六
〇 ● 〇
豆花長屋に戻ると、小雪がちょうど木戸から飛び出してくるところだった。氷色の髪を激しく揺らして道の左右に首を向け、丞幻達を見つけると血相を変えて駆け寄ってくる。
「旦那様! 間夫! シロとアオと会わなかった!?」
丞幻と矢凪は、視線を交わした。矢凪がふるりと首を横に振る。
「いや」
「そう……じゃあ、そっちじゃなくてあっちに……ああ、もうっ!」
今にも駆け出して行きそうな細い肩を軽く叩いて、丞幻は小雪の顔を覗き込んだ。
間夫呼ばわりは、この際置いておく。
「ねえ小雪。シロちゃん達、どっか行っちゃったの?」
「え、うん、そうだよ。あたしとずっと一緒にいたのに、気づいたら神隠しでもされたみたいに、いなくなっちゃったんだ。きっと鉄太君を探しに、こっそり出てったんだと思って、あたし慌てて出て来たんだよ。本当についさっきだから、まだその辺りにいる筈だよ。探しに行かないと!」
そう声を荒げた小雪の細い眉が、一転してしょんと下がった。
「……ごめんなさい。あたし、二人の事、ちゃんと見てなくて」
下げられた小雪の頭を見て、丞幻と矢凪はまた無言で視線を交わした。
シロもアオも、いとけない幼子に見えるがその本性は怪異。本来であれば、見鬼の力の無い徒人にその姿を捉えることはできない。
小雪や、鉄太達遊び友達や、その他人々に彼らの姿が視えるのは、シロ達が「姿を見せよう」と思っているからだ。人の目を盗んで長屋を抜け出る事など、二体には朝飯前なのである。
だから小雪が謝る事はないし、悪くもない。
「雪、雪。大丈夫だ。あいつら見つけたら拳骨するから」
「そうそう、大丈夫よー、ちゃんとシロちゃん達を見てくれてたのは分かってるから。あの子達に、脱走癖があるのを言ってなかったワシも悪いしねー」
二人でそんな事を言って、小雪を慰める。
「大丈夫、シロちゃん達の行先なら当てがあるわよー。それより、長屋の様子は?」
長屋に垂れこめている雰囲気は、先よりも重苦しくなっている。
頭を上げた小雪は己を落ち着かせるように一度深呼吸すると、気遣わし気な色を宿した瞳を今出て来たばかりの木戸に向けた。
「鉄太君のお母さんが、錯乱しちゃったからさっきまでみんなで宥めてた所だよ。双子のお姉さんが春日長屋って所に住んでて、よく鉄太君をからかってるらしいんだ。だから今回もそのお姉さんの仕業だと思ってたらしいんだけど、向こうに鉄太君はいないって知らせが来たから一気に不安になっちゃったみたい。今は少し落ち着いてる。それからさっき鉄太君のお父さんが帰って来て、話を聞いて急いで探しに出かけたよ。確か神社の辺りを探すって言ってたかな」
「誰か辻番か奉行所にゃ走ったのか」
矢凪の問いに、小雪は大きく頷いた。
「五日前に、この近辺で子攫いが出たんだってね。だからすぐに同心さんが来てくれたよ。ちびちゃん達から話を聞いて、目明かしの人含めて五人でこの近辺と神社の周辺を探しに行ってくれてる。あたしとシロ達はあんた達が帰ってくるまで、空いてる部屋で休ませてもらってたんだけど、気づいたらシロとアオがいなくなってたんだ。それで急いで飛び出したら旦那様とあんたが帰ってきたんだよ」
流石に、ありとあらゆる教養を叩き込まれ、遊郭で天辺を張っていた花魁だっただけあって、その説明は淀みなく分かりやすかった。
成程と頷く丞幻を仰ぎ見て、小雪が焦れたように地団駄を踏む。
「で! シロ達はどこに行っちゃったんだい! 当てってどこなのさ、ここでのんびりしてて、もしあの子達までいなくなっちゃったら、どうするつもりだい! あんた、あの子らの親だろう!!」
怒りに燃える小雪の痩身から、抑えきれない冷気が立ち上って空気を凍てつかせる。たちまち白くなった息を吐きつつ、丞幻は「落ち着いて!」と慌てて両手をかざした。
「あのね小雪、お前そうぽんぽん冷気出さないの! ほら見なさい可哀想な蟻が凍り付いちゃってるじゃない! ただ通りすがっただけの、善良な近隣住民の皆々様がもしあんな感じで凍ったらどーすんの!」
「安心しなよ。あたしの氷はあんた以外を狙わないから」
「あらそれは安心。……とはならんからね」
半眼で睨み下ろせば、小雪はきまり悪そうにそっぽを向いた。爪先が地面を小さく蹴る。丞幻に怒ったというより、自分自身に腹を立てた結果、八つ当たりに近い形で怒鳴ってしまったようだ。
ちなみに矢凪は小雪の冷気ですっかり身体が冷えたようで、片手に抱えていたどてらをさっと着込んで手拭をきっちり巻きつけていた。
こほん、と丞幻は咳払いをする。
「まあ、とにかくね。話戻すわよ。シロちゃん達の行先はこれで分かるから、安心しなさいって」
これ、と煙草入れから取り出したものを小雪は見下ろし、
「……間夫。あんたもしかして、疲れてんのかい?」
と、とてもとても可哀想なものを見る目で丞幻を見上げた。
「ん、こっちだな」
矢凪の手に絡んだ銀の紐。その先に繋がった青水晶で作られた小さな犬が、丞幻達を誘うように宙をてくてく歩く。
丞幻、小雪、矢凪の横並びで通りを歩きながら、丞幻は髭を撫でつけつつ小さな頭を見下ろした。
「ちょっと小雪、ワシになんか言う事があるんじゃなーい? 疑ってごめんなさいとか、いいもの持ってるねとか。ほれほれそれそれ、遠慮しなくていいわよ」
「遊郭で一番もてないのはね、過ぎた事をいつまでもねちっこく、ぐちぐちと言う奴だよ」
「あ、はい。すみません。ワシが悪うございました」
すました顔でそう言われ、丞幻は逞しい身体を縮めて即座に謝った。
やり取りを聞いていた矢凪がこちらを見て、ふ、と馬鹿にしたように笑ったので、小雪に見えない位置から脇腹を拳で突いておく。お返しは蹴りだった。膝裏にもろに入って、思わずつんのめった。
「どうした、なにふらふらしてやがる」
「……お前ね」
素知らぬ顔の矢凪をもう一度ど突いてやろうかと思ったが、その前に小雪が自分達を先導するように宙を歩く、青水晶の犬を眺めて声を上げた。
「ねえ、それより間夫。これ、本当にちびちゃん達の所に案内してくれるの?」
「だいじょーぶよ。これは『さがし犬』っていう呪具でね、探している人や物の元に導いてくれるのよん。さっき、矢凪が呪言を唱えたでしょ」
「ああ、探し人、迷い人、彼の名はシロ、彼の名はアオ、って奴?」
「そうそう。そうやって、呪言に探したいものの名前を組み込むと、犬が導いてくれるのよー」
犬が四辻を左に曲がった。
小雪がその動きを、不満そうに見据える。
「なんで、あれで鉄太君を探さなかったのさ」
「探せないのよ。あれはね、術者との結びつきが強い相手……そーねえ、例えば家族とか、親友とかね。そういう相手しか探せないの」
ふーん、と赤い唇が尖った。
「あんまり使い勝手が良くないんだね、それ」
「そーなのよ。困っちゃうわよねー」
「……そうなのか?」
首をかしげる矢凪の耳元に、ひそひそと丞幻は囁いた。
「違うのよ。本当はね、怪異を探す呪具なの、それ。だから普通の人間は探せないのよ」
「ああ」
さがし犬は、カギュー様の支配する異界、留まり小路で出口を探す時に使用した、しるべ鳥の対になる呪具だ。
鳥は異界の出口へ導き、犬は探している怪異へ導く。なので、この呪具で人間である鉄太を探すことはできない。ちなみに眆菓の夢座敷は鉄太に憑いているのではなく、鉄太自身が夢の中で座敷に招かれている形になるので、眆菓の夢座敷を元にして鉄太を探す事はできない。
青水晶の犬と、周囲の様子を交互に見つめる小雪を見下ろして、丞幻は小声で続けた。
「小雪にそれは言えないでしょ。シロちゃん達のこと、人間だって思ってるんだから」
「いつ言ってやんだよ、あいつらが怪異だって」
「まあ、もう少し落ち着いてからかしらねえ」
羽二重楼での事件から、まだ日が浅い。まだ気持ちが落ち着いていない小雪に、シロ達の正体を教えて無駄に衝撃を与える事もない。共に暮らしていく以上、いつかは教えないといけないが、もう少しひねもす亭に馴染んでからの方がいいだろう、と丞幻は考えていた。
ひそひそしていた二人が気になったのか、一歩前を歩いていた小雪が振り返って首をかしげる。
「どうしたんだい?」
「なんでもねえ」
「冴木を出て川山の方に行くのねー、って話してたのよー」
冴木から南にずっと進み、蛙槌大橋を渡れば川山に入る。
この辺りは国屋敷が多く並び、普通の長屋や店はほとんど見かけなくなる。
通りの両側には漆喰の塀や生垣が増え、歩く人も質素な小袖をまとった人々から、威厳ある黒袴に二本差しの武士や、小綺麗な着物の女中らしき女などへと変化していた。
そんな中、宙を駆ける小さな犬に導かれている三人組、というのはいささか目立つ。じろじろと不審な目を向けられたが、どこぞの屋敷に呼ばれた芸人、あるいは祓い屋とでも思っているのか、声をかけられる事は無かった。
広い通りを犬に導かれて歩くこと、しばらく。
とある門の前で、犬は止まった。閉じられた門の正面に小さな体をくるりと向けて、奥にあるだろう屋敷に向かおうとする。矢凪が立ち止まったので、犬に繋がる銀の紐がぴんと張り詰め、腕が紐に引っ張られて真っすぐ伸びた。
「……ここか?」
門の左右から伸びる塀は漆喰。塀の向こうからこちらへと伸びた枝葉に青波椿が一つ、二つ、花をつけているのが見えた。透き通るように青い花弁の縁は白波のように白く、縮れている。
さがし犬の導きの通り、感じ慣れた怪異の気配が確かに屋敷の中からする。シロとアオが、あそこにいるのは間違いないようだ。
閉じられた門の脇に彫り込まれた国紋に、丞幻は目を向けた。
波濤から伸び上がるように、鯨が頭を出している。
「波平国の国屋敷だわねー。しかし国屋敷とは、まーた厄介なところにいるわね、シロちゃん達」
他国より国主やその他重要人物が貴墨に留まる際、利用する屋敷を国屋敷と称す。一時の屋敷として使うものなので、普段から人がそう多くいるわけではない。
大抵は留守居を任された者が、数人あるいは十数名いるのみだが、今は時期が悪かった。
「えー、どうしよっかしらねえ……シロちゃん達、なんでまた国屋敷なんかにいるのよー」
「迷子になった所を、見つけて保護されたのかな」
「かしらねえ」
ぴったりと閉じられた門の向こうからは、にぎにぎしい空気が漂ってきている。耳を澄ませば、華やいだような女の声が聞こえた。普段は閑寂な他の屋敷からも、同様の空気が流れてきている。
さがし犬に霊力を流すのを止め、丞幻に返しながら矢凪が眉をひそめた。
「どっこも浮ついてやがるな。なんかあんのか?」
「大祓祭が近いからね、どっこの国からも客が来てんのよ」
「あー、あれか」
神無月の終わりころに行われる大祓祭は、怪異はびこる陽之戸国を清め祓う為に行われる年に一度の祭事だ。その祭事に向けて、各国から招待されたやんごとなき方々が続々と国屋敷にやってきて滞在しているのである。
国の重要人物が滞在する屋敷であるから、屋敷札という木札が無ければ、普通の人は屋敷に入ることはできない。しかも各国屋敷によって札に焼き付ける印が違うので、札を一つ持っていればどこの屋敷でも入れるということはないのだ。
なので、手ぶらの丞幻達が「ごめんくださーい、ここに小さいのが来てませんかー? 多分この屋敷にいると思うんですけどー」と、のこのこ入っていくわけにはいかない。
「誰か来た」
ふと、矢凪が鋭く囁く。
小雪の肩を抱き、物陰に隠れようとする彼の手首を丞幻は掴んで止めた。門の向こうから聞こえてくるのが、幼い声二つと大人の声一つだったからだ。
軋んだ音を立てて、くぐり門が内側から開かれる。そうしてそこから、白い頭と青い頭がひょこひょこと出てきた。
「シロ! アオ!」
小雪が二体の名を叫ぶ。
それにぱっと顔を上げたシロ達の元に走り寄ると、二体の頭をぺんっ、ぺんっ、と平手で叩いた。
「もうっ、あたしに何も言わないで、勝手にどこかに行ったら駄目だろう! こんな遠くまで二人で来て、もし人攫いにでもあったらどうするんだい!」
心配していた分、小雪の怒りは雪嵐のようだった。シロとアオが、びくりと肩を震わせる。
「……ごめんなさい」
「ごめちゃい」
しおらしく謝る二体の前で、小雪が膝をついてその頭を撫でる。こちらに背を向けているから表情は見えないが、強張っていた肩の力が抜けたのが分かった。
「心配したんだからね、今度はちゃんと、出かける時はあたしに言うんだよ」
柔らかい声音に、こっくりと、シロとアオが頷く。
そこに近寄って行った矢凪が容赦無く、拳骨を落とした。
「あんま雪を心配させんじゃねえ、ちび共」
中々の威力だったようで、拳骨を落とされた場所を押さえて二体が悲鳴を上げる。
「なぐった! ぼこってなぐった! おれ、ちゃんとあやまったのになぐった!」
「いちゃい! 矢凪のいじわう! なっでたたくの!!」
「うるせえ」
「すみませんねえ、この子らがご迷惑をおかけしたみたいで。そちら様に何か、粗相など働いてはいないかしらん?」
わちゃわちゃに混ざりたい衝動をぐっとこらえて、丞幻は男に話しかけた。シロ達と話しながら、くぐり門を開けた男だ。
人の好さそうな顔を笑み崩して、男は首を横に振る。
「いいやぁ、なあんも。迷子になったから、道を教えてくれって言われてよお。いやあ、こまいのに、まぁーしっかりした子達だあ」
「あらー、そお? いつもは我儘放題な子達なんだけどねえ」
二、三、言葉を交わした後、「んじゃあ、今度は迷子になるなよお」と笑って、男は仕事に戻って行った。
どむっ、と膝に軽い衝撃。見下ろすと、シロが丞幻の足に抱き着いていた。うるうると、潤んだ夜明けの瞳がこちらを見上げる。
「ぶった! 矢凪が、おれのこと、ぶった!」
「怒られる事するからよ、シロちゃん。ほら抱っこしてあげるから、ご機嫌直してー」
よいしょー、と声を上げて抱き上げる。途端に首に手を回して、シロがぎゅうとしがみ付いてきた。
「あのな、あのな、丞幻。鉄のばか、あそこにいた。くらの中の、黒ぬりの長持の中で、ぐーすかねてた。だめだ、あれ、変な札が貼られてて、おれ達じゃ助けれなかった。早く引きはがさないと、今日のうちに食べられる。なんとかしろ、丞幻」
耳元で、鈴を転がすような声が焦燥を含んで囁かれた。




