六
〇 ● 〇
ウロヤミ様は、ウロに棲む。
日の光も、竹の光も届かない、ウロに棲む。
ウロヤミ様は、ウロから出ない。
ウロからウロへと移動して、山に分け入る者達を、己の住処へ引きずり込む。
ウロヤミ様は、ウロに棲む。
ウロの中で、「トトト」と音が鳴ったなら。
ウロヤミ様は、そこにいる。
〇 ● 〇
――トトト。トトト。トトト。トトト。
ぬかるんだ空気に、硬い音が罅を入れた。
取り巻く空気に混じる瘴気が、ぐっと濃くなる。同時に背骨が氷になったように、丞幻の全身が総毛だった。
――トトト。トトト。トトト。トトト。
ともすれば啄木鳥か栗鼠の立てる音にも似ているのに。なんの気配も無い薄闇の奥から、硬い音が響く度に、心臓に釘を直接打ち付けられているような、嫌な気分が丞幻を襲う。
為成が懐に手を突っ込む。そのまま引き抜こうとするのを矢凪が掴んだ。
「目ぇ閉じろ、口もだ、耳塞いで顔伏せろ」
全員が聞き取れるくらいの小声で、素早く囁く。
矢凪の隣に立っている小雪は、既にしっかりと耳を手のひらで塞ぎ、目をつぶって口を真一文字に引き結んでいる。
「ウロヤミ様だ、早くしやがれ」
満月の瞳は真剣だ。
丞幻は頷きを返して、為成を促した。
「笹山殿、ここは」
「うん。為村さん、夕吉さん、矢凪の言う通りにしてください。なにか来ても、俺が守りますから安心してください」
青ざめた夕吉が、頭を抱えるようにしてしゃがみ込む。それを守るように孝右衛門が傍らに立ち、目を閉じて耳を塞いだ。
丞幻もならって、目を閉じて口を引き結び、耳を塞いで顔を俯けた。ぴったりと両耳を塞いだ手のひらから、轟々と潮騒の音がする。
濃厚な瘴気が辺り一帯を取り囲んだのが分かった。結界越しでも、針のようなちくちくとした感覚が肌を刺す。
矢凪の口にした、ウロヤミ様という存在のものだろうか。
――ああ、やだわこの感じ。すぐ傍にいるのに見ちゃいけないっての、嫌いよ、本当。
一つ、二つ、呼吸を数えながら、丞幻は奥歯を噛み締めた。
ぱき、ぱき……。
地に付けた足の裏に、微かな振動が伝わった。誰かが枝を踏み割っている。
ぱき、ぱき、ぱき、ぱき……。
ゆっくり、ゆっくり。微かな振動が右から左へと、移動していく。自分達と、ウロヤミ様の間を隔てる結界に触れない、ぎりぎりの所を。
円を描く結界に添うように、ぱき、ぱき、と響く振動が爪先を震わせた。
目と鼻の先に、確かにいると知っているそれを、知らぬふりをしてやり過ごすというのは、幾十もの虫が下に集っていると知りながら、石を眺めているような心地だ。
いっそ目を開けて、その正体を確かめてしまいたい。そう思ってしまう。
ちらりと、そんな思いが胸を掠めた刹那。
「――――っ」
唐突に脳裏に、映像が一つ浮かんだ。
白。
顏。
手。
闇。
驚くほどに白い顏。笑んでいるように見える小さな赤い唇。額の真ん中で分けた射干玉の髪。何より印象的なのは、左右に嵌まる瞳。細い眉の下にある瞳は丸ではなく、雪の結晶の如き形状。神面だ。
神の顔を模した面が、結界のすぐ外にいる。丞幻達の顔を覗き込むように、浮いている。面の両脇で揺れる白髪混じりの黒い髪。地に着くほど長い髪がゆらり、揺れた。
ぱき。
手が、地面に落ちた小枝を踏んだ。
面の後ろから、蛇のようにぞろりと首が伸びている。骨の無いもののように、ぐねぐねと伸びた首は近くのウロに繋がっていた。
その、むき卵のように生白い首から、腕が生えていた。ざっと数えて数十本。首のあちらこちらに黒い穴――ウロが開いて、そこから枝切れのように細い腕が生えている。
首の左右のみならず、上下からも腕は伸び、かくかく、くきくき絡繰りのように動いている。
首の下から伸びた手が、ゆっくり動いた。五指を大きく開いた手のひらを、少し地面から浮かせて前へ進める。ぺたり、と地面に手のひらを付けた。ぱき、と小枝を踏んだ音が鳴る。
手につられて首が横に動き、従って白い面も滑るように動く。
そんな光景が、丞幻の脳裏に鮮やかに浮かび上がった。
ぱき、ぱき、ぱき、ぱき。小枝を手のひらで砕きながら、面が結界の周囲を一周する。
首は元の位置に戻り、音が止んだ。
呼吸を一つ、二つと数える。
瘴気が揺れた。
首のウロから伸びた細い腕が、かさかさと動いた。虫のように首が木を伝って、ウロの中へと戻って行く。凝っと丞幻達を見据えた六花の瞳が、暗い穴の中へと沈む。
そこでようやく、頭の中に浮かんでいた映像がぷつりと消えた。
埃が風に流れていくように、結界の外を取り巻いていた瘴気が薄くなっていく。頃合いを見て、丞幻は目を開けて顔を起こした。
ずっと目を閉じていたから、呪符の光が眩しい。
矢凪が隣の小雪の肩を叩いて、目を開けるよう促している。丞幻も夕吉と孝右衛門の肩を軽く叩いて、もう大丈夫な事を伝えた。
「……げん兄」
うろうろと結界の外に視線を走らせる夕吉に、丞幻は穏やかに笑いかけた。
「だいじょーぶ、お夕、大丈夫よー。結界張ってるから、怖いの入って来れないからね。これは強い結界だから、なぁーんにも入って来れないわよー。笹山殿はつよぉい同心だからね、だいじょーぶ。あっという間にやっつけてくれるわよ」
「…………うん」
色を失った唇が、か細い音を吐き出す。その背を撫でながら、孝右衛門が厳しい目を闇の向こうへ走らせた。
「義兄上殿。先ほどの妙な気配が、あちらの矢凪殿の仰っていた、ウロヤミ様というものですかな」
「多分、そうね。六花瞳って事は、辰雪瞳女の面かしらん」
あの怪異が付けていた面は、主に神事に使われる神面だ。
六花の瞳を持つのは数多いる神でも数えるほど、その中で射干玉の髪に女面となれば、北方護法の神、辰雪瞳女に他ならない。
陽之戸の東西南北を守護する四神の内、北方を守護するかの女神は、嫋やかな娘姿と荒々しい竜姿と二つの姿を持つと伝えられる。娘姿で人前に現れる際は旅人を案じ加護を与える和魂、竜姿で人前に現れる際は雪崩や暴風雪を引き起こす荒魂。
故に冬の山野を旅する際は、辰雪瞳女の護符を持つと加護があり、雪崩に合わないとされるのだ。
閑話休題。
「しっかしあの怪異、大したもんだわ。いや褒めたくないんだけどね、神の面被るって相当よ」
怪異の分際で神の面を被るとは無礼千万にも程があるが、逆を言えば神の面を被ってもなお祓われない程に強力な怪異と言う事だ。
孝右衛門が不思議そうな顔をする。
「義兄上殿。もしや義兄上殿は、目を開けておられたのですかな?」
その表情と言葉に、丞幻はぴんときた。
「大丈夫、お夕さん? さっき怖かったねー」「全くだよ。なんか、急に変に寒くなったねえ」と話している小雪と夕吉に聞かせないよう、小声で孝右衛門に確かめる。
「ワシはさっきね、頭ん中に映像が浮かんだのよ。あすこのウロから神の面を被った怪異が出て来て、結界の周囲をぐるっと回ってたの。もー、気持ち悪いったら。ほら見て鳥肌立っちゃったわよ」
「私は、そのような光景は浮かんでおりませんな。祓い屋の家系である義兄上殿だからこそ、視えたのでしょうか。あるいは、見鬼持ちの者しか視る事ができないとかですかな」
ただの妄想ではないのかと一笑に伏さず、真剣に検証してくるのが孝右衛門らしい。女人に対する軽薄な態度はともかく、それ以外では真面目な男だ。
「そうかもしれんわねえ。……ねえ矢凪、笹山殿、ちょっとこっち集合! はいきびきび!」
「あ?」
「丞幻殿、どうしたんだ?」
何やら話し込んでいた二人に向け、手を叩いて呼びつける。
「あ、孝右衛門殿、お夕と小雪を頼んだわよー」
「承知いたしましたぞ」
朗らかな調子で孝右衛門に声をかけてから、丞幻は真剣な顔つきで二人と額を突き合わせた。
あまり、話に時間をかけてはいられない。
あれは結界を無理やり破ろうとはしなかったが、また来た時もそうとは限らない。
「そうだ丞幻殿。さっき飛ばした式が戻ってきたんだが、やっぱりここは閉じられているぞ。麓まで下りたら、中腹に出たらしい」
「成程ねえ。――ところで、視た?」
主語を省いた端的な一言だったが、二人には通じたようだった。
「おう」
「ちょうど、矢凪とそれを話してた所だったんだ。為村さん達は、狼狽えてない所を見るとあれを視てないのか?」
「そうみたいよ。お夕が怖がんないで良かったけど、いやもう気持ち悪いわあれ。……ちょっと矢凪、お前さっき、ウロヤミ様って言ってたけど、あれがそうなの?」
互いの息がかかるほどの距離で顔を突き合わせたまま、矢凪は頷いた。
「おう。思い出した。昔、里の爺様に言われた奴だ。ウロヤミ様。この山の神ってえ話だ」
「ってことは、矢凪の知ってる場所なのか、ここは?」
「ん。氷頭山だ。俺ん所と雪ん所の間にある山脈のひとっつだよ」
丞幻は脳内に地図を思い浮かべた。
矢凪の故郷曽葱見国と、小雪の故郷白岑国。隣接している二国の間には、三雪山脈が横たわっている。成程、あそこか。
ってことはここ、氷頭山の異界ってことかしらん。うわあ、道理で寒いわけよ。
ウロヤミ様が氷頭山に造りだした異界と、遠く離れた貴墨の膳郎丘陵が、どうして繋がったのかそこは分からないが。今まで丘陵で行方不明が出たという話は聞いていないから、単なる偶然で異界への道が繋がってしまったか、人為的なものか。
ううん、と考え込む丞幻の横で、矢凪は淡々と話を進める。
「ウロん中で『トトト』って音がしたら、それはウロヤミ様が引っ張る相手を探して、ウロからウロを渡り歩いて近くに来てる。だからウロヤミ様を見ねえように、音を聞かねえように、耳を塞いで目を閉じろって。そうすりゃ去っていくってな」
「ウロからウロを動くなら、さっさとここを離れた方がいいんじゃないの?」
「いや、しばらくは動くなって言われてんだ。すぐ動くと、移動してるウロヤミ様にまた見つかるからってよお」
「ああ、成程。隠れ鬼とおんなじだな」
「おう」
背後では話が盛り上がっていた。孝右衛門は大したもので、小雪と夕吉が結界の向こうを気にする素振りを見せれば楽しい話題をふり、小雪を口説いて夕吉を怒らせ、恐怖を感じないよう巧みに誘導している。
そちらに一瞬視線を向けて、続ける。
「雪も知ってる。俺と雪んとこの国じゃあ有名だ」
顏に走る傷を歪めて、為成が苦い息を吐き出した。
「山の神ウロヤミ様か。……山に漂う瘴気とあの姿からして、天大神から正式に山を任された山神っていうよりは……なあ……」
「怪異に堕ちた山神か、怪異が成り上がったか、かしらねー……」
為成の言葉を引き取って、丞幻はため息諸共吐き捨てた。
墨汁を空気に流したように、うっすらとした闇に包まれた周囲。そして、そこに漂うのはぴりぴりとした瘴気。
この場に神がおわしますなら、そこの怪異が神の面を付け現れる冒涜を行うわけがない。もしもウロヤミ様が真に氷頭山の神だというなら、ここまで濃い瘴気が漂うわけがない。
つまりそれは、元々祀られていた山神が何らかの要因で怪異に堕ちたか。山に棲んでいた怪異を人が神として祀った事で力を得、禍を無作為に撒き散らす禍神に成り上がってしまったか。
どちらにせよ、面倒かつ強大な相手だというのは間違いない。
「おい。そういやちび共はどこ行った?」
不思議そうに首をかしげた矢凪に、丞幻はずっこけそうになった。今、そこに気づくか。今。
為成も周囲を見渡した。
「あ、そう言えば姿が見えないな。いつからいなかったんだ?」
術をかけていった真白達だが、それはあくまで「自分達がいないという事を認識させない」というものだ。違和感を覚えれば術は解け、シロとアオがいない事にすぐ気づく。
「もー。心配させるから、小雪達には内緒にしてよね。ワシらだけのひ、み、つ、よ」
口元で指先を振りながら少しふざけると、気持ち悪ぃ真似すんなと頭を引っぱたかれた。
「なぁによう、和ませようと思ったのに」
ぼやきつつも、手短に事情を説明する。ついでに、異界から脱出する術を使わないようにと言い添えれば、為成が顔を手のひらで覆った。
「あー……それは面倒だな」
「そうなのよ、面倒なのよ」
顔を覆った指の間から、為成がちろりと視線を向ける。刃を溶かし込んだ銀の瞳が丞幻を突き刺した。
「しかし丞幻殿、怪異の言う事を鵜呑みにするのはどうかと思うぞ?」
「真白ちゃんも蒼一郎ちゃんも、そんな変な嘘つかないからだいじょーぶよ」
「……」
何やらもの言いたげな目をされたが、気づかないふりをする。やがて諦めたのか、為成は気持ちを切り替えたように「じゃあ」と声を上げた。
「矢凪、そのウロヤミ様を退散させる術はあるのか?」
答えは簡潔だった。
「蹴る」
「こら蛮族」
今度は丞幻が、矢凪の頭を引っぱたいた。




