その5 保健室の情事
意識を失ってぐんにゃりする和久宮を何とか抱きかかえ、僕は特別校舎の一番隅っこにある『第二保健室』へ向かった。山田先生より「和久宮に何かあったときは、そこにいる“女帝”に相談せよ」と事前に指示されていたからだ。
小ぢんまりとしつつも清潔感のある室内には、白衣を着た若い女性の保健医がいて、何やら暇そうにスマホをいじっていた。ちょっとキツめの顔立ちながら、ボブヘアのよく似合うなかなかの美人だ。
その保健医――南先生は、意識の無い和久宮を見るや「あらあら大変」と全く大変じゃなさそうな口調で呟き、和久宮をベッドに寝かせるなどテキパキ対応した後、「ご苦労様」とお茶を淹れてくれた。
「和久宮さんは、中学の頃からうちのお得意さまだったの。さしずめ私はあの子の主治医兼頼れるお姉さんってとこね。でも高校生になってからはめっきりご無沙汰で、私もホッとしてたんだけど……まあそう上手くは行かないわよね。和久宮さんって基本的に豆腐メンタル……ううん、むしろ『豆乳メンタル』だから」
あっけらかんと明るく言い放つ南先生。お得意様を豆乳扱いとは、なかなかの毒舌っぷりだ。
「えぇと、和久宮の体調のこと、もう少し具体的に教えてくれませんか? 一応クラス委員として事情を把握しておきたいんで……差し障りがあるなら構わないんですが」
プライバシーを気にして遠慮がちに尋ねると、南先生は「君って顔に似合わず真面目なんだね」と若干引っかかる感想を述べた上で、サラッと語ってくれた。
病名は、過度の神経症。別名、豆乳病。
中学時代から、緊張したりストレスが高まるとすぐ倒れてしまう……というより、倒れる前に本人が自覚してふらっふらの状態で逃げこんで来るのだという。
車で送り迎えしてもらったところで大した効果はなく、裏門のロータリーから昇降口までの約五十メートルでヒットポイントはゼロになるとか。何という紙装甲。
「ただね、こう見えて和久宮さん、意外と頑固っていうか気持ちの強い子なの。だから自分の病気のことは誰にも言わないし、バレるような隙も見せないはずなんだけど……倒れるまで頑張っちゃうなんてよっぽど楽しかったのかしらねぇ、君とのお喋りが……フフフ」
突然不気味な笑い声をたてた南先生。キャスター付の椅子をギシッと軋ませ、ズイッと顔を近づけてくる。何やら鼻息が荒い。
「……で、何の話してたの? やっぱりラブ系? 告白しちゃったの? それとも告られ……はさすがに無いかな」
「南先生、さっきから発言がちょいちょい失礼ですよね」
「いいから早く教えなさいよッ」
「あー……実は僕、骨董品に少々興味がありまして、和久宮の花瓶が気になったんで『見せてくれ』って頼んだんです。でもなぜか頑なに拒絶されて、ちょっとした押し問答っぽくなって……そしたら和久宮がいきなり倒れたんですよ」
ついでに、見知らぬ女生徒にそのシーンを目撃され、痴漢っぽい印象を与えてしまったことも伝えた。「そんなつもりじゃなかった」という単語を多用するあたり、我ながら言い訳がましいと思いつつ。
すると、うんうんと相槌を打ちながら傾聴していた南先生が、突然切れ長の目をスッと細めて。
「君、嘘ついてるでしょ」
「べ、別に嘘なんて僕は……」
「カウンセラーの眼力舐めんな! 嘘ついたって先生にはすぐ分かるんですからね! さあ正直に白状しやがれ!」
「――すみません、嘘つきました! 実はその花瓶から妖精が出てきて、そいつが和久宮を操って僕をヘンタイ呼ばわりしたんです!」
……。
……。
……我ながら電波だった。
南先生は、切れ長の目を真ん丸にして僕を見つめた後。
「――ブハッ!」
吹いた。
そのまま腹を抱えて大爆笑。収まりかけるたびに僕の方をチラッと見やり「その顔で、妖精って……ブフッ!」と再び爆笑。この先生、本当に容赦ない。
たっぷり三分ほどの時間が経過した頃、南先生はアイメイクが落ちるのも気にせず、白衣の袖で笑い涙をぐいぐい拭って。
「はー、面白かった。笑ったおかげで寿命が三分は延びたわ。……で、実際どうなのよ。花瓶なんかじゃなく、和久宮さん自身に興味があったんでしょう?」
「違います」
「でも直球でそう言うのは恥ずかしいから、花瓶の話にかこつけて近づいて、最後は『好きです』って迫ったのよね?」
「違います」
「一度や二度断られたくらいで諦めちゃダメよ? 先生は君みたいに面白い子、真面目な和久宮さんには合うと思うな。応援するから頑張って」
「ありがとうございます」
何もかもが面倒になり、僕は起訴事実を認めてしまった。まあ痴漢冤罪よりは告白冤罪の方がいくらかマシだろう。
「じゃあ僕そろそろ帰りますんで、後はよろしくお願いします」
当初の目的である、妖精との対話は果たせずじまいだけれど、仕方ない。
先ほど和久宮の荷物を取りに教室までもう一往復したのだが、花瓶を手にしたところで中の妖精が現れる気配はなかった。妖精の行動が持ち主である和久宮の体調に左右されるとしたら、今日のところは退散するしかない……。
諦めのため息を落としつつ、足元に置いたショルダーバッグを拾い上げる。
その瞬間、僕は固まった。
ベッドが置かれた白いカーテンの向こうから、和久宮の声が聴こえたのだ。寝言にしてはハッキリとした、涙混じりの悲痛な声が。
「お父さん、お母さん……行かないで……!」
思わず南先生と顔を見合わせる。
三秒後、ほぅっとため息をついた南先生が、落ち着いた大人の口調で「聴かなかったことにしてあげて」と囁いた。僕はこくこくと頷く。ショックを隠し切れないままに。
頭では理解したつもりでいたけれど、僕は何一つ分かっていなかった。
和久宮の『可哀想な生い立ち』は決してドラマなんかじゃなくノンフィクションであり、しかも現在進行形なのだ。
もはや冷静な第三者ではいられなかった。
いや、誰だって同情するだろう。あんな声を聴いてしまえば……。
シンと静まりかえった保健室。その静寂を破ったのは南先生の携帯だった。どうやら緊急の用事が入ったらしい。
「ごめん、ちょっと席外すわ。あの子のこと見てて貰ってもいい?」
「分かりました」
「君のことは信頼できる生徒だって思うけど、いくら二人きりだからって襲っちゃダメよ? せいぜい眠ってる彼女のおでこにキスし」
「――しません!」
と叫んだ僕の声が、和久宮を悲しい夢から目覚めさせた。「うーん」という呻き声と共に、カーテンの向こうでもぞもぞする気配が。
南先生はニッコリ微笑むと、有無を言わせぬ口調で命じてきた。
「じゃあ西園寺君、責任もってあの子を家まで送ってあげてね」
「ちょ、何で僕がッ」
「言うこと聞いてくれるなら、君の“痴漢疑惑”揉み消してあげてもいいけど?」
……逆らえるわけがなかった。