二
どんなことを言われるのかと思っていたが、それくらいなら、と武則は頷いた。
喪中で忙しい時だというのに、わざわざ招き入れてくれたのだから、神香の一つも捧げないのは失礼だ。
「了解した。むしろ、喪中に尋ねてしまい申し訳ない」
「……んっとにな」
ぼそり、と矢凪がそっぽを向いたまま、呟いた。
「矢凪」
咎めるように丞幻が名を呼ぶ。矢凪はそっぽを向いたまま、こちらを見る事をしない。
「あの……本当に申し訳ない。お忙しい所を、無理に泊めていただき……」
武則は、口の中でもごもごと詫びた。
鋭い目で睨みつけられるのは、怖い。切って捨てるような言葉も、怖い。苦手な長兄を思い出して、身体が勝手に畏縮してしまう。
丞幻が矢凪の腹を小突いた。
「気にしないで頂戴な、笹辺様。このお馬鹿は八つ当たりしてるだけなので。……お前本当、いい加減にしなさい。八つ当たりしたってしょーがないでしょ」
矢凪を軽くねめつけてから、改めて丞幻は武則に向き直った。
「本当に申し訳ありません、笹辺様。ウチの助手が本当に、無礼な振る舞いを致しまして。こいつは後で七日間、酒抜きの刑に処しますので。ええ、ついでにおやつも抜きにしましょう。明日のおやつは海苔胡麻煎餅でしたが、こいつだけ炒り豆一粒に致します」
なんでだ! と言いた気に、物凄い勢いで丞幻に顔を向ける矢凪。「当たり前でしょ」とそれに涼しい顏で答える丞幻。
暢気なそのやり取りに、少しだけ武則の肩の力が抜けた。
囲炉裏の薪がぱちりとはぜる。
「あの……ところで亡くなった方は一体どなた……」
亡くなった性別や年齢によって、捧げる神香の数と種類は変わる。間違えて捧げると死者への侮辱となり、怒った死者に呪われる恐れもあるのだ。
そろりと丞幻に問いかけると、ひょいと肩がすくめられた。
「こちらの庵の主人です」
「え」
犬のようだと評されるつぶらな目をぱちりっ、と瞬かせて、武則は思わず声を上げた。
先ほど丞幻は、「庵の主人に頼まれて留守をしている」と話していなかったか。だが、亡くなった人が当の主人とは、どういう訳だろう。
……ああ、そっか。庵の主人は独り身か、家族を先に亡くしていて、自分が死んだ時に頼れる人がいなかったのかな。それで、この人達に死んだ後の事を頼んでいたのかも。
一瞬、不思議に思ったが、すぐにそう思い直して武則は頷いた。
「承知した。それで、主人の性別と、年は」
「ああ、性別は男。年は……まあ五十……くらいだったかしら」
ということは神香の種類は根万香で、捧げる数は五本か。
武則は承知した、と頷く。
「御遺体は右の襖の奥だろうか」
では、と腰を浮かせようとしたところで、丞幻が待ったをかけた。
「お待ちを。実は、葬儀の作法が他とは少々変わっていまして」
「そうなのか。それは、どのような」
「ええ。まず、鈴を鳴らします。これは割れていますが、普通に鳴らして結構。それから手を、こう」
丞幻は、胸の前で両手を合わせた。指を揃えて手のひらの付け根を合わせたまま、指先を少しだけ離し、一拍の間を置いて打ち付けた。ぽ、とくぐもった音が、武則の耳にかろうじて届く。
「二回」
ぽ、ともう一度、丞幻は指先を打ち合わせた。
「その後で、祭壇に向かって悪口を。なんでも構いませんが、なるたけひどいものを。『生まれ変わるな』『地の底に落ちろ』『お前の顏など昔から見たくなかった。蛆虫、肥溜めよりも汚らわしい塵め』『怪異に食われてしまえばいい』……みたいに、口を極めて罵って下さい。それから立てる御神香は半切り一本。それでよろしくお願いします」
「え、あの。……本当に、それで間違いは無いんですか?」
思わず、素の口調で問いかけてしまった。
丞幻と矢凪は、平然と頷く。武則は、少し声を荒げた。
「そんな弔い方が、あるものですか! それでは死者を、侮辱しているではありませんか!」
割れた鈴を鳴らす行為は、悪しきものを呼び込む魔寄せとなる。
手のひらの付け根を合わせたまま、指先だけで手を叩くと音がこもる。通常は自分が悼まれていると分かるように、よく響くように音を鳴らすのが礼儀だ。
祭壇に悪口を言うなど以ての外。死者を送る際は、死者に対して生前の感謝を口にする。そうして気持ち良く天へ昇ってもらうのだ。
神香の数は、十年単位で一つずつ増える。十代で一本、二十代で二本という様に。十歳以下の子どもの場合は、神香を半分に切って年齢分を捧げる。この神香を「半切り」と言う。
この時、神香の数が死者の年齢より少ない時は「この年に死んでいれば良かったのに」という意味となる。
丞幻が説明した「他と少々変わっている作法」は、正式な作法でも何でもない。死者を愚弄するものに他ならない。
「まあ、まあ。落ち着いてくださいな」
柔らかく燃える炎の向こうで、丞幻が武則を落ち着かせるように両手を上げた。やんわりと言葉が紡がれる。
「驚かれるのも無理はありません。ただ、こちらの主人は和水国、小菅村の出身なのです。あちらの葬儀は少々変わっておりまして。御存じですか、『悪口葬儀』。あえて亡くなった方を悪し様に罵る事で、死を悼んでいないように思わせてこの世への未練を断ち切り、天大神の元へ送り出すというものです。己が死んだ時は、故郷の葬儀で送って欲しい、というのが主人の遺言なのです」
「あ、そ、そうなのか……?」
「はい。申し訳ありません、先にお伝えしておくべきでした」
眉を下げる丞幻に、武則は慌てて首を横に振った。
「いや、あの、こちらこそ、訳も知らずに怒鳴ってしまい、申し訳ないです」
微妙な空気が漂う前に、そそくさと武則は立ち上がった。囲炉裏を回り込み、丞幻達の背後にある襖を開ける。
薄暗い廊下に出る直前、二人がじぃ……と武則の背中を凝視していたのが、妙に不気味だった。
薄明るい部屋に、鼻の奥がすーっとするような根万香の香りが充満している。
てっきり、布団に寝かされていると思っていた主人は、すでに棺桶に収められていた。
丸い棺桶の奥にそびえ立っているのは、天井まで続く階段状の祭壇。青毛氈の敷かれた祭壇には、各段の両端に鳥の形に加工された玻璃竹だけが置かれ、ぼんやりと光っていた。
納棺が既に行われている事を除けば、普通の葬儀の場だ。
変わった作法を伝えられたので少し身構えていた武則は、拍子抜けしつつもほっとしていた。
「それにしても、変わった風習だなあ」
まさか、死者を罵る事で送る風習があるとは。人を悪く言うのは得意ではないが、それでも大丈夫だろうか。
「ええと、まずは鈴を……」
縄で縛られた棺桶の手前に置かれた座布団に、武則は正座する。
棺桶と座布団の間に置かれた、小さな鈴を手に取った。
青みを帯びた透明な水晶の鈴の形は、風鈴に似ている。天辺に付いた長い持ち手を、つまんで持ち上げる。丞幻が言っていた通り、稲妻のような罅が鈴のあちこちに入っていた。
ぎぃん、ぎぃん。ぎぃん、ぎぃん。
鳴らす。耳の奥を引っかかれるような嫌な音が、波紋のように部屋に広がっていく。
嫌な音だ。武則はしかめそうになった顔を、慌てて引き締めた。
続けて両手を胸の前で合わせ、指先だけを少し離す。そのまま打ち付けようとして、傍らを足が横ぎった。
白い単衣の裾と素足が、部屋の奥から入口へ向かうように。すっ、すっ、と動いて、視界から消えていく。
「え」
思わず腰を浮かせて、視線を向ける。――……なにもいない。
首を巡らせ、周囲を見渡す。
祭壇の明かりだけでは、部屋の隅にわだかまる闇は消えてくれない。むしろ、薄ぼんやりと室内全体が明るいからこそ、四隅に残った闇は色濃く見えた。
墨汁を零したようなそこをじっと見ていると、じわあ……と得体のしれない何かが染み出してくるような気がして、武則は生唾を飲み込んだ。
光の加減か、埃を見間違えたのだ。葬儀の場だから、死者がいるという事を意識しすぎてしまい、些細なものを足として見間違えただけだ。
幻にしては、あまりに生々しい肌色の残像を脳裏から振り払って、武則は跳ね上がった心臓を宥めた。
「き、気のせいだ、気のせい」
己に言い聞かせるように出した言葉は、上滑りして空々しく響いた。
火鉢も囲炉裏も無いこの部屋は寒い。早く戻ろう。温まった身体が冷気に絡みつかれて、じわじわと冷えていく。
音を立てないように柏手を二回打ち、棺桶に向かって言われた通り、あらん限りの罵倒を叩きつける。最後に半切りになった神香に火を点け、香炉に敷き詰められた灰に突き刺した。
ちり、と小さな音を立てた神香から、細い白煙が生まれてゆっくりと天井に上がっていく。
「よ、よし」
これで終わりだ。元の部屋に戻ろう。
立ち上がり、部屋から出ようと棺桶に背を向ける。
――かた。
木と木が触れあう、微かな音が背中にぶつかった。襖に手をかけた状態で、びくりと武則は肩を跳ねさせた。落ち着いた筈の心の臓がまた、どっ、と早鐘を打つ。
気のせいだ、と己に言い聞かせる前に。誤魔化しは許さないとでも言うかのように、
――かた……かた……。かたた、かたっ。…………かたたたたたたっ。
「うわあぁっ!?」
最初は静かに。しかし段々と苛立ってきたかのように。木と木がぶつかり合う音が激しくなった。
武則の喉から、情けない悲鳴が飛び出た。転がり出るように廊下に逃げ、手と膝と冷たい床について荒い呼吸を繰り返す。
今の、音は。あの、木と木をぶつけ合うような音は、なんだ。あの部屋に、あんな音を立てるものなんて……ものなんて。それは……それは…………。
じわ、と背中に嫌な汗が滲んだ。
頭の中に、一つの光景が浮かぶ。
襖に手をかけた武則の背後。祭壇の前に鎮座した丸い棺桶の蓋。それが、小刻みにかたかたと動いている。中のものが、外に出る為に、両手で蓋を押し上げようとしているから。だが縄がかけられているから、力を込めても蓋は開かない。それで段々、焦れてきて乱暴に蓋を揺すり始めて、激しい音を響かせる――。
腹の底が、ぞおっと冷えた。
慌てて、首を振ってその想像を振り払う。
いや、そんな。そんな馬鹿な事があるはずない。きっと、鼠か何かがいるんだろう。それが走って、かたかた鳴ったのだ。それだけだ、それだけ。そんな、亡くなった人が、棺桶を開けようとするなんて、馬鹿な事があるわけがない。
――かたたっ。
「っ!」
室内を直視する勇気は無かった。
目を貝のようにつむり、手探りで襖を閉める。それから立ち上がった。細い廊下は、壁に小さな玻璃竹が一つかけられているばかりだ。襖が二つ、ぼやっとした明かりに照らされている。
「…………まだか」
囲炉裏の部屋へ続く襖の向こうから、くぐもった話し声が流れてきた。
「まだ、あれ、食ったら駄目か」
矢凪の声だ。不穏な響きを滲ませる言葉に、襖に手をかける事をためらってしまう。立ちすくむ武則の耳に、中の二人の会話が届く。
「駄目よ。まだ入れたばっかりでしょ」
「もう、あったまったろ。そろそろ食う。俺は腹ぁ減った」
「だあから、入れたばっかじゃ、まだ冷たいわよ。外側は温かくても、中はまだ冷えてるわよ、絶対」
「ぬぐ」
「もうちょっと囲炉裏の火で炙れば、肉も骨もあったまるから。ね、ちょっとお待ちなさいよ」
「おう。じゃあ、あいつが戻って来たら食う」
「だから、それじゃあまだ冷たいって言ってるでしょー。ちゃんと囲炉裏であっためないとねえ、案外大きいんだから、火が通るのには時間がかかるわよー」
あはははは、と和やかな笑い声が、凍り付いた武則の耳に突き刺さった。




