ディメンションノート
3
現実世界の朝と同じく、異世界の朝も日は登る。
地平線から広がっていく陽光に目を細めながら、俺―――遠崎伊織は、ビッグサイトのシャッターの外、草原に足を踏み出していた。
(改めて見渡すと…ほとんどMMORPGのフィールドだなこりゃ)
果てしなく広がる草原。遠くには小高い丘や、樹木が連なる森も見える。
モンスターのような、人を襲いそうな生物は今のところ視認できないが、用心するに越したことはなさそうだ。
(なるべく視界が確保できる場所を移動したほうがよさそうだな。いざモンスターに襲われたら…ダッシュで逃げる)
逃げ切れるような鈍足なモンスターがいるのか、というツッコミはさておき。
何せ、装備が貧弱なのだ。
オンラインRPGで言うところの初期装備ですらない。シャツにズボン、食糧と画材を詰め込んだリュックサック、以上。
どちらかというと村人Aである。
俺たちを転移させたヤツがもしいるなら、異世界転生系ラノベのお約束をもう少し勉強したほうがいい。
転生後赤ちゃんから初めて魔術の天才になっちゃうとか、女神に授けられし伝説級の武器をガン無視して女神そのものをお持ち帰りとか、そういった特殊能力?主人公補正?無しでどうやって生き延びてゆけというのだ。
初期装備がユニ○ロのセール服だけの主人公とか、ラノベユーザーブチ切れ→焚書コンボ必須案件である。
と、まあ、嘆いても仕方ない。
いまある物を駆使して、生き延びるしかないのだから。
そう気を取り直すと、持ち物をもう一度確認していく。
リュックサックの中には、サイフ、スマホに、ハンカチ、固形携帯食料が2箱、500mlペットボトルが2本(片方は飲みかけ)。
それと液晶タブレットが1枚。
異世界の探索に液晶タブレットが必須なのかと聞かれれば、はっきり言ってNOなのだが、絵描きの端くれとして、これを手放すわけにはいかない。
Orange社製。9.7インチ液晶タブレット、「ディメンションノート」。
絵描きの間で脅威のシェア90%を誇る液晶タブレット、通称「ディメノ」の最新型―――ではなく、2世代ほど前の旧型だけど、中古家電ショップを巡って、お年玉をはたいて買ったそれを、置いていくことは俺にはできなかった。
まあ、異世界人に対して言葉が通じなかった時、絵で描いて説明することもできるし、持って行って損はないだろう。
持ち物の確認を終えると。改めて日の登る方へと目をやる。
目指すは東。昨日ツオッターで見た、城壁のある町だ。
なぜ東と知っているのかというと、昨日ツオッターで町の写真をあげてた人―――ぷにぷにほっぺさん(@punipuni)のつぶやきに、駄目元で返信を送り、町の見えた方角を尋ねたのだ。
すると、意外なことにさらに返信があり、東京ビッグサイトから見て東の方角に町があることを教えてくれたのだ。
俺は、スマートフォンをとり出すと、コンパスのアプリを作動させる。
「目指すは東。城壁の町だな。食糧が尽きる前になんとか…」
もし、ぷにぷにほっぺさんが嘘をついてたり、あるいは、町に着くまでに食糧が尽きれば、俺は荒野でのたれ死ぬことになる。
「でも、東京ビッグサイト(ここ)にいても、すぐに食糧は尽きる。リスクを背負ってでも、行くしか、ない…!」
草原に、一歩踏み出す
二歩、三歩―――
自分は、正しい選択をしたのか。
そんなの神にしかわからない。
いや、あるいは、俺たちをこの世界に転移させた者がいるとしたら、何が正しい選択なのかわかるのかもしれない。
―――そんな、他愛もないことを考えながら。
俺は、外の世界に足を踏み出した。
しばらくは、見渡す限りの草原を、ひたすら歩いた。
3時間ほど進んだところで、起伏のある丘陵地帯に入ったので、一番高そうな丘に登って、東の方角を見てみた。
うねうねとした起伏の丘が遠くまで続いていて、町の影を発見することはできなかった。
北東方面には、それほど深くはなさそうだが森林が広がっている。
森から得体のしれないモンスターが突然飛び出してきて襲われるのも嫌だから、森からは少し距離をおき、緩いアップダウンのある丘陵地帯を、さらに歩く。
時折、ツオッターをチェックしてみたが、転移者による目新しい情報は無かった。
町を発見したぷにぷにほっぺさんのつぶやきも、昨日から途絶えている。
不安がつのる。
本当に町はこの方角であってるのか。手持ちの食糧と水で、たどり着けるのだろうか。
いや、ビッグサイトが転移したのは昨日の12時頃。それからすぐに外の世界に出たとして、ぷにぷにほっぺさんが町を発見したのは、写真からして午後6時頃。
約6時間歩いて、ようやく町を発見したことになる。
俺はまだ、歩いて3時間だ。焦りだすには早い。
(むしろモンスターに襲われないだけ、運がいいかもな…)
実はさっきから、遠目に何度かモンスターを目撃していた。
ぽよんぽよんと丘を跳ねる、スライムのような生き物。エサとなる虫でも捕食してるのだろうか。
そして、一度、森の方から姿を現した、赤黒い肌にぼろ布を巻き付け、動物の骨から削り出した短剣のようなものを持った、禍々しい生き物。
おそらく、ゴブリンというヤツだろう。
目撃したのはかなり遠目だったが、目が合ったような気がして、思わず近くの草むらに飛び込んでしまった。
幸い発見されていなかったようだが、森の近くを歩いていたら、アイツと出くわしていたらと思うと…正直ゾッとする。
武器を持たない今、おそらくどんなモンスターに襲われても生き延びることはできないだろう。
未だ発見できない町までの道のりを、1度もモンスターに襲われずに歩き切る。
(なんて無理ゲーだよ…)
あまりの可能性の低さに泣きそうになる。
だけど、泣いてる場合じゃない。
限りなく低い可能性に賭けて、生き残る。そんな道をもう、選んでしまったのだから。
それからさらに数時間、モンスターの動きに警戒しながら(時には道を大きく迂回して)歩き続けた。
いつの間にか日は傾き、西日が長い影を作る。
何度地平線を見あげても町の影は見当たらず、絶望とあきらめに、歩く速度が鈍る。
なだらかな丘陵地帯を抜け、再び見渡す限りの草原地帯に差し掛かったところで。
「―――あ」
地平線の彼方。
豆粒のように小さくだが、確かにそれはあった。
「城壁…町だ!」
ツオッターの写真で見たのと同じ。城壁に囲まれる町を、ついに見つけた。
「本当にあったんだ…!あそこにたどり着けば…!」
残りの食糧は、固形携帯食料が1個。水が500ml
町までは目算で、あと丸1日ほど歩けばたどり着くくらいの距離だ。
望みが繋がった。
パッと視界が開けたような、そんな感覚。
早く町にたどり着きたい。そんな思いからか、自然と歩みも早くなる。
―――だからこそ、俺は怠ってしまった。
今まで十分すぎるくらいに行ってきた、周囲への警戒を。
パカラッ パカラッ パカラッ
最初は空耳かと思った。だが、それは次第に大きくなり、明確な目的と意志を持って近づいてくる音だと気づいた時には、もう手遅れだった。
馬の蹄が地面を蹴る音が複数。
慌てて背後を向く。
そこには、夕日を背にした数頭の騎馬が、全速力でこっちへ向かっていた。
救援?現実世界からの?馬鹿な。それならなぜ馬なんかに乗っている?あれはもっと別の―――
嫌な予感が膨れ上がる。心臓の鼓動が早鐘のように大きく鳴り響く。
馬上の影が腰からスラリと何かを引き抜いた。あれは剣―――?
ニタリ、と影が笑った。
「うあ…」
むき出しの殺気が、視線が、すごい勢いで迫ってくる。間違いない、アレは。
盗賊だ。
「うわああああああああああああ!!」
弾かれたように俺は走り出す。
けれど、見渡す限りの平原だ、隠れるものは何もない。
何より、速度が違いすぎる。一呼吸するたびに馬蹄の音はグングン近づいてくる。
逃げ切れない!追い付かれる!
振り向くと、もう目の前に馬と男の顔があった。略奪の歓喜に満ちた男の顔。振りかぶった片刃の剣が、無慈悲に振り下ろされる。
「――――――ッ!!」
反射神経を総動員して、右に跳ぶ。
ブオンッ!!
ものすごい風切り音が左耳のすぐそばを通り過ぎる。
転倒。
意識が一瞬とびかけるが、打ち付けた右半身の痛みが再び意識を呼び戻す。
斬撃はギリギリでかわせたようだが、リュックサックの左ショルダー部分がザックリと裂け、リュックサックの中身が地面にぶちまけられていた。
「ぐ…うう……」
うめき声をあげながら上体を起こす。
もうそこには、数頭の馬に跨った男たちが、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら、俺を取り囲んでいる。
「避けやがった。すばしっこいガキだ」
男たちは各々の獲物を手に持ちながら、馬から降りてくる。
「チッ…男かよ…」
「ボスは喜ぶんじゃねぇか?クヒヒ」
「まあ、そう言うな。ただのガキじゃねえ…」
俺に斬りつけてきた、盗賊の中で一番ガタイの良い男が、俺の方を指さす。
「見ろよ、魔装具持ちだ」
魔装具?何の話だ?そんなもの、俺は持っちゃいない。
持っているのは、カロ○ーメイトと水とスマホと液晶タブレットくらいで、それも今や無残に散らばっている。
「昨日から妙な格好した奴らが、魔装具なんてレアなもん持ってうろついてやがる…格好の餌食だぜ」
「でもよ、魔装具使いこなしてたヤツもいたらしいぜ。ウィーゴの野郎どもは返り討ちにあったとか…」
「そりゃ、アイツらがマヌケだっただけだ。見ろよ、このガキが何かできると思うか?生まれたての小鹿みたいにガタガタ震えてやがる」
男たちの中でヒョロ長い体格をした者が、俺を指さすと、哄笑があがる。
俺は…動けなかった。
脚は震え、体は硬直し、心臓だけがうるさいくらいバクバクと鳴っている。
彼らは本気なのだ。本気で、俺を殺そうとしている。
現実世界では、滅多に向けられることのない、殺意。
それが、男たちが各々持つ武器として、形作り、俺に向けられる。
黒光りする、鉈のような片刃の剣。精肉所で切り落とされる豚のように、俺の首も簡単に切り落とすだろう。
野球のバットをもう一回り大きくしたようなこん棒。あれで殴られれば、骨は砕け、内臓は潰れ、いともたやすく俺は肉塊になるだろう。
それらが、明確な殺意をもって、ゆっくりと迫ってくる。
「―――ッ…―――ッ!」
ヒュウヒュウと息が漏れる。声すら出ない。命乞いもできない。
目の前に立つ男の顔が、殺人の愉悦に彩られる。
振り上げられる片刃の剣。いつの間にか登っていた月の光が刀身を煌かせる。
それが最初はスローモーションのように、やがて、ものすごい加速をつけて、俺の首めがけて振り下ろされ―――
世界は暗転した。
1秒、2秒、3秒…
止まっていた肺が、呼吸を再開する。
全身が、生きていることを思い出したかのように、感覚を取り戻す。
…俺はまだ、生きてる?
閉じた瞼の裏から、微かに光が漏れ出していた。
僅かに目を開ける。
そこには、キラキラと、まるで花吹雪のように舞う光の粒。
目の前には、刀を振り下ろした姿勢のまま、驚愕に目を見開く男の姿。
男の視線の先には、振り下ろした刀を、まるで花を摘むかのように無造作につまみ上げる、白く細い手があった。
白い手は、地面から―――否、そこにある、ひとつの機器から生えていた。
液晶タブレット「デメンションノート」
そのあり得ない光景に、誰もが目を奪われていた。
まばゆい光を発する液晶と、そこから伸びる白い手。
あたりをたゆたう光の粒が、液晶タブレットに収束していき、白い手の持ち主はさらなる姿を現す。
上腕、肩、頭、上半身―――光が形作っていったのは、人の姿だった。
たなびく漆黒の髪。白を基調としたスクールユニフォーム。それに身を包む、細く、小さな体。そして―――赤いランドセル。
光の粒は「それ」へと収束すると、まばゆい光を放ちながら霧散していった。
そしてそこに残ったのは、一人の人。
正確には。
一人の小さな少女だった。