一
――気味が悪い、と思った。
この山の木は表皮がどれも、ぼこぼこ、ぼこぼこ、盛り上がっている。小さいものは拳大、大きなものは人の顏。
瘤松の名の通り、すらりとした真っすぐな幹に、ぼこぼこ、ぼこぼこ、瘤が垂れ下がって、歪な姿を見せている。
地に落ちる影は岩や木の根に当たって更に歪み、もはやそれが幹であると判別がつかない程に、ぐにゃりぐにゃりと揺れていた。
「ウロじゃ」
そしてどの瘤にも、ウロがぽっかりと口を開けている。大きさも場所も違えど、必ず瘤にはウロがあった。
このウロの中に、真っ白な身体の雪蜂が棲む事がある。
雪蜂の蜜は普通の蜂と違って、とろりと白い。これを男衆が採って帰り、女衆が薬草と混ぜて飴にする。それを行商人が都へ持って行く。
蜂蜜と薬草で作った飴は、喉の痛みに効く。これが都では高く売れるのだそうだ。
だから今日も、男衆は狩りのついでに蜂の巣を探しに山に入る。
枝葉の向こうから、眩しい光が地面を照らしていた。足元を、ちょろりと栗鼠が走っていく。大きな尻尾が、茂みの向こうに消えていった。
周囲を見渡せるほどに明るい中、木々に開いたウロだけは一切の光を通さないかのように、漆黒を覗かせている。
「蜂っご、蜂っご、どごさおる」
音がした気がして、横を見た。
目線の近くに、ぼこりと膨れた瘤があった。ぼこぼこ、ぼこぼこ、あちこちが歪んで盛り上がった瘤松は、まるで木が瘤に食われているかのようで不気味だ。
その瘤にもやはり、ウロがあった。
ぽっかりとした黒い穴の大きさは、人の目玉くらい。そこから何か、音が聞こえる気がした。雪蜂だろうか。
「おい、おめえ。あんましウロっごんなが、見んじゃねえど」
しげしげとウロの中を覗き込んでいると、一番年嵩の男が眉をしかめて行動を諫めてきた。
「……なして」
ウロを覗かないと、蜂がいるか分からない。
「なしてって、よう……んだんだ、おめえ、山ご初めてだったが」
「んだ」
「じゃーじゃー……」
年嵩の男は口の中でもごもごと呟いてから、
「巣があっどごはな、ウロっごの端っごが白ぐなっでんだ。だはん、わざわざ覗ぐな。ちょすな」
――ウロヤミ様が、こっちば見どっがらよお。
そう、続けた。
ウロヤミ様、という言葉にたっぷりとまぶされていたのは、紛れもない恐怖。
大の大人が、と思ったが見れば、その場にいる男達は皆が皆、ウロから目を反らすようにして、地面を睨んでいた。
「……んだか」
背筋が寒くなった気がして、ふいとウロから視線を反らす。
「トトト」「トトト」――己が先ほどまで見ていたウロの中から、何かをつつく音がした。
〇 ● 〇
影の中に何かいるのなら、日の光の元に引きずり出してしまえばいい。
闇の中に何かいるのなら、玻璃竹の一つも当ててやればいい。
そうすれば、何かいたとしても、正体が分かるのだから。
ならば。
ウロ。
日の光の届かない奥の奥。竹の光も遮る闇の闇。
ウロの中には、何が潜むのだろう――。
〇 ● 〇
『真澄鏡の逸話って、三百年くらい前でぱったり途絶えてるのよねー……その辺りに松伸国で起こった事といえば、当時の国主が夜な夜な城下で人斬りを行っていたのと、稲奈酒が生まれたくらいなのよねー』
『そういえば兄様、兄様の所の怪異はなんと言ってるんです? あいつら無駄に年食ってるんですから、噂の一つ二つ知ってるでしょう。紅瓢なんて六百年近く前から逸話あるんですよ』
『聞いてみたわよー、もっちろん。でもねえ、真白ちゃんも蒼一郎ちゃんも怪異でしょ? 「俺達を祓うかもしれない神具の所に、わざわざ行くわけないだろう」「ちょうどそん時、オレ達は狩月国で遊んでたからなあ。松伸国は行ってないんだあ、悪いなあ」って言われちゃってねえ』
『なんの為に兄様達の元にいるんですか、あいつら。こういう時に兄様を助ける為にいるんでしょう。ふざけてるんですか、祓いましょうか』
『怒んないでちょーだい、蓮丞。あの子ら、基本的に興味無いものには近づかないし、すぐ忘れちゃうから。ワシもそうだし蓮丞もそうでしょー? 真白ちゃん達はそれが極端なだーけ』
『兄様は可愛い可愛い妹より、怪異の方の肩を持つんですね。ふんっ』
『もー、そんなに拗ねないで蓮丞』
『じゃあ兄様、甘やかしてください。今日は夢で会いたいです。頭撫でてください。愚痴聞いてください、本読み聞かせてください。兄様の巫女姫を情感たっぷりに読んでください』
『分かった、分かったわよー、蓮丞。じゃあ、今日夢でね』
はい、と今までより大きな文字が巻物に記された。
『では兄様またあ~~~~~~~~~~~~』
突如、蚯蚓に墨を垂らしてのたくらせたように、蓮丞の文字が乱れた。
ぐねぐねとうねるそれに、丞幻は小首をかしげる。
「あらま。ミツユビトビグモでも出たかしらん」
そういえばひねもす亭でも、矢凪が虫よけ薬をぶちまけたにも関わらず、この間またミツユビトビグモの幼虫が出たなあと、埒も無い事を思い出す。
足元に「こんにちは! また来ました!」と這い寄ってきたそれに絶叫暴走する矢凪、颯爽と登場して幼虫を凍らせ、「もう大丈夫だよ旦那様」と爽やかに笑う小雪。その場には拍手喝采が巻き起こった。
そして矢凪は両手で顔を覆い、「……すき」と小雪化した。
そんな事を思い出していると、凄まじい速さで文字が綴巻物に浮かんでくる。筆跡が乱れているのは、慌てているからだろうか。
『すみません今、兄様とおしゃべりしなら初代当主様の日記を読み返していたら、真澄鏡らしき記述がありました』
『本当? 日記にはなんて』
『はい。晩年、堅洲の穢れに侵された当主様が「どんな穢れも祓う水」を求めて松伸国へ赴いたそうです。それで』
――真澄鏡をひとすくい飲む。途端に忌々しい堅洲の穢れが消えた。身体が軽い。伝説は本当だった。ざまあみろ堅洲。ざまあみろ糞猿。ざまあみろ運命。あと二十年は生きるぞ、俺は。
丸っこい癖字が書き連ねた文字を、丞幻は凝視した。これは。
『真澄鏡を、ひとすくい飲む?』
『はい。あの私、鏡というから普通に鏡についての伝承を探していたんですが、これを読む限り、鏡ではなく水という事ですよね』
『そうねえ。……ってことはその名の通り鏡みたいに丸い形の池とか、湖の水とか』
『神社に収められている薬湯、神水、そういうものの可能性もありますね』
『日記には他に、なんか書いてる?』
『いえ、当主様ですから書いてないです。ただ、日付は書いてるので。妻や息子娘の日記を漁ってみます』
『ワシも、その辺りの記録を調べてみるわねー。蓮丞、日付教えてちょーだい』
綴巻物に浮かんだ日付を書き取り、丞幻は筆に墨をたっぷりと含ませた。
『ありがとー、助かってるわあ。でも、無理しちゃ駄目よ蓮丞。お前、大祓祭も近いんだから。当主としてやる事沢山あるんだから、そっち優先しなさいね』
『え、兄様を優先しますが?』
『至極当然みたいに書かないの! 当主の仕事を第一にしなさい! お前、天帝のお付きがあるでしょ!!』
『大丈夫ですよ、兄様。この蓮丞にお任せください! 天帝のお付きと兄様の手伝い、同時にこなしてみせます! それより兄様こそ、無理はしないでくださいね?』
『ワシはだーいじょうぶ。そうそう、明日はお夕達も一緒に、栗拾いに行くのよー。大祓祭の時、寄れるんだったら寄んなさいね。お前の好きな甘露煮作っといてあげるから』
妹の返事を待たず、くるりと綴巻物を巻いて文机の下に転がした。
真澄鏡をひとすくい飲む。どんな穢れも祓う水。
それは大きな手掛かりだ。少なくとも、松伸国に数多伝わる鏡の噂を精査するより、よっぽど楽である。
日記には「辛い身体に鞭打って、山中分け入り」とあった。ならば真澄鏡があるのは山の中。それと、三百年前に何かが起こった場所、という条件で絞り込んで探せば、おのずと目的地は絞り込める。
「でも鏡って名前にしないで真澄水とか、真澄鏡かっこ鏡じゃなくて水かっことじる、みたいに書いときなさいよね。ったくもう……どいつもこいつも親切じゃないんだから」
歯型が付くほど筆の尻骨を噛んで、丞幻は傍らに積み上げていた書物を恨めし気に睨んだ。
シロの背丈ほどの高さあるそれらは、全て真澄鏡に関わる事柄が書かれた書物だ。そのどこにも、真澄鏡とは飲む事で穢れを祓う水だとは書いていなかった。
不埒者に荒らされないよう門外不出、他言無用、場所厳禁を徹底しているのかもしれないが、今こうして真澄鏡を必要としている人だっているのだから、その辺配慮して欲しい。
遠い昔の人々へ文句を連ねつつ、丞幻は万年床に寝転がった。鈍く痛む目頭を、ぎゅうぎゅう揉む。
「あ――――…………やってられんわ」
横になった途端に、意識していなかった疲れがどっと伸しかかってきて、深く息を吐く。とろとろと瞼が落ちてくるのが、自分でも分かった。
眠い。とても眠い。今、瞬きする為に目を閉じたら、そのまま眠ってしまいそうだ。重たい疲労と程良い眠気が、身体を覆っている。
ごぉん……と夜四ツ|(二十二時)の鐘が、遠くから聞こえてきた。
蓮丞に書いた通り、明日は夕吉、孝右衛門夫婦と共に栗拾いだ。
シロとアオは楽しみで眠れないと騒いでいたが、温かい甘酒を飲ませて布団に寝かせ、腹をぽんぽんと二、三回叩いてやったらすぐに寝落ちた。小雪も栗拾いは楽しみだと浮足立ち、矢凪と連れ立って部屋に戻って行った。
本当は丞幻も、さっさと寝てしまいたいのだ。
だが、やる事が多すぎる。
巫女姫の続きも書かないといけないし、書奉祭――貴墨中の版元や作家が集まり、本を売る催しものだ――に出す本も書かないといけない。それに真澄鏡についての調査。……鏡ではなく水と判明したので、また別の文献を探さないといけない。
それから。
「あの女、んっとに食あたりでも起こして、厠に一日中立てこもる呪いでもかけてやりたいわ……」
この間、鉄太がいなくなった際に嫌疑をかけた事に対しての嫌がらせか、ここ最近の十六夜の要求は度を越していた。
やれ金物屋に出る、手にしたら柔らかいものを潰したくなる金槌の怪異を獲って来い。
やれ四方川に潜むという蛙の顔をした老人の怪異を獲って来い。
やれ蒔いていた呪歌が良い具合に怪異に変わりそうなので、それを獲って来い。
やれ、やれ、やれ……。
おかげで連日、休む間が無い。矢凪と二人、貴墨中を駆け回る日々だ。金と疲労だけが溜まっていく。
「あ――――! もう! 終わり! 今日はもう終わりよ、終わり! はいおしまい! ワシはもうくったくたよ! 後は後で! 矢凪も寝てるし!!」
無性にいらいらとして、丞幻は寝っ転がったまま叫んだ。死にかけた虫のように、手足をばたつかせる。拳が本の山に当たって崩れた。後で直す。
今までは、矢凪と協力して文献を探していたので、それなりに楽だった。
だが小雪がひねもす亭に来て以降、夜は彼女と共寝をしている。小雪一人で寝ると悪い夢を見たり、眠りが浅くて何度も起きてしまうからだ。
誰かが傍にいると安眠できるようで、矢凪が添い寝するのが最近の日常になっていた。
「まあねー、そうよねー。急に薄暗い座敷牢に閉じ込められて、見知った人達に追っかけられたんだったら、そりゃ心の傷にもなるわよ」
羽二重楼の事件は、小雪の心に大きな棘を残しているらしい。
事件後すぐは大丈夫でも、日が経って落ち着いてきたら、恐怖がぶり返して心をじくじくとさせる事はある。昼はまだ色々とやる事があって、不安を忘れるくらいに動き回るからいいようだが。
夜の静けさと暗さは、不安と恐怖を増幅させるのだろう。
「明日のお出かけ、少しは気晴らしになればいいんだけどねー。あと栗いっぱい拾えりゃいいんだけど。去年はシロちゃん泣いちゃったし」
去年は栗が不作だったようで、栗拾いに行ったがいいが、結局拾えたのは空っぽのいがのみ。散々な結果にシロは泣きじゃくり、アオはいがを噛み砕いて怒り心頭。慰めるのが大変だったのだ。
今年はそんな事に、ならなければいいのだが。
〇 ● 〇
「……とは思ったけど、さあ」
栗の木とは全く違った、ぼこぼこと瘤だらけの木に取り囲まれている中。
丞幻はゆっくりと、その場の面々を見渡す。
仏頂面の矢凪。地面を見て首をかしげるシロとアオ。不安そうに矢凪にくっついている小雪。刀に手をかけ周囲を見渡す孝右衛門。その腕を掴んで今にも泣き出しそうな夕吉。とりあえず五寸釘を木々の向こうに投擲している為成。
総勢六人と怪異二体。
「……」
胸一杯に、丞幻は息を吸い込んだ。――そして、叫んだ。それはもう力一杯、心の底から叫んだ。
「栗拾い中に異界に連れ込まれるなんて聞いてないんだけど――――!?」
「じゃーじゃー」:「いやいや」
「ちょすな」:「触るな」




