を立てて幾百もの手が獲物達を襲う。腕の奔流が獲物を飲み込む。

 捕まえた。捕まえた。捕まえた。刀は使わせない。術も使わせない。何もさせない。腕を掴む。足を掴む。顔を掴む。首を掴む。髪を掴む。引きずる。引っ張る。獲物が抵抗する。踏ん張る足に爪を立て、引っ張る。抵抗が緩んだ。一気に引きずる。

 ――刹那。

 ぶぢぶぢぶぢぶぢぶぢっ。

 鈍い音を立てて髪の檻が引きちぎられ、強大な瘴気の塊が二体、檻の中に飛び込んできた。

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