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Cake de Ketten Goocha

 つい先日に卒業式を迎えた僕は、大学までの春休みを利用して、神戸にやってきていた。

 その玄関口とも言える阪急三宮駅。とある目的をたずさえて、ここに降り立った僕を待っていたのは、平日の午前中であるというのに、ごったがえしているほどの人だった。

 おそらく、僕と同じように春休みなのだろう。若い人も多い。

 久しぶりの都会の空気に触れながらも、僕の鼻は微かに漂う潮の香りをとらえていた。それは六年前の記憶と同じようでまったく違う――あるいは記憶が作り出した幻だろうか――ここは瀬戸内海からまだまだ遠いのだ。

 僕は、隣を歩く姉の表情をそっと見てみる。七年間を過ごしたこの土地は、姉にとってどんな意味を持っているのか。そんなことをふと考えてみても、ここが、生まれた時から年一回の旅行先でしかなかった僕には、わからないに決まっているのだけど。

「……どうしたん?」

 いつものようにおっとりとした口調で、逆に顔をのぞきこまれてしまった。二十六歳で今年結婚予定の姉は、声と同様に顔も雰囲気もおっとりとしていて、慈しみや癒しといった言葉が似合う美人である。

 一方、僕を評す声は、冷静やクール、切れ者といったものだ。姉と違って人を緊張させる何かを発しているのだろう。だが、僕はなぜか女の子に人気があった。もっとも、ルックスもいい方だと自負しているのだが。まあ、それは当然である。姉も僕も、あの美しい女性の遺伝子を継いでいるのだから。

「電車に酔ったん?」

「乗物酔いはもう治ったって」

 高校に入学した頃から大丈夫なのだ。治ってからも何度か姉と電車に乗っていたし、そのことは分かっているはずだが、本当に心配そうに聞いてきた。

「……完全に平気ってわけじゃないけど」

「大丈夫? どこかでちょっと休む?」

「いいって。姉ちゃんはいっつも大げさなんやから」

 でも悪い気はしない。僕のことをよく考えてくれて、いつも側にいてくれた姉は、僕にとって本当に大切な人だ。

 僕たちはふらりと駅を出て、それからはあまりしゃべらず、何とはなしにセンター街に向かっていた。

ある人に会うために大阪からここまでやってきたのだが、まだ時間がある。というより、時間に余裕をもって出発していたので、僕たちは神戸の街を散策することにしたのだ。

センター街に入ると、これまでの穏やかな春の空と太陽はアーケードに遮られ、代わりに僕の目に入ってきたのは、時計屋、靴屋、本屋、洋服屋、そしてケーキ屋などの店舗の掲げる看板や、きらびやかなショーウインドウだった。どれも洗練されたおしゃれな印象を受けるのは、神戸という街の醸し出すイメージのためだろうか。それとも、ここを歩いている人の楽しそうな表情のためだろうか。

「悠、ちょっとちょっと」

 悠は僕の名前だ。悠然、悠久、悠遠、悠長……いったいどんな意味がこの名前にこめられているのか、僕は知らない。

「こっちこっち」

靴下屋の店先で、姉は手招きしていた。僕はわざとゆっくりそっちに歩いていく。

「見て見て、かわいくない?」

 はしゃぎながらショーウインドウ越しに姉が指差した靴下は、色使いが派手ではあったが確かにかわいいと思えるものだった。

「……うん。まあいいんちゃう?」

「うわー、そっけなーい。せっかく神戸来たんやし、楽しまなきゃ損やで?」

「そうやけど……なんか、変に緊張してるねんな」

 僕らの目的はとある人に会うことである。だが、僕は確かにそのことを考えて緊張していて、それを正直に言うと、姉は朗らかに笑った。

「悠ってわりとナイーブやもんね……ただのおばさんやって。どこにでもいそうなおばさん」

「それは……そうやけど」

 僕はことさらに笑ったのだが、姉はなぜかまじめな顔をして

「悠って今何歳やっけ?」

 と聞いてきた。僕が

「十八」

 と短く答えると

「そっか……私たちってけっこう年離れてたんやったね」

 と、僕とは対極の、はっきりとした二重まぶたをパチパチさせて、姉はしみじみといった風に呟いた。

アーケード内に吹く緩い風に揺られて、微かに茶色がかっている姉の髪がふんわりと揺れている。染めてはいない。軽いパーマは当てられているが髪の毛が痛んで脱色したわけでもない。姉のものは元々の色なのだ。

 さりげなく僕はショーウインドウに映る僕の姿を見てみる。一重まぶたに硬質の黒い前髪がわずかにかかっており、整った鼻筋を強調する。自分で見ていてもどこか刃物のような端正な顔立ちだと思った。

その時、僕の視界の端で何者かが親しげに手を上げた。

その人物はりんごが大量に入っていると思われる紙袋を、左手に提げてにこやかに笑いながら向かってくる。

人の多い都会で簡単に埋没してしまいそうな、ごくありふれた青年といった風の男はしかし、どこか浮世離れした雰囲気を確かにまとっていた。そんな人物を僕は一人しか知らない。

「あぁ、長谷部……」

「悠やん! 奇遇やな」

「まあな」

「相変わらず冷たっ。クールか」

「……まあな」

 そこで長谷部は長めの髪の毛をなぜか気にしながら、姉の方を向いた。恋人だと勘違いしたのだろう。その表情に驚きと疑惑と羨望の三色が見事にないまぜになっているのを見て、僕はちょっと楽しくなる。長谷部はそんなやつだ。

「もしかして……邪魔やった?」

「悠くんの友達?」

 姉が口を開いた。妙に口調にトゲがある。

「あ、はい。でもちょっと声かけただけなんで……」

「そうなの? ゆっくり話してってもいいのよ」

 そして標準語になっている。完全に余所行きですよと言っているような不機嫌な声だ。姉は見た目に反してこういう状況でふざける癖があるのだ。

「いえ、本当にたまたまなんで……じゃあ僕はこれで」

「長谷部、待てよ」

 こうやって僕が説明するのもいつも通りだ。

 この人は僕の姉であること。それを言うとたいていの人はこのリアクションをする。

「マジで? 全然雰囲気違うやん」

 長谷部も同じだった。

姉といっても僕たちに受け継がれた遺伝子のうち、半分は完全に別のものであるのだから、このリアクションも当然かもしれない。

だが、長谷部は続けて意外なことを言った。

「あ、でもこうやって見ると顔、骨格が似てるんか……特に頬骨とかそっくりやん」

 僕は素直に驚いていた。今まで似ている、ということを言われて記憶がなかったからだ。それを長谷部はあっさりと口にした。

こういう感性が普通の青年などではないくせに、普通に自然と生活している。知れば知るほど知らないことが増えていく。長谷部はそんなやつだ。

「って、鎖骨とかもいっしょやん。やっぱ姉弟ってほんまやな」

 じろじろと女性の鎖骨を見て、それを口にするとは、長谷部は変態じゃないのか。だが、姉は確かに鎖骨の見える服を着ているが、僕は隠れているはずだ……もちろん、体育の着替えのときなんかに見られてはいるが、長谷部はそれを記憶しているのだろうか。考えるのが嫌になってきたから僕は長谷部から視線を外した。

「ほんまやで。驚かしてごめんな」

 そこにちょうど姉が入ってくる。長谷部の変態性を軽く受け流す発言は見事だった。

「いえ、僕もこんな美しい人と話ができて光栄です」

「あら、そう? ありがとね」

 姉は「きれい」とか「かわいい」とかを聞き慣れている節がある。しかもそれは、言った本人にとってはまんざらお世辞とも言えないのだ。

 その美しさの遺伝子を持った僕たちの母であった人は、四十五歳となったにも関わらず、いまだに美しいらしい。いや、僕の父と離婚してからも何回か母と会っていた姉によれば、離婚してからの六年間でさらに美しくなったそうだ。

 僕は自分の父のことを、そこまで魅力がないとは思っていない。僕に受け継がれた、切れ味の鋭い表情はしているが、有能で頭がよく頼りになる人ではあるはずだ。その証拠に、あの人と離婚して三年後には、僕の今の母である9歳年下の女性と結婚している。

 だが、そんな父に対して、あの人は去っていく道を選んだ。

行き先は、あの人の夫で会った人の下である。その人から生まれた姉の言うところによれば、水のような柔らかさと、風のような軽やかさをまとった、異国の香りに包まれていたらしい不思議な男性。その形見であるケーキ屋を本格的に切り盛りしながら、あの人はさらに美しくなっているという。

 僕はその男の顔を見たことがない。姉はその男、彼女の父から水のような柔らかさの遺伝子を受け継ぎはしたものの、おぼろげな全体像と、わずかばかりの具体的な記憶しかないのだという。

 当然のことだ。その男は二十五の若さでこの世を去ったのだから。

 彼が立ち上げたケーキ屋は、店主が死んだ後の経営を同僚に託され、今はかつての住処に戻ったあの人が経営者となっている。

 最愛の夫は永遠に若いまま……あの人はだからこそ美しき未亡人でいられるのだろうか。死んでしまった男の方が僕の父より魅力的だと言うのだろうか。

「神戸へは観光ですか?」

 長谷部の声だ。これまでも姉と何かしゃべっていたのだろうが、僕には聞こえなかった。それなのに、この一言だけははっきりと耳に響いたのだ。

 神戸に訪れた理由は、もう疎遠となってしまったあの人に会うためだ。

 僕が受験勉強に追われていた頃、結婚が決まった姉が言ったのだ。「私は結婚、悠は高校卒業、このこと、ママに伝えない?」と。

 姉はあの人のことを「ママ」と呼び、今の母を「お母さん」と呼ぶ。彼女は二人の母がいるという自分の境遇をきちんと受け入れられているのだ。僕と違って。

 僕はその提案に対し、もちろん二つ返事で答えることはなかったが、一蹴もしなかった。僕が中学入学前に、「もう大人だよね」などという言葉を残して去っていたあの人に会いたくない気持ちはずっと持っている。だが一方で、死んだ人の思い出に動かされるあの人に興味は持っていたし、その夫婦と姉が過ごした空間に訪れたいという気持ちは確かにどこかにはあったのだ。

あの人は第二の結婚をしてからずっと、一年に一回は新しい家族と神戸に旅行しているが、僕たちと共に夫の形見であるケーキ屋を訪れたことはなかった。姉だけは何度かあの人と顔見せに行っていたようだが、僕と父には存在すら教えようとしなかった。もちろん僕らはその店のことを知ってはいるのだが、あの人は初めから、最愛の人との思い出を自分の中に押し留めていたかったのだろう。

 ならばなぜあの人は父と結婚し、僕を産んだのだろうか。父はあの人にとってどのような存在だったのだろうか。

 そもそも、僕はあの人に会って一体何をしようと思っているのだろうか。

 長谷部の問いかけに対する姉の答えは

「まあ、そんなところやね」

 という無難なものだった。

長谷部に本当の目的を言っても仕方ないのだから当然だろう。

ただ、なぜか僕は、このことを長谷部に大声で言いふらしたい衝動に駆られていたのだ。そんなことをしても惨めになるだけとわかっていたのに。

「そうですか。なんだったら僕がいいところを案内しましょうか?」

 僕がうだうだと考えていると、ちょうどいいタイミングで長谷部がボケてくれた。おかげで、僕はこれに反応するだけで自然と会話に入れる。

「お前、こっち来たばかりやろ」

 楽なものだ。こういう会話は何も考えなくていい。

「悠、待てって。ツッコミ早いわ。今から、『来たばっかりなんですけど』って言う流れやったやろ」

「ああ、悪いな」

「そこはつっこめよ! そんな流れなかったって言えよ!」

「……逆に長谷部が流せよ」

「冷たっ。合コンとかで絶対モテへんタイプやん。あっ、でも――」

 僕はそこで睨みつけるように長谷部を見た。この手の話題から長谷部が次に持ち出すのは留美のことに決まっている。

 高二の夏から付き合っている彼女のことは言ってほしくなかった。というのも、僕はそのことをはっきりと姉に言っていなかったからだ。

もちろん、姉のことだから気づいてはいるかもしれないが、あの人に会いに行く直前というこのタイミングで、この話題に姉が関心を持つことは絶対避けたかったのだ。

長谷部はその意を汲み取ったのかは知らないが、次の言葉を

「お前はそんなことせんでもモテそうやな。恨めしいわ」

 というものにしてくれた。これはこれでリアクションに迷うが、最悪の状況を回避できただけでよしとしよう。

「ふふっ、長谷部くんって面白い人やね」

 そしてここで姉が入ってきてくれた。最高のタイミングだ。僕のことはもう話してほしくない。

「そうですか? よく言われます」

 額面どおりの意味でない場合も多いということに長谷部は気づいているのだろうか。まあ、彼はそんなことを気にしない風でもあるが。

「長谷部くんはこの辺の大学なん?」

「あっ、はい。そうです。下宿先から、ちょっと観光がてら髪でも切ろうかと……」

 そう言って長谷部は首筋が隠れるほどに伸びて微妙にカールしている髪をちょっとさわった。

「なるほどね……その袋はどうしたん?」

「これですか?」

 姉によく見えるように掲げた紙袋の中身は、僕の予想通り、いくつかのりんごだった。長谷部は高校でもりんごを持ち歩いていた変人である。とはいっても、半年もたてばみんな慣れていたのだが。

「りんご……?」

「はい。好きなんです。僕の旅のお供なんですよ。食べます?」

「……遠慮しておくわ」

「そうですか。おいしいのに残念です」

 それほど残念そうでもなく長谷部は言って、りんごを一つ袋から取り出し、眺めた後ゆっくりと袋に入れなおした。

「あっ、そろそろ美容室の予約の時間がきそうです」

 唐突とも思えるタイミングで長谷部はそう切り出した。

 僕はそれに便乗し、とっさに長谷部と別れるようにさりげなく身を引いた。

 早くあの人に会いたい、というわけではもちろんなかったが、長谷部と話しているぐらいなら核心にさっさと近づきたいという思いがあったのは事実ではある。

「じゃあね、長谷部くん」

 姉が言った。長谷部は最後まで笑顔の好青年のまま

「会えてよかったです。さようなら」

 と言い残し、りんごの入った紙袋を手に提げて去っていった。


  ◆


 一通りセンター街を歩き、神戸の雰囲気を楽しんだ僕らは、地下街に下りて洋食屋に入った。

 さすが神戸と言うべきか、電灯やテーブルにいちいち細かなおしゃれな内装の施された店でビーフシチューを食べながら、僕はあの人のことを思い出していた。

 家にいて僕たちの母であり、父の妻であったあの人は、結局その時間も元の夫のことを片時も忘れていなかったのだろうか。

 三年後に現れた新しい母や、甲斐甲斐しい姉の存在もあり、母親のいないことはそれほど苦痛に思わなかったはずなのに、あの人にとっては二番目でしかなかった父とあの人の子供だという僕の存在が、ここにきてじわじわと実感されてくる。

 これから六年ぶりに会うことがそうさせているのだろうと自分に言い聞かし、僕は地下鉄に乗った。

 三宮・花時計前駅、その駅名となった神戸市役所にある花時計は、確かに美しかったが想像よりも小さかった記憶がある。それもあの人がいたころに毎年行っていた三宮旅行のものだろう。

 始発の電車に乗り、ドアの閉まる音を聞く。サッカーの試合がある日はこの地下鉄も多くの人が利用するらしいが、今は何のイベントもないので空いている。

 行き先は御崎公園駅。サッカーのヴィッセル神戸のホームグラウンドが近い駅だ。姉は、サッカーファンであったあの人の夫に連れられて、よくスタジアムへ行っていたらしい。

 地下を走る騒音の中、姉はやたらと長谷部の話をしてきた。

 いわく、長谷部は姉の父によく似ているらしい。

 飄々とした雰囲気、普通に見えてつかみどころのないところがそっくりのようだ。

 なるほど、確かに長谷部はそのような男だが、ちょっとしゃべっただけでそれを見抜いてしまう姉の才能に僕は驚いていた。

「羽を伸ばしながら、自由な自分のルールに従って、それでも肝心なとこで頼れるタイプなんやろなぁ」

 姉はそんなことを言いながら父親でも思い出したのか、どこか懐かしげな表情を見せた。僕はそんな話には適当な相槌しかうてなかった。僕にとってはその人はまったく無関係なのだから。

 思ったより長く地下鉄に乗っていたように感じたが、実際は短い時間だったらしい。

 長い階段を登って地上に出ると、冬の寒さを忘れさせるような春の陽気が一気に押し寄せてきた。目の前に広がる道幅の広い道路がさらに開放感を抱かせる。

 サッカーの試合のときは歩道に人があふれかえってるねんで、と言いながら姉は躊躇なく歩いていく。彼女にとってあの人に会うのは何の抵抗もないのだろうか。

 確かに僕が六年ぶりに会うのに対して、姉はあの人が家を出ていってからも何回か会っている。そして姉にとってはあの人はまぎれもない母であり、別れられた僕の父も戸籍上の父であるにすぎないのだが……どうにも、姉があの人に会うことを当然のように嬉しがっているのが気にくわなかった。あの人は僕の血縁上の母であるはずなのに。

「神戸って何回来ても素敵な街やって思うわ」

 突然、姉がしみじみと言った。それはほとんど独り言のようだったけど、僕は

「姉ちゃんと家族の美しい思い出があるから?」

 と、つい言ってしまった。

 姉は一瞬だけ目をぱちくりとさせ、まじまじと僕の方を見てきた。と思えば、急に真剣な顔になって

「そっか……私、悠のこと傷つけちゃったかな……」

 僕が何か言おうとするより早く姉は続ける。

「私にとっては、ママはママで、パパも五歳までしかいっしょにいられなかったけど、パパやった……ねんけど、悠は違うんやもんね」

 僕はそれに対して、はっきりとそうだ、とは言えなかった。

僕とあの人とその夫とは、そんな単純な関係では表せず、そこに僕の父と現在の母と姉までもが混ざってくるような複雑なように思えて、しかし、姉が今言ったような言葉にすれば三十秒にも満たないものであるようにも思えたからだ。

 だから僕は苦笑いしながらぎこちない曖昧な相槌を打つしかなかったのだ。


  ◆


 広い道路から横道に入り、少し歩いたところで姉は立ち止まった。

『お菓子や 凪』という木でできた優しい雰囲気の看板がかけられたその店が、あの人のいるケーキ屋だった。

 僕はその瞬間まで、ケーキ屋の名前すらも知らなかった。だから姉が自然にドアを開けて、中へ入っていったときも、鳴り出したドア・ベルの音が僕を拒絶しているようにすら感じたのだ。

「いらっしゃいませ」

 にこやかな笑顔の店員は、僕たちを客だと思って応対している。ちょうど三時頃だというのに、店の中のイート・イン・スペースにはそれほど人がいなかった。

「恵里さんはおられますか?」

 森恵里というのがあの人のフルネームだ。もちろん僕たちとは苗字が違う。

「店長ですか? えーと、御用は何でしょう?」

 クレームか何かと勘違いしたのだろうか、店員は慌てて言った。

「紗耶香が来たと伝えてください」

「サヤカ様……? あっ! 紗耶香さんですか?」

「あら? 私のこと知ってるん?」

「何度か店長から聞いたことがあります……わかりました。店長を呼んできます。少しお待ちください」

 店員はちらりと他の客がいないことを確認すると、あの人を呼びに裏に入っていった。

「アポなしやったん?」

 僕が言うと、姉は気まずそうに笑った。確かに一度もアポを取っているとは聞いていなかったが、てっきりそうだとばかり思っていた。

「お待たせしました」

妙に楽しそうな声で言った店員の隣にあの人が立っていた。

 六年前に別れたきり会っていなかったが、まるで年などとっていないかのような、いや、さらに若々しくなったとさえ思ってしまうほどに美しいあの人が立っていた。

「あなた、悠……?」

 僕の生みの母である恵里さんは困惑した眼差しを僕に向け、姉にも向け、最後になぜか店員に向けた。

「ママ、今日はいきなりおしかけちゃってごめん……今時間ある?」

「え……ええ。じゃあ中に入りましょ……悠も……本吉さん、後は頼めます?」

「大丈夫ですよ。任せてください」

 店員に店のことを任せ、恵里さんは僕らに背を向けキッチンの中に入っていく。

 おそらく裏口から二階あたりに上がるのだろう。つまり、恵里さんの生活環境に足を踏み入れるということだ。

「ありがとう、ママ。どうしても言っておきたいことがあるねんか――」

「わかってるわよ」

 恵里さんは姉の言葉の切れ端を狙ったように、間髪いれずに言った。

「何もないのに、わざわざここになんて来ないでしょ。ちょうど今日はお客さんも多くないし、ゆっくりしていっても大丈夫よ……三人で、ね」

 恵里さんは一瞬だけ言葉を切り、僕のほうに目線を向けた。

 僕の予想通り、キッチンを抜けたとこに裏口があり、その脇にドアがあった。それを開けると薄暗い階段が続いており、恵里さんが先頭を歩いて僕たちを案内する。

 その間、誰も一言も喋らなかった。特に、僕と恵里さんは六年ぶりだというのに会ってから言葉を何一つかわしていなかった。

「ここにしましょうか」

 二階に上がって、リビングのようなところに恵里さんは僕らを招きいれた。

 全体的に落ち着いた配色の内装と、開放感のあるオープンキッチンは、その場の雰囲気をほぐすことに一役買ったのだろう。姉が中央に置かれたテーブルの前の椅子に座って

「なんか懐かしいわ」

 と、しみじみと言ったのだ。

「そうね……私も懐かしいわ。さ、悠も座っておいて。ケーキ持ってきてコーヒーでも淹れるから」

 せっかく登ってきたのに恵里さんはまた下に降りていった。ケーキを取りにいくようだ。

 部屋に残された僕と姉は互いに顔を見合わせ、僕はとりあえず姉の隣の椅子に腰掛けた。

「恵里さん……綺麗になってるな……」

「そうね」

 姉はそれ以上その話はせずに、ここのケーキはおいしいとか神戸にはおいしいものがたくさんあるとか、そんな話でお茶をにごしてきた。

 充実した生活が人間を輝かせるのだとしたら、恵里さんの美しさは、生きている人間よりも過去に残された想い出のほうを彼女が好むという証明に他ならないのだ。

 だから姉は何も言わなかった。何を言っても僕を間接的に傷つけてしまうかもしれないとわかったからこそ何も言わなかった。僕はその姉の優しさが嬉しかった。だけど……

「おまたせ」

 恵里さんがケーキを乗せた皿をお盆に置いて持ってきた。それをテーブルの上にそろりとおろし、自身は座らない。コーヒーを淹れにキッチンへと向かうのだろうか。いずれにしても昔のように優雅な仕草だった。

 オープンキッチンなので恵里さんの様子がわかる。ポットを温めなおしているようだ。ごそごそと音がして陶器の触れ合う音が聞こえる。牛乳を温めながらスプーンと砂糖を用意してくれている……。

 次に顔をあげた瞬間に――。

 僕は意を決した。

「お久しぶりです。恵里さん」

 僕から先に話しかけられるとは思っていなかったのだろう。恵里さんは顔をあげたまま目をぱちくりとさせた。牛乳を温めていたレンジが役目を終えたと音を立てる。

「あ、うん。久しぶりね」

 僕は今すぐにでも立ち上がって、何食わぬ顔でコーヒーを淹れようとしているこの生みの母に近づいて、問い詰めたかった。

 死んでしまった夫のことを、ずっとどう思っていたのか、僕の父といるとき誰のことを考えていたのか、本当に愛していたのは誰なのか、産まれてきた僕をどう思っていたのか、年一回の三宮旅行は何のためだったのか、あなたが出て行く時に言った「もう大人だよね」という言葉の意味はなんなのか、僕が中学生になったらいったいどうだったというのか……このケーキ屋を残していたのは、僕と父にここのことを話さなかったのは、姉とだけは定期的に会っていたのは、父と結婚したのは、僕を産んだのは、一体なぜなのか。

 だが、僕だってもうわかっている。こんな問いかけに答えなんてない。答えだと思っていたものは、結局は使いやすい言葉で作られた行き当たりばったりの虚構にすぎないということぐらい、僕にだってわかっていた。

 だから、

「その冷蔵庫の上に飾ってある写真に写っているのが敦史さんですか?」

 と、聞いてみた。

 恵里さんはインスタントコーヒーの粉末をすくいながら

「そうよ」

 とだけ短く答えた。

 それからコーヒーが運ばれてくるまで誰もしゃべらなかった。姉は完全に口を挟めるような話題ではないと悟ったのか、ずっと黙っており、恵里さんも何も言えない状況だったからだ。

 僕だって恵里さんの言葉なんか期待していない。言い訳も謝罪も何の意味もない言葉の羅列でしかない。彼女がこの家で、死んだ夫の写真と共に暮らしているという事実が全てを物語っているのだから。

「コーヒーはどう?」

「おいしいで」

 姉が一口すすってすぐに言った。

「それはよかったわ……ところで言っておきたいことって?」

「あ、うん。私が言っていい?」

 妙に明るい声で姉が言うものだから、僕はどうすることもできずに軽くうなずいた。

「私、今年結婚するねん。そんで悠はこの前高校卒業して大学生になんねん、って報告」

 照れくさそうに姉は言い、恵里さんは素直に喜んでいるように見えた。

 それからは女同士の会話といった感じだった。僕はもう蚊帳の外といった面持ちで、黙ってケーキを食べながら会話を流し聞きしていた。

 恵里さんの方は興味を持ったような素振りは見せつつも、姉の結婚に対して積極的な質問をしようとはしていない。それは自身の複雑な境遇を思ってのことだろうか。そして恵里さんは僕の話も極力避けているようだった。今さらになって出て行ったことを悪びれているのだろうかどうかは知らないが、少なくとも僕はそんな感情を欲してはいない。今さらどうなるものでもないのだ。僕と恵里さんは完全に他人でしかないのだから。

 ケーキを食べ終わり、コーヒーをいくらか飲んだ僕は、おもむろに立ち上がって、冷蔵庫のうえにある恵里さんの夫であった敦史さんの写真が入れられた写真立てを手に取った。

 恵里さんも姉もびっくりしたように会話をやめ、僕の突飛な行動を眺めていた。恵里さんは得体の知れないものを見るような目で僕を見ていたのかもしれない。

「……写真からでもユニークさと誠実さが同居した面影が伝わってきます。いい人だったんでしょうね」

 恵里さんは僕の独り言に近い問いかけに面食らったのか、少し答えに間を空けた。が、

「ええ。いい人よ」

 と、はっきりと言った。

「その写真、こっちに持ってきてくれる?」

 恵里さんは僕の手から写真立てを受け取ると、そっとそれを机の上に置いた。恵里さんと敦史さんと姉が楽しそうに笑っている。姉は幼く、恵里さんは若く、初めて見た敦史さんはとびきりの笑顔を見せている。

 僕にはそれが僕とまったく関係のない家族の姿に思えた。いや、事実そうなのだけれど。

「恵里さんは……敦史さんのことが好きですか?」

「……ずっと好きよ」

「そうでしょうね」

 嘘をつけない雰囲気、でもそれは緊迫とは違う開放的な雰囲気がもたらした雰囲気だった。

「敦史さんがこの世からいなくなって、私は動転していたの……いいえ、動転なんかじゃなくてもっとこう……悲しいとか驚いたとか理不尽だとか、そんな感情でもない何か……寂しさがあったの……」

 恵里さんはしどろもどろではあるものの、淡々と語っていた。

「でも私は将明さんのことを――」

「いいですよ」

 驚くほど簡単に僕は恵里さんの言葉をさえぎっていた。

「何を聞いても、何かが変わるわけじゃないんですから」

 先ほどまであれほど知りたいと思っていた恵里さんの気持ちを聞けるチャンスである事は間違いなかった。だが僕はそれを聞きたいと思わなかった。

 僕の両親がお互いにどう思っていようと、僕が生まれたという事実はどうにもならないのだ。

「恵里さん……ケーキ、おいしかったです」

「ありがとう……高校卒業と大学合格おめでとう」

 僕はそれに直接答えず、ただ軽く微笑んだ。


  ◆


 帰り道、三宮・花時計前駅から阪急三宮駅まで歩いている途中だった。

僕の視界の端で何者かが親しげに手を上げた。

その人物はりんごが大量に入っていると思われる紙袋を、左手に提げてにこやかに笑いながら向かってくる。

人の多い都会で簡単に埋没してしまいそうな、ごくありふれた青年といった風の男はしかし、どこか浮世離れした雰囲気を確かにまとっていた。そんな人物に二回も会うとは……高校以来だ。

「またお前か……」

「悠やん! 奇遇やな」

「まあな」

「二度目も冷たっ。クールか」

「……何で同じこと繰りかえすんや」

 隣で姉が笑っている。

「長谷部くん、髪ばっさりいったやん」

 長谷部の長かった髪はすっきりと切られ、今風の短髪になっていた。

「そうなんですよ。こんなに切るつもりなかったのに『かっこよくなるようにお願いします!』って言ったら勝手にこうなっちゃって……」

「男前やん」

「そうですか! しばらくこんな感じで大学デビューします」

「お前アホやろ」

 即座につっこむと、長谷部は満足げに笑った。

「それでこそ悠や。なんかさっきより明るくなったやん。あ、そんな綺麗なお姉さんといっしょに歩いてたらそら明るくなるよな!」

 僕は苦笑しながら説明する。

「ちょっと肩の重荷が降りたって感じなんや……まあ、姉ちゃんがいっしょやからってのもあるけど。歩いてる人みんなこっち見るし」

「うわぁー。悠、どん引きやわー」

 姉がそう言って僕から離れると

「やわー」

 と、長谷部が紙袋からりんごを出して差し出してきた。

「……なに?」

「物ボケ」

「無茶ぶりんご」

「……キャラ崩壊してるで」

 長谷部も姉もくすりとも笑わなかったので、しかたなく僕は一人で苦笑した。

 もう親がどうとか、そんなの僕には関係のないことなのだ。僕には長谷部という親友がいて、優しい姉がいて、かわいい留美がいて、それ以外にもたくさんの人が僕の周りにいて、これからも増えていく。

「それに、悠には私じゃなくてふさわしい人がいるやん。今日はいい予習になったやろ?」

 長谷部が言わないと思っていたら、姉がこんなことを言い出した。

 ちらりと彼女の方を見ると、前からバレバレやで、と表情で語っている。

 僕はため息をついて首だけ縦に振った。留美のことはおそらくばれているとは思っていたが、予想通りだったわけだ。

「綺麗なお姉さんにかわいい彼女……この充実野郎!」

「まあまあ。悠、どう? この機会に彼女に愛想つかされないような男になるってここで宣言してみない?」

「どういう文脈?」

 僕は本気で呆れていた。姉なりに元気づけようと気を使ってくれていることぐらいはわかる。だけどこの使い方って……。

「愛想つかされること前提なんですか?」

 と長谷部が当然の疑問を口にする。

「うーん。だって悠ってちょっとおもしろくないっていうか、堅いところあるやん?」

「まさにその通りですね。高校の時も――」

「わかった。言うよ」

 長谷部の声をさえぎって僕は言った。長谷部は驚愕の表情を浮かべている。本当にキャラが崩壊していると思っているのだろう。

 いいさ。そういうのもアリだ。

 映画などではここで叫ぶのが定番パターンかもしれないが、僕にはそんな度胸はない。

 だから自分に言い聞かせるように言った。

「俺は、俺らしく生きる」

「はぁ?」

 長谷部の怪訝そうな顔も、姉の満足気な顔も無視して僕はさっさと歩き出した。もちろん、恥ずかしかったからに決まっている。


(了)



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