一
墨川山脈を抜け、貴墨に入った時から吹いていた強風は、日が落ちるにつれて雨粒が混ざるようになってきた。慌てて蓑を羽織ったが、轟々と前面に吹き付けてくる風雨の前では何の役にも立ってくれない。
風と大粒の雨に顔を叩かれ、まともに呼吸ができない。たまらず顔を下に逃がせば笠が飛ばされそうになり、慌てて顎の下で結んだ紐を押さえた。そうすると、肩にかけた振り分け荷物がずり落ちかけて、急いで杖を持っている方の手で荷物を掴む。
杖が地面から離れた途端、勢いよく吹き付けてきた風に足が掬われた。
「う、わぁっ!?」
身体を支えきれず、よろめいて尻餅をつく。泥水が顔にまで跳ねて、たちまち尻が冷たくなる。杖にくくりつけた玻璃竹が、白い明かりをあらぬ方へに向けた。
「うぅ……ひどい目に合った」
這う這うの体で、武則は街道脇に立っていた大木の下に逃げ込んだ。
懐に入れていた手拭も、びっしょり濡れている。これでは顔を拭いてもさっぱりしないが、顔に付いた泥を拭う分には助かった。
「やっぱり、あそこで主人の言う事を聞くべきだったかなあ……貴墨の豪風は凄まじいと聞いていたけど、ここまでひどいとは思わなかったし……」
山脈を抜けてすぐにあった茶屋で一息入れた時に、「今日は早めに宿を取った方がいい」と忠告されていたのだ。雨も降ってくるだろうから、このままでは歩けなくなる、と。
足腰は鍛えているから少しの風なら大丈夫だ、と返した己を殴ってやりたい。
いくら身体を鍛えていても、大いなる自然の前では人は無力だという事を、茶屋を出てから二刻|(四時間)、嫌と言うほど思い知らされた。
頭上に被さる枝葉を透かし、夜空を見上げる。
垂れ込める厚雲のせいで、空が近く感じた。星も月も見えないので、刻限は分からない。腹は空いているので、とっくに夕餉の頃は過ぎたろう。
今日はもう、これ以上進むのは無理だ。
杖を小脇に挟み、かじかんで感覚の無くなってきた指先を擦りながら、武則は弱り顔で眉を下げた。
「参ったなあ……この辺りに、旅籠かなんかあるかなあ」
びょごうびょごうと鳴る風と、叩きつける雨粒のせいで、周囲の様子を中々伺えない。
最後に通り過ぎた村に戻ろうか。そうも考えたが、今から戻った所で村人は皆眠っているだろう。そこを起こして泊めて欲しいと懇願するのは、流石に気が引ける。
とはいえこの暴風雨の中で野宿なぞしたら死ぬ。
この際、雨風がしのげるなら納屋でも、いやあばら家でも構わない。とにかく、近くに明かりは無いだろうか。
両手で目の上にひさしを作り、雨粒が目に入らないように庇いながら、ぐるりと周囲を見渡す。
「……ん?」
大木の後ろに目をやった時だった。ちらり、と明るい白が見えた。
武則は少し身を乗り出した。
明かりだ。確かな白い明かりが大木の後ろ、ほんの二十歩ほどの辺りに見える。
「助かったあぁ……」
ほおぉっ、と武則の口から安堵の声が漏れた。
これはきっと、天の助けだ。
明かりがあるなら人がいるし、まだ起きている筈だ。事情を話して、一晩泊めてもらおう。土間を貸してもらえるだけでもいい。
武則は杖をぐっと握りしめて、明かりへ足を踏み出した。
大木と明かりの間は短い背丈の草に覆われていた。杖にくくった玻璃竹で、足元を照らしながら明かりの元へと辿り着く。
小さな庵だった。
丸窓から、白い明かりが外へ漏れている。武則が見つけたのはこれだったようだ。
「御免、御免! どなたかいらっしゃるか! 一晩泊めていただきたく! 御免!!」
風に散らされないよう、大声を上げて戸を叩く。薄っぺらい戸を壊さない程度に、どんどんと叩き、何度か声を張り上げていると。
「はいな、どなた様?」
柔らかな男の声が、戸の向こうから聞こえた。
人当たりの良さそうな声にほっとして、雨に背中を打たれながら、更に声を張り上げる。
「拙者、松伸国が国主に仕えし笹辺家が三男、武則と申す! 急な風雨に難儀しており、こちらに泊めていただきたい!」
「あらぁ、それは難儀な事で。お待ちを」
と、言いかけた声が不意に小さくなった。どうやら室内に向けて何かを話しているようで、ごにょごにょと不明瞭なやり取りが続く。
「今、開けるからちょぉーっと待っててくださいねえ。雨風が入ってくるのは嫌なので、すぐに入って来て頂戴な」
「あい分かった!」
がた、と心張棒が外される音がして、少しがたつきながら戸が開く。人一人分の隙間に、武則はすぐさま飛び込んだ。
蓑から滝のように雨水が流れ落ち、音を立てて降り注ぐ。乾いていた三和土がたちまち黒に濡れた。
全身ずぶ濡れの身体はすっかり冷え込み、濡れた着物がまとわりつくのは不快で仕方ないが、雨も風も無い屋根の下に入れたというだけでもほっとする。大きく息を吐く武則の後ろで、戸が閉まる音がした。
途端に、耳に痛いほどの風音が小さくなる。
「あらまあ、思ったよりひどい有様」
男らしからぬ、なよなよとした口調と笑い声が横を通り過ぎて、庵の奥に消えていく。幾ばくもしない内に、声が戻って来た。
「はい、どうぞ。まあ身体を拭いて、着替えてくださいな。ああ、蓑と笠はそこの釘に引っ掛けといてくれればいいですよ」
「なにからなにまで、かたじけない」
「そう畏まらなくても、かまいませんよ。侍様に畏まられちゃあ、こっちが困るってものです。それに、困った時はお互い様って奴ですものねー」
数枚の手拭と着物を狭い板間に置いて、明るい笑顔を浮かべたのは、武則よりも年上に見える男だった。
ざっくり三つ編みにした髪と、柔和な色を宿した瞳は萌黄色。上背も高く、身体つきもがっしりとしていた。裾に金色の線が三本、斜めに入った紅葉色の着流しをまとっている。
鼻下を覆うように生えている髭を軽く撫でつけて、男はことりと首をかたむけた。
「ワシは向こうにいるので、着替え終わったら入って来てくださいな」
「あ、ああ。分かった」
頷くと、男はもう一度にこりと笑って板間向こうの襖を開け、するりとその身を室内に滑らせていった。
一畳ほどの板間には、玻璃竹行灯が置かれているのでぼんやりと周囲が照らされていた。同じく狭い土間で、武則は壁から突き出た釘の頭に蓑と笠をかけ、刀と杖を壁に立てかける。
四苦八苦して濡れた着物と足袋を脱いで身体を拭き、置かれた藍色の着流しに着替えた。
乾いた着物に袖を通すと、生き返ったような心持ちになる。
褌まで濡れていたので、新しい褌が置かれていたのを見た時は、思わず襖に向かって両手を合わせてしまった。
亜麻色の髪はまだ濡れたままだが、まあ短いからすぐに乾くだろう。手拭を頭に巻いて、刀だけを手に取り、武則はそろりと襖を開けた。
途端に、温かい空気が頬を撫でる。
天井から五つほど玻璃竹が吊り下がっていて、室内は明るい。入って両側の壁には襖、奥の壁には床の間があるが、そこには何も飾られていない。
中央にある囲炉裏には火が灯り、いかにも温かそうに燃えている。自在鉤には鉄鍋が引っかかっており、そこから白い湯気が途切れず立ち昇っていた。
それを見た瞬間、武則の身体が寒さを思い出してがたがたと震えはじめた。奥歯がかちかちと鳴る。
囲炉裏の傍には、二人の人物が腰を下ろしていた。
「あら、だいぶこざっぱりして何より。どうぞ火に当たってゆっくりしてくださいな」
一人は、先に会った萌黄色の男。
「……」
その対面に座ったもう一人は、薄茶色の髪を首の後ろでくくり、金色の瞳を煌かせた童顔の男。鉄砲袖の着物と野袴に身を包み、片胡坐をかいて立てた膝の上に腕を乗せ、矢のように鋭くこちらを睨んでくる。
それに、びくりと武則は身を竦ませた。
襖にかけた指が跳ねて、かたりと音を立ててしまう。なぜ、こちらを射殺さんばかりの目で睨むのだ。自分はなにかしただろうか。もしや、急な来客を好まぬ質なのか。
囲炉裏の炎はこちらを柔らかく手招いていて、ぜひともその火に手をかざしたいのだが、「なんだ貴様はそれ以上近づいてみろ、首を刎ねて鍋に突っ込んで今日の夕餉にしてやろうか。おっ、その鼻こりこりしてて美味そうだな」とでも言いたげな瞳に射すくめられて畳に足を踏み出せない。
「やーなーぎー。おやめ馬鹿。このお侍様に八つ当たるんじゃないわよ、この人はなーんも悪くないでしょ、この馬鹿」
「……」
ち、と口の中で舌を打ち、ふいと薄茶色の男が顔を背けた。
萌黄三つ編みの男が申し訳なさそうに笑って、こちらに向かって片手を挙げた。
「気にせずこっちへどうぞ。こいつ、愛しい女子が家に入るって日にこちらへ来る用事が入っちゃったから、拗ねていっだあ!?」
「るっせえ」
手にしていた瓢箪をぶん投げ、薄茶色の男がもう一度舌打ちする。
はあ、と曖昧に頷いて、武則は囲炉裏の間に足を踏み入れた。後ろ手に襖を閉めて、そろそろと囲炉裏へ近寄る。
そこで、どこで座ればいいのか武則は迷ってしまった。
通常、土間から最も遠い場所が家主、その両端が客人あるいは主人の妻、そして土間に近い場所は子ども達、というように囲炉裏を囲む場合は座る場所が決まっている。
男二人が座っているのは、囲炉裏の両端。奥と土間近くには、誰も座っていない。てっきり、萌黄色髪の男が庵の主だと思っていたのだが。
武則の疑問を察したのか、男が苦笑して立ち上がった。
「ワシもこいつも、ここの者ではありません。ちょいと、ここの主人に頼まれて、番をしているわけでして」
言いながら囲炉裏を回り込んで、薄茶色髪の男の隣へ向かう。
「ほらちょっと、そっち詰めて。こちらのお侍さんが座れないでしょ」
「……」
三度目の舌打ち。ほんの少しだけ尻をずらした薄茶色髪の男に、萌黄髪の男はもの言いたげな目を向けたが、何も言わずに隣に座った。
どうぞ、と先ほどまで男が座っていた所を、手で示される。柔らかい生地の座布団に正座し、刀を置いて武則は頭を下げた。
「重ね重ね、招いてくださり感謝致す。改めて、拙者は松伸国が国主に仕えし笹辺家が三男、武則と申す。此度は貴墨の宝山刀術道場の道場師範、宝山伸介殿に師範代にと請われた為、旅路の途中で御座った」
「あら、この風の中歩くのは難儀したでしょう。ワシは丞幻と申します。貴墨でしがない作家をやっておりまして、こちらは矢凪。ワシの助手です」
丞幻が丁寧に頭を下げる横で、矢凪は片胡坐をかいたまま、無言で会釈するようにした。
緩まない鋭い目つきから目を逸らしながら、武則も会釈を返す。
「こら」と丞幻がその頭を引っぱたいた。
「すみませんねえ、礼儀を知らない奴でして。……まあ笹辺様、どうぞ楽になさって。雨の中歩いて来たのだから、身体も冷えてるでしょう。ゆっくり温まって、これでもどうぞ。その調子だと、何も食べてないでしょうし」
丞幻は腰を浮かせ、鉄鍋から突き出していた匙を取った。椀に中身をよそって、箸と共にこちらに差し出してくる。
「はい、茸の味噌雑炊。お好きな」
「大好物です!」
茸、と聞いて思わず食い気味に叫んでしまった。茸は好物だ。味噌と茸の香りが鼻をくすぐり、腹の虫が大きな音を立てる。
丞幻が顔を背けた。んぐっ、ぐふ、と何かが喉に詰まったような音を立てて、小刻みに肩を震わせる。その手から矢凪が椀を引ったくり、そっぽを向いたまま武則に差し出してきた。
「あ、いただきます!」
武士としての言葉遣いも礼儀も忘れ、雑炊をかきこむ。
茸の出汁と味噌の優しい味が、歩き疲れて冷えた身体に染み渡っていく。少し熱くて舌を火傷したが、気にせず二杯、三杯立て続けにお代わりをして、茶器に淹れてもらった茶を一息に飲み干す。
そこで、ようやく武則は我に返った。
しまった。つい、匂いにつられてはしたない真似をしてしまった。
冷や飯食いの三男坊とはいえ、仮にも武士の家柄。だというのに、まるで犬のようにがつがつと、しかも人様の前で。
囲炉裏の火とは違う熱で、頬が熱くなっていく。
「す、すみま……いや、かたじけない。御見苦しい所を……」
手にした湯呑みを囲炉裏端に置き、しおしおと項垂れる。
対面の二人が生暖かい瞳を向けてくるのが、またいたたまれず、武則は更に項垂れた。
「いえいえ、よっぽど空腹だったようで。……そうそう、笹辺様。一つ、言っておかなければいけないことがありまして」
「言っておかなければいけないこと?」
何だろう。
顔を上げると、困ったように笑う丞幻と目が合った。
「実は今、この庵は喪中でして。『喪中の客は前世の縁』と申しますし、一つ、笹辺様にも香を捧げていただきたいのですが」




