終
〇 ● 〇
「素焼きの瓦は飛びゃせぬが、紙の瓦は風に飛ぶ。飛んだ先にて噂の種まき、あっという間に七十五日。瓦版、瓦版だよー! 怪異も流連になる上等な遊郭、羽二重楼の瓦版だよー!」
威勢の良い瓦版売りの声が、通りを響き渡る。
羽二重楼の騒動から数日。貴墨はこの話で持ち切りだった。
「おい、あんた聞いたかい。羽二重楼の話」「ああ、勿論だ。怪異に魅入られたって話じゃないか。残念だなあ。おいらぁ、あそこに馴染みがいたんだぜ」「はは、お気の毒様。まあしばらくは、山の神さんの機嫌を取るんだな。大地震が来たらおっかねえぞ」「ちげえねえやな」
「知ってるかい。あそこの店の旦那さん、羽二重楼に足繫く通ってたらしいんだけど、自分も怪異に魅入られたんじゃないかって、夜も眠れないらしいよ」「へえ。御内儀さんは放っておいてるのかい?」「ああ。良い薬だって、放っておいてるらしいよ。ずいぶん、派手に遊んでたみたいだからね。御内儀さんも良い気味だって思ってるんじゃないかい?」「ふうん。うちの宿六は、白粉猫と遊ぶ甲斐性もおあしも無くて良かったよ」「あはは、まったくだねえ」
道を歩くだけで、そんな話が耳に飛び込んでくる。
隣を歩いていた矢凪が、ひそりと囁いた。
「怪異の仕業ってことになってんだな」
「そうねー。まさか祓い屋が神の子に成り上がる為に、羽二重楼に術を仕掛けていた、なんて異怪も出せないでしょうよ。他の術師が同じようなことをしたら困るもの」
墨渡の広い通りを歩きながら、丞幻は両手を袖の中に差し込んで首をすくめた。
どこかから流れてきた怪異が羽二重楼に居つき、自分を崇めさせて神の立場に押し上げようと企み人々を洗脳した。異変に気付いた一人の遊女が命からがらそこから逃げ出し、異怪奉行所に助けを求めた。それを受けた与力同心達が遊郭に出向き、見事怪異を祓った。……世間の間では、そうなっている。
馬鹿正直に祓い屋がやりました、などと言ってしまい、祓い屋に対しての心象が悪くなるよりは怪異の仕業にした方がよほどいい。しかも今回の件は、色々な場所から頼りにされていた祓い屋が引き起こした事件だ。貴墨の人々が「もしかしたら、私のお世話になっている人も……」と不安がり、いざという時に頼れず手遅れになってしまう事だけは異怪奉行所も避けたいのだろう。
泡雪花魁を異怪奉行所に連れていった際、丞幻も異怪奉行である青音にきっぱり「あんたの本は好きだけどね、これは題材にするんじゃないよ」と釘を刺されている。
ちなみに怪異を封じる煙草入れに突っ込んだ蛍声は、すでに十六夜に渡している。礼にと貰った銭は全て、おしるこへの謝礼へと消えた。
喜んでくれていたが、あれは高い情報料だった。
――また、にゃにか聞きたいことがあるにゃら、翠蓮池の緑鯉に繋ぎを付けにゃ。貴墨の怪異から、奉公人の評判まで、知らにゃいことは、アタイには無いんだからね。
ぴっ、と団子尻尾を機嫌良く振って去っていった、黒白毛皮の背中を思い出して思わず遠い目になる丞幻。
情報一つを売ってもらうのに、次はどれほどの貢物が必要になるだろう。
頭を振って、話題を切り替える。
「それにしても、良かったわねえ。泡雪花魁、あと数日もすれば元気になるって」
「……ん」
仏頂面のまま、矢凪はそっぽを向いた。だがその目元が分かりやすく緩んでいるので、丞幻は思わず噴き出しそうになった。
「あ?」
「なーんでもないわよー」
じろりと睨まれたので、わざとらしくそっぽを向いて下手な口笛を吹く。
異怪奉行所で聴取を受けた後、泡雪花魁はそのまま奉行所預かりとなった。
蛍声に生気を根こそぎ吸われ、疲労困憊の状態で動き回った挙句に氷の力を使ったのが悪かったらしい。衰弱がひどく、このままでは死に至る可能性もあると、奉行所内にある療養所――怪異のせいで心身に異常が出た者や、呪詛を受けた者達専用だ――に、叩き込まれたのである。
本人は大丈夫だ、ちょっと疲れてるくらいで大袈裟な、とぶうたれていたが、矢凪が無言で眉を下げて首を横に振っていたのを見て、大人しくなった。
互いに惚れた相手に弱いところがお似合いだなあと、場違いな感想を抱いた丞幻である。
見舞いは許されたので、矢凪は毎日異怪奉行所に足を運んでいた。本日は曾根崎屋に行く用事……〆切をうっかり忘れてしまった為に夕吉に土下座しにいく大事な用事である。まあそれがあったので、丞幻も付いていったら物凄く不機嫌な顔に迎えられたが。
元気そうで何よりである。
「さて、曾根崎屋に行きましょうかね……」
「おう」
ふう、と息を吸う。吐く。吸う。吐く。足が重い。
思わず立ち止まった丞幻を、二、三歩先に歩いていった矢凪が振り返った。不思議そうに、ことんと首がかたむけられる。
「どうした」
「……お前、今日からワシにならない? ねっ、それがいいわ。ちょっと髪伸ばして染めるだけよ。背格好も似てるし、喋り方さえ変えちゃえばバレないって。ねっ、ねっ。ワシはお前になって生きてくからお願い助手でしょワシになって」
「ならねえよ」
ずん、と三歩の距離を一歩で戻ってきた矢凪が、丞幻の襟首をむんずと掴んだ。そのまま力づくで丞幻を引きずって歩き出す。
「あー、お許しになって御大尽様! 熱い鉄板の上に座らされて草稿書かされるー! それを見た高貴な方々に清酒片手に笑われるー!!」
「笑われろ。てめぇが悪ぃだろうがよ」
衆目など気にせず喚きながら引きずられていた丞幻と、眉間に皺を寄せてそれを荷物のように引きずっていた矢凪は、人波の向こうから声をかけられてそちらに目を向けた。
「ああ、やっぱり。先生、矢凪様。先日はありがとうございます」
「あれ、センセイ! それに矢凪の旦那! こんなところで会うなんて奇遇だねえ! この間は世話になったよう!」
羽二重楼の楼主、庄十郎とその妻のみどりがそれぞれ風呂敷包みを下げて、人込みをかき分けてこちらへ近づいてきた。
ぱっ、と矢凪が丞幻から手を離して、二人に向き直る。
「おう」
「あたた……あら楼主様、どうもー」
雑に放り出されたせいで強か打った後頭部を、顔をしかめてさする。起き上がりながら庄十郎に頭を下げると、ふっくらとした頬を庄十郎が苦笑の形に緩めた。
「もう楼主ではありませんよ、先生」
「あらごめんなさい、そうだったわねー」
庄十郎を始めとして、蛍声に操られていた羽二重楼の面々は、正気に戻った後は何も覚えていなかった。それがいい。幼い女童の体液が入った水を飲まされて操られ、花魁を追いかけ回していた、なんて記憶は、覚えていない方が賢明だ。
彼らは全員、異怪奉行所に浄化を受けてその日のうちに解放されている。唯一、身体を歪に作り替えられ、蛍声を腹に宿していたありまだけは眠り続けているが、きちんと治療と浄化を行えば、近いうちには目を覚ますだろうと言われていた。
「遊女の姐さん方や、男衆はもう?」
「ええ、故郷に帰る者は帰りましたし、別の所で働く者は既にそちらの方へ」
庄十郎は、羽二重楼を閉めた。
一時でも怪異に棲みつかれたというだけでも、縁起が悪い。悪評が立てば客も寄り付かなくなるだろうし、そうすれば働いている皆にも申し訳無い。面白おかしく事件を書きたてた瓦版が、飛ぶように売れているのだ。実際、物見遊山気分で羽二重楼を見に行き、店を開けろ、異怪に駆け込んだ威勢の良い姐さんを見せてくれと、のたまう輩は多いらしい。
客が増えるのはともかく、色遊びに慣れていない者が来て余計な面倒を引き起こし、遊女や男衆たちが傷つくのは御免だ、との事だった。
庄十郎は、遊女達の借金を全て帳消しにして金を用意してやり、故郷へ帰してやった。帰れない者には真っ当な働き口を探すなど、全員の世話をしてやったのだという。
大したものだ。
丞幻は、夫婦二人の持つ風呂敷包みに目をやった。矢凪はみどりに、何やら甲高い声であれこれとまくしたてられている。
「お二人も、故郷に?」
「いやあ……実は私共の話を聞いた虎の大将が、馬走にある小さな店を安く売ってくれましてね。夫婦二人、そこで甘酒屋でも開いて、のんびりしようかと」
「あらー、良いわね。店を開けたら知らせてちょうだいな。飲みに行くわー」
「ええ、是非いらしてください。お世話になった先生方ですからね、歓迎いたしますよ」
こりこりと、こめかみの辺りをかいて丞幻は苦笑した。
「お世話と言ってもねえ……あまり役には立っていないけど」
「ちょいとアンタ! そろそろ行くよ! 今日中には障子を開けて、埃を掃き出しちまわないといけないんだからさあ!!」
庄十郎が何か言おうとしたのを遮って、みどりがちゃきちゃきとした声を上げた。
「これ、みどり。お前ね、自分の話が終わったからって、人を急かすんじゃないよ」
「それじゃあセンセイ、旦那、店を開けたら知らせるから、絶対に飲みに来るんだよ! ウチの人の作る甘酒はそりゃあ美味いからねえ! あぁ、あと旦那! 何度も言うけど泡雪を頼んだよ! あの子はアンタを一等好いてたからねえ!!」
「ああ、これっ、みどり!」
夫の苦言を無視して、みどりは一方的にこちらにまくしたてると、船着き場へ小走りで去ってしまった。慌てて、庄十郎が丞幻達に頭を下げる。
「どうも、すみません先生方。では、私どもはこれで」
「はいな。お店、楽しみにしてるわあ」
「ええ、ええ。泡雪のこと、よろしくお頼みしますよ」
妻と同じような事を言って、庄十郎は「これ、みどり!」と声を上げて後を追っていく。ふくよかな身体が、たちまち人込みに紛れて消えていった。
丞幻は手を振って見送り、疲れた様子の助手に目をやった。
「ずいぶんまくしたてられてたけど、何言われてたの?」
「泡雪の、好物やら苦手なものやら、酒を飲ませるととんでもねえ事になるから飲ませるなやら、寝相はとんでもなく悪いから一緒に寝るなら覚悟しろだのうんぬんかんぬん……」
「あらま。花魁とはいえ、一遊女のそんな所まで知ってて、よろしくって頭下げるんだから、本当あの方達って、良い楼主さん達だったわねえー」
――泡雪は故郷ではなく、ひねもす亭に身を置くことになった。
十六夜にこき使われている今、共にいたらまた危険な目に合うのでは、孝右衛門のように人質になるのでは、と丞幻は危惧して反対したのだが、矢凪が首を縦に振らなかった。
あいつの故郷は遠いから、何かあってもすぐに行けない。それこそ故郷に帰る途中で、十六夜達に攫われでもしたらどうする、と言って、頑強に反対した。
最終的に、丞幻が折れた。
矢凪の意見に納得したのもあるし、彼女の存在がネタになるかもしれないという下心もある。
どうせ忍衆からの報告で知っているだろうが、十六夜に「一人増えるけど、仕事は手伝わせないわよ」と告げれば口元を綻ばせて「おめでとうございます」と返された。腹立たしい。
シロとアオは、矢凪の恋女房が来ると聞いてはしゃぎ回り、部屋を綺麗にするのだと張り切っている。今日も楽しそうに、泡雪の部屋になるだろう場所にはたきをかけて埃を畳に落とし、びちゃびちゃの雑巾でそれを拭いていた。帰ったら掃除のやり直しだ。
矢凪は普段と変わらぬ仏頂面だが、どことなくそわそわしているような雰囲気だ。丞幻自身も、なんだかんだで泡雪がやってくるのは少し楽しみにしていた。
正直、不安はある。
十六夜から見れば、人質が身近な場所に一人増えた状態だ。攫われるかもしれない、という危惧が本当になる可能性もあるし、呪詛をかけられる可能性だってある。
「ただまあ……矢凪が泡雪花魁に惚れてるってのは、とっくの昔に忍連中が調べ上げてるだろうし、それでいて何もしてないってことは、あえて見逃してるわよねこれ絶対。ワシらが歯向かうそぶりみせたら、次は泡雪花魁も人質に取るってことかしら。それとも孝右衛門殿が使いものにならなくなったら、次の呪詛の対象として取っといてるってことかしら。まあどっちにしろ腹立つわよねほんと。とりあえず孝右衛門殿にかかった呪詛の種類はいくつかに絞り込めてるけど、まだ確定できてないのが痛いわよねほんとそれに」
「おい」
「いっだぁ!?」
容赦の無い拳で頬を抉られ、丞幻は悲鳴を上げて正気に返った。
見れば矢凪が、呆れたような色を双眸に宿して僅かに高い位置にある丞幻の顔を見上げている。
「行くんだろ、曾根崎屋」
「あぁー……」
途端に現実を思い出して、丞幻はがっくりと脱力した。
そうだ。泡雪のことより、十六夜のことより、もっと大事な問題が目の前に横たわっていた。
「矢凪……本当お願い、一生のお願い!! 今だけでいいからワシと立場変わって」
「断る」
「お前助手でしょ! ワシの身代わりくらいやりなさいよ!」
「うるせえ。誰がてめぇの身代わりするか。死んでもやらねえわ」
「お前の『死んでも』は軽すぎんのよ。頼むから、もう自分をいたずらに傷つけるようなことするんじゃないわよ、泡雪花魁が泣くわよ」
「むぐ」
言葉に詰まった矢凪に、勝った、と丞幻は拳を軽く握った。いや勝っても嬉しくはないのだが。
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その日、曾根崎屋の地下にある謎の空間にて、丞幻同様〆切を守らなかった作家連中が集められ、「さあ、愚かな君達には殺し合いをしてもらおう。そして残った一人に、最高の作品を書いてもらおうか」と謎の死亡遊戯が始まった。
観覧席に招待された矢凪は「作家ってなんだっけ」と遠い目になっていた。
山の神=妻の事
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怪異名:廽子受胎(暫定)(退治済)←もう下手人の名前でいいんじゃないか?
危険度:乙(暫定)
概要:
冴木を中心に活動していた祓い屋・蛍声が行っていた呪術。
幼い女童を母体とした呪術であり、恐らく転生の秘術を下地にしたものと思われるが、詳しくは調査中。
羽二重楼の楼主を始めとした全員を洗脳し、異常を外に漏らさぬようにしていた。羽二重楼の花魁を母体である女童に、贄として捧げようとしていた所に客が訪れ、異常が発覚。
羽二重楼は浄化済。楼主達に事件の記憶は無く、唯一正気だった花魁も消耗と錯乱が激しく当時の詳しい状況は不明。また、母体とされていた女童は肉体に異常が見られるものの、魂自体に穢れは無い。現在は眠り続けているが、母体となった事で生気を奪われ続けた反動と思われる。肉体は現在治療中。
下手人である蛍声は現在行方不明。目下捜索中。←調査完了。異怪奉行所の到着前に消滅を確認。呪術が失敗した事により、代償として消滅したとみられる。
『貴墨怪異覚書』より抜粋。




