君を追ってのその先へ5
私は何処かに横になっているようだ。その私を誰かが運んでいるようだ。一体此処はどこだろうか。私の目には上から下へと光が流れる光景が映っている。それは天井の照明だろうか。何かが鳴っている気がするが、それは何の音だろうか。電話の音に似ている気がするが、よく分からないな。私の手が何かを握っているようだが、それは何だろうか。ああ、そうか、それは娘からの手紙だ。そうだ、ちょっと待ってくれ、私はこんな事をしてる時間は無いんだ。娘が待ってい……る……
◇
「由香里っ!」
ふと目を覚まし、ガバッと上半身を起こした私は、目の前に広がる不思議な光景に目を奪われた。
視界に入るその世界には、何も無かった。いや、頭上には文字通り雲一つない真っ青な空と燦々と輝く太陽があった。その太陽は眩しいだけで熱さも暖かさも一切感じない。そして大地と呼べる地面には建物等は一切見当たらず、大理石と見紛う艶のある白くて硬い地面が果てしなく続き、それは地平線が見える程に広がっていた。
「ここは一体……あ、そうだ……由香里は、由香里は何処だ」
周囲を見渡すも何も無い。いや、遠くに目を凝らすと2つの人らしき影が見えた。徐々に近づくそれは2人の子供らしき人影。
「由香里……まさかあれは、由香里か?」
私はその人影の元へと走り出した。
「おーい! 由香里ーっ!」
私がそう叫びながら向かうと、2つの人影の内の1つが走り出した。
「パパーッ!」
ツインテールに結った髪を靡かせながら、それは私の方へと走ってくる。私はそれが手に届きそうな距離になった所で地面に跪き、両手を広げて迎えた。この世で一番大切な一人娘である由香里を抱きしめた…………はずだったが、由香里は私を通り過ぎた。いや、私をすり抜けて行った。
「え? 何で?」
「あれ? パパ?」
私は何が起こったのか理解できなかった。それは由香里も同様だったようで口を半開きに呆然としていたが、再び私の元へと駆け寄り、私に抱きついた…………はずだったが、又してもすり抜けた。私の体をすり抜けた。
「由香里ちゃん、この世界ではパパには触れないよ」
2つ見えた人影の内のもう1つ、それは何処かの野球チームと思しきマークの付いた帽子をかぶり、半袖半ズボンという出で立ちの男の子。小学校2年生の由香里よりも少し上と思しき男の子。その子は年齢に似合わず、落ち着いた様子で以って由香里にそう言った。
「えっと……由香里、その子は?」
「琢磨君」
「琢磨君? 由香里の友達かい?」
「さっき友達になったんだよ。ねぇ、琢磨君」
「オジサン、こんにちは」
由香里はその男の子に満面の笑顔でそう言った。その瞬間、私の中で殺意が沸いた。娘と1つか2つ違いと思しき男の子……いや、男に殺意が沸いた。私以外に由香里から笑顔を向けられるその小さな男に、強烈な殺意を抱いた。
「へ、へぇ、さっき友達になったんだ。そ、それは良かったねぇ……。で、えっと……琢磨……君? 触れないってどういう事? っていうか君は此処が何処だか知ってるの?」
「知ってるよ。此処は『死後の世界』だよ」
「死後?」
「死後の世界」
「し、死後? 君は一体何言って――――」
「オジサンはね、もう死んでるんだよ」
「……」
「理由は知らないけど、オジサンは死んだから此処にいるんだよ」
「いや、君は何を言ってるの? 私が死んでる? この私が?」
「そうだよ。そしてこの『死後の世界』に来たの」
この男の子は何を言っているのだろう。私は今日だって仕事をして………いや昨日か? そう言えば此処で目が覚める直前まで、私は何処で何をしていたんだっけ。家で寝ていた……いや、違うな。そうだ、確か夜間警備の仕事をしていたはずだ。そういえばその時に何かあったような気がするな。確か私に向かって何かが……ああ、そうか。確かトラックが突っ込んできて……じゃあ、流れる様に見えた光は病院の天井の照明で、私はあの時、ストレッチャーに乗せられていたという事か。そしてあのまま私は死んだという事だろうか……ん? だとしたら……
「ちょ、琢磨君、だとしたら由香里は何故ここにいるんだ? 由香里は心臓の病気でずっと入院しているはずだ。今も病院のベッドで寝ているはずだ」
「だからさ、由香里ちゃんも死んじゃったって事でしょ?」
「いや、そんなはずは……」
そういえばストレッチャーに寝かされている時、遠くで何かが鳴っていた……。ひょっとしてあれは病院からの電話だったとでもいうのか?
「由香里が死んだ……のか……」
元々病弱だった妻は由香里を産んだ直後、その手に由香里を抱く事無く逝ってしまった。そうして産まれた由香里は心臓に疾患を抱えていた。歩くだけでも負担が大きく、走る事など自殺行為であると医者から言われた。小学校に入るまでは入退院を繰り返しながら何とか生活出来ていたが、その病状は良くなるどころか徐々に悪くなる一方だった。結局由香里は小学校の入学式だけ出席すると、そのまま病院へと向かい、以降ずっと入院生活を送る事となった。
由香里自身が大変であった事は想像に容易い。同学年の子達と一緒に公園で走り回ったりと遊ぶ事も出来なかった。そしてそんな疾患を抱えていたせいか、同学年の子よりも一回り小さかった。そんな小さな体で精一杯生きていた。悲観せずに精一杯の笑顔を私に見せてくれていた。
とはいえ私も楽では無かった。病と直接戦っているのは由香里本人ではあったが、私はそれを支えるが為の経済的な戦いをしていた。元々は自宅近くの小さい工場で以って働いてはいたが、それでは高額な入院生活を維持するのは困難であったが為、昼夜を問わずに高額な賃金が得られる仕事に変えた。とはいえ由香里を置いて遠くに行くような仕事を選択する事は出来ず、何かあったら直ぐに駆けつける事が出来るようにという条件の下での選択。やってみたい仕事では無く由香里を生かす為の仕事。睡眠時間を可能な限り削り、時間が少しでもあけば由香里に会いに行った。由香里が見せる笑顔が、私にとっての唯一の支えだった。
入院生活はホテルで暮らすという程に金がかかる。それら殆どの部分は健康保険で補填されていたからも、何とか維持出来ていたと言える。それが無ければ既に破綻していた。海外ではそんな制度が無い所もあるという。風邪を引いて医者に行けば直ぐにも何万、何十万という額が掛かるという。故に殆どの人は医者には行かず、日常的に鎮痛剤を服用する習慣が付いているとも聞く。そう考えるとこの国の国民皆保険とはとても有難い制度だなと痛感する。だが経済的に破綻していれば、入院費といった医療費は自治体が持つ事になっていたはずでもある。それを期待しての自己破産も考えた。だがそれでは由香里が治った際、肩身の狭い思いをさせてしまうかもしれないと思い留まっていた。故に体力の続く限り働き、入院費を賄うといった生活が続いていた。思えば私にトラックが突っ込んで来た時、私はうとうとしていた。あの時点で体力が限界に来ていたのかも知れない。それに気付いた時には避ける間も無かった。そして私の命が消え去ったと同時に、まるで私の命とリンクしていたかのようにして、由香里の命が消えた……。私にとって唯一の生き甲斐でもある、最愛の娘の命が消えていたというのか……
「パパー。ここ何も無いね。折角パパと遊べると思ったのに」
「え? あ、ああ、そうだね、つまんない場所だね」
由香里は自分が死んだという事に実感は無い様子であった。
「ねぇ、パパー」
「ん? 何?」
「由香里はパパに触れないの?」
「みたい……だね……」
由香里は今迄に見た事が無い程に元気であった。思えば由香里が走る姿を初めて見た。触れる事は出来ないにしても、ここにきてそんな元気な姿を初めて見た。死んでしまった事は悲しいが、そんな姿を初めて見る事が出来、それはそれで嬉しく、私は目頭が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、琢磨君。私を含めて由香里も死んで、魂という存在にでもなったという事? だから触れる事が出来ないって事?」
「そう、魂という存在だから肉体は持たない。勿論僕もね」
「あ、君も死んでるって事か……」
「そうだよ」
「じゃあここで魂という存在となり、一生……いや、死んでるから一生とは言わないか……とにかく永遠にこのままここに居るって事?」
「違うよ。ここは『死後の世界』だけど、死んだ人が来る『死後の世界』では無くて、寿命より――――」
「パパーッ!」
不意に私の後ろで由香里が叫んだ。直ぐに後ろを振り返ると、由香里は私に掌を見せていた。何を見せたいのか分からなかったが、よく見ると、由香里の掌は透けていた。
「ゆ、由香里! その手どうした!」
「分かんないよぉ……」
今にも泣きだしそうな由香里の手を掴もうとするも、私の手は由香里の手をすり抜け、掴む事は出来なかった。
「あれ? さっき現れたばかりなのに、随分と早いんだね」
男の子はそんな意味不明の事を口にした。
「早い? 早いって何が!?」
「寿命だよ。由香里ちゃんとはさっき会ったばかりなのにね。残念だね」
「何を……って君、どうして由香里の手が透けているのか知ってるの?」
「知ってるよ。だからさ、由香里ちゃんは寿命がきたんだよ」
「じゅ、寿命? だって私達は既に死んでるんだろ? 寿命もな――――」
「そうじゃなくてね、さっき言おうとしたんだけどね、ここは『死後の世界』だけどね、死んだ人が来る『死後の世界』では無くて、寿命よりも早く亡くなった人が来る『死後の世界』なの。由香里ちゃんやオジサンがどうやって死んじゃったのかは知らないけど、寿命よりも早く死んじゃったから此処に来ただけなんだよ。そして由香里ちゃんは今寿命が来たって事だね。ほんのちょっと寿命よりも早く死んじゃったという事なんだろうね」
さも当然と、男の子はそれが当たり前であるかのようにして、そんな事を口にした。
「パパァ、由香里消えちゃうの?」
「だ、大丈夫だから、パパがいるから心配しないでいいから」
「大丈夫も何も、このまま消え――――」
「君は黙っててくれないかな」
笑みを浮かべながら話す男の子の話を遮り、私は触れる事の出来ない娘を何とかしようと考えるも、由香里は手だけでなく、足も体も顔も透け始めた。
「やだ、パパっ! 助けてよぉ!」
「大丈夫だから、心配しなくていいから、パパが何とかするから」
だが消えていく娘に対して私が出来る事は何1つ無く、ただただ笑顔を保って声をかけるだけしか出来ない。
「パパーっ! 由香里消えたくないっ!」
「大丈夫だから、ねっ、パパはずっとユカリと居るから。これからもずっと一緒だから」
そう言って抱きしめようとするも、私の手は由香里の体をすり抜ける。由香里は泣きじゃくりながら私に抱きつこうとするも、その度にすり抜け地面に転ぶ。そして……
「パパーッ! たす――――」
雲散霧消。由香里は跡形もなく、霧のようにしてその場から消え去った。触れる事も出来ず、最期の顔は悲しみに溢れていた。途中で消えた由香里の言葉が私の耳の中で木霊する。
「ゆ、由香里ーっ! どこだーっ! 由香里ーっ!」
挙動不審と言える程に周囲を見渡し由香里の姿を探すも、見渡す限り白い地面しかなく、そこには私と男の子以外、何も存在しなかった。
「オジサン、しょうがないよ。これがこの世界のルールだもん」
「ル、ルール……?」
「そう、由香里ちゃんは寿命を迎えたんだよ」
「寿命って……由香里はまだ7歳だぞ? そんな理不尽な事があるってのかっ! ただでさえ心臓を悪くしてずっと入院生活を送っていたんだぞ!」
「年齢は全然関係無いし、何の理不尽な事でも無いよ。誰にでも起こる事だよ。病気だってそうでしょ?」
「子供のくせに知った風な事を言うんじゃないっ!」
「あ、そうか、まだオジサンには言ってなかったけどね、僕はオジサンよりも年上なんだよ?」
「一体何の話をしてるんだっ!」
「だからね、僕はここに80年近くいるの」
「それがど…………80年?」
「そう、80年」
「じゃあ君は……」
「僕が現世で生きてたら90歳近いお爺ちゃんだね。当然オジサンよりも年上なんだよ?」
「90歳……でも、だからって――――」
「これは理不尽では無くて、ただの現実であって概念って事じゃないかな」
「が、概念?」
「そう、生を受けたあらゆる全ての生物に共通するのは死が訪れるという事だけ。それ以外の差異については何ら理不尽では無く、そういう物であるという概念。お金持ちの家に生まれた人、経済的に恵まれない家庭に生まれた人、親に捨てられた人、生まれてすぐに親を失う人、戦場で生まれた人、病を抱えて生まれた人、家畜として生まれた動物、弱肉強食の中で生きる動物、ペットとして生まれた動物。それらは何ら理不尽では無く、世の中はそういう物であるという概念。コンセプトとも言うのかな? だから由香里ちゃんが病気を抱えて生まれ、今死んじゃったとしても、それは何も理不尽な事ではないんだよ」
概念だのコンセプトだのと小学生にしか見えない男の子が口にする。私よりも50年近くも早くに生れ、そして私が生まれるよりも早く死んだであろう子供にしか見えない者が言う。90年近く過ごしているというのなら、この世界に於いてそれなりの人数に会い、色々な話を聞いたのだろう。この子がそう云った事を理不尽では無いという理由は、そこにあるのだろう。
「だとしても……」
「まあ、オジサンが悲しむ事は理解できるけどね」
だがいくら年上だとしても、子供を持った事が無い奴に言われた言葉は余りにも軽い。早死にしたが為に、大切な人を失うという気持ちが分からないのだろう。この子の言う事も間違いでは無いのだろうし、私も時間が経てばそれを受け入れる事が出来るのかも知れない。だが今の時点では、それを受け入れる事は到底出来ないし納得も出来ない。かといって何が変わる訳でも無い……
「どうしたのオジサン?」
私は体中をまさぐる様にして、ある物を探していた。
「あ、あった……」
ズボンの後ろポケットにそれらしき物の感触。私はそれを取り出し両手に持ち、じっと見つめた。ウサギのようなキャラクターが印刷された白い封筒。その封筒の中には二つ折りにされた小さい紙が一枚入っていた。
『大好きなパパへ。いつもお仕事頑張ってくれてありがとう。由香里も早く元気になってパパと一緒に外で遊びたいです。パパも元気でずっと由香里と一緒に居てね』
それは1か月程前、入院中の由香里が私に向けて書いてくれた手紙。封筒の表には拙い字で以って『大好きなパパへ』と書かれていた。私はそれをお守り代わりとしてずっとポケットにしまっていた。朝が来て目覚める度、仕事の休憩時間になる度、夜布団に入る度に、それを見ていた。貰った時には真っ白であったその手紙は、私の手汗で薄汚れていた。頻繁に見ていた事もあってか折り目が破けそうになっていた箇所もあり、その都度セロファンテープで以って補修していた。娘以外で言えば私にとって最も価値あるそれ。短い文章ではあるが、世界で一番暖かい言葉が並ぶそれは、まるで魔法の様にして私に元気をくれた。
私は何度も何度もそれを読み返した。記憶以外で私に残されたたった1つの大事な物。読み出して直ぐに涙が溢れ始め、それらは白い地面と落ちていく。その涙は地面に溜まる事無く、直ぐに蒸発するようにして消えていった。すると、地面に置いたあった封筒が突如霧の様にして消え始めた。同時に、手にしていた手紙も霧の様にして消え始めた。
「な、何で……」
「むしろオジサンが手紙なんて物を持っていた事が不思議だね。この世界では身に付けていた服以外、何も存在しないはずなんだけどね。若しかしたら神様の悪戯って奴なのかもね」
そして封筒も手紙も、私の前から完全に消え去った。
「消えちゃったね」
「そ、そんな……」
私の手から霧の様にして消えた手紙を、私はただただ眺めていた。
「ねぇオジサン、何か聞きたい事ある?」
「え? 君、手紙を元に戻す方法知ってるの?」
「ああ、違う違う。僕は此処に来た人達にね、ここのルールを教えて回っているの。そうして由香里ちゃんを見つけ、オジサンを見つけたんだよ。だから此処のルールで聞きたい事は無い?」
「じゃあ、手紙を元に戻す方法は知らないの?」
「知らなーい」
「だったら他に聞きたい事なんて……」
「そう、じゃあ僕行くね。オジサンも寿命が来るその日まで頑張ってね。まあ、頑張ってって言い方はおかしいけどね。ははは。それじゃあバイバイ」
私の悲しみに一切興味無いとでも言うようにして、男の子は立ち去った……いや、フワリと浮き上がると飛び去った。
「な……と、飛んでる……」
人が空を飛ぶというシュールな光景を目にはした訳ではあるが、今の私にはそんな事はどうでもいい事だった。私にとって由香里が消え去り、由香里からの手紙も消え去ったという事実の方が、人が空を飛ぶ事よりも大事な事だった。
私は自分の手から既に消え去った手紙を見つめていた。何も無いその掌を、ジッと見つめていた。妻の形見とも言える由香里は、生まれてすぐに心臓に障害がある事が分かった。それからは入退院を繰り返し、ここ2年程は入院生活を送ってきた。死んだという事実を無視すれば、ここにきて初めて走っている由香里の姿を見た事は幸運とも言える。だがそんな矢先、由香里は霧の如く私の前から消え去った。既に死んでいるとしても、元気な娘の姿を見れたのは幸運と言えるのかも知れないが、そんな娘を抱きしめる事も触れる事も出来ないままに消え去った。恐らくそれは永遠の別れ。妻とも死別し娘ともこのような別れとなった。一体私が何をしたというのだろう。由香里が何をしたというのだろう。それでも不条理とは言えないとでも言うのか。これが生物のあるべき姿とでもいうのだろうか。概念であると一言で片づけられる程に、簡単な物なのだろうか。せめて笑顔で最期を迎えられれば良かったが、私の脳裏には泣きじゃくった由香里の顔が焼き付いた。その表情が永遠の別れなんて哀しすぎる。
ここで会った由香里は元気な姿と共に笑顔を見せてくれた。何も無いこの世界で、その笑顔は私を照らしてくれる太陽だった。雑草すらも咲かないこの世界で、その笑顔は向日葵だった。だがその太陽は既に沈み、向日葵は枯れ果てた。私は本当の寿命とやらが尽きるその日まで、その目には見えない枯れた花を心に抱き締めながら、過ごして行くだけなのだろう。ただただ、抜け殻のようにして、過ごして行くだけなのだろう。
2020年06月14日 2版 誤字訂正他
2020年04月12日 初版




